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国際革命文庫 13

国際革命文庫編集委員会 訳

4b

電子化:TAMO2

「マルクス経済学入門」
エルネスト・マンデル 著


   過剰能力・資本主義制度の《死の徴候》

 わたくしはすでにわたくしの「マルクス主義経済学概論」のなかで、《やせ細りの不況》の、および加速的成長の基本的な副産物である工業における過剰能力増大の傾向を強調しておいた。合衆国では、拡大の年である一九五六年においてさえ、自動車工業はその能力の七二%、そしてテレビジョン受像機工業はその能力の六〇%しか稼動していなかった。一九五五年には、この割合はそれぞれ電気掃除機工業で五五%、冷蔵庫工業で四六%、綿工業で七〇%であった。
 このような現象は、少し後になって、西ヨーロッパにも拡がりはじめた。共同市場諸国では、いくつかの部門が過剰能力に悩んでいる(冷蔵庫、縫製機械、合成繊維、造船)。最近の統計によれば、連邦共和国の工業能力の総利用率が一九五六年の九三・八%から一九六〇年の九〇・二%および一九六二年の八四%へと低下したことがわかる。しかし、もっと象徴的なふたつの例――そしてこれはどんな説明をつけ加えるよりも役に立つのだが――はヨーロッパの鉄鋼業とヨーロッパの自動車工業に関するものである。
 ヨーロッパの鉄鋼業における過剰能力の存在は、新たな事実というわけではない。実際、共同市場諸国においては、鉄鋼業生産は一九六〇年以来停滞している。しかしながら投資は、その停滞水準に到達してしまった以降にもずっと増加しつづけている。一九六一年、投資は七億七、五〇〇万ドルに上昇し、総額で四五%近くの増加を示した。そして一九六二年には、それは一九六〇年の記録のほとんど二倍となった。
 この飛躍的な投資はきわめて単純な原因、すなわち連鎖的な技術革新の大規模な導入によって説明される、生産の停滞に直面している(特許 LD、Roter、および、その他酸素の大量の注入に基くもののすべて)。しかし、この新しい方法が費用価格の重大な減少をひきおこせばおこすほど、生産の停滞と生産能力の稼動率の減退が費用価格を傾向的な増大を急激に促進させ、このことは利潤率を著しく圧迫し,大規模な輸出にあたって国際競争上の価格を強く上昇させる。
 この前者は新資本主義的計画化の限界を示すよい例である。市場の相対的停滞という条件のもとで最大限の収益を獲得するための各企業によって個別的に探られる努力は、費用価格の減少のための極端な競争を生み出すが、この競争は工業水準のはなはだしい超過をひきおこす。別の言葉でいえば、個別企業の枠内で最大限の収益を獲得しようとする傾向のすべてが、価格を支配することを通じて、工業の総収益の、および企業数の(同じくそれは全工業地帯の)急激な減少をひきおこす。
 その諸結果はそれ自身雄弁に物語っている。共同市場六ヶ国の鉄鋼工業の総生産は年に約七、三〇〇万トンで、ここ四年間、引き続いて停滞しているのにこの工業生産能力は、一九六四年で九、五〇〇万トンと評価されているのである(ある文書では一億トンとさえされている)。圧延工業の生産は一九六五年に一、八〇〇万トンか、一、九〇〇万トンであると考えられているのに、この企業の生産能力は、もし投資計画がうまくいくならば、同じ年に三、五〇〇万トンに達するであろう。
 ヨーロッパの自動車工業の場合は、鉄鋼工業の場合に劣らない病状を示している。しかし、鉄鋼工業は、共同市場の相対的停滞という特徴を有する状況のなかでの過剰生産能力という例を提供しているのに、自動車工業は急速に拡大する市場の圧力のもとでの過剰生産の発生という例を提供している(これは、例外的に有利なこの市場の与える利益の分け前のこの上もなく大きな部分を獲得する各企業の必死の努力から生れているのである。というのは、この好都合な条件は非常に長期にわたって維持されないだろうと考えるのが当然だからである)。
 特殊車の総生産(貨物自動車を含まない計算)は、六ヶ国共同市場において、一九五三年の百万近くから、一九六一年の三七〇万単位になった。この数字にイギリスの生産をつけ加えるならば、西ヨーロッパでは、一九六一年には四七〇万であるのにたいし、一九五三年では一五〇万の生産しかなかった。この同じ時期に自動車の駐車場数は、共同市場六ヶ国にイギリスを加えると、六五〇万から二、〇〇〇単位に発展した。
 需要の現在の水準からの予測と、これに基いて、価格、所得そして需要の弾力性を評価するためのいくつかの指標を利用して、共同市場内部の特殊車の販売は一九六五年には三五〇万単位になり、一九七〇年には六〇〇万になると予測できるのである。しかし、投資の循環は関係六ヶ国においては、一九六五年の特殊車はおよそ六五〇万から七〇〇万、そして一九七〇年に一、〇〇〇万の生産能力に駆りたてている。現在すでに存在している過剰能力は無数の企業に原価を削減するための投資を増大させるように駆りたてるであろう。

   社会主義者と新資本主義

 社会主義者は、新資本主義のなかに独占資本主義の帰結を見なければならない。したがって、社会主義者の任務は、決して新資本主義の改良を急ぐことでもないし、投資や競争の循環についていけないので新資本主義の改良を抑えようとする、より遅れた資本家を擁護することにあるのでもない。以上のふたつの態度に反対する立場は集中や独占資本主義にたいして社会主義者が伝統的にとってきた立場と同一である。効用の名において集中を奨励すべきではないと同時に、自由主義経済の名において技術的に遅れた企業を擁護するということもすべきではないのである。
 社会主義者は、集中の発展を社会主義の未来への強力な根拠として利用しながらも、集中を資本主義の背景のもとでは不可避的な現象として把えなければならないのである。
 新資本主義的計画化は、均衡的成長という意味で行なわれているのでもなく、また、国民の利害を優遇するのに役立つのでもなくて、この計画化は、ただ、私的利益のみを擁護するために寡占の投資の合理化を保証しているのである。長期的にみれば、すべてがこの根本的な目的に向けられているのである。すなわら、ブルジョアジーの別の部分の利害をこの階層(独占の基幹部門)のために、冷酷にも犠牲にすることによって、独占資本主義の基幹部門を保護し、守り、保証することである。
 社会主義者は、“自由放任”の反動的理想をこの計画化に対置したり、あるいはこのような計画化を前進の第一歩として支持したりするのではなく、社会主義的計画化をそれに対置しなければならない。これは単に技術的観点からのみ優れているのではなくて、(十分に増大した量での国家の直接投資と国有化され、自主管理化されている主要な公共部門とは私的利潤の防衛を目標とするのではなく、指示的な計画化を強制的計画化に置き代えることを許すのである)何よりも社会体制の質的相違を含んでいるのである。すべての人に、無料の医療と教育、適当な住居と豊かな余暇を提供するために、また抑圧と外国の搾取、低開発、飢餓、工業の不足、教育の不足からの解放を支援しながら、植民地人民の解放に必要な貢献を西洋の労働者階級におこなわせるために、一連の優先的な生産目標が労働者階級の運動によって民主的に選択されねばならない。
 この優先的な諸目漂から、利潤のための生産とは反対に、必要のための生産のモデルを提供する経済的諸目標の全体が作られる。この利潤のための生産は、今日では、トーマス・バローによって明らかにされたように不吉な運命を伴っている。それは次のようなことである。
 「不満足感を故意に作り出すこと!! けばけばしい消費を呼びおこすことによって社会的生活水準の欲求を刺激すること、現代心理学を活用しながら社会的差別を作り出すこと、見かけは善意でいっぱいであるけれども、実際は競争的なむきだしの精神に駆り立てられている人々のなかにある欲望を個々に奮い立たせるために不安感を利用すること、強烈な教育的精神療法的運動がこれらの諸目標を抑制するために必要であるにもかかわらず、目的としての利潤の実現のために人間の弱みにつけ込むこと」トーマス・バロー『進歩のための計画』(フェビアン協会パンフ346、P46〜47)
 要するに、社会主義者は新資本主義の福祉国家あるいは大衆消費社会の神話を受け入れるべきではない。彼らは消費についての独自の考えを、いくつかの独占の最大限の私的利潤のための考えに対置しなければならない。彼らは現代産業における労働の疎外の基本的原因である企業の強権的構造を変革するために新資本主義の無能力とより一層闘争しなければならない。
 この理由と同時に、所得政策のためのすべてのキャンペーンに反撃しなければならないという理由からも(各人は、今日、賃金の額を知ることができる。しかし、われわれは全体制が所得をごまかすために自己のもうけを偽わるように構成されているので、経営者が自己のもうけを発表したとき、その経営者の言葉通りに信じなければならないだろうか?)労働者管理の要求が今日、新資本主義のありそうな上昇と下降とに対決する社会主義と全般的な労働運動との根本的な要求とならなければならない。
 労働者管理は、社会主義的、民主主義的計画への第一歩であり、資本主義的計画化に対置しうる唯一の回答である。それは社会化された経済における労働者管理と産業の民主化への第一歩である。(労働者階級はその経済が資本主義経済を多分に残しているような管理の責任の問題についてはあらゆる会社形態を拒否しなければならない)。それは労働者階級を賃金と利潤の大衆にもとづく討論(すなわち、所得政策のすべての討論がどうしてもいきつく剰余価値の大論争であるが)に参加させることを可能にするのである。これはわれわれに組合運動の本質的防衛戦略(賃金の凍結にたいする賃金の交渉からの解放のため)にこの戦略が必要とする全体的攻勢的性格を与えるのである。というのは、これがなければ労働者は経営者やテクノクラートにたいして有効な闘争ができないからである。


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