コミンテルンと世界革命
クラッソは、スターリンとソヴィエト官僚が一九二三―四三年の世界革命の一連の重大な敗北の責任を大きく負っているというわれわれの主張に、強く異議を申したてる。彼は物事を自分にとって簡単にするため、初めに自分が立てたワラ人形を自分で倒してみせる。「クレムリンは、社会的不満のあらゆる弾圧、反革命のあらゆる勝利の責任者になった。これは、世界史の合理的な解釈とまったく一致しない考え方である」(注25)
われわれは、このような根本的な主張をしたわけではまったくない。トロツキーもそうである。相互のからみあいが世界史の過程を決定するすべての要素を、ただ一つの孤立したもの、そしてただ一人の個人の役割に還元してしまうのは、俗流マルクス主義とも正統マルクス主義とも反する(なぜトロツキーが「社会学主義」とこの両方で非難されるのかは、クラッソが説明しようとしない矛盾である)われわれが主張しているのは、そしてトロツキーと、それ以前にはレーニンが主張していたのは、革命的情勢が存在するときに、党および党指導部の役割は決定的になるということである。ロシアでは、確実にこうであった。さもなければ、クラッソは「政治的諸機構の自立的役割」を過少評価するあまりに、十月革命はボリシェヴィキ党の正しい政策なしに勝利することができたとまで考えるのだろうか。
たしかに、一九二三―四三年の国際階級闘争においては、革命的情勢が明らかに出現しなかった数多くの例がみい出される。たとえそこにおいても、革命党が正しい政策をもつならば、前革命的情勢が革命的情勢に転化するのを助けることによって、その前提条件が成熟する過程を促進することができただろう。だが、ここでは革命的情勢が存在するか、それとも短期的展望でそれを公然化できたようなケースを検討してみよう。われわれは、クラッソがあまりにも気軽に落している二つの例をとりあげることにしよう。
第一は、一九三六年七月のスペイン革命である。クラッソが数冊の本を読むだけでなく、特にこの当時の新聞を研究してみるならば、一九三六年七月ファシスト将軍たちの軍事蜂起に対抗し、スペインのほとんどあらゆる主要都市やすべての工業中心地で、数日のうちに労働者が立ちあがり、ほとんど素手でこの陰謀を粉砕したことがわかるだろう。彼らは兵営や工場を占拠し、自らを武装し、独自の社会主義的基礎の上で、工業生産――そして大農場では農業生産も――を開始した。
クラッソにとって、問題は次のような「現実主義的」きまり文句に還元される、「だが、彼ら(スペイン共産党)は当時共和派のほんの少数派にすぎず、いったん軍事的力関係が一九三六年に結晶化するや、戦争に勝つチャンスはほとんどなかった」(注26)彼は、まず証明しなければならないことをすでに既定のものとしている点について、理解すらしていない。すなわち、軍事的力関係の「安定化」ないし「結晶化」が何か既定のものとされ(一体何によってそうなったのか)、それが社会・政治勢力の「結晶化」とは別個のものとされ(例えば、とりわけラジカルな農業革命を一貫して宣伝することや、スペイン領モロッコの即時独立宣言などは、フランコの軍隊内に強力な分解を作り出したであろう)、またそれがいわゆる人民戦線政府のとった政治路線とは切り離され、政府内のスターリニズムの地位が、ただ二、三のスターリニスト閣僚だけに依存し、ソ連邦からの圧力や、ソ連が提供した武器、この武器供給からくる巨大な脅迫力(注27)には関係ないとする点などである。
もちろん、抽象的には、もしスペイン労働者階級が当時、モスクワから独立して革命党を建設できるまでの意識水準に実際到達していたなら、モスクワの役割は、革命の勝利を阻げることができなかっただろう、と主張できるかもしれない。キューバの例が、これである。だがこれは、時間を無視した抽象的推定である。スペイン革命は、十月革命の勝利から二〇年もしないうちに始まった。労働者階級が、少数の前衛をのぞいて、スターリン政府を共産主義インターナショナルを創設し世界革命を前進させようとしたソヴィエト政府の継承者とみたとしても、何ら不思議はない。したがって、彼らは、もはや遅すぎることになるまで、彼らの革命を指導する別の党を建設しなければならないとは気づかなかったのである。
一方、スターリンはソ連邦と共産主義インターナショナルにたいするこの信頼と忠誠を帝国主義フランスとの軍事同盟の強化に悪用した。みてくれたまえ、シティーやパリ・ブルス(仏のウォール街)の紳士諸君、と彼はいう、わたしはスペインで社会主義革命をやろうとは思っていない、わたしは諸君の忠実な仲間なんだ。これが彼のスペイン政策の核心だった。この結果、共和派内部のプチ・ブルジョア諸勢力は、反革命的仕事をするにあたって、共産党に大きく依存した。彼らはこの反革命的仕事を偉大なロシア革命の旗の下に実行したのであるから、精力的であり、また労働者をよりうまく分解させることができた。共和派が一九三六年七月に革命的成果の一掃を始めたとき、消耗と敗北は避けられなくなった。これがスペインの社会・政治勢力の真の弁証法であり、ここでスターリンは決定的な役割を果したのである。(注28)
第二の例は、フランスとイタリアの共産党の戦後の政策である。これは、レジスタンス中に形成された労働者の武装組織を一掃し、ブルジョア国家とブルジョア経済を再建する連立政府に入閣し、植民地における反革命的侵略や戦争を隠蔽しさえする政策であった(一九四五年五月のアルジェリアにおける巨大な流血やベトナム侵略戦争の開始は、フランス共産党が入閣している間に行なわれた)。クラッソにとってこの問題はきわめて単純である。フランスやイタリーにおいて、権力奪取のための武装闘争が成功するかどうかは、きわめて問題だったというのである。(注29)ここでもまた、彼は先決問題要求の論法を用いている。われわれは即時の武装権力闘争について語ったわけではない。われわれは、社会主義革命の勝利に向けた戦略について、語っているのだ。たしかに、一九四八年七月一日、イタリア労働者がたちあがって全土のきわめて多くの戦略拠点を占拠しようとしたとき、イタリア革命を粉砕するのは「アメリカ軍」(何人がまだ駐留していただろうか)にとって容易なことではなかっただろう。もし、イタリア共産党が一九四四年以来革命に向けた路線をとっていたならば、この蜂起は実際よりもはるかに強力なものとなっていたことだろう。一九四四―四八年のフランス、イタリア両共産党の改良主義路線は両国のその後の力関係を形成するにあたって決して無視できる要素ではない。
ドイツ革命が一九一九―二〇年に失敗したとき、あらゆる種類の「解釈」が行なわれたし、その一つ一つがほんの少しは真理を含んでいた。一部のものは、プロシャでは奴隷制がやっと一九世紀初めに廃止されたという事実さえもち出した(ロシアではそれが半世紀以上もあとで廃止されたが、革命の勝利をさまたげることはなかった。これは都合よく忘れられている)
レーニンは、これらすべてのいいわけを切り捨てて、真正面から責任を社会民主主義者に帰した。これによって彼は、「理想主義」を示したわけでも「社会学一元論」を示したわけでもない。彼はただ、初歩的な革命の常識を示しただけである。つまり、何十年も社会主義を掲げてきた党に労働者階級がしたがってきた国で革命的情勢が出現したときには、明らかにその党の政策は革命の結果に重大な影響を与えるのである。流れの途中で舵手を変えるのは、非常にむつかしい。もし社会民主主義者の舵手が、一九一九―二一年ドイツの敗北の重大な責任を負っているとすれば、スターリニストの舵手たちは、三〇年代と四〇年代の一連の敗北に同様の責任を負っているのである。
クラッソは、トロツキーが階級闘争の民族的枠組を過少評価したと主張する。皮肉なことに、実際にはこれはまさにスターリンが、ソ連官僚外交の利益のために行なったことなのである。すべての国で、共産党は、ソ連官僚のそのときどきの動きに厳しく支配されて、機械的に同じ戦術をとらなければならなかった(一九四二年七月の民族的蜂起にたいするイタリア共産党の反対がそれである)他方トロツキーは、コミンテルンとソヴィエト国家が各国で発展した革命的階級闘争の要請に介入するべきではなく、これら諸国で共産党が被抑圧大衆の圧倒的多数を獲得し、ついに権力を獲得するよう、各国共産党を援助するべきだと訴えた。長期的にはこの戦略がもっとも有効なソ連邦の防衛であるとともに、これは各国の各時点における社会・政治的力関係の詳細かつ客観的な分析を要求する。トロツキーを、いつもどこにおいても「蜂起」をやろうとした男として描くのは、典型的なスターリニストの中傷のくり返しである。
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