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国際革命文庫 13

国際革命文庫編集委員会 訳

2b

電子化:TAMO2

「マルクス経済学入門」
エルネスト・マンデル 著


第二章 資本と資本主義

   (4) 資本主義経済の根本的メカニズム

 それでは、この資本主義社会を機能させている基礎は何なのであろうか?
 ある日、プリント綿布の取引所にわれわれが出かけていったとしても、現時点でのフランスの実際の需要にたいして、プリント綿布の量が完全にそれに合致しているのか、少なすぎるのか、それとも多すぎるのか、ということはわからないのである。一定の期間の後にはじめて、それが明らかとなるのである。つまり、もし生産が過剰であれば、生産物の一部が売れないまま残り価格が下落する。反対に、もし不足であれば、価格が上昇することになる。価格のこの運動は過少か過剰かを告げ知らせる温度計なのである。こうして、一つの産業部門に支出された労働量が、社会的に必要な分量だけ投入されたか、それともその一部が浪費されたかどうかは、以上の事実の後になってはじめて明らかとなるのであるから、商品の正確な価値をわれわれが決定することができるのはこの事実の後なのである。したがって、この価値というものは、われわれが価値と呼ぶように決めてはいるが、抽象的なものである。しかし、それは価格がそれを軸にして変動している具体的な一定額なのである。
 これらの価格運動、したがってより長期的にはこれらの価値や労働生産性や生産そして全体的な経済生活の運動を作り出しているものは何なのか?
 大部分のアメリカ人を動かしているものは何か? 資本主義社会を動かしているのは何か? それは競争である。競争なしには資本主義社会は存在しない。競争が急激に少なくなった社会、あるいは完全に消滅してしまった社会は、資本を蓄積する主要な経済的動機、つまり、資本家が執行している経済活動の十分の九から十分の十の活動に対する経済的動機がもはや失われてしまうような社会であり、もはや資本主義社会ではなくなるのである。
 それでは競争の基礎は何であろうか? 二つの考えがこれの基礎となっているが、これらは必ずしも重なり合うものではない。第一は無限の市場、制限や明確な限界かない市場という考えである。もうひとつは、決定中枢(とりわけ投資と生産に関する)の多様性という考えである。
 もしある特定の産業部門での全生産がただ一つの資本主義企業の手中に集中されている場合でも、競争は依然としてなくならないのである。というのは、無限の市場がなお存在しており、できるだけ広くこの市場を占有しようとするこの産業部門と他の産業部門との間の競争を通じた闘争がなお存在するからである。さらに外国の競合企業がこの競争の場に介入し、この産業部門で新たな競争上の権利を与えるかも知れないという可能性が常に存在するのである。
 この反対のこともまた真実である。もし、われわれが全く完全に限定された市場を考え、この中で非常に多くの企業がこの限定された市場の一角を占有するために闘っているとすれば、その時は明らかに競争は存続するに違いない。
 したがって、これら二つの現象が同時に抑制されさえすれば、つまり、全商品に対してただひとつの生産者しか存在せず、市場が絶対的に安定し、凍結され拡大のいかなる能力も存在しないとすれば、競争は完全に消滅するであろう。
 小規模商品生産の時代と比較したとき、無限市場の発生は、その決定的に重要な意義を明らかにすることになる。中世のギルドは一般に都市とそのすぐ近郊に限定された市場にむけて、固定された特別の労働技術に応じて労働していた。
 限定された市場から無限市場への歴史上の移行は、十五世紀の古い都市の織物業者にかわって、農村で「新しい織物業者」が登場したことによって説明することができる。ギルドの制度を持たず、生産規制もない、したがっていかなる市場制限も行わないで、あらゆる地域に浸透して顧客を求め、生産中枢に近接している地域を越えて活動を行うだけでなく、はるか遠方の諸国にまで輸出取引を組織しようとさえする織物製造業者がいまや登場したのであった。いっぽう十六世紀の大規模な商業革命は、中世には奢侈品と見なされ人口の少数部分の購入領域にすぎなかった一連の製品の価格の相対的な低下をうながした。これらの製品は突然非常に安価になり、人口のかなりの部分にとって手の届く範囲のものになった。この傾向を最も顕著に示したのは砂糖である。砂糖は今日、日常的なありふれた製品となっており、当然にもフランスやヨーロッパのすべて労働者階級の家庭の中に見い出される。しかしながら、十五世紀には、まだそれは高価なぜいたく品であったのである。
 資本主義の擁護者は、つねにこの体制によってもたらされる利益として、価格の下落と一連の製品のための市場の拡大とを指摘する。この主張は真実である。これはマルクスが、「文明化の使者としての資本」と述べたひとつの側面なのである。たしかに、われわれは、ここで、弁証法的であると同時に具体的な次のような現象について言及しておかねばならない。つまり、資本主義生産が賃金と等価の商品の生産を絶えず急速に増大させていくことによって、労働力の価値が絶えず低下していく傾向を持ついっぽう、以前には人口のごく少数の部分に向けられていた一連の製品が大量消費財になったために、この一連の製品内での労働力の価値が占める割合が徐々に大きくなることによって労働力の価値が上昇する傾向があるということである。
 十六世紀から二〇世紀に到る全商業の歴史は、基本的に奢侈品の売買から大量消費財の売買への転換、つまり人口のうちのますます多くの部分に向けられた商品の売買への転換の歴史である。個々の大企業資本家にとって、全世界が現実的な潜在的市場とみなすことができるようになったのは、鉄道や高速度の航海手段ならびに電信などの発展のおかげなのである。
 無限市場の考えは、したがって単に地理的拡大を意味するばかりではなく、同時に経済的拡大、つまり、利用できる購買力をも意味しているのである。最近の例をとれば、過去十五年間の世界の資本主義生産における耐久消費財の生産のめざましい上昇は、資本主義市場のいかなる地理的拡大のせいでもないのである。反対に、一連の諸国が、この期間に市場を失ったので、それは資本主義市場の地理的減少をともなったのであった。フランス、イタリア、ドイツ、イギリス、日本、アメリカの企業の自動車が、ソ連、中国、北ベトナム、キューバ、北朝鮮、東欧諸国に輸出されたとしても、それはごくわずかであった。それでも、利用できる購買力のはるかに多くの部分(これは、絶対量としても増大したが)が、これらの耐久消費財を購入するのに使われたという事実のおかげでこの拡大が実現されたのであった。
 この拡大が先進的な工業諸国の永続的な農業危機を何らかの形でともない、一連の農産物の消費量が相対的にその上昇をストップさせたばかりでなく、例えば、パンやジャガイモさらにはリンゴやナシなどのような広く普及している果物の消費が絶対的にも減少しはじめてさえいる、という事実は偶然によるものではない。
 競争的条件下での無限市場にむけた生産は、生産の増大を結果として生み出していく。というのは生産の増大はコストの低下を可能にし、競争相手よりも安く売ることによって、競争相手をたたきだす手段を提供するからである。
 資本主義世界で大規模に生産された全商品の価値の長期的変化を見れば、その価値がかなり低下していることは当然にも明らかである。ドレス、ナイフ、靴、学童用ノートは五十年前、百年前にくらべて、こんにち労働時間に体現される価値はより低いのである。
 販売価格ではなく、真の生産価値が比較されねばならないことは明白である。この販売価格は膨大な流通費用や販売コストおよび水増しされた独占の超過利潤をも含んでいるのである。例としてガソリンを取り上げれば、とりわけ中東原油から作られたヨーロッパで流通しているガソリンについては、その生産コストは非常に低く、販売価格のわずか一〇%にすぎないのである。
 いづれにしても、価値のこの低下が実際に実現されているという事実は、疑いようもないのである。労働生産性の上昇は、商品がより少ない労働時間で生産されることを意味するので商品価値の低下をもたらすのである。資本主義がその市場を拡大し、競争者を打ち負かすために所有している現実の武器が、ここに存在している。
 生産コストを急激に削減し、同時にその生産を急速に増大させるために、資本家にはどのような実際的方法があるだろうか? それは機械化の推進、絶えず複雑化していく労働の機械的手段の開発(そして、この動力は、最初は、蒸気力から始まり、次いでガソリンやディーゼルになり、最後には電気になった)である。

   (5) 資本の有機的構成の高度化

 すべての資本主義生産は、C十V十S(TAMO2註:剰余価値、ここではSで表わされているものは、資本論ではMで表わされていることに注意)の公式によってその価値を示すことができる。すべての商品の価値は、二つの部分からなっている。第一の部分は、新たな生産物の中に維持されたあるいは移転させられた価値をあらわし、もうひとつの部分は、新たに生み出された価値を示している。労働力は二重の機能、二重の使用価値をもっている。ひとつは、労働用具、機械、建設の中に存在する価値を現に生産している生産物の中に統合することによって、これらの価値をすべて保持するという機能である。もうひとつは、新たな価値を作り出すという機能である。この新たに作り出された価値の一部分として剰余価値、利潤があるのである。この新たに生み出された価値のもう一方の部分は、労働者の方に行く部分であり、賃金と対価をなしているのである。そして、この剰余価値の部分は、いかなる対価もなしに、資本家によって私的に所有される。
 われわれは、賃金と等価になっている部分を可変資本と呼び、Vでそれを示す。なぜこれは資本なのだろうか? なぜなら、資本家が実際にこの価値を投下するからである。したがって、これは資本家の資本の一部を構成しており、いま問題にしている当該の労働者たちによって生産された商品の価値が実現される以前に支出されるのである。機械、建設、原料などに変えられ、生産によってその価値が増大せず単に維持されるだけの資本の部分を、われわれは不変資本と呼び、Cでそれを示す。資本家が労働力を購入するのに使う可変資本と呼ばれるXという資本の部分は、それが、剰余価値という手段によって、資本家にその資本を増大させる唯一の部分であるので、そう呼ばれるのである。
 この場合、生産性を上昇させ、機械的手段、機械にもとづく労働を増大させるように駆り立てる競争の経済的論理は何であろうか? この運動の論理は、要するに、資本主義体制の根本的傾向が、全資本に対するCの比重、つまり不変資本の比重を増大させる、ということである。S/(C+V)の割合の中で、Cが増大する趨勢にある、つまり、賃金ではなく、機械や原料からなる資本のこの部分が、機械化の進展と共に、そして競争が資本主義に労働生産性の上昇を強制していくかぎりにおいて、増大していく傾向にあるのである。
 われわれはこのS/(C+V)(TAMO2註:原文ママ。Sではなく、Cのはずだが?)の割合を資本の有機的構成と呼ぶ。したがってこれは不変資本と全資本との比率を意味している。そして、資本主義体制では、この有機的構成は上昇傾向をもっている、ということができるのである。
 資本家はいかにして新しい機械を手にすることができるのか? 不変資本が増大し続けるというとき、それは何を意味しているのか?
 資本主義経済の活動の根本は、剰余価値の生産である。しかし、剰余価値が単に生産されたというかぎりでは、それは商品の中に閉じ込められているのであり、資本家はそれを使用することはできない。いまだ売れていない靴は、新しい機械、つまり、より大きな生産性に転化することはできない。新機械を購入するためには、靴を所有している工業家が、その靴を売らねばならない。そして、この販売によって得られた売上金の一部は、追加的な不変資本として新しい機械を購入するために使用される。
 別の表現をすれば、剰余価値の実現は、資本蓄積の不可欠な条件であり、資本蓄積は剰余価値の資本化にすぎないのである。
 剰余価値の実現は、商品の販売を意味するばかりでなく、かれらの手にしている剰余価値が、実際に市場で実現されるという条件のもとでの商品の販売を意味するのである。社会的な平均的生産性のもとで操業しているすべての企業――その総生産はしたかって社会的必要労働に合致している――は、その商品が売られるときには、これらの企業で生産された全価値と全剰余価値が実現されるということを約束されていることになる。われわれは既に、生産性が平均より以上の企業は、他企業で生産された剰余価値の一部を獲得することができ、逆に、平均生産性よりも低いしベルで操業している企業は、自分達の企業で生産した剰余価値の一部を実現することができず、自分達より技術的に進んだ他企業にそれを譲り渡さざるをえない、ということをみてきた。したがって、剰余価値の実現とは、商品を製造する工場で労働者によって生み出された剰余価値のすべてが、購売者によって実際に支払われて買われていくという条件下での商品の販売を意味するのである。
 生産された商品のストックが一定期間後に売れるとただちに資本家のもとには、この生産を達成するのに投下された不変資本(つまりこの生産によってその償却された機械や資産の一部の価値と原料)に相当する一定の金額が戻ってくる。同時に、かれのもとにはこの生産を行うために投下した賃金に相当する価値ももどってくる。さらには、かれは労働者によって生み出された剰余価値を手にすることになるのである。
 この剰余価値はどうなるであろうか? その一部は資本家によって非生産的な形で消費される。というのは、気の毒なことにかれもまた生活し、かれの取り巻きや家族を養わねばならないからである。そして、かれがこれらの目的のために消費するすべてのものは、生産過程から完全に引き揚げてしまったものである。
 剰余価値の第二の部分は蓄積されるのであり、資本に転化するために使用されるのである。したがって、この蓄積された剰余価値とは、支配階級の私的な必要に見合う非生産的な形で消費されたものでない全剰余価値であり、資本に転化されたものである。この転化部分は、一方では追加的不変資本、つまり、原料・機械・建物の追加量(より正確に言えば追加価値)にあてられ、他方では、追加的可変資本、つまりより多くの労働者を雇用するために当てられるのである。
 われわれはいまや、資本の蓄積とはなぜ剰余価値の資本化なのか、つまり、なぜ剰余価値の大部分の追加的資本への転化なのかを理解した。われわれはまた、次のことをも理解した。資本の有機的構成の発展の過程が、いかに労働者によって生み出された剰余価値が資本に絶えず転化されていくのかということを。すなわち、建設・機械・原料の購入や労働者の支払賃金へと資本家によって絶えず転化されるということを。
 したがって、剰余価値を生み出すのは労働者であるが、それが資本家によって資本に転化され、より多くの労働者を雇用するのに使われるから、雇用を作り出すのは資本家である、と述べるのは正確でない。
 われわれが世界中で実際に見聞しているあらゆる富(設備・機械・道路・鉄道・港・倉庫など)これらの膨大な富のいっさいは、労働者によって生み出された膨大な剰余価値、すなわち資本家のために私有財産や資本に転化された膨大な不払い労働が具体的な姿をとったものなのである。いいかえれば、それは資本主義社会の発生以来、労働者階級に対して不断に行われてきた搾取を示す何よりの証拠なのである。
 ではすべての資本家が徐々に機械をふやし、不変資本を増大させ、資本の有機的構成を高めるのであろうか? そうではない。資本の有機的構成の上昇は、偉大なフランダースの画家・ピーター・ブリューゲルが、版画「大きな魚は小魚を食べる」の中で描いた法則のとおり競争による闘争を通して相互に対立し合う形で進行するのである。
 競争によるこの闘争は、したがって、資本の不断の集積あるいはより少数の実業家が大多数の実業家にとってかわっていくという事態、さらには一部の自営業者が技術者や経営者や職工長、さらには単なる下級職員や労働者に転落していくという事態をともなってすすむのである。

   (6) 競争は集中と独占をもたらす

 資本の集中(もしくは集積)は、資本主義社会のもうひとつの永続的法則であり、ブルジョア階級の一部のプロレタリア化、つまり、より少数のブルジョアジーによる他のブルジョアジーに対する収奪をともなう。マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」の中で、私有財産の擁護を主張する資本主義が、実際には私有財産の破壊者であり、相対的に少数の所有者がより多くの所有者を絶えず、そして永続的に収奪している、という事実を強調しているのはこのためである。いくつかの産業部門では、この集中は特に顕著である。炭鉱業については、フランスのような国では、十九世紀に数百社が存在していた(ベルギーでは、ほぼ二百社であった)。自動車産業は、アメリカやイギリスのような国では、今世紀初めには百社以上あったが、こんにちでは、その数はせいぜい四ないし五・六社になっている。
 もちろん、この集中がそれほどまでには進んでいない、繊維産業や食品業のような産業部門も存在している。一般にある産業部門で資本の有機的構成が高ければ高いほど、資本の集中が進んでおり、反対に資本の有機的構成が低ければ低いほど、資本の集積はより遅れているのである。なぜか? 資本の有機的構成が低ければ低いほど、この部門にはじめて参入して新規企業を設立するのに必要な資本がより少なくなるからである。鉄鋼所を設立するのに必要な数億ドルを集めるよりも(これすら他の鉄鋼企業と比べると相対的に小規模なのだが)、新規に繊維工場を建設するために必要な百万ないしは二百万ドルを集めるほうがはるかに容易なのである。
 資本主義は自由競争から生れたし、競争なしには考えることができない。しかし、自由競争は集中を生み出し、集中は自由競争とは正反対のもの、つまり、独占を生み出す。少数の生産者しか存在しないところでは、消費者を犠牲にして、市場を分割し、価格の低落を阻止するような協定を容易に結ぶことができるのである。
 そのために、全体的な資本主義の活動の力学は、一世紀を経たこんにち、その性格を変えたように思われる。最初は、生産の絶えざる増大と企業数の不断の増大のために、価格が一貫して低下していくという運動がみられた。この運動がある一定点に到達すると、競争の激化が、企業の集中と企業数の減少をもたらしていく。生き残った企業は、これ以上の価格の低落を阻止するために、いまや協定を結ぶことができるようになる。そしてこのような協定は、当然のことながら生産の制限によってはじめて可能になるのである。こうして、十九世紀の最後の四半世紀の初めに、独占資本主義の時代が、自由競争の資本主義の時代にとってかわるのである。
 われわれが独占資本主義についてのべるとき、当然にも、完全に競争が消滅した資本主義を想定しているわけでは決してないのである。ここでわれわれがいおうとしているのは、その基本的行動が変化した、つまり、もはや生産の絶えざる増大という手段によって不断に価格を低下させて行こうとつとめない資本主義ということなのである。それは、市場を分割し販路を相互に分割しあうという手段を使うのである。しかしこの過程はひとつの自己矛盾に遭遇する。競争者として出発した資本家がなぜこの競争と生産の両方を制限するために協働するようになったのか? 答えはそれがかれらの利潤を増大させる方法だ、ということなのである。かれらは、それがより多くの利潤をもたらすからそうするだけなのである。生産の制限は価格を上昇させ、より多くの利潤をもたらし、したがってより多くの資本蓄積を可能にする。
 この新たな資本は、もはや、同一部門にも投下されはしないのである。なぜなら、これは生産力の増大、生産の増大を作り出し、価格の低下に導くからである。資本主義は十九世紀の最後の四半世紀から、この矛盾に陥ちいりはじめた。それは、リカードやアダム・スミスのような経済学者によってはとらえられなかったが、マルクスだけがすでに予測していた質的局面に急速に入っていった。資本主義的生産様式は急速に伝道師的役割をはたすようになった。それは、資本輸出を通じて全世界に拡大したが、この資本輸出は独占がいまだ自己を確立していない諸国や部門に、資本主義企業を設立することを可能にしたのであった。
 ある部門での独占の確立がもたらすものは、資本主義的生産様式が、独占の支配にまだおかれていない部門にまで、再生産されていくということである。他方、ある諸国への独占資本主義の拡大が生み出すものは、また資本主義化されていない諸国にまで、資本主義的生産様式が再生産されていくということである。こうして、二十世紀の始め頃からわずか二〜三十年のうちに導火線のように急速に最初は世界の小部分から出発して、資本主義的生産様式がまた制限されている地域へ、そして次いで全世界を包囲するという形で、あらゆる形態の植民地主義が拡大していった。かくして、地図上のすべての国が、資本投下の影響下に置かれると同時にその投下対象に転化したのである。


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