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一国社会主義

 われわれは「トロツキー:一つの反批判」のなかで、「一国社会主義」と「永久革命」をめぐるクラッソの論議のどこが不適切であり、今日この日にいたるまで、いかにクラッソがこの討論が結局何であるかを理解していないかについて、詳しく説明した。すなわち、論議の核心は、階級なき社会建設の過程の終極的な、最終的な結論なのであり、この過程の初めなどではないのである。
 クラッソは、われわれの分析に反論しようとはしなかった。彼はただ、永久革命の概念をわれわれが「陳腐化」しているとして、少々あざけっただけである。彼は、トロツキーの「永久革命論」(一九二八年)から二つの文章を引用して、トロツキーが「ソ連邦の経済的ないし軍事的破局」を恐れていたと主張する(注21)この種の論議を、あまり真面目に受け取ることはできない。
 クラッソは、永久革命が「蜂起が迫っており、いたるところにある」とする信念だという、彼の途方もない解釈を正当化するために、一つとしてトロツキーの文章を引いていない。反対にわれわれは、トロツキーがクラッソのような小児的解釈を明確に拒否している多くの文章を引用することができる。例えば、次の文章は、四〇年前に書かれたブハーリンへの回答であるが、これはクラッソにたいする予期された回答のようにも読める。
 当然、私は決して「永続」革命論のブハーリン主義的説明には加担しなかった。それによれば、革命の過程において、何らの中断も、停滞期も、退却も、過渡的要求等も全然考えられないとするものであった。反対に、私は、十月革命の初期からこのような永続革命論のカリカチュアに反対して闘ったものである。
 レーニンが語ったように、私がソヴィエト・ロシアと帝国主義の世界の両立し難いことについて語った時、私は大きな戦略的曲線を考えていたのであって、それの戦術的屈曲は念頭に置いていなかった。その反対に、ブハーリンは、自からを正反対なものに変転する前には、常に連続革命のマルクス主義的概念のスコラ哲学的カリカチュアを説いていたのである。ブハーリンは、彼の「左翼共産主義」(注20)時代には、革命は退却することも、敵と一時的に妥協することも許さないと考えていた。私の立場はブハーリンと共通するものは何もなかったところの、かのブレスト=リトフスク講和の問題のずっと後に至って、ブハーリンは、当時のコミンテルンの全極左分子と共に、ヨーロッパのプロレタリアートに「活を入れ」なければ、また常に新しい革命的爆発が起らなければ、ソヴィエト権力は必ず崩壊をけって脅かされるという意見で、ドイツの一九二一年三月事件(注21)の路線を擁護した。真実の危険が現にソヴィエト権力を脅しているということは感知してはいたが、私は第三回大会でレーニンと肩をならべて、この永続革命のマルクス的概念の一揆主義的戯文に対して非妥協的な闘争を行なうことを妨げなかったのである。第三回大会中にわれわれは気短かな左翼主義者達に何十回となく言明したものである。「われわれを救おうと余り焦り過ぎるな。それでは君達は自分自身を滅ぼすだけで、ひいてはわれわれも共倒れになってしまうだろう。権力のための闘争に至るためにまず大衆を獲得する闘争の道を系統的に追って行き給え。われわれは諸君の勝利を必要とする、しかし君達に不利な条件の下で闘ってもらいたくはないのだ。われわれはネップの助けによってソヴィエト共和国で何んとかやってゆけるし、それで前進してゆけるだろう。諸君がその力を結集し、有利な情勢を利するなら、まさに適切な時にわれわれの援助にかけつける時間はまだ十分あるだろう。」(注22)
 この文章は一九二八年六月に書かれた。「永久革命論」というトロツキーのパンフレットが完成したのは、一九二八年一〇月である。したがって、両方の文書はほぼ同時代のものである。しかしながら、クラッソはこのように明確な文書上の証拠を前にして、トロツキーの永久革命が「ブハーリンのカリカチュア」と同一、すなわちそれはトロツキーが(あれほど明確かつきっぱりと)完全に拒否しているあらゆる所での同時かつ連続的な蜂起の概念だという彼の解釈を維持しているのである。
 同じことは、クラッソによるトロツキーの「一国社会主義論」拒否の解釈にもいうことができる。彼はそれを、もし世界革命が急速に勝利しないならば、「世界市場」か、あるいは外国の介入によってソ連政権が必然的に崩壊することを意味するという解釈を、絶望的に掲げようとする。ここでもまた「永久革命論」の序文から、トロツキー自身に語らせよう。
 『孤立した労働者国家の現実主義的綱領は、世界経済からの「独立」を達成するという目的を自ら設定するわけにはゆかない。「最短期間」に民族社会主義社会を建設するという目的にいたっては、なおのことである。問題は抽象的な最大限度を達成することではなくて、国内的、世界的経済諸条件から生じる情況の下でもっとも有利なテンポを達成し、プロレタリアートの地位を強化し、来たるべき国際社会主義社会の民族的要素を準備し、同時に、しかも何よりもまず、プロレタリアートの生活水準を組織的に向上させ、農村の被搾取大衆との団結を強化することである。この展望は、全準備期間を通じて、すなわち、先進諸国の勝利的革命がソヴィエト連邦を現在の孤立状態から解放するまで有効である。(注23)
 ここには歴史的悲観主義のかけらもないし、トロツキーの分派的反対者たちが悪意をもって彼に投げつけ、クラッソが無責任に繰返しているソ連邦の「不可避的崩壊」などという概念の根は、どこにもありはしない。ここでは、階級戦争には、民族的かつ国際的にただ一時の休戦しかありえず、永久の「平和共存」はないこと、世界プロレタリアートの根本任務は、ソ同盟にたいする国際侵略戦争を「阻止」することにとどまるものではなく、革命の国際的な拡大に向けて努力しなければならないこと、いいかえれば、長期的にみるとき、国際労働者階級のいかなる深刻な敗北――ヒットラーの政権掌握のような――も、こうした国際侵略戦線をますます不可避にするのだという事実が、理解されている。
 ここに、「一国で社会主義建設を最終的に達成する理論」や世界革命にたいするソヴィエト官僚の基本的に保守的な態度との真の連関があるのである。「一国社会主義」の理論が意味するのは、「砦の防衛」を世界革命運動の主任務と考え、この「防衛」は、ソヴィエト外交の一時的曲折に各国共産党の政策が従属することを意味すると考える、一つの戦略的概念である。一九二五―二六年の英露委員会から今日の「平和共存」政策にいたる、「第三期」、「人民戦線主義」への転換、ヒットラー・スターリン協定の幕合いにおける突然の転換、ヒットラーがソ連邦を攻撃したあとの新しい転換、「ブラウダー主義」の幕合い、冷戦への転換とジュダーノフ時代、コミンフォルムとその後の解散といった悲しい物語りは、あまりにも良く知られているため詳しく暴露することも批判することも必要ではない。
 トロツキーが主張し、またわれわれが主張しているのは、ソヴィエト外交のそのときどきの必要に各国共産党の政策を従属させることは、ソ連邦の利害と世界革命の利害の両方にとって有害だということである。蒋介石が一九二七年に中国労働者運動の破壊を許され、ヒットラーがドイツで政権につき、一九三六年六月のフランスのゼネストがいくつかの経済的改革のみで終結し(そして結局、二年もたたないうちに保守反動派が政権に返り咲いた)、フランコがスペイン革命を粉砕し、労動者階級運動がヨーロッパのほぼあらゆる所で地下に追いやられたのは、決してソ連邦の軍事的擁護の利益にかなったものではなかった。
 クラッソは次のように述べる、「スターリンの政策は、世界革命運動の生殺権をもった復しゅうの女神ではなかった。それは、ソヴィエト国家の注意深く保守的な動きだったのである」(注24)だが彼は、ほんの数ページ前に自分がこの国家の性格について書いたことを突然忘れている。この一貫した「保守主義」は、ロシア労働者階級の利益を反映しているのか。もしそうでなければ、これは、この労働者国家の「官僚主義的歪み」が一九二〇―二一年のレーニンによるもっとも粗野な恐れの次元をも通り越してしまった事実を反映するのではないだろうか。クラッソがただ個人的心理――スターリンの「注意深さと保守主義」――しか見ないところに、マルクス主義者は、当然社会的説明を求めるのである。


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