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一九二三年の選択の内容

 トロツキーを「ロマンチックな神話かつ象徴」として描こうとするとき、クラッソの前に横たわる最大の障害は、トロツキーが一九二三―三三年の時期にロシア・ボリシェヴィキ党と共産主義インターナショナルの両者に提起した、具体的かつ詳細な代案としての路線である。クラッソは、自分が解釈した永久革命論とソ連内におけるトロツキーの工業化のための闘いとの間にある根拠もない「矛盾」を作りあげることから始める。われわれは、クラッソがただ一貫性のなさだけをみる部分――これはまさに彼のトロツキー「解釈」の一貫性のなさを証明している――に、論理的な相互関係のあることを示した。つまり、プロレタリアートの地位を、国内的かつ国際的に強化しようとする意識的な動きである。
 「エルネスト・マンデルへの回答」のなかで、クラッソはさらに歩を進め、トロツキーと左翼反対派が二〇年代にスターリンの政策に対抗する何らかの対策をもっていたこと自体を否定してしまう。この途方もなくばかげた仮説を支えるため、彼は年代誌に見えすいた手品を使う。ソヴィエト・プロレタリアートの数は一九二一年には三分の二に減少していたため、一九二三――二四年にプロレタリアートを徐々に動員し、再度政治化するという政策は非現実的であり、工業蓄積の加速というトロツキーの提起は、「クラークによる都市の実質的封鎖であった一九二八年の絶望的経済情勢とは、まったく無関係だった」(注12)というのである。この種の「論理」には、あきれて物が言えなくなる。
 プロレタリアートが一九二一年に実際三分の二に減少したことを認めてみよう(こうした数字が信頼できるかどうかは、きわめて疑わしい。別の機会にこれが途方もない誇張だということを証明することにしよう)だがたしかに一九二三年には――二六年はいうにおよばず――プロレタリアートは、クラッソの言葉を借りれば「解体され分散していた」(注13)ままではなかった。ソロモン・シュウルツが引用しているソ連の公式統計によれば、賃金および給料生活者の数は、一八九七年から一九一三年までの間に七九〇万人から一一二〇万人に上昇し、一九二二/二三年には六六〇万人に下降、一九二三/二四年には七四〇万人に急上昇、一九二四/二五年に一〇二〇万人、一九二五/二七年には一〇九〇万人、一九二八年には一一六〇万人になっている。大規模工業における労働者数は、一九一三年の二八〇万から一九二二/二三年には一七〇万に落ちたが、一九二三/二四年には一八〇万に上昇、一九二四ノ二五年に二二〇万、一九二五/二六年に二七〇万、一九二六/二七年に二八〇万、一九二八年には三一〇万となっている。建設労働者の数は、一九二三/二四年の二〇万から一九二六/二七年の五五万、一九二八年の七〇万と急速にのびている。戦前の数字には大量の家内労働者(二〇〇万人以上)が含まれており、このカテゴリーが二〇年代には二〇万人前後に減少した事実を考慮するなら、言葉の正しい意味での工業労働者は、一九二六年前後にもはや革命前の水準を超えたということができる。これは実際、「解体され、分散していた」プロレタリアートとは、大きなへだたりである!!(注14)
 そのうえ、プロレタリアートが実際一九二一年に「三分の二に減少した」ことを認めたとしても、以上に引用した数字が示しているのは、明らかに、一九二一―一九二八年におけるプロレタリアートの数的、経済的、社会的復興の過程である。国民所得の六〇%以上を生産する一つの社会階級(これがすでに一九二六年の状況だった)が、潜在的社会権力をもっていることは、たしかに誰も否定できない。だがトロツキーは、(クラッソに想起させておかなければならないが)労働者階級が、一九二一年という経済的、社会的にもっとも弱い状態になっていたときに、ただちに国家と経済を指導する役割を回復するよう提案したのではなかった。これは「労働者反対派」の政治的に誤った、非現実的な立場であり、トロツキーはただちにこれを拒否した。労働者階級が政治的支配階級として復活するためには、その前提として労働者階級の上昇と肉体的復活が必要だった。このためトロツキーは、新経済政策と経済復興の即時優先に向けた転換を、断固として正しく支持したのである。
 だが、これは一つの過程のほんの始まりにすぎなかった。いったん経済が機能を再開するや、実質賃金が上昇し、貸金生活者の数が増大し、経済における彼らの地位は、工業生産の急速な増大のため、ふたたび決定的となり、このため、プロレタリアートの政治的役割が復活するための客観的条件が、ふたたび登場した。この時点で、党による意識的な介入は、こうした復活に有利に働くか、それとも強力なブレーキになるかのどちらかだっただろう。左翼反対派の綱領は、失業をおさえ、工業化を促進し、ソヴィエト民主主義の範囲を拡大し、勤労大衆の自主的表現と自主的活動を支持し、そしてソヴィエト労働者の自信と戦闘性を高めることになる国際革命のチャンスの強化を提起することによって、こうした復活を促進しようとする一貫した試みであった。
 大量失業と、ますます国家と経済の実質的運営の役割から切り離された「ソヴィエト」の大衆操作を維持し、党外の労働者民主主義の残滓と党内民主主義の強い伝統の両方を少しずつけずりとってゆくことにより、支配的分派は、プロレタリアートの戦闘性と自主的活動を低下させるため、あらゆる努力を払った。これが、対決の客観的バランス・シートである。
 「問題の核心は、プロレタリアートの“消極性(マンデルの言葉)――主体的な当時の状態――ではなく、その解体と分散――客観的な当時の状態――にあった」(注15)、とクラッソが書くとき、彼は問題を非常にうまく要約していると同時に、彼自身のテーゼを破壊するような回答を、それとなく提出している。工業生産が革命前の水準に向け、またそれを超えて上昇しているときに、一九二三―二八年は「解体と分散」が「客観的、構造的な条件」だったなどと論議することは、明らかに不可能である。一九二三年以降、消極性という「主体的な当時の状態」を克服する客観的可能性は、たしかに存在した。もしこれが実現されなかったとしたら、それは党の決定的な役割によるものである。所与の事実を前にして、これ以外の一切の解釈をすることは、重大な「政治諸機構の自立的役割にたいする過少評価」である。われわれはいまやこの言葉をクラッソの足もとにきっぱりと投げ返すことができる。
 富農とネップマンに限った特別課税で投資の財源を作り出し、国家支出を削減するという左翼反対派の綱領について、クラッソはこう評している、「蓄積の財源を国家支出の削減で得ようというのは、どの後進国においてもユートピア的な夢である!」(注16)同じように、後進国で社会主義革命やソヴィエト国家を建設するのは「ユートピア的夢」だということもできるだろう。多くのメンシヴイキが、新旧を問わず、ここではクラッソにももちろん同意することだろう。一体クラッソーがレーニンの「国家と革命」や、そのなかで詳しく書かれている「安あがりの国家」について読んだことがあるのかどうか、また彼がレーニンの「経済的破局、それとどう闘うか」や他の多くの著作を読んだことがあるのか、疑わざるをえない。おそちく、これらのことを書いたレーニンは「ロマンチックなトロツキスト」であり、「組織機構」にのみ関心をもっていた「現実主義的」レーニンとは区別される必要があるのだろう。そして、おそらく彼の青写真は、イギリスやドイツのためのものであって、後進国ロシアのためではなかったのだろう。
 富農のみに課税するのは、何ら「ユートピア的」ではない。労働者国家のいくつかの政府が、スターリン農業政策の悲惨な経験以降、まさにこのことを試みてきた。「現実主義的」な毛沢東は、同じような政策を強く主張した。下からの厳正な管理と国家の機能を徐々に労働者・農民の手に移行させることによって、国家支出(ほとんどの後進諸国で、この巨大な部分が浪費されている)を削減しようとするのは、さらに「ユートピア的」ではない(注17)。これに関連する左翼反対派綱領の提案は、その後、現実に第一次五カ年計画でロシアの重工業化を達成したエフゲニー・プレオブラジェンスキーやグレゴリー・ピャタコフを含む、ソ連邦の最高の経済専門家によって作られた。こうした専門家たちが、ロマンチックな白昼夢にふけっていたと非難するのは、あまり真面目な話ではない。
 実際のところ、左翼反対派の綱領で引用された数字は、クリジャノフスキーが二〇年代初めに最初の包括的なロシア工業化計画のなかで引き出したものとぴったり一致する。またこの数字は、実際に第一次五カ年計画のなかで起ったものとも一致するのである。
 相異点は、消費の犠牲が、四年半に圧縮されるかわりに、一〇年にわたって延長されたということである。したがって、これによれば労働者や勤労農民に負担を負わせるかわりに、より特権的な階層に犠牲を集中させることができただろう。
 労働の平均生産性(投資効率)に与える否定的な影響は、無視できるほどだっただろう。他方、この時期に労働生産性に集中して犠牲を強いることの影響は、破滅的だった。
 最後に、左翼反対派綱領の下では、浪費や損失が削減されたはずである。他方、スターリンの「強制」工業化計画の下では、生産者の実質所得の下落からくる投資効率の極度の低下により、人民を「統制」するのに忙しい何十万の監督や警官が必要となり、彼らの所得は経済成長の観点からすれば純然たる浪費であったため、こうした浪費や損失は一〇倍にも増大した。
 このようにして、生産者の消費水準やソヴィエト民主主義の度合いは、すべて相互に連関しているが、スターリニズムの多くの弁護者が一般に仮定している(そしてクラッソもこれをほのめかしているようだが)のとは反対の仕方で関連しているのである。より大きなソヴイエト民主主義と生産者の直接消費の拡大は、投資の生産性効率をいちじるしく高め、より非生産的な消費の必要性を減じ、そして経済成長率を低めるのではなく、高めるのである。
 クラッソが実に都合よく自分の論議から落している時間の要素は、実際決定的である。またこれは、一九二三年のトロツキーの経済政策の対案が、一九二八年のクラークによる都市封鎖に答えられなかったとする、クラッソのいささかばかげた言明にたいする回答でもある。もちろんそれは答えられなかった。なぜなら、この政策の全要点は、まさに一九二八年のような情勢が起きるのをふせぐところにあったからである。
 トロツキーとその同志たちは、早くも一九二三年に、農村における分解の拡大は、小商品生産増大の必然的結果だと警告していた。彼は、このため富農の手に商品性のある余剰食料がますます集中し、農村で富農の地位が政治的分野においてもますます増大するだろうと警告した。ヨセフ・スターリンとニコライ・ブハーリンは、これを激しく否定した。彼らは、小商品生産の繁栄で強化されるのは中農であり、富農ではないと主張した。彼らはトロツキーが階級闘争の拡大を予測したところに、調和の拡大をみた。彼らは社会主義工業の拡大再生産の財源が、個人農民に国家債権を売ることでまかなえるというところまで、「社会主義建設」に私的農業を「統合」するよう要求した。
 トロツキーは、こうした社会的調和というユートピア的夢を拒絶した。彼は党とプロレタリアートに、クラークの危険性をそれが尖鋭になる何年も前から警告した。彼は実際、この危険性がとる正確な形態を予測していた。都市から農村により多くの工業製品が流れ込まないかぎり、都市への食料配達を拒否するというものである。彼は、この「配達ストライキ」が引き起こす政治的対決を予測した。そして彼は、クラークの手に食料余剰が集中するのを支持したスターリン・ブハーリン路線に反対して、現実主義的な政策をもっていた。この対案というのは、一方でクラークにたいする課税によって工業化を促進し、他方で国営トラクター工場や機械化農業に基礎をおく協同農場の建設――ここでの収入や生活水準は当初から旧来のみじめな農場よりも高いため、貧農は徐々にここに集まる――によって、農業を徐々に集団化することである。
 工業化の促進が農業の徐々の機械化の基礎を作り出し、農民の分解の進行は、富農に有利にではなく、富農を犠牲にして行なわれる。都市と農村における貧しい者たちの政治活動の拡大に向けた転換の促進と、それによる民主化の促進――これがトロツキーの綱領の一貫した要素であった。クラッソはただ、この綱領が「農民問題の政治的解決を含んでいない」と述べられるだけである。この驚くべき言明には何の証拠も提出されていない。そして、特に議事実と客観的分析が反対の方を示している以上、クラッソがいかに強く断言したところで、これを受け入れることはできない。


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