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ソヴィエト官僚制の性格

 二〇年代のソ連邦における中心的社会問題、つまり官僚制の問題に直面したとき、クラッソはもがき苦しむのだが、その誕生を自律的な社会階級として認識するところにまで行くことができない。このため彼は、この時期のソ連共産党内部の闘争を、赤裸々な権力政治や不十分な個人心理のレベルでしか、みることができない。
 クラッソの用語にすら、一社会問題の認識をこのように強情に拒んでいることが示されている。彼はかわるがわる「官僚主義」「官僚的、行政的国家主義」「官僚的、権威主義的傾向」について語る。彼は「官僚的復興」(何を意味するか)というばかげた用語すら使っている。たった一度だけ、そしてわたしの論文の直接の引用のなかで、彼は「官僚制」という明確な概念を自ら使っているのである。
 これは二〇年代と三〇年代のスターリニストの習慣であり、五〇年代後半のスターリン後の時期に復活されたものの直接のマネである。「官僚的習慣」や「{呂僚的、国家主義的傾向」を嘆くのは、社会問題を個人的な「習慣」や「誤り」の観察のかげに隠してしまうことである。官僚主義は特権的官僚制の登場を助けることはありうるが、両者を混同してはならない。政治権力の行使と社会的剰余生産物の管理を独占し、それによって社会生活のあらゆる領域を支配しようとする官僚制の登場は、すでに一八七一年、資本主義を打倒して誕生した社会がもつ潜在的危険性として、マルクスにより認識された。それは同じように一八九〇年代に、カウツキーとアナーキストが認めたところである。レーニンは、一九一七年のロシア革命の開始以降、あらゆる著作で詳細にわたってこれを論じている。
 レーニンはまさにこの問題を、政治的ロマンチシズムの「あれかこれか」という理想主義的なやり方では、決して提起しなかった。官僚制か、それとも官僚制なしかという問題はレーニンにとってなかった。レーニンは、内外政策の両方を支配する克服しがたい矛盾に鋭く気づいていた……レーニンの目的は、官僚主義に完全に勝利するという不可能なものではなく、むしろ彼はこの矯正策を探し求めていたのである(注18)
 クラッソはここまで行ってしまう。
 官僚制は、いまだ克服されていない労働の社会的分業のなかから、生産力の不十分な発展水準、労働者階級の技術的、文化的熟練度の不十分さの結果として登場する。したがって、それは商品生産や金や国家が「廃止」できないのと同じく、政令で廃止することはできない。これらすべての現象は、階級なき社会を建設する過程で、消えてなくなることができるだげである。この意味で、「官僚制か、それとも官僚制なしか」という問題ではないと述べるのは、ABCなのである。官僚制の完全かつ即時の抑圧(国家、党、労働組合のすべての有給専従者、生産労働者とは別にフルタイムで機能している経済のすべての経営者、生産労働から切り離されたすべての知識人等々)は、社会主義革命の勝利の直後には不可能である。それは後進国においては、なおさら不可能なことなのである。
 トロツキーはこのことをレーニンと同じように知っていた。どこにおいても、いつであれ、彼が「官僚制の即時全面廃止」の計画を提案したことはなかった。しかし、官僚制が不可避的なだと理解することは、いさぎよく決断することとはまったく別物である。「われわれは平等をより早く達成する役に立つかぎり、不平等を許すことにする。そのうち、われわれはこの不平等がもつ腐敗した影響に目をつぶらなくなり、これをわれわれがもつあらゆる手段で減らすよう努力するだろう」ということと、大胆に平等が「プチ・ブルジョア的理想」だといい切り、「現実主義」は社会的不平等の荒っぽい強化を要求していると宣言することは、まったく別物なのである。いいかえれば、官僚制の地位と権力を徐々に削減する政策をとるのと、その権力と地位をとんとん拍子に増大させることとは別なのである。前者は、レーニンからトロツキーにいたるプロレタリア革命家の態度であり、後者は、スターリンからレオニード・ブレジネフにいたる官僚制のスポークスマンの態度である。
 レーニンが官僚制の権力にたいしてただ矯正策のみ求めていたとするのは、再度この偉大なプロレタリア革命家にたいする本物の中傷である。彼は、官僚制の進展が社会主義社会建設にたいしてもつ巨大な危険性に、鋭く気づいていた。官僚制を一気に廃止することは不可能だと理解しつつ、彼は全力をあげてそのウエイトを可能なかぎり減少させるために努力した。これは何か主観的な「矯正策」をみつけるなどという問題ではない。問題は客観的に可能な範囲内で、労働者国家の官僚的ゆがみが官僚的堕落に転化し、ガンが組織本の健康な部分まで喰べつくしてしまうのをはばみうる、社会勢力と政治過程および政治機構をみつけ出すことなのである(注19)。そして、官僚制の地位を徐々にへらすことのできる客観的勢力は、自ら国家と経済の直接行政でますます機能を発揮してゆくプロレタリアート以外にはありえない。
 官僚制の問題にたいするトロツキーの態度は、レーニンのそれと根本的にいささかも異なるものではない。彼は、官僚制を一気に「廃止」できるなどという幻想を、いつであれ決してはぐくまなかった。彼はその進展をおさえ、ソ連社会にたいするその邪悪な影響を限定し、この官僚制の消滅を促進する過程を開始させようと試みたのである。もしつけくわえるとすれば、彼はこの危険の重大さにレーニンよりもゆっくりと対応した。ただし彼は、レーニンよりも早く官僚制の権力の経済的根源を、その社会的、政治的、文化的根源に加えて把握していたが(注20)だが、レーニンもトロツキーも、一社会階層としての官僚制の性格と、その成長をおきえなければならない絶対的必要性について理解していた。オールド・ボリシェヴィキの大多数は、この問題をまったく理解しなかった。それが彼ら自身の破滅のイデオロギー的根源だったのである。
 クラッソはただ、彼らの無理解をまねているにすぎない。党がそれ自体で官僚制を中和させられるという考えは、すべてオールド・ボリシェヴィキに共通していた幻想である。なぜなら、プロレタリアートがますます消極的になってゆく状況の下では、党はそれ自体不可避的に官僚化し、このため官僚的権力の障害にではなく、その道具となったからである。


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