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トロツキズム批判にたいする反論
――エルネスト・マンデル――

 トロツキーの政治思想と活動にたいするニコラス・クラッソの批判は、赤軍の創設者の歴史上の役割にかんする誤解と偏見のいくつかを正す歓迎すべき機会をあたえてくれる。実際なお多くの「無党派」の左翼知識人のあいだにこの種の誤解と偏見がのこりつづけているのだ。これらの誤解のみをもとを見いだすことは容易である。現在のソ連邦指導者たちによるスターリンの最悪の犯罪についての確認と非難は、トロツキーが生涯の最後の一五年間闘いぬいた路線の採用をもたらすようなものではなかった。キューバを例外とすれば、「社会主義」諸国の指導者たちは、これらの諸国の国内組織においてもまたその国際政策においても、トロツキーによって擁護されたソヴィエト民主主義と革命的国際主義の諸原則にたちもどるようなことはなかった。だが、歴史的にみるとスターリンがその台座から引きずりおろされたという事実そのもの、またスターリンにたいするトロツキーの多くの非難と告発がいまや正しいものであると受けいれられていることは、一九四〇年八月二〇日スターリンの手先によってコヨアカンで暗殺された人の正しさを示す歴史的証査である。
 トロツキーの政鋼の最終の勝利――彼の完全な政治的立証――のために闘うことにたずさわろうとしていないものたちは、いずれも、この政綱の欠陥・誤り・弱点をさがしもとめて自身を合理化しようとしがちである。だがそういうものは、一九三〇年代、四〇年代また五〇年代初めのスターリニストどものあからさまな捏造や欺瞞――トロツキーは反革命であり、「帝国主義の手先」であり、ソ連邦に資本主義を復活しようと望んだ、あるいは客観的にそのように働いたなど――をくりかえすことはできない。そこで彼は一九二〇年代にトロツキーにむけられたより詭弁にみちた、よりずるがしこい論拠――トロツキーは本質的に「非ボリシェヴィキ」であり、「左翼社会民主主義」である。トロツキーは東方と西方におけるロシアの特殊性、レーニンの組織論の巧妙さ、あるいは勝利をおさめるプロレタリア階級闘争の複雑な弁証法を理解できなかった、など。――に立ちかえる。クラッソが今日やっていることは、まぎれもなくこのこと
である。

一 階級、党、そして政治機構の自立性

 クラッソの中心主題はしごく単純である――トロツキーの基本的な罪は革命党の役割についての無理解である。つまり、社会諸勢力は直接かつ無媒介に歴史を形成し、それ自体として政治諸組織に「移しかえられうる」という確信に基本的誤りがある、と。このことがトロツキーのレーニン組織の理解をさまたげ粗雑な「社会学主義」と主意主義に彼をみちびいた。一九〇四年のボリシェヴィズムにたいするトロツキーの拒絶、十月革命と赤軍建設における彼の役割、一九二三―二七年の党内闘争における彼の敗北、歴史家としての彼のスタイル、第四インターナショナルを建設しようとする“実りない企図”――これら一切をとおして社会学主義と主意主義がただ一つの連鎖をなしている。こうしてトロツキーのマルクス主義は、その青年時代から老年にいたるまで「一貫した特徴ある統一性をもっている」と、クラッソは主張する。
 一九一七年以前トロツキーがレーニンの組織論の中心点を拒否していたということについて誰も異論を立てないだろう。(注1)われわれは次のことについて反対しない――党・イデオロギーおよび社会諸階級の心理が一定の自立性をもっていること、またクラッソを引用すれば、マルクス主義(レーニンのマルクス主義にかぎらず、マルクスの教義のいかなる妥当な解釈も含めて)は、「複合した全体性という概念によって特徴づけられ、その全体性のなかで経済・社会・政治・イデオロギーの全ての側面がつねに機能的であり、またそれらの間の諸矛盾のうち主要な矛盾の交替がある。」だがこれはクラッソのテーゼを立証するには大いに貧弱な基礎である。ほぼ四〇年にわたるトロツキーの真実の考え方とその発展を分析しようとするとき、クラッソがトロツキーについていっていることが不完全であり、適切でないことを示すあらゆる証拠に一歩一歩でくわす。
 まず最初にレーニンの組織論を拒否するとき、トロツキーが「労働者階級と一体である党」としての彼自身の社会民主主義党のモデルをドイツ社会民主党から借りてきたというのは誤っている。歴史的にはその反対こそむしろ正しいであろう。つまりレーニンの組織論は、ドイツおよびオーストリーの社会民主主義の理論家たるカウツキーやアドラーから多く借りてきている。(注2)レーニンの組織論にたいするトロツキーの誤った反対は、少なくともその合理的な中心点において、西欧社会民主主義機構にたいしこれを本質的に保守的なものとみなす不信にもとづくものである。クラッソ自身数頁あとに次のようにみとめている――一九〇五年にトロツキーはすでにレーニン以上に西欧社会民主主義に批判的であった、と。だとしたら、トロツキーはどうして党のモデルをこの社会民主主義にならうことができたろうか? (注3)
 第二に、一九一七年に組織論においてレーニンが正しかったことを認めたあともなおトロツキーがレーニンの組織論を誤解し否定しつづけたとほのめかすことは真実ではない。そのようなことを証拠だてる事実はない。レーニン自身次のことをはっきりと宣言している。すなわち、トロツキーがメンシェヴィキとの統一が不可能であることを理解したあとでは(注4)「トロツキー以上のボリシェヴィキはいない」と。(注5)一九一七年以降のトロツキーの全著作は現代における革命党の決定的役割を強調している。彼の活動のあらゆる転換点において――一九二三年「十月の教訓」と「ニュー・コース、一九二六年「左翼反対派綱領、中国・ドイツ・スペイン・フランスにおけるコミンテルンの破滅的な諸方針の批判、一九三〇年代に書かれた「ロシア革命史」、彼の政治遺言たる「第四インターナショナル過渡的綱領」といわゆる「臨時協議会宣言」において、トロツキーは革命的党建設が現代の中心問題であることをうむことなく強調しつづけた。「人類の歴史的危機は革命的指導部に帰着する。」(注6)実際これを、前衛の役割を「忘れ」社会諸努力が直接かつ即時的に歴史をつくると考えたというのは全く奇妙なことである……
 トロツキーにとって、革命的前衛党が巧妙に組立てられ、かつ、たっぷりと潤滑油が注がれている機械的組織とは全く異るということ、は自明であった。この悪しき機械的思考は良く知られているアメリカのブルジョア的政治家達――ギャング組織と何ら変らない――に特有なものであり、したがって、レーニンやボリシェヴィキ、初めてスターリンがコミンターンにその悪しき考えを押付けるまで国際労働者運動にとってまったく無縁であった。
 レーニンや他のマルクス主義的立場と同様トロツキーにとって革命的前衛党は、第一にその綱領と現実的諸政策によって客観的に判断されるべきものなのである。いついかなる局面であれ、最高に機能的かつ強力な党であっても革命と労働者階級の利害に反して行動するなら、それを正す闘争が直ちに展開されねばならない。行動が一貫して一時代全体を通じてプロレタリアートの利益に正反対のものであれば、その党は、もはやいかなる見地からも革命的前衛党とみなされはしない。そしてその瞬間、新しい党の建設の任務が具体的になるのである。(注7)
 勿論レーニンもトロツキーも、革命党をただ正しい綱領をもっているかどうかだけで判断したことはない。レーニンは、路線の正しさは長い目でみれば労働者階級の決定的部分―恐らくは階級の圧倒的多数―を獲得しうるか否かによってのみ判断されるとあからさまに述べている。(注8)
 しかしこれら二つの要素は完全に相互補完的なものであり、その結合なくして革命党の建設はありえない。ある労働者党が労働者階級にいかなる大衆的影響力を持とうとも、正しい綱領と政策なくしては客観的には反革命になりうる。また反対に最も秀れた綱領で武装された革命家達ですら労働者階級にたいして大衆的な影響力を獲得しえなかったなら不毛なセクトに転落するだろう。
 第三に、だからクラッソは、彼の言葉でいえばトロツキーは理解していなかったとされる“政治的諸機構の自立性”をいうことによって問題を解決するどころか「ただ回答をつけていない新たな問題を提起したにすぎないことがわかる。何故なら、問題はまさに政治的諸機構の自立性、とりわけその相対的性格に係わっているのである。全ゆる歴史は階級闘争の歴史である、と主張したのはマルクス、エンゲルスであって、トロツキーがはじめてではない。(注9)
 政治的諸機構は機能的な組織である。政治的諸機構はそれに役立つと考えられた社会的諸力から切りはなされたとき、急速に全ての影響力と権威とを失う。ただ他の社会的諸力と結合しえた場合にだけその政治的機構は例外的に生きのびうる。スターリンとその一派がボリシェヴィキ党で行なったことはまさにこれであった。
 “トロツキーは彼の敵対存在となった政治的諸機構の自立性の深さについて絶えず過少評価していた”とクラッソはいう。実際には、スターリンが“権力諸装置”の自立性についてもっていた強い信念はスターリンの“敵”になった。なぜならばスターリンは死に至るまで知らなかったようだが、政治的機構の自立性がスターリンを社会的諸力の無意識的な用具にかえてしまったからである。スターリンが二〇年代初期において、のちに自分がオールド・ボリシェヴィキの上級、中間カードルの三分の一を殺し、コミンターンを清算し(注10)、工場に強制労働を導入し、現代におけるもっともきびしい労働法をつくることになると知っていたならば、恐ろしさに打ちふるえたであろう。結局スターリンといえども当時ではある種のボリシェヴィキだったのだ。
 クラッソが崇拝している“純”権力装置の自立性は、権力当事者の主体性を完全に喪失せしめるところまで当事者をだらくさせる。目的の意識性と行動の客観的結果との連鎖はじょじょに消えてしまう。これに抗するためマルクス主義は活動の意識性に特別の価値を持たせる。意識性は社会的諸力の決定的な役割についての認識をもたらし、従って個人の活動の限界と可能性とを明らかにする。党と階級との弁証法的関係の無理解、問題に気がついていないことがこのクラッソの論文の根本的弱点となっている。
 階級は前衛党なくしては勝利しえない。しかし同時に前衛党は階級だけではないにしても階級が生みだすのである。党は階級の最も積極的な部分に支えられた場合にのみ生命を保持しうる。(注11)
 また逆に、客観的諸条件の成熟なくして、階級は前衛党を生み出しえないしまた党は階級に勝利をもたらしえない。しかし、この弁証法的相互関係への認識なくして革命の勝利への客観的諸条件が開けたとしても前衛的部分は党を形成しえないし、不可避的に長期に亘って勝利の可能性を失うであろう。
 トロツキーは一九一六年以降、この弁証法的相互関係を正確に理解し、クラッソが“政治的諸機構の自立的権力を認めえなかった”と主張するのとは正反対に、具体的諸条件において極めて正確に適用した。クラッソ自身が認めているが、トロツキーのみが“ナチズムのもたらす壊滅的打撃およびコミンターンの第三期におけるばかげた政策に対してマルクス主義の立場から分析し反対した”唯一の人物であった。
 クラッソに問おう。何故に社会的諸階級諸階層についてだけではなく、党についての理解なしで、トロツキーは一九二九――三三年のドイツ社会の情勢展開をあのように正しく分析するのに成功したのだろうか? あのすばらしい著作は、党――とりわけ労働者階級に影響をおよぼしうる党――の重要性について正しい評価を行う能力をトロツキーがもっていたことを証明しはしないだろうか? “共産党も社会民主党も共同してヒトラーと闘争すべきである。さもなくばヒトラーはドイツ労働者階級を粉砕し、長期に亘って再興は不可能である”というトロツキーのカサンドランの予言に似た警告はクラッソにとって何を意味するのか? この予言は、まさにトロツキーがこうした党なしには労働者階級はファシズムと格闘することは不可能であると理解していたことを示すのではないのか?
 これら分析総体が、ブルジョア政治機構の展開に関する正確な分析とあいまって、トロツキーをして現代に普遍的価値をもつボナパルチズムというマルクス主義のカテゴリーを発見させたのではなかったのか? こうした事実の光に照すならば、トロツキーは死に至るまで“政治的諸機構の自立性を過少評価した”というクラッソの主張にいったいなにが残るのだろうか?


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