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国際革命文庫 13

国際革命文庫編集委員会 訳

2a

電子化:TAMO2

「マルクス経済学入門」
エルネスト・マンデル 著


第二章 資本と資本主義

   (1) 前資本主義社会における資本

 生産が生産者による自己消費のための使用価値に限定されていた自然経済に基礎をおく原始社会と資本主義社会とのあいだには、人類史の長い時代がよこたわっている。この時代は、資本主義を画する境界に到達する以前に、その発展を停止してしまったすべての人類文化を基本的にふくんでいる。マルクス主義はそれらを、小商品生産が支配的であった社会として定義している。この種の社会では、商品、つまり生産者自身の直接消費のためではなく市場における交換を目的とした製品の生産がすでにありふれたものになっているが、この商品生産が資本主義社会の場合のようには、いまだ全面的になっていないのである。
 小商品生産を基礎とする社会では、二種類の経済活動が行われる。市場に自らの生産物を持ってくる農民や職人は、かれら自身がその使用価値を利用できない生産物を売ろうと望んでいるのである。これはその使用価値が必要であると同時にかれら自身が所有している生産物よりもより重要であると見なされる他の財貨をうるための交換手段としての貨幣を獲得するためにそうするのである。
 農民は小麦を市場へ持って行き、貨幣とひきかえにそれを売る。この金でかれは、例えば布を買う。職人は市場へ自分の布を持って行き、貨幣とひきかえにそれを売る。この金でかれは例えば小麦を買う。
 ここでわれわれが眼にしているのは、購買のための販売という活動である。商品―貨幣―商品(C―M―C;TAMO2註:マルクスの書物、例えば資本論ではこれはW―G―Wと表される。マルクス主義に一定以上なじんだ人は注意のこと。)これは、この式における両極の価値が明らかに全く同じである、という本質的性格をもっている。
 しかし小商品生産内では、職人と小農民とならんで、もうひとりの人物が登場する。かれはもうひとつ別の経済活動を行う。買うために売るかわりに、かれは売るために買うのである。この種の人物はなんの商品ももたずに市場へ行く。かれは貨幣の所有者である。貨幣は売ることはできないが、買うためには使用できる。そしてかれがするのは次のことである。売るために、つまり、再び売るために買うのである。(M―C―M’)
 この二つのタイプの活動のあいだには、根本的な相違が存在している。第二の活動は、もしそれが完結したときに、最初もっていたのとまったく同じ価値であったとすればなんの意味ももたないのである。その商品にたいして支払ったと同じ額でそれを売るような人は誰もいないであろう。「売るために買う」活動は、販売が追加の価値、つまり剰余価値をもたらす場合にのみ意味があるのである。われわれはその定義としてここで次のように述べる。M’はMより大きく、M+mからなっている。mは剰余価値であり、Mの価値の増加分である。
 われわれは剰余価値がいま提示した例のように商品流通の過程で生じようと、資本主義体制のように生産の中で生じようと、いづれにしても資本を剰余価値によって増殖されていく価値として定義するのである。したがって、資本は剰余価値によって増加するすべての価値である。だからそれは、資本主義社会だけではなく、小商品生産を基礎にする社会でも存在するのである。この理由によって、資本の寿命と資本主義生産様式・つまり資本主義社会の寿命とを明確に区別することが必要なのである。資本の歴史は資本主義的生産様式の歴史よりもはるかに古いのである。前者はおそらく約三千年前にさかのぼることができるが、後者はせいぜい二百年の歴史を持っているにすぎないのである。
 前資本主義社会において、資本はどのような形態をとるのか? それは基本的に高利貸資本や商人あるいは商業資本である。前資本主義社会から資本主義社会への移行は、資本の生産の分野への浸透によって特徴づけられる。資本主義的生産様式は、資本が非資本主義的生産形態や小商品生産に対する仲介者・収奪者にすぎなかった役割の限界を越えた最初の生産様式・最初の社会的組織形態である。資本主義的生産様式においては、資本は生産手段を自らのものにして、生産それ自身に直接浸透する。

   (2) 資本主義的生産様式の起源

 資本主義的生産様式の起源は何か? 過去二百年以上にわたって発展してきた資本主義社会の起源は何か?
 その起源の第一は、生産者の生産手段からの分離にある。次いで、これらの生産手段を唯一の社会階級ブルジョアジーが自らの手に独占する、という事態が確立されることが必要である。そして最後の条件は、生産手段から引き離され、そのために生産手段を独占している階級に自己の労働力を売り渡す以外にまったく生存手段をもたないもうひとつの階級が出現するということである。
 では資本主義的生産様式のこれらの起源のひとつひとつを考察してみよう。これらはまた、同時に資本主義体制の根本的特徴でもあるのである。

 第一の特徴は生産手段からの生産者の分離である。これは資本主義制度の存在の根本的条件であるが、これは同時に、もっとも不十分にしか理解されていない点でもあるのである。農奴制によって特徴づけられる中世初期からとったので、一見逆説的に思われるかも知れないが、ひとつの例をあげてみよう。
 生産者たる農民大衆が、土地にしはりつけられた農奴であることは、われわれの知っているところである。しかし、われわれが農奴は土地にしばりつけられているというとき、土地もまた農奴に「しばりつけられ」ていることを意味しているのである。つまり、かれはつねに、耕作するに十分な土地という自らのの必要を満たす基礎を持っていたのであった。そのことによって、個々の農奴はたとえもっとも原始的な用具で労働していたとしても家族の必要をまかなうことができた。ここでは、自己の労働力を売らなければ餓死する運命にある人々は存在しないのである。このような社会では人手を雇い入れたり、自己の労働力を資本家に売ろうとする経済的強制力は生れてこないのである。
 資本主義体制がこのような社会の中では発展することができないということをのべることによって、別の観点からこのことを説明することができる。この普遍的真理はまた、十九世紀から二十世紀はじめにかけて、植民地主義者がアフリカ諸国に資本主義を導入しようとしたやり方の中で、近代的な形で応用されたのであった。
 すべてのアフリカ諸国の住民の生活条件を見てみよう。かれらはその地域の性格に依存した多かれ少なかれ原始的な基礎の上にたつ家畜の保持者や土地の耕作者であったが、これらはつねに土地の相対的な豊富さという条件のもとでなされていたのである。アフリカでは土地の不足が存在しないばかりではなく、利用できる土地に対する人口の割合という点からみて、事実上土地の予備は無限であると言ってもよいのである。もちろん、これらの土地からの産出高は、農器具が原始的なためにたいしたことはないし、生活水準なども非常に低いが、ここにはこれらの人々を白人植民地主義者の鉱山や農場および工場で働かせる物質的強制力は存在しないことは事実である。赤道アフリカやブラックアフリカにおける土地財産の支配形態の変更なしには、資本主義的生産様式の導入の可能性は存在しなかった。そのために、非経済的性格の強制が利用されねばならなかった。黒人大衆の日常的生存手段からかれらを全面的かつ無慈悲に引き離すことが必要であった。大部分の土地が一夜にして植民地化された国家の所有する国有化や、資本主義企業に属する私有財産に変えられてしまった。黒人の原住民は全住民の生存を維持するのに適さないある特定地域、あるいは指定地域(皮肉にもそう呼ばれた)に再移住させられた。そのうえに、もうひとつのテコとして人頭税―各住民ごとに課せられる貨幣による税が強制された。というのは、原始的農業はいかなる貨幣所得をも生み出さなかったからである。
 このような種々の超経済的手段によって、植民地主義者はアフリカ人民が自己の税の支払いのために貨幣をかせぎ、自己の生存のために必要なささやかな食糧の不足分を購入するために(かれらの自由にできる土地はもはや生計のためには十分でないからである)、おそらく一年のうちで二ヶ月もしくは三ヶ月間働かなければならないという状況を作り出したのである。
 南アフリカやローデシアそして以前のベルギー領コンゴの一部では、資本主義的生産様式が大規模に導入された。これらの国々ではこういった方法が適用され、黒人人口の大部分が伝統的生活と労働の方式から、引き抜かれ、駆逐され、追放されてしまった。
 ところでこの運動にともなって生れたイデオロギー的偽善についてのべてみよう。それは、黒人が自らの土地で伝統的な労働を行っていた時にくらべて、十倍もの機会を鉱山や工場で作ってやっているのに、かれらは働きたがらないからなまけものであるという資本主義企業の不満である。これとおなじ不満の声が五十年から七十年ほど前に、インドや中国およびアラブの労働者について聞かれたのである。さらに、これらはまた十七世紀や十八世紀にヨーロッパの労働者(フランス、ベルギー、イギリス、ドイツ)にたいしても投げかけられたのである。(むしろこのことは人類を構成する全人種が基本的に同一であることを証明する立派な証拠なのである)。それは次のような動かぬ事実の作用をしめすものでしかないのである。
 つまり、一般にどんな人間でも、その生理的神経的持続力を考えれば、工場や製造所や鉱山で、一日に八時や九時間、十時間さらには十二時間も閉じこめられるのを好まないということである。実際、それになれていない場合には、この種の囚人的労働にひとを従事させるのに、非常に異常で例外的な強制と圧力を必要とするのである。
 資本主義的生産様式の第二の起源と特徴は唯一の社会階級―ブルジョアジーの手中に、独占的に生産手段が集中されるということである。この集中は生産手段の絶えざる変革がなければ不可能である。生産手段は次第により複雑により高価になる(少なくとも大企業を新たにおこすのに必要な最小限の生産手段―最初の資本投下―に関する限りは)。
 中世のギルドの職種においては、生産手段は、非常に永続的なものであった。織機は父から息子へ、世代から世代へと受け継がれた。これらの織機の価値は相対的に小さなものであった。つまり、個々の織人は一定年数の労働をしたのちには、これらの織機に相当する価値を取り戻すことを期待することができた。産業革命の到来とともにこれを独占する可能性がうちたてられ、これはより複雑な機械類が不断に発展させられ、新企業設立のための資本額がより大きくなるという状況を作り出したのであった。
 この時代以降、生産手段への接近は、圧倒的多数の賃金生活者―給料生活者の個々人には不可能となり、その所有者はひとつの社会階級の手中の独占になったと言えるのである。この階級は資本と資本の予備を所有しており、すでに一定の資本を所有しているという事実によって追加的資本をえることができるのでである。さらに、これと同じ事実によって、資本を持たない階級は、永久に生産手段を奪われたままの状態に置かれ、したがって他人のための労働を絶えず強制される条件下に置かれるという運命を宣告されるのである。
 資本主義の第三の起源と特徴は自己の手以外の何ものをも持たず、労働力を売る以外の何の生存手段を持たないが、同時にこの労働力を自由に売り、これを生産手段の資本主義的所有者に対して売るひとつの社会階級の発生がこれである。これが近代プロレタリアートの誕生である。
 ここには、たがいに結合しあう三つの側面が存在することをわれわれは見ておかねばならない。プロレタートは自由な労働者である。かれらは中世の農奴と比べると一歩前進であると同時に、一歩後退でもあるという両方の側面をもっている。農奴が自由でなく、自由に移住できなかった(それでも農奴自身は、奴隷と比べれば一歩前進であった)という点で、それは、一歩前進である。だが、農奴と比較してプロレタリアートは、生産手段への接近からいっさい「解放され」、それは生産手段を奪われているという点で一歩後退なのである。

   (3) 近代プロレタリアートの起源と定義

 近代プロレタリアートの直接的祖先のうちに、われわれは中世のその日暮しをしていた人口部分を含めなければならない。かれらはもはや土地とは結びついていないし、自由都市の業者、同業組合、ギルドにも組織されていないし、したがって流浪し根を持たない住民であり、日ごとあるいは時間ごとにさえ労働力をすでに売りはじめていたのであった。中世において十三世紀、十四世紀、十五世紀にすでに「労働市場」が発生していたフローレンスやベニスあるいはブルージュといったようなかなり多くの都市が存在していた。これらの都市にはいかなるクラフトにも属さず、職人でもない、生産手段をもたない貧民があつまって、一時間や半日あるいは一日などの単位で、商人や実業家に雇用されるのを待っている場所が存在していた。
 時代的に現代により近い近代プロレタリアートの第二の起源は、封建的従者の解体と呼ばれてきたもののなかに存在している。したがって、これは十三世紀から十四世紀の間にはじまり十八世紀末のフランスのブルジョア革命で終結した封建貴族の長期にわたって徐々に進行した衰退と一致している。中世のはじめの頃には、五〜六十から百以上の世帯が、封建領主と直接つながって生活していた。これらの従者の数はとりわけ十六世紀の一世紀間に減少しはじめた。この世紀は急激な物価騰貴をその特徴としていたが、この物価上昇の結果、定額の貨幣所得をもらっていたこれらの社会階級は非常な窮乏化にみまわれた。西ヨーロッパの封建領主もまたかれらの大部分が現物地代から貨幣地代にその地代を転換させていたために大きな損害をこうむった。この窮乏化が作り出したひとつの結果は、封建従者の多くの部分が大量に暇を出されたということである。こうして数千人の従者、召使い、貴族に仕える聖職者が放浪者や乞食などになったのである。
 近代プロレタリアートの第三の起源は、農地を牧場に転換することによって、一部の農民が駆逐されることによって生み出された。偉大なイギリスのユートピア社会主義者、トーマス・モアは、十六世紀に既に「羊が人間を食っている」という見事な描写を行った。いいかえるならば、羊毛産業の発展の結果、耕地から羊に食べさせるための牧草地への転換がおこなられ、何千人という単位で次々とイギリス農民が土地から放逐され飢餓にさらされたのである。
 そしてもうひとつ、近代プロレタリアートの第四の起源が存在する。これは西ヨーロッパではむしろ小さな役割しか演じなかったが、中欧、東欧、アジア、ラテン・アメリカ、さらに北アフリカでは巨大な役割を果したのである。開発途上国に外部から近代的工業が流入していくにつれて、手工業と近代的工業との間の競争的闘争のなかで、従来の職人が没落していくことによってこのことが発生した。
 要するに、資本主義的生産様式とは生産手段があるひとつの社会階級の手に独占され、これらの生産手段から切り離された生産者が自由ではあるけれどもすべての生存手段を奪われ、その結果、生存していくために生産手段の所有者に自己の労働力を売らねばならない体制のことである。
 したがって、プロレタリアートを特徴づけているものは、それが高いか低いかという賃金の水準にあるのではなく、なによりも本人が生産手段から切り離されており、その所得が自己の経営を行っていくほどには十分ではないという事実にあるのである。
 プロレタリア化に向けた条件が消滅の過程に向っているのか、それとも拡大する過程にあるのかを知るためにわれわれが調べなければならないのは、労働者の平均賃金や事務職員の平均給料(これ自体もわれわれは調べなければならないが)というよりも、むしろ労働者の平均消費とくらべたその賃金、給料なのである。いいかえれば、われわれは貯蓄の可能性を検討し、それを独立した企業の設立に必要な資金と比較しなければならないのである。もし個々の労働者や事務職員が十年間働いたのちに、小さな工場や店を購入できるとすれば、プロレタリア化に向かう条件は後退しており、生産手段としての財産が拡散し、より多くの人々の間にそれが拡散しつつある社会をわれわれが経験していると言えるかも知れない。
 だが、もし肉体労働者やホワイトカラー労働者もしくは事務系労働者の圧倒的多数がかつてと同じように、労働生活を終えたあとにも依然として貧しい状態にとどまっているとするならば、つまり貯蓄がまったくないか、もしくは生産手段を購入するのに十分な資金をもてないままであるとするならば、プロレタリア化に向かう条件が縮少しつつあるどころか、逆に、より普遍的なものになり、五十年前にくらべて現在のほうがこの条件がはるかに支配的なものになってきている、と結論づけることができるであろう。例えば、アメリカ合衆国の社会構造についての統計を調べてみると、ここ六十年間以上にわたって、アメリカの人口のなかで、自己の資金で働き実業家として分類されるものもしくは、自家営業で働いているもののパーセンテージは五年単位で絶えず減少しており、他方、この同じ人口の中で、自己の労働力を売らざるをえない部分のパーセンテージは着実に上昇していることがわかるのである。
 さらに、個人の資産の内訳を検討すれば、労働者の圧倒的多数(その九五%が、そしてホワイトカラーのうちの八〇ないし八五%という全く圧倒的多数)が、ほんのわずかの小資本さえも貯えることができていないことに気づくのである。いいかえれば、これらのグループはかれらの全所得を支出しているのである。富は実際には人口のうちの非常に少数の部分に一方的に集中しているのである。大部分の資本主義諸国では、人口の一%〜二%、二・五%〜三・五%あるいは五%を占める部分が、国の私有財産の四〇%、五〇%、六〇%を所有しており、残りは人口の二〇%から二五%のひとびとの手に握られているのである。この富の所有者の第一カテゴリーは大ブルジョアジーであり、第二のカテゴリーは中産階級、プチブルジョアジーである。そしてこれらのカテゴリーに属さないすべての人々には、消費財(ときにはその家屋をふくむが)以外にはまったくなにも所有していないのである。財産税と相続税にかんする統計は、もし偽わりなく集計されたとすればこの問題をまったく鮮明に明らかにするだろう。
 ニューヨークの株式取引所にかんしてブルッキングズ研究所が行った具体的な研究によれば(マルクス主義によるいかなる推測よりももっと確かな資料といえる)、労働者のわずか一〜二%しか株式を所有していないし、この平均所有額も一〇〇〇ドルであるということが明らかになっている。
 こうして、実際に、全資本はブルジョアジーの手に握られている。これは資本主義体制の自己再生産的性格を明らかにするものである。つまり、資本を所有しているものはますます多くの資本を蓄積し続け、資本を所有していないものはそれをほとんど手にすることはできない、ということである。こうして、社会の分化は、持てる階級と自己の労働力を売らざるをえない階級との間に、永続的に深化していく。労働力の価格たる賃金は、事実上すべて消費されてしまい、他方、所有者階級は絶えず剰余価値によって資本を増大させていく。資本の形をとった社会の富の増大は、したがって、ただ一つの社会階級、すなわち資本家階級が独占する利潤という形をとって行われていくのである。


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