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国際革命文庫 13

国際革命文庫編集委員会 訳

3b

電子化:TAMO2

「マルクス経済学入門」
エルネスト・マンデル 著


第三章 新資本主義

   (4) 景気後退のなかで恐慌はどのようにして「別の矛盾に転化され」ているか

 この社会福祉支出の増大は、さまざまな付随現象から生み出された結果である。
 それはまずなによりも、労働者階級の運動の圧力の結果である。労働運動はつねに、プロレタリア的諸条件のもっとも著しい特徴のひとつであった生活の不安定性というものを改善することをいっかんしてめざしてきた。労働力の価値は簡単にいえば労働力の再生産に欠かせない必需品をつぐなうにすぎないのだから、労働力の販売を中断させるすべてのもの――すなわち、失業、疾病、負傷、老齢化といった労働者の正常な労働をさまたげるすべての要因――は、プロレタリアートを貧困のどん底にたたきこむのである。資本主義体制の初期の時代には、公共あるいは民間の「慈善事業」がわずかに存在していただけであった。だがこれは、まったく不十分なものであり、人間の尊厳にたいしてひどく打撃をあたえる程度の額でしかなかったため、失業した労働者は結局は悲惨な状態のままに放置されていたのであった。労働運動は、この必然的と見なされてきた打撃からの防衛を、最初は自主的なかたちから、そしてついには、強制的社会保険原理として一歩一歩実現してきたのである。健康保険、失業保険、養老保険がそれである。そしてこの闘争はついに社会保険の原理――これは理論的には、現在の賃金では不足しているいっさいを賃金・給料取得者におぎなおうとするものである――にまで到達したのである。
 国家の側にもこれは一定の利益をもたらすのである。この社会保険計画についやされる膨大な額の資金を受け取る諸機関は、たいていの場合、巨額な流動資金を持つことになる。これらの諸機関は、国債にこれらの資金を投資したり、国家に貸付けたりする(一般には短期融資の形で)。ナチスの体制はこの操作を駆使したが、その後これは大部分の資本主義諸国にまで拡大していった。
 このたえず増大していくこれらの社会保障基金の規模は、また、特殊な状況をもたらす。つまり、労働者階級の運動にたいして、ひとつの理論的・実践的問題を提起するのである。雇用主の出資によるものであれ、国家の出資によるものであれ、あるいは労働者の賃金からの控除によるものであれ、社会保障基金に払い込まれた資金は、全体としてみれば、ただ賃金の一部分をなしているだけであり、「間接的な賃金」あるいは「すえおき賃金」であると労働運動の側が主張するのは正当である。これこそが唯一の合理的な観点であると同時に、マルクス主義価値論とも一致するのである。というのも、労働者が自己の労働力の見返りに受け取るすべてのものが、実際には労働力の価格と見なされるべきであり、それがただちにかれに支払われる「直接賃金」か、それともあとになって支払われる「すえおき賃金」かには無関係であるからである。したがって、社会保障基金の「対等管理」(労働組合と企業とのあいだの、あるいは労働組合と国家とのあいだの)なるものは、労働者の権利にたいする侵害とみなされねばならない。これらの基金はただ労働者にのみ属するのだから、労働組合以外の社会勢力がこの基金の管理に不当に介入することはすべて排除しなければならない。資本家が銀行勘定の「対等管理」を許さないのと同様に、労働者もまた、もはや自らの賃金の「対等管理」を許すべきではないのである。
 しかし、社会保障にたいするこれらの支払い額が増大してきたために、直接賃金とすえおき賃金とのあいだに一種の「緊張」が生じるようになった。というのも、すえおき賃金が賃金総額の四〇%にもなるような場合も生れてきたからである。多くの労働組合センターは、「すえおき賃金」のこれ以上の増大に反対し、新たな賃上げを労働者に直接支払われる賃金に集中して獲得することを望んでいる。しかしながら、「すえおき賃金」と社会保障という事実の背後には、階級的連帯の原理が存在していることを理解しなければならない。事実、病気や事故などのためのこの基金は、「個々人にたいする払い戻し」という原理(それによれば、各人はかれの雇用主、あるいは国家がかれのために払い込んだものをすべてを実際に受け取ることになる)にもとづいているのではなく、保険の原理にもとづいているのである。事故にあわないひとびとも、事故にあうひとびとが完全にその補償を受けられるようにするために、支払うのである。この実践の根底にある原理は階級的連帯である。つまり、最下層のプロレタリアートの発生を防ぐことが労働者の利益になるからである。なぜなら、このような最下層のプロレタリアートは、勤労大衆の戦闘性を堀り崩すばかりでなく(だれしも、おそかれはやかれこの最下層の位置に落ち込むかもしれないと恐れているのである)、労働者の職の競争者になり、賃金にたいする脅威ともなるからである。こういった諸条件のもとでは、われわれはすえおき賃金の「法外」な額について不満をのべるのではなく、むしろ慈善という考えにもとづいているためにそれがなお不十分なものであるという点を明らかにすべきなのである。というのは、もっとも豊かであるといわれている資本主義諸国においてさえ、労働者は老年になると非常に低い生活水準に落ち込んでしまうからである。
 直接賃金と間接賃金のあいだの「緊張」という問題にたいするひとつの有効な解答は、労働者階級だけにもとづいていた連帯の原理を全市民をふくむ連帯の原理に拡大し、社会保障を、所得にたいする累進課税によってその財源を確保する国家サービス(健康、完全雇用、老年にたいする保障)にかえるよう要求することである。こうすることによってのみ、「すえおき賃金」は真に決定的な賃金上昇をもたらし、賃金生活者に有利な真の国民所得の再配分をつくりだすことができるのである。
 資本主義体制のもとでは、こんにちにいたるまで、このような国民所得の再分配は、大規模な形では決して実現されたことはなかったという事実は完全に確認しておかねばならないし、さらには、われわれがいずれ経験するであろう革命的危機の時代において行なわれるであろうような資本家の側の一定の譲歩といった事態なしには、それが実現できるかどうかわからないという問題としてこの問題を提起することさえ必要なほどなのである。事実に照らして検討してみると、一九四四年以降、フランスで導入されたものや、とりわけ一九四五年以降のイギリスの国家健康保険サービスのような社会保障のもっとも注目すべき経験は、ブルジョアジーにたいしてよりもずっと多くの部分を労働者にたいする課税(主要には間接税の増税や、たとえばベルギーのようにほんのわずかな賃金にもなされる謀税増額)によってまかなわれてきたことがわかる。だから、資本主義体制のもとでは、課税によって国民所得の真に徹底的な再分配などが一度も行なわれたことはないのである。それが、単なる改良主義のひとつの大きな「神話」にいまなおとどまり続けているのである。
 社会保険という「すえおき賃金」のこの重要性の増大は、工業化された資本主義諸国の国民所得にもうひとつ別の性格をもたらすことになる。それは、それのもつ反循環的性格である。この点において、われわれはブルジョア国家・新資本主義が、この「すえおき賃金」の額を増大させることに関心を抱いているもうひとつの理由を見い出すことができるのである。というのは、この「すえおき賃金」は、恐慌に際して国民所得があまりにも突然に、激しく下落するのを防ぐうえでの「緩衝クッション」の役割を果すからである。
 以前には、労働者がその職を失なえは、その所得はゼロに落ち込んだ。ある国の労働力の四分の一が失業すれば、賃金・給料生活者の所得も自動的に四分の一だけ減少した。この所得の下落、「総需要」の低落が資本主義経済にもたらす悲惨な諸結果は、これまでに、たびたび広く述べられてきたところである。それは資本主義的恐慌に、連鎖反応という様相をおびさせるのであり、すさまじい論理をもって、不可避的に進行し続けるのである。
 いま、機械製造部門で恐慌が勃発したとしよう。この部門はその設備を閉鎖し、労働者を解雇しなければならない。この解雇された労働者の所得の損失は、消費財の購買力を急激に減少させる。このために、消費財を生産している部門ですぐに過剰生産が発生する。今度はたちまち、その設備を閉鎖し、一部の労働者を解雇せざるをえなくなる。こうして、再び消費財の販売がよりいっそう落ち込み、在庫がいっそう増大する。同時に消費財を生産している企業は、非常な打撃を受け、機械の発注を減少させるか、キャンセルするだろう。これは重工業に従事するより多くの企業の閉鎖をもたらすことになるだろう。このため、さらに新たな労働者が解雇され、消費財にたいする購買力が新たに減少し、したがって再び軽工業の恐慌が尖鋭になり、その結果さらに解雇が行なわれる、などといった具合に続いていくのである。
 しかし、ひとたび失業保険という有効な制度が成立すると、恐慌のこの累進的波及力は少し弱められる。失業にたいする補償額が多ければ多いほど、この恐慌をやわらげる効果はそれだけ強くなる。
 もう一度、恐慌のはじめにもどって述べてみよう。機械製造部門が過剰生産にみまわれ、労働者の一部を解雇する。ところで、いま失業補償額が賃金の六〇%だとしよう。そうすれば解雇されたからといってこの失業者の所得の全額がなくなるわけではなく、四〇%だけ所得が減少するということになるのである。ある国での一〇%の失業はもはや一〇%の需要の減退ではなく、四%の減退を意味するのである。二五%の失業はいまや一〇%の所得減少にすぎないものになる。そして、この所得減少がもたらす累進効果(アカデミックな経済学では、この需要の減少にある乗数をあてはめることによって計算される)は、それに応じてずっと少なくなる。恐慌は消費財部門をそれほど激しくは襲わないであろう。したがって、この部門はずっと少ない労働者を解雇するだけとなろうし、機械の発注の一部はそのまま維持されることが可能になるだろう。要するに恐慌は、ラセン状には拡大していかないのであり、それは途中で抑止されるのである。それから恐慌は、終息に向かいはじめるのである。
 われわれが現在、「景気後退」と呼んでいるものは、古典的な資本主義的恐慌が、とりわけ社会保険という手段によってやわらげられたものである。
 わたくしは、自分の著書「現代マルクス経済学」のなかで、この理論的分析を経験的に実証する最近のアメリカの景気後退についての一連の数字を引用しておいた。事実、これらの数字によれば、一九五三年と一九五七年の景気後退は、きわめて尖鋭な形ではじまり、過去のもっとも深刻な資本主義的恐慌(一九二九年や一九三八年のような)とすべての面において比較されうるような規模をもっていた。しかし、第二次世界大戦以前のこれらの恐慌とは逆に、この一九五三年と五七年の景気後退は数ヶ月後にはそれ以上激化せず、途中でストップし、その後、終息しはじめたのであった。この恐慌が景気後退に変わるひとつの基本的要因については、いまやわれわれは理解することができた。
 資本と労働とのあいだの国民所得の分配という観点から見れば、軍事予算の膨張という事態は、「すえおき賃金」の増大とはまったく反対の効果をおよぼすのである。なぜなら、「すえおき賃金」の一部は、どんな場合にもつねに、ブルジョアジーによって負担される追加的支払いからうみだされるからである。しかし、反循環的な効果という観点からすれば、軍事予算(一般に公共支出はすべて)の膨張と社会保険の増大とは、恐慌の激しさをやわらげるという点では同じ役割を果すのであり、この点において両者は新資本主義にひとつの特有の性格を付与しているのである。
 総需要は、消費財にたいする需要と生産財(機械や設備)にたいする需要とのふたつのカテゴリーに分けることができる。社会保障基金の拡大は、恐慌勃発後の消費財にたいする支出(需要)の極度の低落を回避することを可能にする。公共支出(とりわけ軍事支出)の拡大は、生産財にたいする支出(需要)の極度の低落を回避することを可能にする。こうして、新資本主義のこれらの顕著な特徴は、資本主義の矛盾――恐慌が以前とまったく同様に勃発し、資本主義が多かれ少なかれ調和的で中断することのない成長を保証する手段をいまなお見い出せないという矛盾――を抑制できてはいないが、これらの二部門で、少なくとも一時的ではあれ、その恐慌の規模と深刻さをやわらげるという作用を果しているのである。
 この過程が進行していくためには、加速度的な成長が長期にわたって続くという枠組が必要なのであり、しかも永続的インフレーションという代償を支払わねばならないのである。

   (5) 永続的インフレ傾向

 われわれがこれまで述べてきた反循環的効果をもつすべての現象がうみだすひとつの帰結は、永続的インフレーション傾向と呼びうるものである。これは、一九四〇年以来、つまり第二次大戦前夜あるいはその勃発以来、明確な姿をとって登場してきている。
 この永続的インフレーションの根本原因は、大部分の資本主義諸国の経済のなかにしめる軍事部門・軍需部門の重要性からくるものである。兵器の生産は、独特の特徴をもっている。この部門は、消費財の生産や生産財の生産とまったく同様に購買力をつくりだす。つまり、戦車やロケットをつくる工場では、機械や布をつくる工場と同じように賃金が支払われ、これらの工場の資本家である所有者は、製鉄所や繊維工場の所有者である資本家と同様に、利潤をものにする。だが、この新たにうみ出された購買力に見合う、新たな商品は市場にはとどまらないのである。古典的な経済における二大基幹部門、消費財部門と生産財部門でうみだされた購買力と併行して、市場にはこれらの購買力を吸収しうるだけの量の商品があらわれる。だが、軍需部門では対照的に、この部門で生み出された購買力は、消費財ではあれ、生産財ではあれ、このようにしてうみだされた購買力を吸収しうるような量の商品の見返りを見い出さないのである。
 軍事支出がインフレーションを引き起こさない場合というのは、この軍事支出が完全に税収入によって支払われ、しかもそれが、一方における労働者や資本家の購買力と他方における消費財や生産財の価値とのあいだの比率を変えない範囲内でおこなわれるようなときだけである。〔註1〕このような状況は、どこの国にも、たとえ税率がもっとも高い国でも存在しない。とくにアメリカでは、軍事支出の総額は税収入すなわち、追加的購買力の減少によっては、補われていないので、永続的インフレーション傾向がそれに見合っておこっている。独占の時代には、同時におなじ効果をおよぼす、つまり価格の低落については硬直性を示す、もうひとつの資本主義経済の構造的性格をもつ現象が存在する。
 大独占トラストが、一連の市場総体、とりわけ生産財市場と耐久消費財市場を、実質的に支配したり、あるいは完全に支配しているという事実は、言葉の古典的な意味での価格競争が存在しなくなっていることを示すものである。供給が需要よりも少ないときには価格は上昇するのに、供給が需要を上回ったときには、価格は不変のままか、あるいはほんのわずかだけ下がるだけなのである。これは、実質的にはここ二十五年間にわたって、重工業や耐久消費財市場が顕著になってきている現象である。さらにいえば、これはすでに述べた長期的周期とますます結びついていく傾向にある現象なのである。というのも、われわれはこの長期的な経済拡大期が終った後に耐久消費財価格の変動が起るとは予測できない、ということを率直に認めないわけにはいかないからである。
 自動車産業において、生産過剰がいっそうすすんだとき、それが新たな価格競争を引きおこし、かなりの価格低下をつくりだすということはありえないことではない。西ヨーロッパでは、六〇年代後半(「九六五年、六六年、あるいは六七年)に予測され、いろいろと取沙汰されている自動車産業の恐慌は、小型車の販売価格が半価に引き下げられるならば、比較的かるくてすむだろうという主張は、それなりに正しいものである。もし、シトロエンの四CVや二CVが二〇万か二五万旧フランで売られるようなことになれば、この過剰能力が正常な形でおそらく消滅してしまうほどの需要の伸びが見られるようになるだろう。このようなことは、現に存在する協定の枠内で考えれば不可能なように思えるであろう。だが、もし、われわれが、五年ないしは六年という長期の範囲で、激烈な競争という事態を見てみるならば(このような激烈な競争は、ヨーロッパの自動車産業では実際におこりうることはないのだが)、このようなこともないとはかぎらないのである。
 この点では、ただ次のこともつけ加えておかなければならない。過剰生産が一連の企業の閉鎖と倒産によって除去され、したがって、見るべき価格引き下げが抑制される、ということの方がもっとありそうなことだということである。この場合のほうが、独占資本主義体制のもとでは、以上のような状況にたいするより通常の反応なのである。もうひとつの対応の仕方については、完全に除外してしまうわけにはいかないが、これまでのところ、どの分野でも、次のような対応をわれわれは眼にしていないのである。たとえば、石油産業では、六年来潜在的な過剰生産現象が続いているが、一〇〇%、あるいは一五〇%の利潤率で操業している大トラストが許容した価格低下は、雀の涙ほどなのである。ガソリンの価格は、下げようと思えば五〇%引き下げることも可能であるが、わずか五も六%引き下げられたにすぎないのである。
 〔註1〕 この定式化は厳密な意味では正確ではない。単純にするために、第一に資本家自身が消費することになる部分、第二に資本投下の結果新たに追加して雇われた労働者の消費にあてられることになる部分、という資本家の購買夫のうちのこのふたつの部分を考慮に入れていないからである。

   (6) 「経済の計画化」

 新資本主義のもうひとつの一面は、「管理経済」や「経済の計画化」さらには「指示計画」ともいうべき諸現象の実体にかかわる側面である。これは、古典的な資本主義精神とは相反する経済にたいする意識的な介入のもうひとつの形態である。けれども、これは、もはや主要には政府による行為というよりも、むしろ、一方における政府と他方における資本家グループとのあいだの協調と融合による行為という特徴をもつ介入なのである。
 「指示計画」や「経済の計画化」あるいは「管理経済」へとむかうこの全般的傾向は、どのように説明することができるだろうか?
 われわれはまず、大資本の現実の要求にふれなければならない。この要求はわたくしがすでに述べたまさしくある諸現象からうみだされているのである。われわれはすでに、機械諸設備の更新のテンポが促進されたこと、いいかえれば永続的な技術革命について論じた。だが、固定資本の更新のテンポが速くなったというとき、それはたえず短縮されていく期間のうちに、不断に巨額になっていく投資額を償却する必要があるということを意味することになる。何万ドルという金額で操業している企業を破局的な混乱におとしいれるような危険性をもつ短期的償却から経済をまもるために、この償却ができるだけ正確な方法で計画され、計算されなければならないことは確かである。この根本的事実こそが、管理経済へと駆りたてる資本主義経済の計画の原因なのである。
 こんにちの巨大独占資本主義は、急速に償却されねばならない何千万ドルという投資額を自己の手に集中しているのである。それはもはや大きな周期的変動という危険をおかす余裕をもっていないのである。したがって、この償却費用がふたたび回収されることが保証され、この回収は少なくとも、平均的周期――ほぼ固定資本の償却期間に照応し、現在では四〜五年となっている周期――のうちに行なわれるように保証されることが必要となる。
 さらに、この現象は、資本主義企業の内部自身から直接に生み出されてくるのである。生産過程がたえず複雑化していくために、企業はそれを全体として運営していくのによりいっそう正確な計画化への努力が必要になっている。資本主義的計画化とは、結局、すでに巨大独占企業や一連の各種企業を包含したトラストやカルテルのような資本家グループのレベルでおこなわれているものを、一国的規模に拡大したものであり、より正確には調整したものにほかならないのである。
 この指示計画の根本的特徴は何であろうか? それはその本質的な点で、社会主義的計画化とは根本的に異なるものである。この資本主義的計画化は、生産量の一連の目標を設定したり、この目標の達成を保証したりすることには主要な関心を向けない。その主要な関心はむしろ、私的企業によってすでに作成されている投資計画を調整したり、政府レベルで優先的な性格をもっていると見なされる一定の目標をせいぜいのところ提起することによって、この必要な調整を実効させるということにあるのである。もちろん、これらはブルジョア階級の全体的利害に見合った目標であることはいうまでもない。
 ベルギーやイギリスのような国では、この操作は、かなりむきだしの形で行なわれている。すべてのことがずっと洗練された知的な形で行なわれ、多くのカモフラージュが用いられるフランスでは、このしくみの階級的本質はより不鮮明にされている。それでも、他の資本主義諸国の経済の計画化の本質とフランスの場合は同一なのである。本質的に、「計画委員会」や「計画局」あるいは「計画立案局」の活動は、種々の経営者グループの代表者と協議し、投資計画や市場見通しを検討し、種々の部門の見通しを相互に調整し、隆路や重複を避けるようにつとめる、ということなのである。
 ジルヴェール・マチウは、この問題に関して、「ル・モンド」紙(一九六二年三月二、三、六日)に三つのすぐれた論文を発表した。そのなかでかれは、種々の計画委員会や小委員会の活動に参加した労働組合代表が二八〇人であったのにたいして、千二百八十人の企業の指導者や経営者組織の代表がこれに参加したことを指摘している。フランシス・ペロウは、「フランスの計画は、実際には、大企業と大金融機関の圧倒的な影響力の下で、たいていの場合は立案されかつ遂行されている」と信じている。さらに、もっとも穏健な労働組合指導者の一人であるル・ブランさえも、フランスの計画は「本質的に資本の高級管理者と高級官僚のあいだで調整され、そのさい普通は資本の代表者の側がより大きな比重を占めている」と主張しているのである。
 さらに、企業が決定を比較対照し、調整することは、資本主義企業家にとっては非常に役に立つことなのである。企業家は、これによって、現在の技術では成し遂げることが非常に困難な、全国的レベルでの長期にわたる市場の見通しをさぐるのである。だが、これらの研究やこれらの計算のすべての基礎となっているものは、依然として、経営者によって予測として提起される数字でしかないのである。
 したがって、この種の計画化や「指示計画」は、ふたつの基本的特徴をもっているのである。
 一方において、それは計算の最初の動機となっている経営者のせまい利害を中心にして行なわれているということである。そして、ここでいう経営者とは、すべての経営者ということではなく、むしろブルジョア階級の支配層、すなわち、独占とトラストを意味しているのである。非常に強力な独占相互のあいだで利害の対立がおこる場合(たとえば、一九六二年のアメリカにおける、鉄鋼価格をめぐる鉄鋼生産トラストと鉄鋼加工トラストとのあいだの対立を思いおこせばよい)、政府は資本家グループ間の仲裁者の役割を一定程度果すのである。それは、一定の側面においては、全株式所有者やブルジョア階級全員に代わって活動するブルジョア階級の経営委員会ではあるが、民主主義や多数派の利害にもとづいてではなく、むしろ支配グループの利害にもとづいてそれを行なうのである。
 他方において、これらの計算の基礎には、すべてある不確実性が横たわっているのである。というのは、計算は純粋に予算を基礎にしているという事実からうみだされてくるものであるうえに、政府がこのような計画を実施するうえで何の手段をも持っていないという事実があるからである。事実、こういった私的利害もまた、その予測を実行に移す方法を見い出しえないのである。
 一九五六も六〇年には、ベルギー経済省の「計画立案者」もヨーロッパ石炭鉄鋼共同体の「計画立案者」も、西ヨーロッパ、とりわけベルギーの石炭消費の予測に関して、二度にわたって誤りをおかした。まず第一に、スエズ危機に先立つ時期とその期間中に、かれらは、一九六〇年に石炭の消費はかなり増加し、石炭生産もそれに応じて増加し、ベルギーの石炭生産は、年間三千万トンから四千万トンに上昇する、と予測した。しかし、実際には一九六〇年の期間中にそれは三千万トンから二千万トンに減少したのであった。「計画立案者」はしたがって、かなり大きな割合でその予測を間違えたという点では、二重の誤りをおかしたことになるのである。この誤りが間もなく公式に確認されたとき、今度はかれらはふたたび正反対の誤りをおかした。石炭消費の減少が続いていたときに、かれらは、この傾向は続いていくと予測し、鉱山を閉鎖する必要があると宣言した。しかし、一九六〇〜六三年におこったのはまったく反対のことだった。ベルギーの石炭消費は、年間二千万トンから二千五百万トンに上昇した。すでにベルギーの出炭能力は三分の一だけ削減されていたので、その結果、特に一九六二〜六三年の冬のあいだは、深刻な石炭不足がおこった。こうして、ベトナムからさえも緊急に石炭を輸入する必要が生じたのであった。
 この例によって、われわれは、「計画立案者」が産業部門のために計算を行なうときに十中八、九まで利用しなければならない技術というものの姿を鮮明に知ることができる。それは、現在の趨勢を単に未来へと投影したものにすぎないものであり、もっともよくても今度は総成長率の予測に基礎をおいて、需要弾力性を表わす要素を加えて修正したものにすぎないのである。


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