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 クラッソは今や彼の論文で最も異常な内容を展開する。二〇年代、三〇年代、四〇年代初期のヨーロッパ革命の敗北は“スターリンの展望がトロツキーのそれに優越していたことは否定できない”ことを証明している、というのだ。トロツキーは革命の勝利を予見していたが“スターリンはヨーロッパ革命成功の可能性を低くみた”というわけである。しかしこれは全く逆ではないのか? トロツキーはヨーロッパや他の諸国での革命の自動的勝利を信じたことは一度もない。彼が徹底的に追及し、そのために闘争したことは、第一回目ではないにしても、二度目、三度目のチャンスにおいて革命的状況を勝利へ転化させるための共産主義運動の正しい政策なのである。誤った路線を主導し、スターリンはこれらの革命的状況を敗北にみちびいたのである。彼は中国の共産主義者たちに蒋介石を信頼するようさとし、彼の上海での労働者の大量虐殺の直前においてすらこの虐殺者を“信頼すべき同盟者“と公然と述べたのであった。(注32)
 スターリンはドイツ共産党に、主要な敵は社会民主党であり、ヒトラーは権力掌握をなしえないか、せいぜいのところ権力の座に数ヵ月しか存在しえず、真実の革命の勝利を促進するだけであると教示した。スターリンはまた、スペイン共産党に「革命の勝利ではなく“第一に戦争に勝つこと”そのために“リベラル”なブルジョアジーと提携するようすすめた。 フランス、イタリーの共産党には、若干の共産党員が内閣に入り、若干の国有化がなされたから、それはもはや“完全な意味での”ブルジョア民主主義ではないとして、“新民主主義”を建設するよう教示した。
 これら全てのスターリンの政策は荒涼たる結果をもたらした。しかしクラッソがこの結果を総括するとき、スターリンの展望は否定し難く(!)トロツキーのそれより優れていた、ということになる。なぜならばスターリンは“ヨーロッパ革命の成功を低く見ていた”から“多分スターリンの第三インターに関する路線、即ちコミンターンを世界革命の手段からソヴィエト政府の外交的マヌーバーの道へ変えること、そして一国社会主義論は、ヨーロッパ革命の不在となにか関係があったというのだろうか? それともクラッソはトロツキーに対する優越性を証明するためこれらの敗北をスターリンが意図したとでもいうのだろうか。
 マルクス主義者としての根本的な問いが提出されなければならない。即ち共産主義インターナショナルにおけるスターリンの誤りは、ソ連国内におけるスターリンの政策の破滅的な結果が“個人崇拝”という全く非マルクス主義的公式で説明されてはならないと同じように、“理解の欠如”や“ロシアの地方主義”によって説明されてはならない。(注33)
 スターリンの“誤った”戦術はソヴィエトと国際プロレタリアートの利益に従ったものではない。誤ちは、さけることができたはずの数百万の死者、苦痛の十数年、ファシズムの恐怖支配の数年間を必然的にもたらしたのである。スターリンが三〇年間以上もソヴィエト軍隊の威光の及ばないところならばどこでも、共産党の権力掌握に反対し、サボタージュしつづけてきたという事実をいかに説明するのか。(注34)
 この繁くべき事態は、社会的問題説明を要する。このような一貫した体系的な政策はソ連内の特定の社会的グループの特殊な利益の問題によってのみ理由づけられる。即ち、ソヴイェト官僚の問題である。
 この社会的グループは新しい階級ではない。生産過程において特定の、そして客観的必然的な役割を果さない。それは、社会主義的民主主義の全面的開花が困難な客観的諸条件の下で行なわれたプロレタリアートの権力獲得から特権的に生まれたものである。従ってプロレタリアートと同様、官僚も発生的に生産手段の共有性に結びついており、資本主義に反対なのである。このことがスターリンが最終的にクラークを粉砕しナチ侵略の前に立ちふさがったことを説明する。官僚は十月革命の基本的な社会経済的成果をこわしてはいない。逆に、それが社会主義の基本的な目標とますます矛盾するような方法によってであれ、基本的な成果を守ってきた。十月革命によって生まれた生産の社会主義的様式は外部からの攻撃、内部からの密かな掘りくずしに耐えた。それは数億の人々に自信の優越性を誇示した。これが歴史の基本的趨勢であり、数十年ももとにもどったとみるペシミストの予測とは異って、世界革命が再び高揚していったことを説明するのである。
 しかし官僚は、プロレタリアートとは本質的に異なり、世界観において基本的に保守的で.世界革命の新たな進展を恐れる。何故なら新たな世界革命の進展は官僚国家内での労働者大衆の戦闘性を燃えあがらせ、官僚の権力と威光を傷つけるからである。二〇年代、三〇年代の“一国社会主義”の理論と実践は、五〇年代、六〇年代の“平和共存”の理論と実践と同様に、官僚の社会的矛盾の完全な表現である。確かに帝国主義の絶滅させようとする脅迫に対して自己を防衛し、世界的規模での社会的均衡が崩壊しないかぎりにおいて“影響圏”を拡大しようとすらする。しかし根本的には現状維持である。アメリカの政治家たちは結局このことを見いだした。クラッソは少なくともレーニン死後の外交政策が現状維持の合理性に基づいているというアメリカの政治家程度の理解を示すべきであったし、このソヴィエト外交政策の一貫性を社会的根拠によって説明するようこころがけてみるべきであったろう。トロツキーが既に述べている以上のことはなにも発見しないだろうが。
 官僚とその弁解者たちは勿論、それはどこかの革命によって“挑発”されたものだとしても、この政策はソ連をねらうすべての資本家からソ連を守るためのものにすぎないといって、この政策を合理化しようとするだろう。同じやり方で、社会民主主義者は、革命的行動でブルジョアジーを“挑発”するとそれはたたきつぶされるだろうからという理由で、労働者階級の組織を守るために自分たちは革命に反対するのだと論じつづけている。しかしマルクスが教えていることは、党・社会グループはそれらの主観的意図、主張によってではなく、社会での客観的役割とその結果によって判断されるべきであるということである。その意味でソヴィエト官僚の真実の性格はその行動によって反映されているのであり、レーニンによれば帝国主義国における労働組合官僚の社会的性格、社会民主主義のプチブル指導者群の社会的性格が彼らの社会主義革命へ反対する態度を説明するものである。
 今や出発点に回帰した。マルクス主義者は政治的諸機構の相対的自主性を認めるが、絶えずこれら諸機構の社会的根源、最終的に結びついている社会的利害をさぐる。諸機構が当初自己を支えていた社会階級の上にたつほど、諸機構は誘惑に負け、自身の意志とは無関係に自己防衛的傾向、組織の永久的保存の傾向をたどり、自己の出自の社会的階級の歴史的利害と衝突する。これがマルクス・レーニンの理解に他ならない。この意味ではクラッソのトロツキーに対する“党”“国家”の自立の可能性の過少評価という非難は、トロツキーがマルクス主義者、レーニン主義者であったことを非難しているにすぎない。トロツキーはそのような非難にストイシズムの態度で満足をもって耐えたであろう。


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