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レーニンの概念に対する批判

 レーニンの概念は、それが憲法改正ではなく農業制度の転覆を革命の中心的任務として遂行し、それを達成するため真に現実的な社会勢力の結合を引き出すものであるかぎりにおいて、巨大な前進を示すものであった。しかしながら、レーニンの概念のもつ弱点は、プロレタリアートと農民の民主的独裁という本質的に矛盾した考え方にあった。レーニン自身が、それを公然とブルジョア的なものと呼んだ時すでに、この“独裁”の根本的な限界を強調していたことになる。つまりレーニンはそのことで、プロレタリアートは農民との同盟を維持するために、きたるべき革命においては社会主義の任務を直接提起することをさし控えねばならない、ということをいおうとしたのである。しかし、このことは、プロレタリアート自身の独裁をプロレタリアートが断念することを意味する。その結果、たとえそれがプロレタリアートの参加するものであっても、本質的には農民の独裁を意味していた。事実ときどきレーニンはそういっていた。たとえばストックホルム大会で、権力を獲得するという“ユートピア”に反対するプレハーノフに反論して、レーニンはこういった。「討論されているのはどんな綱領なのか。農業綱領である。この綱領のもとで権力を獲得するのはだれか。革命的農民である。」ではレーニンは、プロレタリアートの権力とこの農民の権力とを混同しているのだろうか。「いやそうではない」とレーニンは自分にいい閃かせるように語っている。レーニンは、プロレタリアートの社会主義的権力と農民のブルジョア民主主義的権力とを鋭く区別している。レーニンはすぐつづけてこう叫んだ。「だがいかにして、革命的農民による権力の獲得を抜きにして、農民革命が勝利できるであろうか。」この論争調の定式の中に、レーニンの意見の弱点が、このうえもなくはっきりさらけだされている。
 農民は、都市を基本的に結節点として巨大な国土のいたるところに散在している。農民の利害は地方によってばらばらであるために、彼ら自身の利害を定式化することさえできない。各地城間の経済的関連は、市場と鉄道によって生み出されるけれども、その市場も鉄道も都市の手中に握られている。農民は、自分たちを村の制約から切り離し、自身の利益を一般化しようとすると、不可避的に、都市への政治的従属に陥ち込んでしまう。最後に、農民は社会的関係からみても、異質の階層から成り立っている。クラークは、当然のことながら、都市ブルジョアジーとの同盟を求めるのに対し、村落の下層部は都市の労働者階級との同盟へと向う。このような情況のもとでは、農民だけで権力を獲得しようとすることは、まったく不可能である。
 古代中国において、革命が農民を権力の座につけたということ、あるいはもっとはっきりいえば、農民暴動の軍事的指導者が権力の座についたということは、いうまでもなく事実である。これによって、そのたびごとに土地が再分割され新しい“農民”王朝が確立された。そこで歴史は一から出直しとなり、土地はふたたび集中化し、貴族政治、高利貸し制度が新たに生まれ、かくしてまた新たな暴動が始まるのであった。革命が純粋に農民的な性格を持続するかぎり、このような絶望的な悪循環から抜けだすことはできない。これが、古代アジアの歴史の基礎であったし、古代ロシアの歴史もまたこれに含まれる。ヨーロッパでは中世の終りから勝利した農民暴動はいずれも農民政府をもたらさず、左翼的な都市政党に権力を掌握させた。もっとはっきりいえば、農民の反乱は、それが都市住民の革命的役割を強化するのに成功するまさにその度合いに応じて、勝利したのである。二〇世紀のブルジョア的ロシアにおいては、革命的農民による権力獲得について語ることさえできない。

自由主義に対するレーニンの評価

 すでに述べてきたように、自由主義ブルジョアジーに対する態度こそ社会民主主義者の隊列にある日和見主義者と革命家とを区別する試金石であった。ロシア革命は、どこまで進むことができるか。きたるべき臨時革命政府はどんな性格を持つか。どんな任務に直面するか。それはどんな順序においてか。これらの問題は、どれもが重要なものばかりであるが、いずれもまさしくプロレタリアートの政策の基本的性格に基づいてのみ提起され得るものであった。しかも、この政策の性格は、結局とりわけ、自由主義ブルジョアジーに対する態度によって、決定された。明らかにプレハーノフは頑固にも、一九世紀の政治史の根本的結論つまり、プロレタリアートが独自の勢力として進軍するときにはいつも、ブルジョアジーは反革命の陣営に転化するという結論に眼を閉じたのである。大衆が大胆に闘争に参加するようになればなるほど、自由主義の反動的堕落はますます遠くなる。これまでのところ、誰一人として、この階級闘争の法則を無効にする手段を発明したものはいない。
 第一革命の数年間、プレハーノフは「われわれは非プロレタリア的諸政党の支持を大事にしなければならず、無分別な行為によって彼らをわれわれから追いやるようなことをしてはならない」とくり返した。このような単調な説教によって、このマルクス主義哲学者は、社会の生きた力学が自分には関係のないものであることを示したのである。プレハーノフのいう無分別は、なるほど敏感な知識人を追い出すかも知れない。だが、諸々の階級や党派は、その社会的利害によってひきつけられたり反撥しあったりするのである。レーニンはこのプレハーノフに応えて、「自由主義者や地主は無数の『無分別』を許しても、土地を取りあげるという話まで絶対許しはしない。」といった。それに地主階級だけが問題なのではない。ブルジョアジーの最上層部は、財産上の利害の一致や銀行制度によって土地所有者と密接に結びついている。プチブルジョアジーの最上層部や知識階級は、物質的にも道徳的にも、これらの大所有者・中所有者に依存している。彼らはみな自立した大衆の運動を恐れている。しかしながら、ツァーリズムを打倒するためには、抑圧された何千万という大衆を終始かわることのない、英雄的で、自己犠牲的で、解放された革命的闘争にふるいたたせることが必要であった。大衆は自身の利害を旗じるしにしてのみ、したがって、地主をはじめとする搾取階級に和解しがたい敵意を覚える時にのみ、蜂起することができる。革命的労働者や移民が、敵対するブルジョアジーを“はねつける”のは、それゆえに、革命そのものに内在する法則であり、外交的手段や“かけひき”によっては避けることのできないものである。
 月日がたつにしたがい、レーニン主義者による自由主義の評価の正当なことが確証されていった。メンシェヴィキの楽観的な期待に反して、カデットは“ブルジョア”革命の先頭に立とうとしなかっただけではなく、反対に、ますます革命との対決に自己の歴史的使命を見いだしていった。
 一二月暴動が粉砕されてからの、短命のドゥーマによって政治的脚光をあびた自由主義者たちは、全力をあげて、王制に対して自己を正当化しようとし、さらに、“文化”の最も神聖な支柱に危機が迫った一九〇五年の秋に、自分たちの反革命的行為がそれほど積極的でなかったことを釈明した。冬宮と秘密交渉をしていた自由主義者の指導者ミリューコフは、まったく正当にも、一九〇五年の終りに、カデットは大衆の前に姿さえ現わすことができなかったと、新聞を通じて明らかにした。「当時、トロツキズムの革命的幻想に反対する集会を開いて抵抗しなかったからといって、(カデット)党に対して今頃になって不平をいっている人々は、いろいろな集会に集まってきた民主的な大衆の間にあった当時の支配的気分を理解していないか、忘れてしまった人々である。」と、彼は書いている。“トロツキズムの幻想”という言葉で、この自由主義指導者は、都市の最下層の人々が、兵士・農民、その他のあらゆる抑圧された人々の同情をソヴィエトにひきつけ、そのため“教養ある社会”を追いだした自立したプロレタリアートの政策を指していたのであった。メンシェヴィキもおなじ方向をたどった。彼らは、ますますひんぱんに自由主義者にむかってまず自分を正当化せねばならなかった。というのは、一九〇五年一〇月以降、彼らはトロツキーとブロックを組んでいたからである。メンシェビィキでもっとも才智にあふれた政治評論家マルトフが、当時、大衆の“革命的幻想”に譲歩する必要があったと弁解しているのは、まさにその例である。
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 ティフリスでも、政治的分化はペテルブルグと同じ原理的基盤の上に成立していた。「反動を粉砕し、勝利を獲得して、憲法を制定すること、これは、プロレタリアートとブルジョアジーの両勢力による単一の目標のための意識的な統合化と努力に依存している。……確かに農民がその運動にひきつけられるだろうということ、しかもその運動になんらかの基本的特徴をつけ加えることになるだろうということは、まちがってはいない。しかし、それにもかかわらず、ブルジョアジーとプロレタリアートの二つの階級が決定的役割を演じるのであって、農民の運動はこの二つの階級に利益をもたらす役割を果たす。」コーカサスのメンシェヴィキの指導者であったジョルダニアはこう書いている。ブルジョアジーに対して敵対する政策は、労働者階級を無力にするだろうというジョルダニアの心配を、レーニンは次のように言ってあざ笑った。ジョルダニアは、「民主主義革命の中でプロレタリアートが孤立する可能性について語っているが、農民のことは……忘れてしまっている! プロレタリアートにとって可能なあらゆる同盟の中で、彼は地主=自由主義者との同盟を認めており、彼らにひきつけられている。しかるに、彼は農民については何も理解していない。しかも、これはコーカサスでの話なのだ!」レーニンの、この反論は基本的には正しいが、ある一点において、問題を単純化している。ジョルダニアは、農民のことを“忘れて”はいなかったし、レーニン自身が語っていることからもうかがえるように、当時、農民がメンシェヴィキの旗のもとに嵐のように決起していたコーカサスにおいて、農民のことを忘れてしまっているなどということはあり得ないことであった。しかしながら、ジョルダニアは、農民を政治的同盟者とみないで、むしろ、ブルジョアジーがプロレタリアートと同盟するにあたって利用できるし、利用すべき歴史的道具とみなしていた。彼は、農民が革命において、指導的な勢力になることができるとは考えていなかった。否、自立した勢力になることができるということさえ、ジョルダニアは信じていなかった。この点では彼は誤ってはいなかった。だが、彼はまた、プロレタリアートが農民の反乱を勝利に導くことができるとは考えていなかった――この点で彼の誤ちは致命的であった。ブルジョアジーとプロレタリアートの同盟というメンシェヴィキの考えは、実際には、自由主義者に対してプロレタリアートと農民が従属するということを意味していた。この綱領の反動的空想主義の性格は、階級的分化がかなり進行しているため、ブルジョアジーは初めから革命的勢力としては無力だったという事実から出ていた。こうした根本的な問題においては、正義は全面的にボリシェヴィキの側にあった。自由主義ブルジョアジーとの同盟を追い求めることは、必然的に労働者・農民の革命運動と社会民主党とを対立させることになる。一九〇五年には、メンシェヴィキは、彼らの“ブルジョア”革命の理論から、その必然的な結論をすっかり引き出す勇気にまだ欠けていた。ところが一九一七年には、彼らは、自身の考えを理論的帰結にまでおしすすめ、頭をぶち割ってしまった。
 自由主義者に対する態度という点では、スターリンは第一革命の数年間は、レーニンの側に立っていた。だがこの時期メンシェヴィキの大多数の下部大衆でさえ敵対するブルジョアジーに関する問題では、プレハーノフよりもレーニンの方に近かったということを述べておかねばならない。自由主義者に対する軽蔑的な態度は、知的急進主義の文学的伝統であった。しかしながら、この問題に関する独自の貢献やコーカサスの社会的関係の分析や新しい主張さらには、古い主張の新たな定式化をコーバから求めようとしても、それは空しい骨折りにすぎない。コーカサスのメンンェヴィキの指導者ジョルダニアは、プレハーノフに対する関係において、スターリンのレーニンに対する関係よりもはるかに自立していた。一月九日のあと、コーバはこう書いた。「自由主義の紳士たちは、ツァーの瀕死の王位を救おうと空しく努力している。彼らはツアーに救助の手を空しくさしのべている!……たちあがった大衆は革命に備えているが、ツァーとの和解を求めてなどいない。……そうだ、諸君、君たちは空しい努力をしている。ロシア革命は不可避である。それは太陽が昇るを避けることができないと同じようにそれは避けることができない。諸君は、太陽が昇るのを押しとどめることができるだろうか。それが問題である!」……これ以上には、コーバは進まなかった。二年半後に、彼はレーニンの言葉をほとんど一字一句くり返しながら、次のように書いた。「ロシアの自由主義ブルジョアジーは反革命的である。自由主義ブルジョアジーは、革命の推進力にも、ましてや革命の指導者にもなりえない。自由主義ブルジョアジーは革命の不惧戴天の敵であり、これに対して強固な戦いを進めなければならない。」しかしながら、スターリンがその後の一〇年間に、完全な変質を遂げ、一九一七年の二月革命までに、すでに自由主義とのブロックの熱心な支持者として立ち向い、しかもこの立場からメンシェヴィキと統一して一つの党をめざすチャンピオンとなったのは、まさしくこの問題においてであった。スターリンのこの政策を、急拠とりやめさせることができたのは、ただ海外から帰ってきたレーニンだけであった。このスターリンの政策はマルクス主義を欺くものだとレーニンは語った。


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