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経験主義とマルクス主義歴史学――第二のアプローチ

 クラッソと対立するわれわれの「トロツキーのマルクス主義」の定義は、二つの基本的な軸から生じる。十月革命がきりひらいた時代の歴史的性格の評価と、一九二三年以降の世界共産主義運動における論争や闘争の社会的背景の評価である。われわれはこの時代を世界革命の時代と定義し(これはもちろん反革命への多くの逆戻りを意味するが)、この闘争を、ソヴィエト官僚と労働者階級の間の根本的闘争と定義する。この解釈の枠内で、トロツキーは、ソヴィエト国家と共産主義インターナショナルの官僚的堕落と闘うことによって、ソヴィエト国家と国際プロレタリアートの歴史的利益を代表した。
 それでは、この解釈とクラッソによる自分の立場の要約とをくらべてみよう。
 政治機構にたいするトロツキーの無関心さのため、彼は十月革命前にレーニンから分かれ、ボリシェヴィキ党から離れた。そして、彼の以前の理論と実践が、二〇年代に彼を党内で孤立させ、最終的に彼の敗北を保証した。三〇年代には、彼の抽象的な国際主義のため、彼は世界革命連動の各部隊の主な発展により支配された複雑な国際的力学を理解できなかった(注33)
 この判断は、マルクス主義の二つの根本的な修正を意味している。数十万の人々を巻きこみ、国際階級闘争にとってもっとも広範囲な結果をもたらした歴史的政治闘争が、一人の人間の幼い誤ちで説明されている。官僚制にたいする何千万もの肉体、精神労働者の不満、抗議、そして潜在的な反乱を含んだはるかに巨大な規模の対決が、まじめごかしたきまり文句「世界革命運動の各部隊の主な発展により支配された複雑な国際的力学」で片づけられている。シベリアの強制労働キャンプの生き残りにたいして――一九五六年のハンガリー労働者や一九六八年のチェコ労働者はいわないとしても――彼らを踏みつけたのが自分の権力を維持しようとする保守的官僚ではなく、「複雑な国際的力学」だったと説明するのは、クラッソにとっても大変むずかしいに違いない。
 トロツキーのマルクス主義に関する彼の解釈を、社会努力やその闘争の生きた弁証法から切り離そうとするクラッソの試みは、マルクス主義では何の意味も持たない。それは歴史的流れの評価に、粗野な経験主義をもちこむ。それは、第一次世界大戦がひらいた世界史の時代の、グローバルな解釈を不可能にする。それは必然的に、レーニン主義が国際的分野でよってたつもの――特に第三インターナショナルを創設するときの立場――を完全に歪め、修正することにつながる。そして、マルクス主義歴史学を試みると自称する者にとって、これは最終的な失敗――個人およびグループの主観的な自己合理化とそれらの歴史における客観的役割の評価との混乱――をもたらすのである。
 クラッソは書く、「トロツキーは、彼がかつてレーニン主義者でなかったこと、軍事優先主義、戦時共産主義当時の権威主義的役割、労働組合論争における命令主義のため、他のボリシェヴィキ指導者からは、仲間ではなく、第一の脅威だとみられていた」(注34) いいかえれば、トロツキーは、若い時代の誤り(戦時共産主義時代の権威主義とか、労働組合論争での命令主義とかは、ほとんど神話である)のため、古参党員を自分の回りに結集できなかったというのである。
 たしかにこれが、ジノヴィエフやブハーリンがトロツキーに反対してスターリンについたとき、自分を正当化した理由の一部であったことを、われわれは否定しない。だがクラッソといえども、政治的行為の社会的勤因を、歴史のドラマの俳優の頭でこれが個人的にどう合理化されているかをいっしょにするほど、ナイーブではありえないだろう。
 マルクスはずっと昔に、人を判断するときにはその人間が言うことではなく、やることで判断しろとわれわれに教えた。一九一八年の一二月に、ドイツの個人的には正直な社会民主主義者はこう説明できただろう。わたしが自分の国でソ連に反対したのは、「白色テロ」―レーニンの右派メンシェヴィキ弾圧―に反撥したからであり、民主的自由を守りたかったからであり、ひょっとして革命が反革命を生み出すかもしれないと恐れたからであり、「客観的条件が成熟していない」と確信していたからである云々。だが、マルクス主義者ならば(レーニン主義者はいうに及ばず)、こうした合理化によって実際彼が「スパルタクス」に反対してライヒスヴェールと手を組むようになり、このため、ヒットラーが権力を握り、まさに同じ社会民主主義者が共産主義者と肩を並べて収容所に入れられる歴史的プロセスが始まったなどと信ずることはできない。
 一九一九年のドイツの社会民主主義者の態度が客観的に意味するのは、プロレタリア革命に反対して、特権的労働者官僚がブルジョア反革命と連合したということである。この連合の基本的な理論上の意味はブルジョア民主主義に対立するプロレタリア民主主義の問題を理解できなかったということである。古参党員がトロツキーに反対してスターリンと手を組んだのは、彼らがソヴィエト・プロレタリアートに反対して、ソヴィエト官僚制と連合したためである。この連合の基本的な理論上の意味は、彼らが官僚的独裁対ソヴィエト民主主義の問題を理解できず、永久革命論を理解できなかったところにある。他のすべては自己合理化であり、ある個人が特定の社会的要請をなぜ、どうやって表現したかというメカニズムを理解する上では重要だが、彼ら自身が結びついた社会勢力を評価する上では、何ら決定的ではない。
 クラッソがトロツキーのマルクス主義を包括的に解釈できないのは、彼が歴史におけるトロツキーの役割を、あらかじめ考えられたいくつかの抽象的「罪」で説明しようとするからである。彼は、フェルディナンド・ラサールに関するマルクスの意見を考えてみる必要がある。「彼(ラサール)は、弁証法的に提出できるところまで、批判によって一科学を到達させることと、抽象的なレディ・メードの論理体系を利用して、ただこのような体系を暗示するだけとはまったく異なることを、身をもって学ぶだろう」(注35)これは、ロシア革命の運命に関するマルクス主義的解釈を書き直そうとするクラッソの認められない試みにも、同様にあてはまるのである。


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