つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる

永久革命の理論

 パンフレット『一月九日以前』を始めとして、私は一度ならず永久革命論に立ち戻って、その発展と正当化に尽くしてきた。この理論が、この伝記の主人公のイデオロギー的進展のなかで獲得してきた重要性からみて、この理論を一九〇五〜六年の私の著作をそのまま引用する形式で、ここで述べておくことは必要なことであろう。
 「現代的な都市、少なくとも、経済的・政治的に重要な都市においては、その人口の中枢は賃労働者というはっきり区別された階級から成り立っている。われわれの革命において決定的な役割を演ずることになるのは、明らかにこの階級であって、それは基本的にいってフランス大革命の時代には、まだ知られていなかった階級である。……経済的により遅れた国では、プロレタリアートは先進資本主義国よりもはやく権力に到達するかも知れない。プロレタリアート独裁が一国の技術水準や資源に機械的に依存するというある種の仮定は、極端に単純化されすぎた経済的唯物論から導きだされた偏見にすぎない。そのような見解は、マルクス主義とはなんの共通性も持っていない。……合衆国の工業生産力は、わが国の一〇倍以上であるにもかかわらず、ロシア・プロレタリアートの政治的役割や、わが国の政治に与える彼らの影響力、およびやがて世界政治に対して影響を及ぼす可能性は、アメリカ・プロレタリアートの役割と重要性よりも比較にならないくらい高いのである。……」
 「われわれの立場からすれば、ロシア革命は、ブルジョア自由主義を標傍する政治家たちが政治家的才能を十二分に発揮する機会にめぐまれるよりも前に、プロレタリアートの手に権力が移行しうる(或いは革命の勝利のあかつきには、移行しなければならない)諸条件を作り出すであろう。……ロシアのブルジョアジーは、すべての革命拠点をプロレタリアートに明け渡しつつある。同様に、ブルジョアジーは農民に対する革命的指導権を放棄しなければならなくなるだろう。権力の座についたプロレタリアートは、農民に対して解放者としてたち現われるであろう。……農民に支持されたプロレタリアートは農村の文化的水準を高め、農民の政治意識を発展させることに全力を傾けるであろう……。だが、農民自身がプロレタリアートのところにおしかけてきて彼にとってかわりはしないだろうか。それは不可能である。あらゆる歴史的経験がこのような仮定に異議を申し立てている。農民がまったく独自の政治的役割を演じられないことがわかった。……以上の点から、われわれが“プロレタリアートと農民の独裁”という観念をどのようなものとみなしているか明らかである。問題の本質は、“プロレタリアートと農民の独裁”を原理として認めるかどうかということでもなく、この政治的協調形式が“望ましい”か“望ましくない”かを知ることでもない。われわれは、それを実現し難いものとみなす――少なくとも、言葉の直接的な意味においては。……」
 以上に述べたことによって、後に永久革命の概念を“ブルジョア革命をとびこえるもの”だとあくことなくくり返した主張がどんなに誤っているか、すでに判明している。「ロシアの民主的改革のための闘争は、すべて資本主義から成長してきたし、資本主義的基盤の上に発展してきた諸勢力によって闘われつつあり、直接的かつ第一義的には資本主義社会が発展するうえでの障害物である封建的農奴制に対する闘争である。」と、私はその当時書いている。しかしながら問題は、どの勢力とどの方法がこの障害物を取り除けるか、ということであった。
 「われわれの革命は、その客観的目標からみてブルジョア革命であり、それ故に不可避的に結果的にもブルジョア革命であると主張することによって、この革命のあらゆる問題に一つの制限を加えることもできよう。また、このようにして、このブルジョア革命の主たる遂行者がプロレタリアートであり、革命のなりゆきとしてプロレタリアートは権力の座に押しやられるであろうという事実に、眼をそむけることもできよう。……いまだロシアの社会的諸条件が、社会主義経済のために成熟していないと考えることで、自らをなぐさめることもできよう。だから、ひとたび権力の座につけば、プロレタリアートといえども、情況そのものの論理によって、国家による管理経済を導入せざるを得なくなるだろうという事実を、考えないですますこともてきよう。……無能な人質としてではなく、支配的権力として入閣するプロレタリアートの代表は、まさにその行為によって、最小限綱領と最大限綱領の間の境界を突破するだろう。つまり、集産主義を日程にのぼせるだろう。この方向に進むプロレタリアートがどこで押しとどめられるかは、諸勢力間の力関係に依存するのであって、けっしてプロレタリアート党の当初の意図によるのではまったくない。……
 しかしながら、いま次の問題を提起しても、はやまったことにならないだろう。このプロレタリアート独裁は、ブルジョア革命の枠組みに押しつぶされなければならないのであろうか。それとも、与えられた世界史的基盤のうえで、この制約的枠組みをうちくだくことによって達成される勝利の展望を、自ら切り開いてはならないのであろうか。……一つのことだけは確かである。ヨーロッパ・プロレタリアートの直接的な国家的支持がなければ、ロシアの労働者階級は、権力の座に留まることも、労働者による一時的な支配を長期にわたる社会主義的独裁に転化することもできない。……」しかしながら、このことから悲観的な予測がでてくるわけでは絶対にない。「ロシアの労働者階級が指導する政治的解放は、この指導者を歴史上先例のない高みにまでたかめ、とほうもない大きな力と資源を掌握させ、世界の資本主義一掃の先がけ人にするだろう。歴史はそのための客観的な必要条件をすべて作り出してきている。……」
 各国の社会民主党が、その革命的任務を達成する能力をどの程度まで持つかについて、私は一九〇五年に次のように書いた。
 「ヨーロッパ各国の社会民主党――とりわけ、そのなかでも最強であるドイツの党――では、とうとうそれ自身のもつ保守的傾向が形成された。ますます多くの大衆が社会主義に結集すればするほど、また、これら大衆の組織化と訓練が発展すればするほど、この保守的傾向はますます増大する。したがって、プロレタリアートの政治的経験を体現する組織としての社会民主党は、いつか労働者階級とブルジョア的反動との公然たる闘争において、直接的な障害となるだろう。……」とはいえ、私は結論にあたって次のように主張した。「東方の革命は、西方のプロレタリアートに、革命的理想主義を植えつけ、彼らの敵にたいして“ロシア語”で話しかけたいという欲求を、彼らのなかによびおこすであろう。……」
          *     *     *
 要約しよう。ナロードニキ主義は、スラブ第一主義にならって、ロシアの発展の絶対的に独自な道という幻想から出発して、資本主義とブルジョア共和制を払いのけてしまった。プレハーノフのマルクス主義は、ロシアと西ヨーロッパの歴史的発展の筋道が原理的に同一であるということを証明するのに全力を傾けた。ここから導きだされた綱領は、ロシアの社会構造や革命の発展の特質(それは完全に真実であり、なんら神秘的ではない)を無視していた。たあいもないエピソードや個人的逸脱を無視すれば、メンシェヴィキの革命に対する態度は、次のように要約することができる、――ロシアのブルジョア革命の勝利は、自由主義ブルジョアジーの指導によって始めて可能であるし、その権力は自由主義ブルジョアジーに手渡されなければならない。そうすれば、この民主的制度によってロシアのプロレタリアートは社会主義をめざす闘争の過程においてより成熟した西欧の兄弟に追いつくのを、いままでと比較にならないくらい有利に可能とするだろう。
 レーニンの展望は、次のように要約できる。遅れたロシアのブルジョアジーは、自身の革命を最後まで指導しぬくことができない。革命の完全な勝利は、“プロレタリアートと農民の民主的独裁”という中間段階を通じて、中世的なものを追放し、ロシアの資本主義的発展の速度をアメリカに匹敵するものにし、都市と農村のプロレタリアートを強化し、社会主義をめざす闘争の広範な可能性を切り開くであろう。他方、ロシア革命の勝利は、西欧の社会主義革命に強力な衝撃を与えるだろう。西欧における社会主義革命は、ロシアを復古の危険から救うだけではなくて、比較的短い歴史的期間に、ロシアのプロレタリアートが権力の獲得に向うことを可能にするだろう。
 永久革命の展望は、次のことばに要約されるだろう。ロシアにおける民主主義革命の勝利は、農民の支持をうけたプロレタリアートの独裁という形態以外には考えられない。このプロレタリアートの独裁は不可避的に、民主主義的任務のみならず、社会主義的任務を日程に上せることになるだろうが、同時に、この独裁は世界社会主義革命に力強い衝撃を与えるであろう。西欧におけるプロレタリアートの勝利だけが、ブルジョア的復古からロシアを守り、ロシアの社会主義建設を最後までおしすすめる可能性を保証するであろう。
 以上述べた簡潔な定式化は、最後の二つの概念が、自由主義メンシェヴィキの展望と和解し難く対立している点では同じ立場に立つものであるが、革命から成長してくるべき独裁の社会的性格と任務という問題では、根本的に食い違っているということも、同時に明らかにしている。現在、モスクワの理論家たちは、一九〇五年にはプロレタリアート独裁の綱領は時期尚早であったという反論をしばしばくり返している。だが、それはまったく無内容である。経験的には、プロレタリアートと農民の民主的独裁の綱領も同じように“時期尚早”であることが証明された。第一革命期における不利な力関係は、プロレタリアート独裁を不可能にしただけではなく、革命そのものの勝利をいっさい不可能にしてしまった。しかしながら、革命的潮流というものは、みな完全に勝利するという希望から出発したのであって、こうした希望がなければ、解き放たれた革命的闘争は不可能であっただろう。意見の相違は、革命の一般的展望とそこから派生する戦略にあった。メンシェヴィキの展望は核心からはずれていた。それはプロレタリアートにとって、まったく相容れられない道を指し示していた。ボリシェヴィキの展望は不完全なものであった。それは闘いの一般的方向を正しく指し示してはいたが、闘いの諸段階を正しく特徴づけてはいなかった。ボリシェヴィキの展望が不十分であるということは、一九〇五年にはまだ顕在化していなかった。それは革命そのものが十分に発展しきらなかったからにすぎない。しかし、一九一七年の初め、レーニンは党の古参幹部と正面衝突するなかで、その展望を変更することを余儀なくされたのであった。
 政治的予測というものは、天文学上の予測と同じような正確さを要求できるものではない。政治的予測は、発展の一般的道筋を正しく指示し、基本的方向からともすれば左右にずれやすい現実の成行にうまく自己の身を処することができれば、それで十分である。この意味で、永久革命の概念が、歴史のテストに完全に合格したことを認めないわけにはいかないだろう。ソヴィエト体制の最初の数年間、それを否定するものは誰一人としていなかった。それどころか、この事実は、数多くの公式出版物の中で承認されていたのである。しかし、ソヴィエト社会の冷淡で硬直化した指導部のなかで十月革命に対する官僚主義的反動が始まった時、歴史上最初のプロレタリア革命を、他のどの理論よりも完全に反映しているだけでなく、その革命の不完全さ、限界、部分的性格をはっきりと暴露しているこの永久革命理論はこの官僚主義的反動の的とされていた。かくして、スターリニズムの基本的教義たる一国社会主義の理論は永久革命理論に対する反撃として、誕生したのである。
        (『フォース・インターナショナル』誌一九四二年一一月号に発表)


つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる