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三 革命は一九一九――四九年に進行しえなかったか?

 いまや、クラッソのトロツキーのマルクス主義への批判の第三点が問題となる。ある意味でこれは決定的な問題であり、明らかにクラッソの理屈の弱い環をなしているのだが、トロツキーが一九二三年以降、革命の国際的勝利を“期待”していたという批判である。
 クラッソの論文のこの部分全体は奇妙なパラドックスをなしている。クラッソは党の役割について低い認識をしているとしてトロツキー批判を開始した。しかし、トロツキーの西欧での革命勝利の希望はクラッソによれば“ロシアとヨーロッパとの社会構造上の根底的相違”に対する誤った理解によるものとなる。いいかえれば、少なくとも両大戦間には客観的条件は熟していなかったというわけである。トロツキーに浴びせられた“主観主義”とは反対に、クラッソはここで粗雑な社会的経済的決定論の立場にたち、西欧において革命が依然として勝利していないから、それは勝利の客観的諸条件が存在していなかったことを証明しており、革命が勝利しえなかったとするならば、それは“西欧の特殊的社会構造”によるものだと主張する。党・前衛・指導部の役割――“政治的諸機構の自立性”――はいまやクラッソ自身にとっても、クラッソのトロツキー批判においても、完全に背景におしやられる。実に奇妙な転倒である…。レーニンについてはどうだろうか? “党と社会との要求される関係の理論化”とクラッソが引用するレーニンがトロツキーと同様に共産党と共産主義インターナショナルの建設の必要性を熱烈に主張していた事実を一体いかように説明するのだろうか? クラッソはこれをレーニンの“無益な主観主義”だというのだろうか? ブレストリトフスク以後(この点についてクラッソは歴史の捏造を行ない正反対を述べている)レーニンは西欧と東欧における革命の国際的発展は不可避であると考えつづけていた事実をいかに説明するのだろうか?(注25)
 クラッソは十月革命と国際革命との弁証法的相互関係に関するレーニンとトロツキーとの立場に相違を見いだすために、トロツキーに機械的で幼稚な三つの思考をおしつける。その思考とは、革命はヨーロッパでは“切迫”している、資本主義的諸条件はどこでも、あるいは少なくともヨーロッパでは、特殊的例外なしに全ての国において等しく革命にむけて成熟している、そしてこれらの国における革命の勝利は“確定的”である、と。
 いうまでもなくクラッソはこれらの言明の根拠を明らかにしえない。しかし反対の出典はいくらでもある。
 早くもコミンターンの第三回大会(一九二一年)で、トロツキーはレーニンとともに(二人は第三回大会で“右翼”であった)戦後の革命的闘争の最初の波の衰退後、資本主義ヨーロッパは息つく余裕を得たと述べている。日程にのぼっていたことは“革命を直接展望する”ことではなく将来の革命に備えた革命党の準備、即ち階級の多数の獲得と新たな革命的状況における勝利を可能とする党のカードルと指導部形成のための正しい政策であった。(注26)
 ブハーリン、スターリンの“共産主義インターナショナルの綱領草案”批判の中で、一九二八年にトロツキーははっきりと次のように述べた。“この時代の革命的性格は所与の時点における革命の達成、即ち権力掌握を可能ならしめるようなものではない。その革命的性格は深くかつ鋭い動揺と急激かつ瀕発する直接的な革命的状況の出現、すなわち共産党の権力への接近からファシストあるいは半ファシストの勝利へ、さらにファシストの勝利から黄金の手段という一時的体制(“左派ブロック”つまり社会民主主義の連合によるマクドナルド等の類の権力への道)への変化、またそのあとすぐ矛盾が激化し危険が再び出現する、そして権力問題の鋭い提出、によって特色づけられる。(注27)
 トロツキーは彼の最後の論文で幾度も幾度も時代の革命と反革命の絶えまない連続と“一時的安定”、つまりレーニン型の革命的前衛党建設の客観的諸条件の成熟を正確に生み出す連続として特色づける。この点に問題の核心がある。しかしクラッソはそれを提起もせず、従って回答もしない。
 レーニンの組織論の基底を形成していた概念は、ジョルジュ・ルカーチが表現しているごとく、革命の現実性、即ち革命的状況におけるプロレタリアート権力奪取のための意識的かつ慎重な準備、革命的状況がおそかれはやかれ来るに違いないというロシア社会の客観的構造への深い認識、の概念に他ならない。(注28)
 レーニンがヒルファーディングの「金融資本論」(注29)の影響下に帝国主義論を著し、第一次大戦のバランスシートを明らかにしたとき、革命の現実性の概念を帝国主義世界体系に適用し、最も弱い環から崩壊し、まさに連環をなしているがために連鎖的な崩壊が必然であることを展開した。(注30)
 この核心概念によって第三インターの設立は正当化されたのであり、その綱領的基礎に他ならない。
 この核心概念をもてあそぶことは絶対に許されない。この概念は理論的な正しさだけではなく歴史的に確立されている。つまり永久革命の第三法則が適切であるだけでなく、二〇年代、三〇年代、四〇年代の労働者階級の敗北の主要な責任が指導部にあったことによっても明らかにされている。もし一九一四年八月四日以降のレーニンの核心概念が誤ちで、かつ経験は、西欧の残余の部分における周期的な革命的情勢の出現というには客観情勢が熟していないことを示したというならば、“理論的に誤ちを犯した”のはトロツキーの「永久革命の第三法則」だけでなく、プロレタリアートの権力掌握のために共産党を建設しようとしたレーニンの努力の全ては犯罪的な分裂行動として非難されることになるだろう。このクラッソの主張は、社会民主主義者達が五〇年以上に亘って同じ論調で、西欧の“社会的政治的諸条件”は革命のためには“未成熟”で、レーニンは“ロシアとヨーロッパとの社会構造の基本的相違を理解しえなかった”、といっているのとまったく同じではないのか。
すくなくとも歴史的経験の水準でみるならば、総括は非常に早く引き出されうる。あまり重要でない国は別としてドイツにおいては一九一八〜一九年、一九二〇年、そして一九二三年に革命的情勢があった。そして三〇年代はじめにはナチズムの脅迫を新たな革命的状況へ転換させうる可能性は大きかった。スペインでは一九三一年、三四年、一九三六年〜三七年において状況は革命的であったし、イタリアでは一九二〇年、一九四五年、一九四八年(トリアッチの暗殺が意図されたとき)状況は革命的であった。フランスでは一九三六年と一九四四〜四七年。イギリスですら二〇年代にはゼネストがあった。……非コミュニスト、非革命的な人々による文献をも含んで実に膨大な文献が、これら全ての状況において大衆の意識は資本主義の延命に反対する方向にあり、本能的には自らの手に社会の運命をになう方向にあり、支配階級には、完全な麻痺とは若干異なるが、広汎な混乱、分断が支配的であったことを示している。これこそがレーニンの革命的状況への古典的定義に他ならない。世界的規模において考えると二〇年代の中国革命、三〇年代初期のベトナム革命の高揚――これらは第二次世界大戦の終りには二つの強力な革命へと発展し、植民地・半植民地の広汎な革命運動に刺激を与えた を考えると、今日の半世紀を“永久革命の時代”と定義することは完全に正しい。アイザック・ドイッチャー、ジョージ・ノバックがトロツキーのアンソロジーのタイトルとして“永久革命の時代”(注31)を選んだことは歴史的観点からして全く適切であった。


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