つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる

(原注18)
 これらの誤ちに関するクラッソの記録は多くの点で不正確である。彼は“労働の軍隊化”の思考をトロツキーに帰するが実は第九回党大会での決定である。トロツキーがレーニンの遺志の公開のために闘わなかったという。トロツキーはこの点に関して党指導部内で敗北し、そして規律を破壊することを欲しなかった。われわれはその理由を後に見るであろう。トロツキーは“スターリンが彼を党から追放しようとした策謀を見ぬけなかった”とクラッソはいう。これは一九二三年の時点では真実であったろうが、当時はスターリンですらそこまでは考えていなかった。しかしトロツキーは他の指導者のだれよりも早く、スターリンの個人的資質に関係して党と国家に重大な状況が生まれ、爆発的な状況となるだけでなく血の抑圧をもたらせるだろうと考えていた。クラッソはまた、スターリン―ジノヴィエフ―カーメネフのトロイカが崩壊したときトロツキーは何ら注意を払わなかったという。クラッソはこのとき、トロツキーとジノヴィエフ―カーメネフとの統一左翼反対派が結局形成され、この統一戦線が崩壊したのは一九二七―二八年であり、しかもジノヴィエフ主義者たちによってであることをつけ加えるのを忘れている。
(原注19)
 レーニンに公平であるためには、レーニンはこれらの誤りを犯しつつも、同時に、党と国家の官僚化を防ぐための一連の具体的安全装置をとったことをつけくわえなければならない。工場内における“トロイカ”制は支配人の権威を効果的に抑制した。労働組合の諸権利は拡大された。(この点に関してレーニンのトロツキー提案に対する批判は正しい。)党カードルのための“最大上限収入”の原則が認められた。分派は排除されたが傾向を形成する権利は確立され、シリアプニコフは彼の反対意見を数万のコピーにすることが事実約束された。しかし、歴史が示すごとくプロレタリアートの政治的受動性が増大し、官僚の力が強まるにつれ、これらの防衛的措置が官僚の攻撃で無に帰する可能性は強くなったのであり、事実“二〇年代”後半と“三〇年代”初期にそれがなされた。
(原注20)
 クラッソは永久革命論を“トロツキーの豊かな洞察力に似つかわしくない科学的正確さの欠如した馬鹿げた規定”と定式化する。クラッソは永久革命論をマルクス自身が定式化したことを全く知らないようである。
(原注21)
 「コミンテルン綱領草案批判」の一章でトロツキーはスターリンとその取巻が一国における社会主義革命の勝利――それは社会主義的諸組織、経済建設の開始の必要性を意味する――と、社会主義の最終的勝利、即ち完全に発展した社会主義社会の確立の問題とを故意に混同していることを詳細に暴露している。(『レーニン死後の第三インター』参照のこと)一九二四年になってもなお「レーニンとレーニン主義」最初のロシア語版でスターリンが“社会主義の最終的勝利、社会主義生産の組織化にとっては一国での努力、とくにロシアのような貧農の国での努力では、不充分である”と書いていることは興味深い。クラッソの混乱した解決によればトロツキーの“一国社会主義”の不可能さの経済的根拠は“建設の開始”ではなく“最終的勝利”の観点からは全く正当であるそうだ。確かに社会主義経済は最も進んだ資本主義経済以上のはるかに高い労働生産性を獲得しなければならない。この点に関してはスターリン、ブハーリンさえも同意する。トロツキーの主張は本質的に閉鎖的な経済においては国際分業によって帝国主義国が達成しているような高度の労働生産性に到達することは不可能だろうということだ。しかし、このことが必然的にソ連邦の計画経済の“放棄”に結びつくとは一度もトロツキーは主張したことがない。彼は、このことが暴力的紛争、矛盾の根源をなしており、それ故、ソ連が無階級社会を達成することは不可能であるだろう、といっているにすぎない。歴史的推移はこの予知の正しさを完全に証明している。
(原注22)
 われわれは歴史はこの基本的概念の正しさを証明してきたと考える。トロツキーが既に二〇年代以降不可避的であると予知していた二つの暴力的対決――ナチ帝国主義に対する戦争の勝利と階級としてのクラークの完全な清算――がなされた後の今日ですら、ソ連邦の運命は、国内的かつ国際的な社会的諸力の闘争の力学にかかっている。そして最終的にはその運命は、人類の運命と全く同様に、一九四四〜四五年のヒトラーと同様に“赤よりも死を”とのスローガンを受け入れていることに示されているように、アメリカの支配階級が力に狂った精神異常の最終段階に達し世界核戦争を遂行する以前に、アメリカの勤労大衆が彼らを武装解除しうるか否かにかかっている。
(原注23)
 これは、スターリンがトロツキーの綱領全体ではなく、内的論理を無視してその一部を盗んだことの一例である。反対派は一九二三年以来、ツァリツィンのトラクタープラント建設のため闘争してきた。その基本的路線は受けいれられた。しかし建設が行なわれたのはやっと一九二八年になってからである。もしトラクターが一九二四〜二五年から生産開始されていたなら、また、高い労働生産性と私的労働に比べて共同農場での高い収入とを基礎にして、賞農の大衆的参加をともなってコルホーズは漸進的に建設されていたならば、工業化と農業集団化との結合は一九二八〜三二年にみられた悲劇的状況とは完全に異ったものを生みだしたであろう。この悲劇的状況に、ソ連邦は五〇年代になっても悩みつづけるのである。
(原注24)
 反対派はスターリンの実践した労働者大衆と貧農の生活水準を低下させるような資本蓄積に反対し、富農のみへの特別税、行政上の諸経費の抜本的削減による年間一億ルーブルの節約を提案した。こうしたら、五年ではなく八年から十年かかった第一次五ヵ年計画の目標達成は大衆の消費生活におけるより少ない犠牲でなされえたであろう。
(原注25)
 二つだけ引用する。“最初のボリシェヴィキ革命は帝国主義戦争、帝国主峩の重圧から数百万人の人類を解放した。来るべき革命は全ての人類を解放するであろう。”(一九二一年一月一四日)“組織、その建設、革命的活動の方法と内容を真実理解するためには特殊な学習をしなければならない。もしそれがなされるなら世界革命の展望は良いということにとどまらず全くすぐれたものになると確信している”(一九二二年一一月一五日)――レーニン
(原注26)
 これは疑いなく典型的な“政治的諸機構の自立性の過少評価”である。
(原注27)
 L・トロツキー『レーニン死後の第三インター』
(原注28)
 G・ルカーチ『レーニン』
(原注29)
 ルドルフ・ヒルファーディングの金融資本論は四七七ページで終っているが、その最後のパラグラフで、金融資本をビッグビジネスの完全な独裁であり“社会的諸力の緊張対立の激化”を予測し、ビッグビジネスの独裁に代ってプロレタリアートの独裁を最終的にはもたらすものと規定している。
(原注30)
 レーニンが一九一五年に書いた「第二インターの崩壊」パンフ(レーニン・ジノヴィエフ「嵐に抗して」)は、革命的状況はヨーロッパで発展しつつあり、革命的社会主義者は、大衆の革命的感情と行動の高揚のため行動しなければならないという認識をその核心としている。第三インターの最初の二つの大会でのレーニンの発言は、この認識を全ての植民地・半植民地に押しひろげている。
(原注31)
 ニューヨーク・デル出版社
(原注32)
 中国共産党の毛沢東指導部が、一九二五〜二七年期の指導部、陳独秀をこの誤りの主要な責任者だとし、陳独秀がただ共産主義インターナショナル、まずスターリンその人の直接かつ強圧的指示に従ったにすぎないことをかくしつづけているのは、歴史的事実の戯画化である。
(原注33)
 多くの人々は第二次大戦での勝利はスターリンの諸政策の正しさを証明したのではないだろうかといい、そしてクラッソもそのようにほのめかす。しかし勝利のために払われた膨大な代償、さけえたはずの犠牲と敗北(戦争中のものも含めて。ソ連ではすべての出版物がこのテーマをめぐって出されている)をあえて完全に沈黙を守り見逃すとしても、事態をこのようにみることは真実をねじまげることになる。五階の建物にいる人間がエレベーターに乗ることも、また灯をつけることも拒否し、暗やみの中で狭い階段をおりたとする。案の上、階段をすべり落ち、頑丈な肉体のおかげで手と足だけの骨折で首の骨を折ることをまぬがれ、四年後に松葉杖で歩くことができるようになった。しかし、この結果は頑丈な肉体によるものであってエレベーターに乗らなかったことを一切正当化するものではない。
(原注34)
 周知のごとくスターリンはユーゴと中国の共産党が権力掌握することに反対した。彼はベトナム共産党に“フランス連合”と名付けられるフランスの植民地帝国内にとどまるよう指導した。彼の教育した党はキューバでは数年間にわたってカストロの勝利的社会主義革命運動への参加を拒否しつづけた。これらの事実は単に心理学的説明だけでよく、社会学的説明を必要としていないのか?


つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる