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二 一九二三――二七年間のソ連内における権力闘争と社会対立

 一九二三年から二七年におけるソ連共産党内の“権力闘争”の項を読めば、クラッソの思考方法が二つに分裂していることがみてとれる。一つはトロツキーが政治的諸機構の自立性を過少評価したがゆえに、誤ちに誤ちを積み重ねたという認識に基づくものである。クラッソはいう。トロツキーはスターリンに対して右翼とブロックを組むことを拒否したためスターリンの勝利を確実なものにした。何故ならトロツキーの唯一の勝利の道は、全てのオールド・ボリシェヴィキとともにスターリンに対して手を組むということだったから、と。他方クラッソは一九二三年には、“オールド・ボリシェヴイキのほとんどはトロツキーに反対して連合しており”“反対にスターリンは一九二三年以降、党の組織上の責任者であった”が故にトロツキーはいかにしても勝ち目はなかったという。この二つの結論が矛盾していることはいうまでもない。最初の見解によるとスターリンの勝利は彼の敵対者トロツキーの失敗のためであり、第二の見解によると必然的であったことになる。
 クラッソの分析の弱点は、この二つの見解のどちらもなんら説明になっていないということに明確にあらわれている。諸事実――あるいは、クラッソの事実誤認――は当然のこととして前提とされてしまっている。第一の見解では、なぜオールド・ボリシェヴィキがスターリンに関するレーニンの重大な警告を無視してトロツキーとともにスターリンと闘争するのではなく、反対にトロツキーに対して闘争したか、その理由が明らかにされていない。
 第二の見解によると、レーニンが生存していた一九二三年早々にスターリンは党の頂点にいたことになるが、それがなぜであるか説明されていない。それはスターリンの党内における巧妙なマヌーバーや“個人や諸グループを自己の立場へ説得するすぐれた能力”あるいは“偉大な忍耐力”によっている、というのか? そうだとしたら、スターリンは俗物のなかの真の巨人ということになるし、レーニンすらこの書記長に絶望的に操られていたということになる。
 歴史はこの場合、社会科学にとってはまったく不可知なものとなり、真空状態における“権力闘争”になりさがってしまう。強制的集団化、エジョフによるパージ、ヒトラーの権力掌握、スペイン内乱での敗北、等々による数百万の犠牲者、第二次大戦による五千万人の犠牲者はクラッソによれば本質的にスターリンの思いつきによる偶発事件に帰せられてしまう。これらの奇妙な論理は、社会的諸力とは無縁な地平でのみ存在する政治的諸機構の絶対的自立という、結局は社会的諸力の利害対立に帰着する政治闘争という観点を放棄した思想の必然的給論に他ならない。『ルイ・ボナバルトのブリューメル18日』の第二版序文でマルクスはビクトル・ユーゴはルイ・ボナパルトの権力掌握を個人の行動とみなすことによって、“歴史的前例のないほどに個人的イニシアチブの強さを認め、彼の歴史的役割を減じるのではなく誇張している”と述べている。スターリンに比べてルイ・ボナパルトの権力掌握は何と可愛いかったことか?!
 ロシアで一九二三〜二七年間に(より正確にいうなら一九二〇〜三六年間)起った事態を正しく理解し説明する方法は、前掲書でマルクスが述べている如く“凡庸な人間が英雄や指導者として現われ出る状況と環境とを階級闘争がどのようにつくりだすか”を示すことである。
 この点に関してクラッソの非マルクス主義的方法が際立つのは、党内闘争を“権力それ自体の行使に焦点を合わせる”即ち政治論争をすら無関係なものとする考え方、だけではない。クラッソはとりわけ、政治闘争をその表現である政策、綱領的立場での闘争を、社会的闘争と直接的であれ間接的であれ関連づけることを拒否する点にある。ここに至っては、政治的諸機構の自立性という考え方は史的唯物論とはまったく相容れないものとなってしまう。クラッソが“微妙な意見の相違、見解のエピソード的相違ですら究極的には社会的利害の対立の表明である”とトロツキーが述べているとしてトロツキーを非難するとき、クラッソはトロツキーをマルクス主義だと非難しているのだ!!トロツキーがこの文章でいっていることは、クラッソが誤解しているような党と階級の“同一視”の恐れがあるというのではなく、結局、党は社会的利害を代表する、党は歴史的には異った社会的利害の代弁者としてしか考えられない、ということにすぎない。“フランスにおける階級闘争”と“ルイ・ボナパルトのブリューメル一八日”その他でマルクスが詳細に展開していることは、結局、このことなのだ。
 以上を考えるとクラッソが、二〇年代のロシア史全体の歴史的状況を考察する社会歴史学的用語である“官僚”について一言も言及していないという事実はあまり不思議なことではない。トロツキーがロシアプロレタリアートとは、独自な利害関係をもつ社会的諸勢力としての官僚の役割について強調するのは、彼の個人的特質とは何ら関係ない。(注12)
 マルクスとエンゲルスは既に一八七一年には、官僚がプロレタリアートを支配する危険性についてパリ・コンミューンに関する書で注意を促し、この危険を未然に防ぐための簡単ないくつかの規定を列挙している。(注13)
 レーニンが師とあおいだ当時の成熟したカウツキーは一八九八年にこの危険について神秘的・予言的に公式化している。(注14)
 レーニンは「国家と革命」や十月革命後の最初のボリシェヴィキの綱領でこの問題を強調している。(注15)
 レーニンの官僚に対する闘いというその生涯の最後の時期での主要な闘争にレーニン崇拝者を自称するクラッソが多少なりとも注意を払っていいはずだと人が思うのは当然だろう。既にレーニンは一九二一年にソ連を労働者国家とする定義を拒否し、“官僚的変形を持つ労働者国家”と述べている。レーニンの懸念と心配とは日々増大し、当時の諸論文にその跡をうかがいしることができ、最後の論文と遺言でははっきりと予告している。(注16)
 レーニンは社会的諸過程と党内闘争の相互作用、即ち労働者階級の受動性の増大と党機構自体の官僚化によって必然化される社会と国家における官僚の力の増大関係を確実に具体的に分析していた。そしてトロツキーも同じ方法によってややおくれてから事態を理解し、行動した。(注17)
 悲劇は、レーニン、トロツキー以外のボリシェヴィキ幹部が、官僚主義の危険性について、ソヴィエト官僚の代表者としての絶対的権力の位置にのぼりつつあったスターリンの危険性について、理解するのがまに合わなかったことだ。ボリシェヴィキ幹部は、その危険をときどき時期を別にして感じたが、時期が一致せず、また間に合わなかった。このことが容易にスターリンが権力掌握しえた基本的な状況を説明する。
 トロツキーが戦術的謀ちを犯したことは今日疑いえない。とりわけ後智恵一様なクラッソにとっては今日明白なことである。(注18)しかしこの意味においてはレーニンも誤ちを犯したのである。結局、突然堕落を開始しはじめた党組織をつくりあげたのは、レーニンであった。また個人的権威を党の組織的手法の背後におしたてたのはレーニンであり、このことが官僚の勝利を容易ならしめる状況をつくりだした。そしてその官僚の勝利は、われわれが今日後智恵で知っているように、革命をつぶしてしまうことなく避けられえたのだ。
 工場支配人の個人的権威、物質的刺激への過度の依存、党と国家の極端な同一視、内乱終了時におけるソヴィエト内のボリシェヴィキ以外の政党とグループの禁止(しかし内乱の期間には、反革命を共謀しないかにおいて政党やグループは存在を黙認されていた)、ボリシェヴィキ党員の分派形成という伝統的な権利の抑圧、こうしたことは避けられえたのだ。(注19)
 より一般的には、レーニンは、内戦が終りNEPが開始された後党の規律をゆるめることによって生ずる危険を過大視し、反対にソヴィエト内の非ボリシェヴィキ部分に対する市民的自由の抑圧とボリシェヴィキ党内の民主主義の抑圧による危険を過少評価し、結果として彼がもっとも恐れていた官僚化過程をより確固たるものにしたといえるだろう。この誤ちの根源は、党は自動的にプロレタリアートの獲得物を守るだろうという信念にあった。数年後レーニンはこの考えがいかにまちがっていたかを理解した。しかし党機構の官僚化の危険をつぼみのうちにつみとるには遅すぎた。
 クラッソが、トロツキーは一九二三―二七年の決定的な党内闘争において政治的諸機構の自立的力を過少評価したと考えるとき、彼は完全に誤っている。まさにその正反対である。トロツキーのこの間の全政治的戦略は、社会的諸グループをもつソヴィエト社会の客観的条件と、この特殊な時期の具体的な条件下におけるボリシェヴィキ党の自立した役割との間の特殊弁証法的な相関関係についてのトロツキーの認識に照してみて、はじめて理解されうるのである。クラッソは、この戦略を理解せず彼のいう原罪でトロツキーの態度を説明しようと無理に考えるため、この左翼反対派の創始者に対し、絶望のあまりお手上げになり、完全に誤ったクレームをつける。“トロツキーは彼の経済政策の政治的意味という問題について具体的につきつめて考えなかった”と。クラッソによればトロツキーの経済的諸政策は“国家の行政官としての才能”によるもので、ソ連邦内部での相対立する社会的諸力を考慮したものではなくまして適応させようとしたものでもない。さらにこれらの諸政策は、永久革命の理論――外国帝国主義を前にして軍事的包囲と世界市場の網の目の中で“逆転”へと屈服せざるをえないから、一国社会主義は不可能である。とする理論――と矛盾するという。こんなに多くの歴史的事実の歪曲をみせつけられると、クラッソがトロツキーを支離滅裂であるというのは、クラッソ自身の支離滅裂さがそういわしめているとしか思えない。トロツキーのソ連邦のための経済綱領を直ちに永久革命の理論と対立させて考えることは、事実、首尾一貫しない。(注20)


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