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 思考を優先させ、思考を――クラッソによれば――社会的諸力に“直接的に”結合しようとする一個のマルクス主義者にとって、ソヴィエト連邦の経済成長を促進させる闘争を行なうのと同時に、すべては目下の世界革命のなりゆきにかかっている、革命なくしてはソヴィエトは崩壊するだろうということは、どうやって可能だろうか? 後者の予測は前者の闘争を無意味にするのではないのか?
 これは永久革命の理論についての誤った見方に暗に含まれている矛盾であり、この矛盾を、トロツキーに対するスターリン主義者の批判も若干のトロツキーに対する極左的追随者も絶対に解きえないのである。問は正しく提起されなければならない。そのときはじめて絶対的矛盾は解消される。
 トロツキーが“永久革命の第三法則”で主張していることは、完全な社会主義、即ち階級・貨幣・商品・国家の存在が止揚された社会は、一国の枠内では決して形成されえないということであった。(ロシアのように先進資本主義国より立ち遅れた国ならなおさらそうである)(注21)
 トロツキーは社会主義建設の仕事の出発の必要を否定したことは一度もない。反対に経済成長のテンポの増大をロシア革命が一国内に孤立しているかぎり獲得する必要があることを訴えた。最初に工業化速度の上昇のための政策を具体的に提起したのはトロツキーである。
 しかし、もし議論全体が社会主義の最終段階(社会的分業の衰退の方向によって性格づけられる共産主義とは異った段階)を達成するという抽象的・理論的問題にかかわっていたとしたならば、何故に政治討論・論争が白熱したのか? 何故トロツキーは党員の圧倒的多数に理解されないような闘争に参加するという重大な戦術的謀ちを犯したのであろうか? 事態の真実は、トロツキーが問題を提起したのではなくスターリンとその一派が提起したという点にある。疑問の余地なく、スターリンのやり方は、トロツキーとその同調者をよりプラグマティックな気分をもっているボリシェヴィキ・カードルから孤立させる、巧妙な戦術であった。しかしこの論争に関してはレーニンの未亡人を含むオールド・ボリシェヴィキの多くは統一左翼反対派を支持し、ジノヴィエフ、カーメネフは論争の最高頂点において参加した。“一国社会主義論”に反対するトロツキーの闘争は、内乱以降のオールド・ボリシェヴィキとの緊密な連帯の基礎となった。
 スターリンの思想の無節操とそれに対するオールド・ボリシェヴィキの抵抗は偶然的ではない。“一国社会主義論”に官僚は自己の権力の萌芽を意識し、マルクス・レーニン主義の基本的な原理に横柄な態度で背をむけはじめた。それは単に、世界革命の立場からの“離脱”だけではなく、レーニンの理論的遺産の全ての放棄であり、必然的にソ連邦内部と全世界の活動的意識的労働者階級との連帯の放棄を意味した。マルクス主義の基本的原理の放棄に反対することによってオールド・ボリシェヴィキは自身の理論的高さを表明した。“党の統一”を守り、“プロレタリア独裁を危うくしない”ために、彼らはスターリンと行動することが必要だと考えた。そしてレーニンの理論体系に対する公然たる反対が明らさまになる時点までへは彼らは行きたがらなかった。二〇年代の悲劇は、実際は、以上述べたようなオールド・ボリシェヴィキの悲劇であった。つまりレーニンなきレーニン党という悲劇であった。そしてスターリンは、この党に物理的根絶という敬意をささげ、かくて三〇年代、四〇年代の陰うつな官僚的独裁はその性格からして“元にはもどらないもの”であるという彼の信念を明らかにしたのであった。
 クラッソが二〇年代のトロツキーの思考をバラバラに分解したとき、かえってトロツキーの思考の弁証法と統一性が浮かびあがってくる。トロツキーは資本主義から社会主義への過渡期としてのソヴィエト社会はNEPの枠内では徐々であれ自身の問題を解決することは不可能であると確信していた。彼が反対したのは、労働者国家と資本主義との“平和共存”という考えと表裏をなすところの、ソヴィエト国内における小商品生産と社会主義的工業生産との平和的共存の思想であった。彼はおそかれはやかれ、社会的諸力間の国民的・国際的な全面的対決が必然的であることを確信していた。彼の全政策は次のように公式化されえた。プロレタリアートの量的質的強化とプロレタリアートの自信、その革命的指導部の強化を国内的にも国際的にももたらすすべての傾向に賛成せよ。労働階級とその能力、自己防衛の意志を、国際的にも国内的にも分断するようなすべての傾向を弱めよ。(注22)
 この観点を保持するならトロツキーの主張の全ての意味は明白であり、混乱・矛盾は全然存在しない。トロツキーはソ連邦内における労働者階級強化のため工業化に資成した。また農業の漸次的集団化を支持した。何故なら、その措置は富農の労働者国家への圧力、穀物を手段とした脅迫・圧迫を弱めるからである。トロツキーは工業化と農業の漸進的集団化の結合を支持した。何故なら両者の結合は、トラクター、農業用機械(注23)――これらなしでは集団化は冒険であり、恐らく都市に飢きんをもたらすであろうから――という集団農場のための物質的技術的上部構造をつくるからである。
 トロツキーは、労働者階級の政治的活動性と意識性の発展を刺激するためソヴィエト民主主義発展のコースを選んだ。彼は失業の廃止、実質賃金の上昇を支持した。何故なら労働者大衆の生活水準の低下をともなう工業化が行なわれるならば、それはプロレタリアートの政治的自発性を弱め、それを高めないからである。(注24)
 彼はまた、他の諸国のプロレタリアート勝利のための有利な状況を創出し、国際的力関係を優位ならしめるためにコミンターン強化の方針に賛成した。これら諸政策の全体系の実践をもってしても、敵の最初の力試しを避けえなかったかもしれない。しかしそれにより、現実に一九二八〜三三年のロシア国内、一九四一〜四五年の国際関係において起った事態に対し、より有利な条件で臨むことができただろう。
 この綱領は“非現実的”だったか?否である。綱領実現のための客観的語条件は確実に存在していたのである。偏見なしに歴史を考察するなら、もしトロツキーの綱領が採用されたなら、ソヴィエトプロレタリアートと人民は、多くの犠牲と困難を避けえただろうし、また人類は、第二次大戦を避けることば無理だったとしても、少なくともヨーロッパ全体でのファシズムの勝利および数百万人の死者をさけえたであろう。確かに綱領実現のための主体的条件は存在していなかった。ソヴィエトプロレタリアートは受動的であり、その上分断されていた。彼らは、政治的疲労の極において、左翼反対派の綱領に心情的に傾斜していたが、しかしその実現のために闘う力は持たなかった。クラッソの考えとは正反対に、トロツキーはいかなるときにおいてもソヴィエトプロレタリアートの闘争力に関して一切の幻想を持ってはいなかった。
 党を直ちに去ること、あるいは新しい(非合法の)党建設を主張することは、より一層受動的になっている労働者階級にのみ依拠することを意味していた。軍隊に頼り、クーデターをくわだてることは事実上一つの官僚機構を他の官僚機構におきかえることでしかなく、官僚のとりこになることを意味していた。トロツキーに可能であったこれら二つの手段を用いなかったことを批判する一切の者は、これらの手段の根底に横たわる社会的政治的諸力に無知なのである。プロレタリア革命の任務は、どんな手段を用いてもどんな条件下でも、“権力をとる”ことにあるのではない。それは社会主義的綱領の実施のために権力を掌握するのである。もし“権力”を掌握したとしても綱領の実現が不可能な条件下では、権力に近づくよりもいわば反対派にとどまる方がむしろ好ましい。社会的実在と無関係な空中に漂う抽象的“権力”の非マルクス主義的崇拝者は、この態度を“弱さ”とみなす。反対に確信したマルクス主義者は、このトロツキーの態度を彼のような“キズ”とはみず、強さの印しとしてあるいは歴史的直観の鋭どさとして理解するであろう。
 では二〇年代のトロツキーの闘争は“綱領を守る”ための単なる歴史に対する“ポーズ”であったのだろうか? これは、この観点からしてさえも、トロツキーの闘争は正当化される、としておけばよい。今日、全世界的規模での新しい革命的前衛はマルクス主義の真の理解を開始するに当って、トロツキー、ただ彼のみが“暗黒”の三〇年代においてマルクス主義を擁護し、継承しつづけてきたという事実に非常に援けられている、ということは明らかである。
 しかし、トロツキーの闘争はより直接的な目的をもっていた。ソヴィエトの労働者大衆は受動的ではあったが、この受動性は長期にわたって固定化されたものではない。国際革命の高揚、ソヴィエト内部における社会的諸力の関係のわずかな変化があれば、その受動性は覚醒するだろう。そしてこれらの変化のための用具はただソ連共産党とコミンターンのみであろう。レーニンの依頼どおり、トロツキーは官僚的堕落化の歯どめとして党が行動するよう闘った。しかし歴史がはっきり示したように、党機構はプロレタリアートの政治的収奪の過程に対する闘争機関としてではなく、反対にその過程の推進力となるところまで、既に官僚化していたのである。
 先験的にいえばこの闘争の結果は、ソ連邦共産党内の指導部、即ちオールド・ボリシェヴィキの具体的政治的帰趨にかかっていた。適切な時期の適切な変化はこの過程を逆転させたであろう。ロシアの後進性、資本主義の包囲下という条件下では官僚自体を排除するところまでいかないにしても、官僚主義の悪を軽減し、プロレタリアートの憤激をめざめさせ呼びおこし階級的自己信頼を再生したであろう。トロツキーの“失敗”は実際には、オールド・ボリシェヴィキの失敗であった。彼らは革命の生みだした怪物的寄生体の実体を理解するのがあまりに遅すぎた。しかし、この“失敗”はまさにトロツキーの二〇年代における社会的諸力、政治的状況の認識におけるいりくんだ複雑な理解をきわ立たせている。


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