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トロツキーのマルクス主義
――エルネスト・マンデル――

 ニコラス・クラッソは、二〇年代のボリシェヴィキ党の党内闘争におけるスターリンの勝利を、「トロツキーのマルクス主義」の二つの根本的弱さというもので説明しようとした。一つはトロツキーの「社会学主義、すなわち、政治的諸機構の自立的役割にたいする彼の一貫した過少評価であり、もう一つは「行政主義」――一九二〇―二一年にボリシェヴィキ政権が労働者階級にたいして用いざるをえなかった厳しい弾圧措置を彼が支持する傾向にあったこと――であった。われわれは、こうした説明が歴史の真実と一致せず、一九一七年以降のロシア革命の運命――世界革命はいうにおよばず――について、十分な説明とならないことを示した。
 これにたいする反論のなかで、クラッソは彼の仮説を、一般的な理論上の論点と、わたしが論議に持ち出した事実の一部を反駁するという両面で弁護しようとしている。(注1)両方の試みは、共に失敗している。これらの試みは、クラッソの最初の論文より以上に、彼の分析の根本的弱さを示しているのである。この弱さは、彼が現代史の理解、解釈およびそれに基づく行動に関するマルクス主義的方法から離れた点に存在する。

経験主義とマルクス主義史学――第一のアプローチ

 「わたしの分析の全目的は、一マルクス主義者としてのトロツキーの思想と実践の統一性を、再構成してみることだった。マンデルの回答は、こうした統一性を追求する一切の試みを拒絶している、(注2)とクラッソは書く。いいかえるならば、クラッソはトロツキーの思想と実践を、彼が発見しようとしているいくつかの根本的諸原則で支配された一つの全体とみようとしているのである。同じレベルで彼に答えようとしないかぎり――トロツキーのマルクス主義のユニークさについて、彼の規定を受けいれるか、それとも彼の規定にかわる別のトロツキー解釈の「根本原則」を提出するか――、一切が「経験主義」だと非難される。
 われわれは、このエッセイの最後で、われわれがトロツキーのマルクス主義の特徴をどう考えるかに戻ることにする。しかし、まずクラッソの論点それ自体を取り上げてゆくことにしよう。マルクス主義的弁証法の観点からすると、過程は根本的概念にではなく、対立する諸力によって支配される。一切の歴史過程は、社会的自然の根本的諸矛盾により支配される。一人の生涯の過程が基本的に思想によって支配され、説明されると考えるのは、マルクスからへーゲルに一歩後退することである。これらの思想が不変かつ永遠で、それ自身の内部矛盾やそれらと生きた実践との矛盾のどちらにも無関係だとみるのは、へーゲルからカントに一歩後退するこどである。
 トロツキーの生涯が一つのイデオロギー的「概念」を鍵とする「統一性」で構成されるとみなしたり、この概念を「社会学主義」の原罪とみたり、またボリシェヴィキ党に入ってからのトロツキーが、歴史と政治における「主体的要素」の役割に最大の重要性を与え、レーニン主義党組織論のもっとも断固とした擁護者となって、われわれに政治家かつ歴史家として、「政治的諸機構の自立的役割」を正しく理解する最良の手本のいくつかを与えてくれたという歴史的事実を否定するのは、真実からまったくかけ離れたトロツキーのマルクス主義の「解釈」を主張することである。それは、理論と実践の両面で、現実と切り離された、精神の独断的、抽象的構成である。
 クラッソ・テーゼの方法論的弱さは、彼がトロツキーの活動のあらゆる基本的側面を一貫して説明することに失敗した以上に深いものである。(弁証法理論が経験主義にまさっている点は、それが経験的データを否定するからではなく、それらのデータを首尾一貫して説明できるところにある。そして、例えば一九一七年、二三年、三三年あるいは三八年のトロツキーの理論と実践を、彼が「政治的緒機構の自立的役割を過少評価」したという観点から首尾一貫して説明することは、まったく不可能である)この弱さは、マルクス主義社会学および歴史学のもっとも魅力的な側面の根源にまでさかのぼる。すなわち、個人と歴史過程の関係の問題である。
 われわれは、あらゆる個人が研究の好対象となり、彼の生涯を弁証法的に検討し、説明することができるのを否定するわけではない。だが明らかなように、このような理論活動で、われわれが行なっているのは、個体心理学であって、社会学ではない(注3)この方法は、われわれが歴史過程でほんのささいな役割しか果さない諸個人をあつかっているかぎり、問題はない。歴史の理解にたいするマルクスの偉大な貢献は、まさに歴史過程を個人の心理の単なる相互関係、無数の「ケース・ヒストリー」のからみあいで説明することはできないという点にある。この理解が要求するのは、概念上の社会的連関、社会階級の連関である。世界史は、対立する諸個人の歴史ではない(ただし、これらの個人はきわめて現実的であり、しばしば非常に重要ではあるが)世界史は、階級闘争の歴史なのである。個人の野望、要求、努力や思想の組み合わせは、歴史の理解に必要であるが、社会諸階級のなかにおけるそれらの組み合わせである。有史以降歴史を形づくってきた対立は、社会諸階級相互の、ないしはそのなかにおける対立なのである(注4)。
 歴史のなかで重要な役割を果す個人は、ただ決定的な転換点に、すぐれた仕方で社会諸団体の要求や願望を表現することに成功したからこそ、そうなることができる。彼らを歴史の舞台に押しあげた独特の社会諸勢力の関係がいったん根本的に変更されるやいなや、彼らの歴史的役割は終了する。(注5)
 いかなるトロツキー評価も、もしそれがトロツキーの「内的思想」のなかに――すなわち彼個人の一つの側面に――歴史における彼の役割の説明を見い出そうとするなら、誤った立脚点から出発することになるだろう。われわれは、歴史的分析を個人の心理で補って仕上げることの有用性を否定しはしない。われわれがもっとも強く否定するのは、個人の心理で歴史を説明してしまうことである。二〇年代のソ連における政治闘争、二〇年代と三〇年代の世界共産主義運動における政治闘争は、何億もの人間の運命を左右した。このような次元の対立の結果をあれこれの個人の特異体質――Xは被害妄想狂、Yは胃潰瘍、Zは「政治的諸機構の自律的役割の過少評価」――で説明するのは、非マルクス主義的なだけではなく、ばかげている。
 ここにクラッソの根本的弱さがある。この点で、彼の「エルネスト・マンデルへの回答」は、何ら新しいものを提出してはいない。われわれは、トロツキーやレーニンがソ連内の政治・社会闘争のあれこれの段階で考えたこと、考えなかったこと、またやったことをいろいろと聞かされる。ロシアにおいても、また世界的規模においても、社会諸勢力との関係での革命の前進後退については、まったく説明されない。そしてクラッソが問題全体のあるエピソード的側面――一九二一年の労働組合論争――について、こうした説明をビクビクしながら導入しようと試みるときには、彼は社会諸階級――この場合はプロレタリアート――の物理的存在そのものを長々と否定しにかかるのである。こうしたなかでは、科学的歴史学の余地はありえない。クラッソによる「トロツキーのマルクス主義」理解の失敗は、マルクス主義そのものの放棄に終っているのである。


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