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(原注1)
 だがトロツキーに公平であるためには次のことをつけ加えておく必要があろう。つまり一九一七年以前にレーニンはまた来るべきロシア革命の戦略目標としてプロレタリア独裁をうちたてる必要を認めていなかったということである。十月革命の勝利は革命的前衛党についてのレーニンの理論と実践および永久革命についてのトロツキーの理論と実践の歴史的結合の結果である。
(原注2)
 オーストリー社会民主党のハインフェルト綱領(一八八九年)は明瞭に次のようにのべている――「それゆえに社会主義意識はプロレタリア階級闘争に外部からもち込まるべきものである。」カウツキーは一九〇一年四月一七日号の“ノイエ・ツァイト”の一論文(“アカデミーとプロレタリア”)で革命的知識人と労働者の関係の諸問題をとりあつかい、そこで彼はレーニンの組織論の多くのものを定式化している。その発表の日付からすれば、この論文がレーニンの「何をなすべきか?」に直接の彰婆をあたえていることに疑いない。
(原注3)
 また次のことをつけ加えておくべきである――労働者党に浸透してくる趣味的知識人にたいするトロツキーの本能的不信はマルクスに由来するものであり、レーニンもまったく同じであった。クラッソはこの点について器用にも忘れる。マルクスとエンゲルスのべーベル、リープクネヒト、ブラッケその他にたいする一八八七年九月一七―一八日付の「回状」およびレーニンの「一歩前進、二歩後退」を参照せよ。そこでレーニンは「プロレタリアートの規律と組織を畏れるブルジョア知識人」に非難をなげつけている。彼自身いつも憎みかつさげすんできた「サロン知識人」バーナム、シャハトマンとトロツキーが生涯の終りに議論しなければならなかったということにクラッソが見いだす「最高の皮肉」についていえば、クラッソは次のことを忘れている。エンゲルスはデューリングと、またレーニンはブルガコフと討論しなければならなかったということ。しかもこの二人はたしかにバーナム、シャハトマンよりもすぐれていたわけではなかった。ここでそのような教育的論争がもっている党建設機能 ――これをマルクス主義の先人たちはよく理解していた――を理解していないのはクラッソである。
(原注4)
 クラッソによって引用されているトロツキーの文章があきらかにしめしているとおり、一九一七年革命においてメンシェヴィキの融和的方針が明らかとなった瞬間から、トロツキーは「メンシェヴィキとの統一が不可能である」ことを理解した。
(原注5)
 アイザック・ドイッチャー「武装せる予言者」。
(原注6)
 「第四インターナショナル創立協議会」より。
(原注7)
 既に一九一四年十一月一日、レーニンは「第二インターは日和見主義によって腐敗しそして死滅した。……第三インターは資本家権力に対する攻勢的闘争にプロレタリアートの力を組織しなければならない」と書いた。(レーニン・ジノヴィエフ「嵐に抗して」六頁)
(原注8)
 一九一八年レーニンは「その成功を保証する基本的条件は、その最良の部分が社会民主主義を生み出したところの労働者階級が、客観的経済条件によって、その組織的大きさにおいて、資本主義社会の他の階級にきわだっているという事実である。この基本的前提条件なくして職業的革命家の組織は茶番であり、単なるお遊びにしかすぎない。……」『何をなすべきか?』は、それが提起している職業的革命家集団とは、“闘争へと全面的に決起する真に革命的階級”との関係の中でのみその存在の意味があることを何度も強調している。
(原注9)
 全ての歴史的闘争は、それが政治・法律・哲学あるいは他のいかなる思想的分野で展開されようとも、事実上、結局社会的諸階級の闘争の表現である。したがって社会的諸階級の存在即ち階級闘争によって規定されているのであり、基本的には経済的諸条件の発展の段階、生産と交換との様式によって規定される、ということを最初に明らかにしたのはマルクスであった。(エンゲルス、『ルイ・ボナバルトのブリューメル一八日』へのドイツ語第二版への序文)
(原注10)
 一九二〇年代の最もパセティックな文献の一つは一九二五年に書かれた『問と答』というスターリンのパンフである。その中でスターリンは、次のような場合、党と国家の堕落の可能性があることを述べている。即ちソヴィエト政府の外交政策がプロレタリア国際主義の立場を放棄したとき、世界の残余の地域が帝国主義のひざ下に屈服したとき、コミンターンが解体したときである、と。勿論スターリンは、当時において万が一にも起らないとしたが結局一八年あとにそれをやるのである。
(原注11)
 『左翼共産主義――小児病』でレーニンは、権力を勝利的に獲得するまえに共産主義前衛が“労働者階級全体”の“広範な大衆”の支持を得ることの必要性を強調している。
(原注12)
 ファシスト官僚が独占資本から完全に分離していなかったのと同様に、官僚層は自身の完全な独自的利益を持ったものではない。しかしこの二つのケースでは、階級の歴史的利益の擁護という(ロシアでは共有財産制、ドイツでは私有財産制)ことが自己の階級の徹底した政治的収奪と階級の構成員に対する巨大な個人的攻撃を通じてなされるという点で似ている。
(原注13)
 K・マルクス「フランスの内乱」、F・エンゲルスのフランス版への序文参照
(原注14)
 カウツキー「キリスト教の起源」
(原注15)
 ソ連共産党の第八回大会(一九一九年三月一九日)の党綱領に関するスピーチでレーニンは、繰返し繰返し、官僚性の問題について言及している。“ロシア文化の後進性はソヴィエト権力を低下させ、官僚性を再生する”“官僚はカモフラージュして共産党員になっている”“官僚主義と最後まで闘い、完全な勝利を得るためには、人民全体が行政に参加することが絶対的に必要である”
(原注16)
 例えば“この悪魔(官僚主義)はますます明瞭に、はっきりと、危機的な形でわれわれの目の前に立ちあらわれている(一九二一年四月二十一日)”“政治権力がプロレタリアートにある国家においてストライキ闘争はプロレタリア国家の官僚的変形によってのみ正当化される(一九二二年二月一七日)”“もしモスクワの責任ある四七〇〇の共産党員とこの官僚機構とを考えたとき、だれが指導しているのか? だれが指導されているのか? 共産党員がこの官僚機構を指導しているという認識は正しくない。むしろ反対に指導されているというのが現実である。(一九二二年三月二十七日)”“官僚は国家機構だけではなく、党機構にも存在しているのだ(一九二三年三月二日)”一九二二年十二月二十六日に書かれた遺言の第三番目の追文でレーニンは党中央委員会に数十名の労働者党員を加えること、しかもその労働者党員はソヴィエト機構内で活動していないことを条件としていた。何故ならソヴィエト機構内の活動経験のある党員は既に官僚性を少なからず身につけているからとレーニンは述べている。
(原注17)
 レーニンが遺言で“トロツキーに何ら特別な支持を示さなかった”というクラッソの指摘は本当でない。遺言ではトロツキーは、中央委員のうち最も能力あるものとされている。確かにレーニンが考えたトロツキーの弱点も指摘されてはいるが、しかしトロツキーとスターリンの間の尖鋭な閥争を予言し、組織責任者の地位からスターリンをおろすよう提案している。レーニンのいわんとすることは全く明日である。


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