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農民と社会主義

 ナロードニキは、労働者と農民を、単に“働くもの”とか“被搾取者”と呼び、すべて社会主義に関心をもっているとみなしていた。これに対して、マルクス主義者は農民をプチブルジョアとよび、彼らを物質的、精神的に農民であることをやめる度合いに応じてのみ、社会主義者になることができるとみなしていた。ナロードニキは彼ら特有のセンチメンタリズムから、このマルクスの社会学的特徴づけを農民に対する道徳的中傷であると感じていた。同じように二世代にわたって、ロシアの革命的諸潮流の間で、重要な闘争が行なわれた。それ以後の、スターリニズムとトロツキズムとの論争を理解するために再度強調する必要が出てくるのだが、レーニンはマルクス主義のあらゆる伝統にしたがって、農民をプロレタリアートの社会主義的同盟者であるとみなしたことは、ただの一度もなかった。彼によると、むしろ反対に、ロシアに社会主義革命が不可能であるといわれたのは、明らかに農民が圧倒的優位であるところからきていた。この考えは、直接、間接に、農業問題に触れているレーニンの論文のすべてに貫かれている。
 一九〇五年の九月にレーニンは次のように書いた。「農民運動が革命的民主主義の運動であるかぎり、われわれは農民運動を支持する。われわれは、それが反革命的、反プロレタリア的な運動となるかぎり、(今すぐに)それと闘うつもりである。マルクス主義の全核心は、この二重の任務の中にある……。」レーニンは、西欧のプロレタリアート、また部分的にはロシア農村の半プロレタリア分子を,社会主義の同盟者とみなした。だが彼は、農民を同盟者とみなしたことは一度もなかった。「最初、われわれは没収を含むあらゆる手段によって、地主に対立する農民一般を最後まで支持するが、その後で(また後からでなくても、まったく同時にでも)農民一般に対立するプロレタリアートをわれわれは支持するであろう。」
 レーニンは次のように書いている。「農民は、ブルジョア民主主義革命に勝利するであろう。しかしそのことによって、農民は農民としての革命的精神を完全に使い果してしまうだろう。プロレタリアートもまた、ブルジョア民主主義革命に勝利するであろう。だがそのことによって、プロレタリアートは純粋に社会主義革命の精神を真に発展させることになるだろう。」同じ年の五月にも、レーニンは次のようにくり返している。「農民の運動は別の一階級の運動である。これは資本主義の土台に敵対する闘争ではなくて、封建制度のあらゆる残りかすを一掃するための闘争である。」この視点は、レーニンのどの記事にも、彼のどの本にも貫かれている。言葉や例示こそ違っても、その基本的な思想は同じである。別なものであるはずはなかった。たとえ、レーニンが農民を社会主義の同盟者とみなしたとしても、革命のブルジョア的性格を主張したり、プロレタリアートと農民の独裁を純粋に民主主義的な任務に限定したりする根拠を、レーニンはほとんど持っていなかったであろう。レーニンが、本書の著者に対して、農民を過少評価していると批判した場合でも、農民の社会主義的傾向について私がまったく無理解であることを問題にしたのではなくて、反対に、農民のブルジョア民主主義的な独立性、農民が自らの権力を樹立しうる能力、したがって農民はプロレタリアートが社会主義的独裁を樹ちたてるのを妨げるのだということについて、――レーニンの立場からみて――私が十分に理解していないといって問題にしたのである。
 この問題についての再検討は、テルミドール的反動の年に初めて起こったが、テルミドール反動の始まりは、おおよそレーニンの病気と死去に符合している。それ以来、ロシアにおける労農同盟は、復古の危険性を防ぐのにそれだけで十分な保証であり、ソヴィエト・ロシアの国境内で、社会主義を実現するための変わることのない保証であると宣言された。世界革命の理論を一国社会主義の理論に置き換えることによって、スターリンは農民に対するマルクス主義的評価を“トロツキズム”そのものだといいだした。そのうえ、彼はそれを現在だけではなくて、過去全体に拡げはじめた。
 もとより、農民に対するマルクス主義の古典的評価が誤っているかどうか問うことはできよう。でもこの問題を扱うことは、この論文の範囲をはるかに超えてしまう。ここでは、マルクス主義は、非社会主義的階級として農民を評価するにあたって、それに絶対的で固定的な性格づけを与えたことはこれまで一度もないといえばそれで十分である。マルクス自身、農民は迷信深いが、同時に理論的能力も持っていると語っている。情勢が変わるにつれて、農民の性格そのものも変わる。プロレタリアート独裁の体制は、農民を感化し再教育するきわめて大きな可能性を切り開いた。まだ歴史はこの可能性を限界まできわめつくしてはいない。いまではすでに明らかだが、ソ連邦では国家的強制の役割が増しているが、それは、ナロードニキから区別されたロシア・マルクス主義者の農民観を否定するどころか、むしろそれを基本的に確証している。しかしながら、革命後二〇年たった今日、この点において事情がいかに変わったにせよ、十月革命まで、もう少し正確にいえば一九二四年まで、農民を社会主義的発展の要因とみるものはマルクス主義陣営では一人も――とりわけレーニンを含めて――いなかった。これは明らかである。もしも西欧プロレタリア革命の援助がなければ、ロシアの旧体制復活は避けられない、とレーニンはくり返し語った。彼は誤ってはいなかった。スターリン主義的官僚制は、ブルジョア的復古の最初の局面以外のなにものでもない。

トロツキストの概念

 これまでわれわれは、ロシア社会民主党の二つの基本的分派がどこで離反することになったかを分析してきた。だが、すでに第一革命の夜明けにおいて、この二つの潮流とならんで、第三の立場が定式化されていた。 当時それはほとんど誰にも認められなかったので、われわれは、ここで必要なかぎり完全に書きとめておかざるをえない。というのは、それは一九一七年の諸事件で、この立場の正しさが確証されただけではなくて、特に、十月革命の七年後になってから、この概念はさかさまにひっくり返されて、スターリンと全ソヴィエト官僚制の政治的発展において、まったく予想もしなかった役割を果しはじめたからである。
 一九〇五年初め、トロツキーの書いたパンフレットがジュネーブで発行された。このパンフレットは、一九○四年の冬の政治情勢を分析したものであった。著者は、次のような結論を出した。――つまり、自由主義者による請願とおまつりのキャンペーンは、それ独自のものとしては、その可能性をすべて使い果してしまった。自由主義者に希望を託していた急進的インテリゲンチャは自由主義者とともに袋小路におちこんでしまった。農民運動は勝利のために好ましい条件を作り出しつつも、それを確実なものにする能力はなかった。したがってプロレタリアートの武装蜂起だけがことの結着をつける能力を持つ。この線に沿った次の局面は、ゼネストであるだろう。このパンフレットにま、『一月九日以前』という題名がついていた。というのも、それが書かれたのがペテルブルグの“血の日曜日”よりも前だったからであった。この日以後、武装衝突に補強されつつ大ストライキが始まったが、それによってこのパンフレットの戦略的な予測はあますところなく確証された。
 私の著作に対する序文は、ロシアの亡命者パルブスによって書かれた。パルブスは、その時までに、ドイツの有名な著作家になっていた。パルブスは、自分の考えで他人を豊かにするだけではなくて、他人の考えにも影響されるきわめて創造的な個性の持ち主であった。彼は内的な平衡を欠き、また仕事への愛着も十分に抱いていなかったため、思想家および著作家としてのこの天分にふさわしい貢献を労働運動に対して与えることができなかった。私の個人的な成長過程において、彼は私に大きな影響を与えた。とりわけ、現代の社会革命をどう理解するかについて、大きな影響を与えた。私と彼が初めて顔をあわす二、三年前、パルブスはドイツでゼネラルストライキの思想を熱心に弁護していた。だが、当時のドイツは長期におよぶ産業の繁栄を経過していて、社会民主党は、ホーエンツォレルン体制に順応していた。したがって、一外国人の革命的ブロパガンダなど実に冷淡にしか扱わなかった。ペテルブルグの流血事件の翌々日に、まだ原稿のままであった私のパンフレットを読んで、パルブスは、後進国ロシアのプロレタリアートが演ずることを運命づけられている特別な役割という考えにすっかり夢中になった。ミュンヘンで共に遇した数日間、われわれは大いに語りあったが、おかげでわれわれ両人は多くのことを学び合い、個人的にも親密になった。その時、パルブスがパンフレットに書いた序文はロシア革命史を圧縮して書いたものである。彼は数ページにわたって後進国ロシアのあの社会的特質を解明していた。それは確かにすでに周知のことであったが、誰一人としてそこから必要な結論を描き出さなかった。
 パルブスはこう書いている。「西ヨーロッパの政治的急進主義は、周知のとおり、主としてプチブルジョアジーを基盤としていた。これらプチブルジョアジーは職人であって、一般に、工業の発展にとりのこされ、しかも同時に資本家階級によって押しのけられてしまったブルジョアジーの一部であった。……ロシアでは、資本主義以前の時代に、都市はヨーロッパ型ではなく、どちらかというと中国型の発展を遂げた。ロシアの都市は行政中心地で、ほんのわずかばかりの政治的重要性なぞひとかけらもなく、役人的性格しか持たなかった。一方経済的関係については、この都市はバザールとして、つまり、周辺の地主・農民的環境に合った商業中心地の役割を果していた。それらの旧ロシア的都市は、まだ取るに足らない発展しかしないうちに、資本主義が独自の様式にしたがって大都市、つまり工業都市が貿易中心地を作りはじめる過程によって、停滞してしまった。……プチブルジョア民主主義の発達を妨げたもの、すなわち、生産の手工業的様式があまり発達しなかったということが、同時にまたプロレタリアートの階級意識の形成に有利に働いた。プロレタリアートは、一挙に工場に集中させられたのである……。
 農民がこの運動に引き込まれ、運動はますます大衆的になっていく。しかし、農民は、この国の政治的無政府性を強め、そのことによって政府を弱めることができるだけである。農民は、かたく結合した革命的軍隊をつくりあげることはできない。それゆえに、革命が発展するにつれて、ますます多くの政治的任務が、プロレタリアートに割り当てられることになるだろう。それとともに、プロレタリアートの政治的自覚は拡がり、その政治的エネルギーは高まっていくだろう……。
 社会民主党は、臨時政府に対して責任を負うのか、それとも労働者階級の運動の側に立つのか、というジレンマに直面するであろう。労働者階級は、社会民主党自身がこの政府をどう扱おうと関係なく、この政府を自分のものとみなすであろう。……ロシアの革命的転覆は、労働者階級によってのみ達成されるだろう。ロシアの臨時政府は、 #労働者民主主義# の政府となるだろう。もしも、社会民主党がロシア・プロレタリアートの革命運動の先頭に立つならば、この政府は社会民主党政府となるだろう……。
 社会民主党臨時政府は、ロシアの社会主義革命を完成することはできないだろうが、専制政治を廃止し、民主共和制を確立していく過程そのものによってその政治的活動のための豊かな土壌を、与えられるだろう。
 一九〇五年の秋、革命的高揚の真最中に、今度はペテルブルグで、私はパルブスと再会した。社会民主党内の両派から組織的に独立していたわれわれ二人は、労働者大衆のための新聞『ルースコエ・スローヴォ』を共同で編集し、さらにメンシェヴィキと協同して、大政治新聞『ナチャーロ』を編集していた。永久革命の理論は、普通パルブスとトロツキーの名前と結びつけられてきた。これは、部分的にだけ正しい。パルブスが革命的に最も高揚した時期は、一九世紀の終りであって、そのころ、彼はいわゆる修正主義つまりマルクス理論の日和見主義的歪曲との闘いの先頭に立っていた。ドイツ社会民主党を、より断固とした政治路線に向わせようとする試みが失敗したことが、彼の楽観主義をいつのまにかむしばんでいった。パルブスは、西ヨーロッパ社会主義革命の展望についてますます慎重に反応するようになった。その当時彼は「社会民主党臨時政府は、ロシアにおける社会主義革命を完成させることはできないだろう」と考えていたのである。したがって、彼の予測は、民主革命の社会主義革命への転化ではなくて、オーストラリア型の労働者民主主義政権のロシア版を指示しているにすぎなかった。オーストラリアでは、農民の体制を基盤にして労働者政府が初めて成立したが、それはブルジョア体制の枠を超えるものではなかった。
 私はこの結論に賛成しなかった。オーストラリア型民主主義は、新大陸処女地から有機的に成長したのであるが、たちまち保守的な性格を身につけてしまって、若いがまったく特権的なプロレタリアートをそれに従属させてしまった。それとは反対に、ロシア型民主主義は壮大な革命的転覆の結果としてのみ成立することができるだろう。したがって、その力学は労働者政府が民主主義の枠内にとどまることを絶対に許さないだろう。われわれ二人の間の意見の違いは、一九〇五年革命の直後に生じたのであるが、戦争が始まると同時に二人は完全に分裂してしまった。大戦中パルブスは、すでに彼の中の懐疑主義が革命家としての彼を完全に殺してしまっていて、ドイツ帝国主義の側に立った。それより後には、ドイツ共和国初代大統領エーベルトの顧問兼御用学者にまでなっていた。


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