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国際革命文庫 14

織田 進
4

電子化:TAMO2
●参考文献
全国社青同1969〜71
滝口著作集の栞

「三多摩社青同闘争史」
――ひとつの急進的青年運動の総括――

第四章 激突

 A 赤化運動の始まり

 さて、われわれはこれから、三多摩社青同闘争史のヤマともいうべき、六五年のたたかいに足を踏み入れる。
 六四年暮、ICPは第一三回総会を開いた。総会が下した重要な結論は、三つの点に整理される。
 @ 組織活動の中心を、「社会党内分派闘争」に移行させること。
 A「社会党内分派闘争」をテコとして、全人民の政治的組織化を推し進め、その最先頭に立つものとしての社青同の大胆な大衆化をたたかいとること。
 B 東京のICPの勢力を基礎として、JRとの統一をなしとげ、全国政治勢力として登場すること。
 すでに旧JRと旧ICPとの対立は、旧JRが加入活動を推進し、また東京では旧ICP派との協働が成立していたことで、実質的には解消していた。旧JRの関西は、この統一に賛成する態度を六四年のうちに決定し、東北は主として太田竜の政治路線にたいする不信から反対を表明してはいたが、決定には従うという態度であった。太田は、東京におけるICP派の優位にもとづいて、統一は彼のヘゲモニーを全国化するものであると確信していたから、多少の譲歩をおこなっても統一したいと考えていた。
 こうして旧ICPと旧JRとの統一が、六五年二月末に達成された。中央執行委員長には太田、書記長には酒井が就任した。東北、関西がそれぞれ執行委員を送った。
 この統一は、その後迂余曲折を経ることにはなったが、基本的には、非常に重要な成果であったと言える。旧ICPの東京、旧JRの東北、関西のそれぞれが、政治的にも組織的にもバラバラであった状態から、一つの統一した全国方針のもとで団結するようになっていく出発を、この統一は与えたのである。統一が遅れていたとしたら、それぞれの地方の矛盾が露呈していくテンポも遅れていたであろうが、そのかわり、六七年以降の急進化のなかでのJR再建もまた遅れていたであろう。統一が太田竜のイニシァチブでなしとげられたことを思えば、この統一は、太田竜がわが組織に残した、ただ一つの積極的な貢献であったと評価しても良いだろう。
 だが、統一JRのもとでの全国指導部の形成にもかかわらず、運動の自然発生的な矛盾は、けっして緩和されはしなかった。三多摩社青同運動が直面していた重大な困難は、きわめて長期的な展望を見通し得る冷静な指導部のもとで、慎重すぎるほど慎重に扱われなければ、とり返しのつかない大損害を招くほどの性格のものになっていた。そして実際にすすんだ事態は、その危険を現実に転化させる方向へむかったのである。
 六五年のたたかいのはじまりの時点で、三多摩社青同がかかえ込んでいた主要な矛盾を整理してみれば次のようになるだろう。
 @ 最初にあげなければならないのは、政治闘争の突出が、社会党の議会主義的で政治闘争の方法や戦術と公然と衝突しはじめていたことである。それはとくに、社青同中央指導部分派であった社会主義協会派との、闘争現場での対立となってするどく現われていた。
 社会主義協会派の総路線は、「改憲阻止・反合理化の基調」のもとでの、職場闘争主義というべきものであって、街頭政治闘争での左翼的な戦術行使には、反対であった。学習活動が一番大切であるとされ、青年大衆を「基調」の思想で獲得していくことが社青同運動である、というのだ。この路線は、「改憲阻止・反合理化三〇万署名運動」というような珍無類な方針に具体化された。社青同の方針に賛成する三〇万人の青年を署名運動で集めようというのである。大衆闘争のかわりに署名運動をやって社青同がふくれ上るのであれば、これほど楽なことはない。左派が指導権を取っていた東京地本は、当然のこととしてこの運動をボイコットし、運動は流産してしまった。
 他方三多摩社青同は、“ベトナム革命支援”の立場から、原潜闘争の方針を打ち出していた。“改悪阻止・反合理化”の基調からは、ベトナム革命の諸問題は対岸の大火にすぎなかった。だが、“ベトナム革命支援”を日本労働者階級の任務として設定する立場からは、政治闘争をベトナムの対決に相応した実力闘争としてたたかいとろうとする戦術が提起されて来る。このため、六五年の原潜・日韓闘争の一つ一つの集会やデモのたびどとに、三多摩社青同を先頭とする東京地本と社青同中央との対立がくり返されることになった。
 この対立は、同時に、三多摩社青同が「孤立した根拠地」のなかで培ってきた戦闘的な政治性を、全国的な分派闘争の一方の極に据えつけたのであり、そうした状況のもとでは、三多摩の活動家が、これまでの水準の戦術左翼的、素朴実践主義の範囲にとどまっていることは許されなかった。
 A 次の問題は、統一労組運動を中心とした運動構造の行きづまりにある。
 統一労組運動は、単純に未組織労働者の運動であったわけではない。官公労、民間の既成労組からオルグ団が派遣されて、統一労組で活動することを通じて、社青同に獲得され、急進的な政治闘争で鍛えられて職場にもどり、そこに新たな社青同をつくり上げていく政治運動であった。六五年当時には、すでに国労、全逓、全電通、自治労、電機労連、全国金属、化学同盟などのかなりの拠点職場に統一労組を通じた社青同づくりが、広がっていた。闘争領域のこの新たな広がりにむけて、社青同の労働運動方針がうち出されなければならなかったが、それは同時に、民同指導部――三多摩社会党との公然たる対決の開始を意味するものであった。だがこのことは、それまでわれわれがえがいて来た加入活動の根本的な修正を迫るものでもあった。
 われわれは、日本労働者運動の二重構造――未組織労働者の大群の存在が、本工組合――民同労働運動の成立の根拠であると考えてきた。社会党――民同を根底から破壊するためには、労働者階級の三分の二をこえる未組織労働者の革命的なエネルギーを導入しなければならないと考えて来たのである。
 だが、三多摩統一労組は未だたかだか千名を組織したにすぎぬ。未組織労働者の彪大な大衆が未だ放置されている。三多摩統一労組を、全関東、全国統一労組へ飛躍させるたたかいは、はじまったばかりなのである。この現状で、組織された労働運動の強固な民同官僚体制と対決することができるだろうか。職場における反民同闘争の戦闘指令を、戦闘的な数百の社青同同盟員に発することができるだろうか。われわれの力はすでにそこまできているのか。
 このジレンマにこたえるために、われわれは一つの仮説を採用した。すなわち問題を労働運動の領域から、政治闘争の領域にうつしかえたのである。日本帝国主義の弱点は、軍事外交政策にある。経済力においては、アメリカの保護のもとで急速な回復をなしとげてはいるが、軍事外交の側面での日本の位置は立ち遅れている。ここでは、日本帝国主義はアジア革命、中国革命の圧倒的な包囲を受けている。日本社会党の一定の“戦闘性”は、その反映である。他方民同は、高度成長にひきずられて右傾を深めている。したがって政治闘争における突出によって民同と対決するならば、左翼社民の一定の支持をあてにすることができる。左翼社民と民同派との溝をふかめる政治闘争の左翼的展開――六四年から六五年にかけて取り組まれ、社会党の許容範囲を実際に超えてしまった三多摩社青同の政治闘争でのハネ上りは、その実こうした “読み”のもとで行なわれたものであった。
 こうして、官公労・民間の単産内部の同盟員にたいして、職場での反乱の指令をわれわれは下さず政治闘争への急進的な結集だけを求めた。これは一面的なたたかいであった。職場の同盟員は民同と対決し、自らの陣地を職場に構築する能力と経験を持たないままで、きわめて戦闘的な街頭闘争を力いっばいたたかい、次第に大衆から孤立していったのである。
 B 最後の問題は、“党建設”と大衆闘争との矛盾である。
 社青同中央との衝突は、社青同運動内部の力関係として見る限り、われわれに不利ではなかった。解放派と連合して首都の同盟の四分の三の力をわれわれは有していた。協会派の強みは社会党内ではこの力関係を逆転できるところにあった。
 原潜闘争は、社会党の日和見主義をばくろした。三多摩社青同の広汎な部分に、社会党にたいする絶対的な不信感が生れていった。それにもかかわらずわれわれは革命党を社会党のなかからつくり出す展望を語りつづけた。社会党にたいする不信や怒りを、“われわれこそが新しい社会党をつくる”という視点で組織しようとしていたのである。だが、地方議会から国会に到る議員の系列、地方労組から全国単産に到る民同労組幹部の系列で組織されている社会党のなかに、革命家はいなかった。われわれは、六四年の “入党運動“を通じて、実に二〇〇名の青年党員を党に送り込んだ。彼らは、自分達だけが党の革命的カードルなのであって、他には働きかけるべき対象すらいないのだという事実を発見せざるを得なかった。利害で動きまわる派閥の他に、獲得すべき党の実体はなかった。われわれの努力は、“サイの河原で石を積む”ことに似ていた。党の大衆化のためにわれわれが積み上げた成果は、すぐまた次の裏切りによってぶち壊されてしまうのであった。
 この矛盾を突破するために、われわれは社会党内分派闘争を激化させようとした。既成の派閥を打破して、党内に革命的指導権を樹立しなければならない。しかしそのためには、党のなかに大衆的なエネルギーが流れ込まなければならない。ところがその大衆的なエネルギーは、党を信用してはいずただわれわれが“社会党を支持せよ”と語る分だけ支持するにすぎなかったのである。
 統一労組運動、社青同運動、原潜、日韓闘争に比類ない戦闘性を見せた三多摩の青年労働者達は、ついに、一度たりとも、自らのエネルギーで社会党をみたして、健康で志気さかんな党内闘争に参加するところまで到達しなかった。社青同内で協会派と対決すること、それは結構だ――だが、何故社会党のような「ヒヨリミ」を相手にしなければならないのか――彼らはこの素朴な実感、しかも正当な直観を、最後まで放棄はしなかったのである。
 このことでは次のような実例がある。六五年の闘争で、三多摩社青同のメンバーが、二度にわたって、社会党の幹部に暴行を加えた。一度は三多摩の社会党幹部の都会議員が、解散地点でのジグザグデモをやめさせようとして袋たたきにされ、負傷した。われわれは翌日、お見舞いを持って謝りに行った。また一度は国会前のデモで、いつまでたっても出発を許されなかった西多摩の統一労組員達が社会党本部の執行委員をなぐりとばし、「こんなつまらないデモがやれるか、お前らがいるから社会党は革命ができないんだ、かえろうかえろう」と捨てゼリフを残して、電車にのって帰ってしまったのである。

 三点にわたる基本的な矛盾をかかえながら三多摩社青同は、六五年のたたかいに突入していった。これからの組織活動を、全人民の獲得にむけてきずき上げていくべきであり、社青同も、現在の数倍にあたるような規模に拡大する必要がある。強大な三多摩根拠地をつくり上げて全国分派闘争へ出陣しよう、という “攻撃的”な意志統一が、分室指導部の間でかわされた。
 この大胆な大衆組織化の指標として、六六年一二月までに、三千名の同盟員、六千名の「改悪阻止・青年の会の会員」を獲得すること、一万二千名の社会新報読者を拡げること、このため、社青同三多摩分室に八名の専従者を置き、一千万円の規模の予算を組むこと、などが提案された。
 こうした組織建設運動を推進するために、短かくてわかりやすいスローガンが必要だ、創価学会は、「折伏」と名づけて組織拡大をやっている、われわれの場合は・・・と思案したあげく、「赤化」という名前が提案された。「赤」は労働者の旗、血、思想を示す色であり、「化」は、「自らを他と統一することによって、他を自らに獲得する」姿勢を示すものである、ということになった。
 六五年一月、三多摩分室執行委員会は、「赤化運動基本方針」を発表した。
 この文書は、全体で三章にわかれ、第一章は、「総反撃、全面攻勢に立ち上ろう」と題されて、情勢の基本的把握を整理している。
(1) 激動の時代の開始
 (高度成長の終り、日本帝国主義の巣立ち、数年にわたる連続的激動、日本帝国主義復活か、プロレタリア革命か)
 「・・・全国民は、労働者を中核として強大な戦線に結集し、社会の深まり行く矛盾をプロレタリア革命の成熟の条件に転化させ、世界先進国最初のプロレタリア独裁樹立に成功するだろう。この時全ての青年は、中国、朝鮮、ベトナムの革命的労働者、農民と団結し、他界帝国主義の最後的打倒による社会主義世界実現のために、その生命と青春を、大きな誇りと喜びをもってささげるであろう。」
(2) 青年大衆をとらえつくさねばならぬし、とらえつくすことができる。
第二章は、「変革の運動・赤化」と題してこの運動の性格づけをしている。
(1) 言葉と運動
 「ひからびた思想は、ひからびた言葉をしかもたない。その言葉は、大衆の精神をとらえることができない。
 マルクス主義者を自称する人々の中に、言葉にたいする誤った考え方が広く存在している。この人人は、大切なのは内容である、というそれ自体正しい常識をふりかざして、言葉をそまつに扱う。
 だが、我々は違う。
 我々の思想に力があるなら、その証明は、言葉が力をもつことによって示されるからだ。」
(2) 変革の運動・赤化
 「赤、という言葉は、プロレタリアートの闘いの精神である。
 赤は、闘いに流された労働者・人民の血の色であり、いかなる弾圧にも耐え抜いて守り通された、革命と団結の旗の色である。プロレタリアートの軍隊は赤軍と呼ばれ、プロレタリア革命は赤色革命と呼ばれる。・・・・
 化という言葉は、変革の言葉である。それは単なる拡大でもなければ、単なる変化でもない。
 化とは、自らの力によって他を変革し同時に再び自己を変革することである。
 変革する主体と、変革される対象とが一つに結合して、強大な力となることである・・・」
 「赤化運動は、いかなる内容を持っているか。
 第一にそれは、自らの革命である。・・・
 第二にそれは、他の青年を変革することである。・・・
 第三にそれは、同盟の建設である。同盟の中に巣食うあらゆる日和見主義分子とあくまで闘い・・
 第四にそれは、職場と労働組合の革命化である。・・・
 第五にそれは、全ての青年大衆を政治的に組織することである。大衆の遅れた部分や進んだ部分にたいして、それぞれの段階に応じた組織と行動を提供し、同盟を核とする強大な大衆組織の結合体をつくりあげることである。」
 第三章は「赤化運動の展開」である。
(1) 運動の全体
 a 目的
 b 目標
 c 方法
(2) 三闘争
 「赤化運動は三つの闘いの統一である
 第一に、思想闘争・・・
 第二に、組織強化闘争・・・
 第三に、拡大闘争
(3) 六分野
 第一分野、同盟員拡大
 第二分野、改憲阻止青年の会
 第三分野、社会新報読者
 第四分野、婦人運動(婦人会議)
 第五分野、文化運動(サークル)
 第六分野、高校生(働く高校生の会)
(4) 一二指針
 (1) 学習の徹底
 (2) 指導の統一
 (3) 幹部の形成
 (4) 目的意識性と計画性
 (5) リストアップ、個別オルグ
 (6) 調査と対策
 (7) 準備の徹底
 (8) 任務配置、点検、総括
 (9) 系統性と連続性
 (10) 批判と自己批判
 (11) 典型の普及
 (12) うまず、たゆまず、あきらめず、そして火をはく情熱で!

 基本方針が示しているように、赤化運動の背景にある危機感は、とくに創価学会=ファシズム予備軍にたいする警戒心と対抗意識であった。「赤化」をもって、創価学会の「折伏」に対抗しようとしたのであった。未組織労働者の組織化を運動の中心に据えていた三多摩社青同は、多くの職場や地域で、創価学会勢力とぶつかり、競合していた。この段階では、民音との対決よりも、創価学会との対決の方が、現実感をもっていたのである。未組織労働者・底辺労働者の大群を、ファシズムが獲得するのか、プロレタリア革命が獲得するのか、ここに、来るべき数年の二者択一がある――これが、「赤化」方針の根底にある情勢認識であった。
 六五年一月、社青同三多摩分室旗びらきに集まった社会党の役員、議員さん連中は、びっくりした。聞きなれない「赤化」という言葉を、愛すべき社青同の諸君が口々に絶叫しているのである。なんだか、「共産党のようだな」と、彼等は感じた。そしてこれが、三多摩の社会党幹部諸君が、せっかく手に入れたと考えた青年活動家達を、やがて一人残らずふたたび失なってしまうことになる激動の出発点であったことは、未だ誰にもわからなかった。

 B 五・一八事件

 赤化運動の名で取り組まれた組織拡大運動は、充分な成果を上げなかった。一人で十名以上の同盟員を拡大して、「赤化男ナンバーワン!」と賞賛されたオルグもいたが、分室全体としての運動の構造的矛盾が、解決されていなかった以上、組織は減りこそすれ大衆化はしなかったのである。
 分室は、統一労組をやっていたIを書記長にすえ、Kを地本専従に送り出して、協会派との分派闘争に進出していった。Kが移籍した杉並支部は、協会派の最大拠点の一つであり、ことにその岩崎通信機班は協会派の「職場闘争主義」のモデル班となっていたのが、Kの杉並支部加入とともに、岩通班の全部をふくめた杉並支部の半数が左派に移行し、協会派は深刻な打撃を受け、「三多摩のトロツキスト」にたいする憎悪は、いやがうえにも増大した。
 大衆的基盤は広がらないまま、赤化運動のなかで三多摩社青同の政治的戦闘性は、急速にすすんだ。統一JRの指導権を握った太田は、連日三多摩に起居して活動家の下宿をまわり、「米中対決、第三次大戦の切迫、革命的反戦闘争の重要性」をアジりつづけた。
 四月二六日、ベトナムへのアメリカの介入のエスカレートのさなか、「ベトナム戦争反対」の集会とデモが行なわれた。「ベトナム革命支援」のスローガンのもとで燃えに燃えていた三多摩社青同と、この三多摩の一連の街頭政治闘争における突出に刺激されて六四年後半から急速に左旋回した解放派は、四・二六闘争を「アメリカ大使館突入」闘争としておこなうことを決定した。
 三多摩社青同は、四・二六闘争に総力をあげることを決定した。社青同三多摩行動隊は、参謀長I、行動隊長Kの連記で、次のような指令を発した。
 社青同三多摩行動隊緊急指令
 行動隊諸君!
 及び社青同三多摩分室の旗のもとに結集している全男子同盟員諸君!
 ・・・・
 我々は、韓国人民の死をかけた闘いのみに日韓会談粉砕の闘争をゆだねてはならない。
 我々は、アメリカ帝国主義との闘いをべトコン(当時は左翼をふくめてこの言葉をつかっていた)の青年、婦人のみに闘わせてはならない。
 まさに我々は彼等と共に、その最前線に立ち闘わねばならない。
 総評のイニシアをにぎる民同指導部は、四・二六総決起において、かならず、アメリカ大使館よりはるかかなたから、歌と数度の遠慮がちなシュプレヒコールのみで、十万の闘おうとする人民を圧えつけ裏切るだろう。我々はこのような一貫した裏切りをもうこれ以上断じて許してはならない。二六に結集した十万の人民を、反戦意識から、反アメ帝、反日帝へとさらに連続的に高めさせるには、彼ら自身の力で、直接国家権力と街頭においても徹底的に闘わせることなのだ。
 ・・・・
 しかしアジのみで彼らは動きはしない。彼らの眼前で、国家権力のいかなる暴力にも決してひるまず断乎としてひるまず、力で粉砕していく部隊の決然とした行動隊が必要なのだ。「この部隊こそ、行動隊なのだ!」
 ・・・・
 東日本にその名をとどろかした三多摩行動隊は、今や壊滅寸前である。この決定的時期において、今こそ、再建強化せよ! 戦闘的行動隊を、我々三多摩社青同の主に男子同盟員の決起でつくり出せ!」
 当日夜、三多摩の部隊は、四〇名の年休動員者を行動隊に任命し、あとから参加した部隊とともに独自部隊二四〇名、労組動員五〇〇名の規模であった。宣伝カーには投石用の石、門をこじあけるためのペンチ、バールその他の道具、また金属工場の同盟員が会社の資材倉庫から盗んで来た “十万手裏剣”のような歯車を積み込み、ヘルメット、半長靴などで“武装”した三多摩の部隊とともに、東京地本全体で約五〇〇も六〇〇の部隊が“今夜はやるぞ”というふん囲気で殺気立っていた。
 だが、こうした社青同の“計画”を事前に察知していた警視庁は、いち早く予防弾圧に出た。はやくも首相官邸に到る前に最前線の指導部は次々と逮捕され、アメリカ大使館にむかう坂の途中で、第二、第三の指揮官もことごとく逮捕され、行動隊の先頭をつとめた三多摩の部隊の中心も全て逮捕されてしまった。したがって、大使館に通じる交差点でデモ隊が機動隊と激突した時には、現場指揮官不在のままで密集した肉弾と化したデモ隊が、ただ押し合いぶつかり合うだけの状態になってしまったのである。デモ隊はアメリカ大使館に到達できなかった。しかしひさしぶりに戦闘的なデモを満喫した同盟員達は、満足して意気ようようと引き上げた。逮捕者は一一名、全員三多摩であった。
 ところがである。ここにひとつの重大な問題が派生していた。四・二六デモの過程で、中執協会派と東京地本との間に、若干の暴力的衝突が発生した。中執をにぎる協会派は、六四年までは、東京地本内部で次第に激しくなって来た解放派と対決するために、三多摩分室を自派との連合にひき入れようと、再三の勧誘をおこなった。だが三多摩社青同は、単純に協会派と解放派を比較し、解放派の方が「左」であると判断していたから、行動のうえで解放派とのブロックを結んでいった。このため、六五年にはいると、協会派は三多摩分室のトロツキストを排除する決断を下していた。
 四・二六の「暴力事件」は次のようにしておこった。
 デモが出発すると同時に、三多摩の部隊が中心となっていた行動隊と、千代田支部などの協会派の若干の部隊との間に中執メンバーの数名が割り込み、本隊を制止して、行動隊と分断させようとした。これに気づいた三多摩のI、Cらは、それぞれ単独の判断で、これらの中執メンバーを実力で列外に排除した。さらに先頭にいたKやSらもかけつけ、なおこぜり合いをしている中執メンバーを、歩道上まで連れ出し本隊と行動隊を結合させる処置をとった。事件の全体はただこれだけのことにすぎなかった。もともと、戦闘にうつったデモ隊に横から介入して、行動隊と本隊を分断させるなどという処置が許されるわけはないので、三多摩のメンバーは、この事件がそれほど政治的に発展するものだとは全然考えず、気軽にふるまっただけであった。
 だが、デモ終了直後に中執は、事件を針小棒大に統制委員会に報告した。中執のKが「一時失神状態におちいり、事後指揮不能になった」とか「中封の指揮を暴力的に排除した三多摩の部隊が、勝手に独走して機動隊との激突に全体を導びいた」とかの、中傷が全国の同盟員に拡がった。統制委員会は、すぐにこの報告を取り上げ、三多摩分室のIとC、新宿支部のSの三名を「除名」、地本委員長のHに「警告」という処分が妥当であると勧告し、これを受けた中執は、直ちに勧告通りの決定を行った。
 この事件は、分派闘争に縁のうすかった三多摩社青同にとって、最初の経験であった。たしかに事件そのものに、三多摩のメンバーが非難されるべき筋合いはなかった。デモや争議で権力との対決を経て来ている三多摩社青同には、敵前分裂は許しがたい犯罪であるというモラルは、常識になっていた。機動隊の目の前で、行動隊の分断をはかるような指揮者をつまみ出すことは、当然の自衛処置であった。まして三多摩のメンバーは、それらのふらちな人物が、れっきとした中執であったとは全然知らなかった。
 この中執決定は、三多摩社青同全員の憤激を呼び起した。東京地本は直ちに独自の調査委員会をつくり中執決定が事実誤認と、規約無視にもとづくものであることを訴えた。調査委員会の報告書は、二四人の証人から得た証言に裏づけられたもので、中執側に反論する余地はなかった。しかも、社青同の規約には同盟員にたいする統制処分はその所属組織でおこなわなければならないと明記されており、中執決定で東京地本所属同盟員を除名することは、どのように拡大解釈しても、規約上許されることではなかった。こうした中執の勇み足の結果、この処分は、中央委員会によって却下され、抗争は、東京地本側の勝利に終った。ところで、この結末から学んだ協会派は、翌年には、同盟員にたいする処分ではなくて、東京地本の組織解散という新しい方法を考え出すのであるが、それは先の話である。
 四・二六事件は、三多摩社青同が、全国分派闘争の前面に登場したことを物語った。またこの事件を通じて、三多摩分室と東京地本内解放派との間に、“盟友”の関係が結ばれることになった。当時の解放派は、全逓や東水労、都職労などで反民同闘争を行っている、荒けずりだが気持の良い労働者が多く、三多摩の素朴な戦闘性と意気投合する面をもっていた。反面協会派の同盟員は、理くつが先に立って足が進まない、小ダラ幹的な雰囲気で三多摩の労働者がなじめるような連中ではなかったのである。
 四・二六闘争と、派生した統制処分問題はこのようにして一応終ったのであるが、他方三多摩分室と、その指導部であった統一JR内旧ICPフラクションは、さらに新たな闘争のエスカレートへ踏み出した。
 太田は、世界情勢が、ベトナムを焦点として、米中対決から第三次世界大戦にむかってまっすぐに進んでいると分析していた。このころの太田の口癖は、「近いうちに、ものすごいことが起る」というものであった。彼が何を考えていたのか、今ではたしかめるすべもないが、おそらく、アメリカによる核兵器の使用、中国解放軍のベトナム介入などの事態をさしていたのであろう。
 「世界戦争の切迫」という意識は、三多摩の活動の思考を圧迫する、重圧となりはじめた。ことに、彼らをのぞいては誰も、あえてそのような危機意識を持っているものがいないために、この意識を所有しているだけに、孤立感を味あわなければならない。「世界戦争の切迫」の危機意識と孤立感によって、二重の重圧のなかに立たされた三多摩の活動家が、次第に平衡感覚を失ないはじめたのもやむを得ないというべきであろう。
 五月初旬、統一JR第一回中央委員会が開かれた。議案書のなかで太田はのべている。
 「我々は二月二八日、単一の日本支部をついにかちとった。
 我々は辛うじて間に合ったのだ。我々は危うくも間に合ったのだ。いま始まりつつある政治的激動、均衡の破壊、革命前的情勢への発展の中で、階級闘争全体の主導権を掌握すべき部隊として、まさに時間切れ寸前にすべり込むことができたのだ。
 このように我々は事態の緊急性を理解する。」
 「アメリカ帝国主義がいま迫られている選択は、戦線縮少か、大戦への突入か、という所にある。この二者択一ののっぴきならぬ時点が急速度に接近している。」
 「米軍がダナンに原子砲を配備したという事実は、・・・恐るべき爆発的な事態が次の一、二ヵ月のうちに展開されるであろうと我々は判断しなければならない。」
 「我々の今日的課題は、現実に日本の労働者階級を導いて、政府危機を発展させる政治的機動を実施することである。我々はそれを拠点地区において、拠点単産においてようやく、端初的形態においてではあるが始めようとしている。我々はゆっくりと構えていることはできない。」
 「我々は次の数ヵ月の階級闘争の激化の中で、六・一五(六〇年)をはるかにのりこえるような敵権力との暴力的衝突を指導し得なければならない。街頭での衝突と『生産点での闘い』とは正しく弁証法的に統一されなければならない。『労働者階級』がゼネストを打つところ迄成熟し、しかるのちに十分に準備された武力闘争が展開される、というような図式主義を断固として克服しなければならない。
 労働者は逆に街頭で直接に国家権力と対決する闘いを通じて、企業をこえた=個別資本への憎しみをこえた階級意識へ飛躍する。」
 太田のこのような意識は、具体的には三多摩で、従来の平和運動、政治闘争の水準をこえた、「攻勢的な」反戦闘争を、実際につくり出すことが必要である、という提案となった。従来の水準をこえるとはどういうことであったか。それは、日本の大衆闘争が、直接に、米軍と対決することである、とされた。三多摩には格好の立川基地がある。立川基地に存在する米軍と直接対決しなければならない、そのためには、これまで日本の大衆闘争が足を踏み入れたことのないライン、つまり正面ゲートのイエロゾーンを突破して大衆的デモを導びき入れることが必要だ。この時には米軍が恐怖して、カービン銃を発射するであろう。日本の大衆が、米軍の手で、はじめて殺されるであろう。このことが重要なのだ。憤激が全土に波及し、すでに日米安保体制に目を向けはじめている日本の人民の、世界反革命主力たる米軍事力そのものにたいする戦端がきり開かれるであろう。われわれは、突破口をひらかなければならない――以上が、太田の具体的提案であった。
 五月一八日が、その日であるとされた。三労、社会党、共産党による反戦大集会がおこなわれるこの日の闘争を、立川基地突入にみちびくこと、三多摩社青同の全組織力をもって先端を奪い、まっすぐにイエローゾーンを突破すること――太田はこのような提案をした。
 統一JR旧ICPフラクは、太田提案をめぐって分裂した。正確に言えば、KとSが反対し、他の全員が太田に賛成した。Kは、この提案は加入活動の戦略自体に反するものであり、現在重要なことは、社青同で始まった分派闘争に備えて、組織的にも思想的にも強化する政治活動であって、戦術的イニシァティブを取ることではない、と主張した。対立は最後まで解消せず、採決によって太田提案が採用されることになった。
 三多摩社青同は、直ちに全組織をあげて、五・一八の準備に入った。何をやろうとしているかは、極秘のうちに伝達され、社会党や三労には全く知らせなかった。
 当時社青同は、いくつかの拠点労組を部分的な政治ストに突入させる力をもっていた。四・二六では、化学同盟ケミカル・コンデンサー労組(組合員約六〇〇名)を一時間の指名時限ストに入らせ、統一労組、富岡光学労組を中心に、西多摩から三三〇名の労組動員をかちとっていた。この労組動員は、それ自体社青同の指揮に従う部隊であった。
 このような組織力にふまえて、可能な職場の全てで「反戦青年行動隊」を機関決定のもとでつくらせることが提起された。前述した西多摩の各単組、八王子地区で全金と、統一労組の数分会、立川地区では市職、リッカーミシン、統一労組、全金日本電子、武三地区では全逓武蔵野、三鷹市職等、府中の統一労組北多摩地区でも三〜四の民間単組等が、こうした方針のもとに動員できる拠点単組であり、他に五〜六〇名の専従者団がいた。とくに西多摩では、富岡光学労組(約六〇〇名)と統一労組(四〇〇名)で十割動員、ケミコン(一〇〇〇名)、でも五割動員で計一五〇〇名を動員し、「反戦青年行動隊」四〇〇名を組織する体制が組まれた。「ベトコンにつづけ!」という合言葉が、全三多摩で叫ばれた。
 分室はアピールを発した。
 「五・一八闘争は目前に迫った!
 全同盟員諸君! 地元基地拡張反対同盟の“決死”のハチマキと、迫り込み支援の労働者学生の“反戦・平和”のハチマキとが固く固く結ばれ、多くの仲間の尊い血が流されながらも勝利した一〇年前の砂川闘争の伝統は、今、オレたち三多摩同盟に受けつがれている。日共・民青は大きな組織をもちながらも何ら敵に打撃を与える闘いをくまず、五・一八闘争でも、社会党、社青同の提案した立川基地抗議の大衆行動、ジグザグデモなどを含む実力闘争の方針を、ぶるぶるふるえながら反対した。職場でも職制と真向うから闘わず、街頭でも何ら闘わない彼らを、われわれは、下部戦闘的青年と共に徹底的に批判しのりこえようではないか!
 全同志諸君! 五・一八闘争にむけ最後のオルグ活動を! ビラ入れ活動を! 闘いの中で組織拡大を! そして職場の仲間を多数動員し、立川基地に対し、全員で一大抗議の闘いを行おう! 戦争の根源=帝国主義を、おれたち労働者・人民の戦闘的な闘いでとりのぞくのた!
ベトコンとの連帯、共同闘争万才!」
 (「赤化」No.15 六五・五・一四)
 一方、いったんフラクの決定に服従したKは、ひそかに、闘争の「尻抜け」を策動していた。太田の提案では、分室の最高指導部の全員が闘争の最前線に立つことになっていた。Kは、こうした方針が実践にうつされた場合、事後の協会派との分派闘争で、壊滅的な打撃を受けるおそれがあると判断した。分室執行部の中心であったIやSを個別に呼び出したKは、彼らが闘争の最前線に立たないように説得し、やる気十分であった彼らの足をしばった。このため、当日の指揮体制は、事前に中途はんはなものになっていた。
 五・一八当日が来た。砂川平和広場を出発した一万のデモ隊が高松町大通りにさしかかると、後方に待機していた社青同行動隊三〇〇名が、突然かけ足で最前列におどり出て、デモの先頭を奪った。正面ゲート前で方向を右に向けた社青同部隊は、はげしい渦巻きデモをはじめ、全く突如、イエロゾーンにむかって突っ走った。デモの先頭には、昨夜、家族や友人と「水盃」をかわしてきた(これは本当のことである)六名の「特攻隊」が、ものすごい形相で竹ザオをにぎりしめていた。予想もしていなかった警備の警官隊は、くもの子を散らすように逃げ去った。イエローゾーンを二〇〇メートルもはいったところで、三〇〇名の社青同部隊は停止して坐り込みにはいった。当日、なんの指揮の役割にも配慮されていなかったSが、ゲートの警備員のボックスの屋根にとび上って演説をはじめた。だが、「予想外」にも、これらの事態にもかかわらず、米軍はまったく姿を見せなかった。三労のデモ隊は、「危うきに近寄らず」とばかりに、急ぎ足で解散地点へ流れた。なにが起っているのか、さっはりわからずに、「可愛い社青同」の後に続いて来た西教組の部隊が、遠まきにこの坐り込みを見ていた。われわれのヘゲモニーのもとにあるはずの労組部隊とは、なぜか合流できなかった。そのうち、急を聞いてかけつけた機動隊が、排除にかかった。三〇〇の社青同部隊は、米軍と対決するはずであった。カービン銃で撃たれるはずであった。機動隊とけんかすることになるとは、夢にも思っていなかった。全員拍子抜けの状態で、また、「助かった」という思いとともに、易々と機動隊によって排除された。六名が、「刑特法違反」の現行犯で逮捕された。こうして、五・一八は終った。
 これまでの水準をこえる「攻勢的」闘争は不発であった。米軍は、その治安を深く日本の官憲にゆだねており、太田よりも、もうちょっと政治的に利口だったのである。立川米軍は、三多摩社青同の挑発には指一本動かさなかったのである。
 だが、この五・一八闘争こそ、はりつめ、のほりつめて来た三多摩社青同の街頭突出闘争の最頂点であった。これ以後、反動がおそった。深刻な志気沮喪と、組織の遠心化が、次第にひろがっていった。“死を決意”した主観的意図が、ドンキホーテの妄想のような肩すかしにあったことが、はりつめていた緊張を一挙に弛緩させ、疲労が前面に出て来た。
 もしこの闘争が予想通りの結果になっていたとしたら、事態は、少しはちかっていたかもしれない。だが、闘争の政治的獲得物は、まるでなかった。そのかわり、孤立は深まり、社会党内部からの批判が高まった。むろんそのことも予想していたことではあった。五・一八を踏み台として、社会党内分派闘争でもわれわれは攻勢に出るはずであった。しかし現実の闘争の不発の前に、“攻勢”の口実は失なわれた。
 当時、社会党分室のオルグであったYが、五・一八直後、分室事務所で、社会党の指導者であり、われわれのもっとも良い協力者であったI氏の悪口をさんざんのべ、「Iも結局社民だよ!」とののしったことがあった。隣室でこれを耳にしたI氏は、すぐ駆け込んで来て、Yにむかって、「今言ったことをもう一度言ってみろ!」と要求した。Yはしどろもどろに、「それは誤解ですよ」と平謝まりした。攻勢に出るはずの分派闘争も、こんな調子だったのである。
 五・一八闘争をさかいに、統一JR内部の旧ICPフラク自身に、分化かはじまった。五・一八闘争の総括をめぐって、つき出された問題は、加入活動の総路線に関するものとなっていた。太田の路線をつきつめれば、加入活動が早晩、事実上終結することになるのは目に見えている。その場合、独立の党建設の準備が、一刻も早くなされなければならない。ところが太田は、ますます深く社会党のヘゲモニーを取れという組織方針しか出してはいなかった。
 大衆闘争の戦術と組織路線とのあいだに、深刻な矛盾が発生していた。総評、社会党の“反戦闘争”も春闘終結とともに急速な鎮静にむかった。加入活動を続けるのか、どうか――すでに状況は、その問題に直面していたのだ。それにもかかわらず、まだ、問題をそのような側面で根本から検討して見ようとするものはいなかった。太田をふくめて、加入活動は大前提であった。加入活動の前提のうえで、しかも五・一八型の闘争を追求していくことができるという考え方のなかには、じつは、社会党そのものにたいするどうしようもない甘い期待が、幻想がひそんでいたのである。

 C ケミカル闘争

 青梅市内・東青梅に、日本ケミカル・コンデンサーという会社がある。テレビ・ラジオのコンデンサー部品の製造メーカーであり、六五年当時、従業員は約千四百名、年商が十四〜十五億円であった。
 ケミカル労組は、化学同盟に参加し、組合員は約千名であった。同じ青梅市の冨岡光学労組(化学同盟)、統一労組西多摩支部とともに、社青同の重要拠点の一つであり、同盟員は最盛期六〇名を数えた。このケミカル労組が、三多摩社青同全体が米中対決・ベトナム革命支援の政治闘争に突入していった六五年に、七六日間の全面無期限ストをたたかって三多摩労働運動の焦点になった。
 七六日間の会社占拠、全面無期限ストというケミカル闘争は、社会党、民同の指導と保護下ではじめは育成されてきた社青向が、ついに、自らの独自の方針のもとで労働運動をたたかいぬくに到り、それが、既成労働運動の拠点に及んだことを劇的に示したという点で、頂点をなしたものであったが、同時に、未組織労働者の組織化の運動領域から出発して組織労働者の運動の指導権に挑戦した社青同運動が、反合理化闘争という巨大な壁にはじめて大規模にぶつかって、敗北を経験し、それ以後の社青同運動の崩壊の端緒となったという点でも、画期をなすものであった。
 ケミカル労組は、当初完全な御用組合であったのが、六一年、旧執行部が会社の役付に迎えられて退陣したのをきっかけに、若い、戦闘的な組合に転進した。社青同は、この生れ代ったばかりのケミカル労組の若手活動家を、統一労組運動にひきずり込み、未組織労働者の生々としたエネルギーと運動に感染させそこに、社青同の“革命論”をたたき込んで、政治的に組織した。したがってケミカル労組の労組としての歩みのはじめから、三多摩社青同は組織的に介入していたのである。六一年春闘では、四七〇〇円の賃上げ、臨時工制度の撤廃、完全月給制、査定の排除と生活給を主体とする賃金体系、化学同盟加盟をたたかいとり、以後、六二年春闘では二四〇〇円(スト三日間)、六三年春闘では一八〇〇円(スト七日間)、六四年春闘では会社のロックアウトをはねかえして無期限ストに突入し、四一〇〇円(部分スト十日、全面スト一二日)を獲得した。こうした大巾賃上げ闘争の結果、ケミカルの賃金水準は女子労働者(全従業員の八割)に関しては、東芝、日立の水準をぬき、下請各社の労働組合がケミカルの指導下にあるコンデンサー労協にひきつけられていくという成果を生んだ。
 このような事態は、二つの側面から資本の陣営にとって重大な脅威になった。まず電機独占にとっては労組の力量の増大と賃金コストの上昇は、直接下請企業であるケミカルの存在価値が低下するとともに、自社の労使関係をも悪化させかねない危険を意味した。六四年春闘妥結直後、日立資本はケミカル経営者にたいして、「争議の早期解決は当社も望むところであるが、ケミカルの労賃が上昇したからといって日立としては何等その結果について責任を負うものではない」という警告の手紙を送った。事実日立は、他の部品メーカーとの関係を強め、発注も漸減した。他方ケミカルの闘争の発展は、地域の中小企業にとっても打撃となった。ケミカルの賃金上昇と活発な労組の存在は地域の若手労働者にとって大きな魅力となり、青梅市の伝統産業であるハタヤさんをはじめ中小企業の人手不足に拍車をかけた。また、ケミカルの賃金闘争が西多摩地区の地場賃金の相場づくりの役割を果たすため、地域資本からのケミカル経営陣にたいする圧力がつよまっていった。
 こうした圧力のなかでケミカル経営陣は、六四年秋、本格的な組合対策にのり出した。
 六四年八月、彼らはそれまで空席であった労務課長に三井芦別炭鉱の倉金某をむかえた。九月、社長は“労使協調し得る最終案”という名目で、全員株主制と社内預金制を提案、同時に、小型コンデンサーの大量生産と国内国外市場への進出をめざした、完全オートメ化の構想をうち出した。組合はこの“最終案”を拒否した。十一月末、会社は下級職制を大量に配置し、一二月に職制手当を五割アップした。年が明けると会社は、毎月一日、一五日に朝礼をおこない、社長の訓辞、君が代の斉唱、東方礼拝、天つき体操を強制した。しかも、始業時五分前集合ということで、労働協約が公然と破られた。
 一連の攻撃にたいする組合執行部の反応は鈍いものであった。この攻撃が、戦闘的組合としてのケミカル労組を、あわよくばつぶし、少なくとも労使協調の路線にしばりつけることをねらった正面攻撃であり本格的な分裂工作であることを見抜けなかった執行部の妥協路線のおかげで、会社の意図は実現していくかに見えた。
 反撃を開始したのは、この年を世界的な対決の年としてとらえていた社青同であった。社青同ケミカル班は、朝礼拒否を呼びかけ、職場闘争を組織した。朝礼拒否闘争は、すでに会社のやり方の本質に気づいていた圧倒的な女子労働者を引きつけ、朝礼はつぶされていった。会社の攻撃は、一頓挫した。職場闘争の波にのった組合大会は、三五〇〇円(定昇別)の賃上げ要求と同時に、三名の組合専従制の要求を決定し、会社と交渉にはいった。すでに組合員大衆は、六五年春闘の本質的な争点が、組合を守りぬくのか、四年前の無権利状態に戻るのかということにあり、春闘は組合を強化するたたかいにならざるをえないことを自覚しはじめていたのである。
 会社は、賃上げに関しては定昇のみを実施するというゼロ回答をつづけ、社長は一回も団交に出席せず交渉の中心になっていた副社長は途中で渡米してしまった。さらに、組合員内部の職制分子は、「不況の最中に賃上げは無謀だ、今の執行部はアカに牛耳られている、スト権確立に反対」との分裂工作を活発に展開していた。
 四月二日、千余名の組合員がギッシリつめかけるケミカル工場の中庭で、スト権確立大会が開かれた。統一労組組合員も支援に来ていた。批判派のS、A、Bなどの発言は、ヤジと怒号でかきけされ、一一〇〇票中、反対一二〇の圧倒的多数でスト権は確立された。四月一三日の団交決裂後、一五日に抗議ストをうち、以後無期限部分ストに突入、四月二八日、社長出席を要求した最終団交が開かれた。席上社長は、賃上げにたいしてゼロ回答、他の諸要求にも全く返答を拒否した。「組合の体質が改善されなければ話し合いには応じられない。俺の作った会社だ、俺がつぶして何が悪い。」これが、社長佐藤の発言であった。
 四月二九日、ケミカル労組は、西多摩はもとより、三多摩労働運動史上にのこる大争議に突入した。全面無期限ストに突入した組合員は、社旗をひきずりおろして赤旗をかかげ、工場占拠した。全組合員に任務が与えられ、アルバイトで闘争資金かせぎをするもの、地域や産別の仲間にオルグに出かけるもの、闘争ニュースを発行したり、ビラをつくるもの、構内デモやステッカーはり、経営者の自宅付近への抗議行動、住民や下請業者への説得活動など、多忙で多彩なストライキ行動がくり広げられた。全体集会が定期的にひらかれ、きめのこまかい職場単位の討論会や学習会が行なわれた。地域や産別の仲間達は、職場がおわると駆けつけてきた。三多摩うたごえ行動隊は、アコーディオンと歌集をもって常駐し、たたかいのあいだじゅう歌声を絶やさなかった。婦人会議の仲間は文集をつくって全三多摩の婦人労働者に頒布し、ケミカルのたたかいがまさに八〇〇の若い婦人によってになわれていること、三多摩の婦人解放のもっとも熱い息吹きがここにあることを訴えた。
 ケミカル・コンデンサーはいまや労働者の砦であった。目に見える、労働者の世界であった。一人の活動家は、闘争のなかで次のように書いた。
   <すばらしい生活>
     木下ナカ子

なんとすばらしい
   毎日だろう
なんと苦しく
   きつい毎日だろう
それを苦痛に感じないほど
   闘うことに
生きがいを感ずる
   無期限スト!!
ポールから社旗をひきずりおろし
赤旗をなびかせたって
誰にもおこられない
オズオズしなくたって
自由に事務所の中を
歩きまわれる
こんなに、そくばくのない生活が
今までにあったろうか
ビニールハウスをおったて
自由にマイクをとりつけて
言いたいことを
ガンガン訴えられる
ストライキとは
まさに労働者の世界だ
     一九六五・六・九
 だが、危機が同時に進行していた。 ストライキが二〇日を越えた五月上旬の時点で、会社側は全面的実力対決の高姿勢をくずさず、組合員は、この春闘が「昨年なみ」の春闘ではないことに気づかされた。組合員の内部には、動揺が始まった。戦術をめぐる討論がもちあがった。
 社青同グループは、戦術転換を主張した。全面ストをおろして、「部分重点スト」にきりかえろ、というのである。執行部多数派は全面ストに固執した。社青同派の見解は、この闘争が、単純な賃上げ闘争ではなく、反合・権利闘争の本質をもっていること、会社側にとっても企業の命運をかけた再建プランのための組合攻撃であり、ひくにひけないものであること、したがって不可避的に長期闘争であること、こうした闘争の本質を見すえたうえで「実効性を欠くダブツキ闘争の領域・力の浪費」を避けて、「キリのように鋭い、最少の力で最大の効果をあげる」闘争を堅持しつつ、組合員の再結集と闘争体制の再編をおこない、さらに闘争の孤立をさけるために地域・産別へのオルグを拡大せよというものであった。これにたいし執行部多数派は、基本的には昨春闘型の決戦思考にとらわれており、会社側から妥協をひき出すまでいっきに突っ走ろうという戦術の枠をたてていた。しかもこうした思考の裏には、組合員の闘争エネルギーにたいする不信がひそんでおり、全面ストをおろすと組合員が分裂して、敗北の道をころげおちることになりはしないかという深い懸念があった。
 論争は、執行部多数派のもとでおさえつけられて組合員全体にはひろがらないまま、五月中旬には組合員の動揺はますます深くなっていった。組合員の家族のあいだでも、会社が倒産するのではないかという不安がまんえんし、生活資金の不足になやむ声か高まり、組合にたいする非難が出はじめた。社青同はこの状況のなかで、拡大闘争委員会だけではなくストライキ委員会を組織して全組合員の主体的な闘争参加を保証し、第二組合の危険に対処することを訴えたが、採用されなかった。
 会社の高姿勢はつづいていた。会社のねらいは明らかに組合破壊であった。長期にわたってゼロ回答を堅持し、組合員の闘争づかれと不安感の増大をまって第二組合の結成にもち込もうとしたのである。この意をうけた三名の元組合役員、S、H、Tは、動揺のひろかっている組合員の内部で指導部批判、闘争批判を公然と開始した。第二組合にむけた工作である。
 ようやく六月にはいって、本格化した第二組合工作に直面して、執行部と拡大闘争委員会は、三名を呼んで問いただした。三名は、拡闘の席で涙を流して謝罪し、「資本の側に身を売る行為は二度としない、皆と共にたたかいます」と誓約書にサインをした。だが同時に彼らは「われわれと同じ考えのものがまだまだたくさん居る、私の首をかけても解散させるから、会合を持つ事を認めてくれ」と嘆願し、職場委員のゴウゴウたる非難にもかかわらず、組合執行部はこの要求に屈した。社青同は「皆の手で、毒蛇のような第二組合を完全にたたきつぶすまで力をゆるめるな!」というビラをまいたが、組合執行部は「第二組合」というきめつけはあやまりであるからそのビラはまくなと要求してきた。ここにも表現されているように執行部多数派の危機感はうすかった。闘争全体を反合闘争、権利闘争としてではなく、賃金闘争として短期決戦で勝利しようという思考が現実に破産しつつあるなかで、闘争の新たな焦点に第二組合問題が浮び上って来ている事実を、彼らは理解できなかったのである。
 Sを中心とした組合批判派の会合は、六月六日にひらかれた。結論は、六九名の組合脱退届であった。
 「首をかけても解散させる」という三名の謝罪がニセモノであって、彼らが解散させようとしているのは組合自身なのだということがバクロされた。
 組合員は、裏切られたことを知った。ダマされたといきどおった。怒りが爆発した。執行部の甘い見通しは、事実をもってくつがえされた。きわめて迅速に、社青同の指導のもとで大衆的な調査団と抗議団が編成され、第二組合幹部の行動を完全にストップさせ、大衆的に第二組合員をオルグし、組合員自身の手で敵の正体をバクロするたたかいかはじまった。
 調査・抗議行動は徹底したものであった。脱退者の中心部分には、二四時間監視体制がとられた。組合員のなかでは第二組合についての学習会がひんはんにおこなわれ、組合員大衆の脱退者にたいする階級的怒りはかき立てられていった。
 「執行部の方針に基づき、私達三十数名の女子グループは調査団と名付けられ、第二組合の行動監視をして、これ以上第二を増さないため、一日二交代で八時間の張込みを行って来ました。私達はAとBのグループに別れ、その中で三人〜四人の班を作って第二の指導的立場にある人の家に行くのです。
 私達が初めて張込みに行ったのはHの家でした。私はHがどんな顔をして、また私達にどんな態度に出るかチョット興味がありました。
 Hの家につくと、まだ交代の時間前なのに交代の人達かいないのです。しかたなくHの家の玄関先に新聞紙を敷いて座り込みました。そして交代の人を待つこと約二時間、日が家に居るのか、居ないのか調べることもできません。そのうちおなかがすいてきました。でも三人のうち二人が前の日泊り込みだったのでお弁当がありません。一人分のお弁当を三人でわけて座り込んだままたべました。
 通る人は大人も子供も皆んなふりかえって見てゆくのです。恥しいけれど気にしないことにしました。
 Hが交代の人につきそわれて帰って来ました。私達は立ち上って『どこへ行っていたの』と聞くと、『歯医者と多摩川まで、時間オーバーだけとついてたわ』と言いました。『ごくろうさま、じゃあ会社に帰ってよく報告してね』その人達は帰ってゆきました。Hは私達に『まあ上れよ』と言ったのでHの部屋にゆきました。Hは最初から私達になれなれしく話しかけて、レコードをかけたりアルバムを見せてくれたり、お茶を出したり、私達をバカにしているとしか思えない。
 私達はHに『あんたはだてで拡闘で謝まったの、あれは最初から組まれた芝居だったんでしょう』『組合にもどって来いなんて死んでもいいたくない。ウラギリ者!!』『野球部に入っているあんたがこんなにヒキョウだとは思わなかったわ』『拡闘で謝まったと聞いた時だって、私は最初から信用してなかった。あんたみたいな会社に飼われたネコみたいな心が変るはずないじゃない。どんなヒキョウなことだってできるもんね』私達が言うとニヤニヤ笑っている。『どこで集まるの、どんな方法で連絡してるの? 電話?』日はニヤニヤ笑って『僕は第二組合なんて作りませんよ。脱退者で集まったこともない』そして『僕は拡闘で謝まったけど、執行部についてゆくとはいいませんでしたよ。謝まっても執行部の批判はするつもりだった』と言うのです。また反対にとぼけて『いつごろからこういうことをやっているの? だれの指導、何人ぐらいいるの』と聞くのです。まったく油断もスキもありゃしない、私達はいいたいことを言ってしまったので、そっぽを向いてだまっていました。
 それから長い間、だれもだまっていました。フト見るとHは横に寝そべってイネムリをしているのです。まったく神経の太い男、そんなHを見ていると腹の底から怒りかわいてくる。気が付くとほかの二人もじっとHを見ていました。
 私達の目は憎しみがこもっていたでしょう。
 やがて四時がきて、私達は日に『もう帰る。毎日、毎日くるからね。あんたなんかノイローゼにしてやるからおぼえといてね』私達はHの家を出ました。」(「七六日間の闘いL ――日本婦人会議ケミカル分班発行M・K)
 脱退者の活動は、ほば完全に封じられた。六九名の脱退者のうち、五七名が職制であったため、組合の側からの大衆的な抗議行動と説得にあっても、復帰したのは二名にとどまったが、第二組合結成の工作は事実上挫折した。
 長期争議には、幾度も組織危機が生まれる。第二組合は、こうした危機の頂点を形づくり、組合を崩壊にみちびくものである。だがケミカル労組の場合には、第二組合結成のための陰謀は、事前に摘発され、封じ込められた。それは、統一労組運動を通じて幾度も第二組合、御用組合との対決を経験している社青同の、一貫した二組粉砕活動に負うところが大きかった。こうして、この時点ではケミカルの二組勢力の登場は、動揺のひろがっていた組合の団結をもう一度かためさせる契機となったのである。
 ケミカルの二組はなぜ敗北したか。その第一の理由は、ケミカル労組の主力である女子労働者にたいする影響力をもらえなかったことであった。第二の、より本質的な理由は、経営者の争議方針が分裂していたことにあった。経営者もまた、組合と同じように二つの陣営にわかれていた。佐藤社長を中心とする勢力は、長期戦派であり、組合活動そのものを完全に粉砕していくまでねばりづよく耐えようという考え方である。この考え方は二組の戦術的な利用価値を重視するのではなく、会社自身のねばり勝ちにもちこもうとし、ゼロ回答をつづけて組合の自壊を待つというものである。もう一つの勢力は副社長を中心とする短期決戦派であって、第二組合を最大限に利用して組合に打撃を加え、早い時期に収拾にもちこみたいとする考え方である。
 第二組合派が包囲され、孤立してしまった結果、資本の側の短期決戦派は妥協路線に転じた。
 六月一〇日、団交が開かれた。会社側は、解決できるものから解決するということで、「組合専従増員問題」、「生休問題」などについての妥協をほのめかしたが、賃金問題では定昇以外のゼロ回答は変らなかった。争議はふたたび膠着状態におちいった。組合の力は限界に来ていた。組合の側にも、会社側にも最後の決め手が欠けていた。二ヶ月をこえるストの結果、すでに今期の赤字が、一億八千万に達すると予想されていた。
 第八回団交の席上、会社は企業閉鎖をほのめかしつつ、最終案を提起した。
 ・賃上げは定昇のみ。
 ・解決金五〇〇〇円。
 ・一時金一ヶ月、分割。
 ・専従、生休は継続審議。
 ・座禅、朝礼は廃止する。
 ・争議の責任は追及はしない。
 ・完全雇用(合理化にともなう人員整理はしない)。
 脱退者と課長たちは、六月一八日〜二二日にわたり必死のオルグをおこなった。それは「今組合を脱退すれば、あとで雇う」というものであった。会社側が、半ば本気で企業閉鎖を考えていることが明らかになった。組合は、戦術転換をするか、全面屈伏するのかをつきつけられた。限界に来ている組織力からして、最終案をけって企業閉鎖をひき出し、自主管理までつき進むことは不可能であった。
 組合執行部多数派は全面就労の方針を提起した。「二ヶ月半の闘いは、われわれの身体の中にしみ込んでいる。このエネルギーは、次の闘いにふたたび立ち上る力だ。闘えないところからこれだけ闘ったんだ。なにもとれなくてもいいではないか。」
 社青同は、「六・一九勝沼集会」をひらいて事態を検討した。状況が、たしかに「全壊の危機」にあることを、社青同は認めた。闘争の一定の収拾が必要であることを、それは意味した。だがそこから先になると、社青同の方針は執行部案と全面的に対立した。
 就労する場合、対決は職場に移される、いつでも全面的な反撃に立ち上ることを確認しつつ、闘争体制をくずさず、「武装して入城する」「正規戦の陣型をくみつつ、戦闘の中心をゲリラ戦へ」――これが社青同の提案の骨子であった。スト権を確立したまま、就労せよ、同時に職場闘争体制をきめこまかにつくり出し、第二組合糾弾のたたかいを継続せよ――「武装入城」方針の内容は、このようなものである。「全壊の危機を出発点に、要求の旗をかかげて、長期抗戦に立ちあがろう! ケミカル勝利のための六・一九勝沼集会」と題するパンフレットのなかで、この方針は詳細にのべられた。機関メンバーをのぞく八〇名の同盟員とシンパが、このパンフレットに署名した。
 拡闘の議論のなかで、社青同派は敗れた。組合員の闘争づかれにのった執行部方針が、多数を制したのである。二ヶ月半の闘争は、収約にむかうことになった。部分スト一五日、全面スト六一日の長期争議はここに幕をおろすことになった。収約大会は二日間にわたり、激しい討論かつづけられた。
 「今、収約することの危機を訴えている仲間、次に来る闘いに向ってエネルギーをたくわえておくために、今妥結した方が良いという仲間、こんなにも徹底したすばらしい討論の場を見たことがなかった。これは二ヶ月半たたかいぬいたたくましい労働者の、ほんとうの姿だった。」(M・M)
 争議のバランス・シートはどのように出るだろうか。会社側の意図が阻止され、重大な損害を受けたことは事実である。組合もまた要求を貫徹できなかった。結論は、次の時期にのばされたのである。ついに公然化できなかった第二組合を、会社は機会をうかがって登場させようとするだろう。数年で交代してしまう女子労働者が主力となっている組合の力を、職場闘争のつみ重ねによってどのように残していくのかここに試練がある。だが、いずれにせよ組合は、闘争のなかで多数の活動家を得た。これは大きな財産である。
 収約を決定した大会の翌日、組合員自身の手で大掃除をした。力いっぱいたたかった争議の後始末を、自らの手で最後までやり抜くのである。
 「二ヶ月半の闘いのよこれをおとす作業がはじまった。
 ゼロ回答に頭にきて、構内中に貼ったビラも色あせて、今日は皆んなの手ではがされてゆく。生活対策に使われたビニール・ハウスも、ピケ小屋も、こわされてゆく。苦しい闘いの中で一時のゆとりをもたらした演芸会、インスタントで作った舞台も姿を消した。
 ごみの山がめらめらと燃えあがって、二ヶ月半の闘いに使われたものが次々と灰になってゆく。
 思えば、なんと長い闘いたっただろうか。限りなく物心両面のカンパを送ってくれた仲間、反戦・反合理化を目ざして、ケミカル支援で同情ストを打った仲間、連日交流会に来てはげましてくれた仲間、教え子よガンバレと支援にかけつけた先生、全三多摩の仲間が集まった総決起集会……。
 脱退者への憎しみ、日比谷にカンパ活動に行った時の恥ずかしさ、逆オルグに行って活動家となって帰って来た仲間、調査団となって活動した仲間、機関紙“いしずえ”発行のために徹夜してガンバッタ人。ふるえながら張った夜中のピケ、雪がちらついていた頃、春闘の職場討議をし、桜の花を見ながらピケを張り、新緑の若葉にハイキング気分をさそわれ、金のないのをなげいたり、私達はまったく数限りない貴重な経験をした。
 大掃除も終り、屋上に赤旗をはりめぐらした中で、我々のこの闘いを最後まで見守り、ひるがえっていた一本の赤旗を、インターナショナルの歌声と共にポールから降ろした。歴史的な一瞬だった。」(同右、M・M)
 人々がおおむね、なにごともなく生涯を送る西多摩の山奥・ケミカルの一〇〇〇名の仲間達にとって、生涯忘れ得ない鮮烈な記憶をこのたたかいはたしかにのこすものとなるであろう。だが、ケミカル闘争はつづく。

   <心の中に上げた赤旗>
     田中ミチ子

二ヶ月半共に闘い我々のささえとなっていた
赤旗が、ポールから姿を消した
何も知らない人が見たら
『ああ、やっとストが終ったか』と思うだけだろう
しかし、我々の闘いが終ったからではない。
今度はポールに上った旗のかわりに
心の中に赤旗を上げたからだ
これからが一人一人負けられない
本当の闘いに入る
心の中に上げた旗なら、誰も降せと言わないだろう
何ものも、おそれず、上げ続けられる赤旗
この旗を私達は守り続け
育ててゆきたい

 ケミカル闘争を推進した社青同を支えていたもうひとつの原動力は、ベトナム革命との連帯感であった。六四年から六五年にかけた原潜・ベトナム闘争でとぎすまされた政治意識は、「ケミカルをベトナムにつなげ!」という合言葉になった。ベトナムで非道な戦争をつづけているアメリカ帝国主義、それを支援する日本独占資本、その一翼としてのケミカル資本、ベトナム人民とともに、同じ解放をめざしてたたかうケミカル労働者という単純明快な論理が、ケミカルの社青同を支えていた。第二組合の主謀者は、アメリカ帝国主義の残虐な行為をつづけている反革命将校と二重うつしになり、ためらわずに「敵!」という言葉が口をついて出た。
 冷静にふりかえってみて、なぜ七六日間にもわたる長期争議がたたかわれなければならなかったのかという必然性は、それほど強くあるわけではない。むろん、全ての争議がつねに必然性をもつものではないので、事の成り行きや偶然が作用して大きな争議がおこされる組合も多い。だがケミカルの場合には、社青同の政治的危機意識が強くはたらいて、この長期争議を支えたという事情がある。この点において、この争議には特殊な側面があったといえるだろう。太田竜は、ケミカル闘争を終りまで指導したIにたいして、「なんでもいいから闘争を長期化してくれ」と言いつづけた。「数ヶ月のうちに、とんでもないことが起るはずだ」という彼の世界分析によって、太田竜はこうした「指導」をおこなった。五・一八で立川基地を発火点にしようとした太田は、労働運動の分野でケミカルを発火点にしようとしたのである。
 Iの争議指導は、そうした太田の意図にもかかわらず、能うかぎり現実的であったといえるだろう。ケミカル労組は、多くの矛盾をのこし、また新たな対立をかかえこんではいたが、争議を終えたときにはみちがえるように強くなっていた。社青同は、職場闘争ができるようになった。資本との長期抗戦にむけて必要な出発点は、きずかれていたのであった。もし、社青同の崩壊がこのあとつづかなかったとしたら、ケミカル労組は、統一労組の八幡電子とならぶ強大な拠点として、社青同の財産になっていただろう。社青同の崩壊は、活動家の政治的な団結をくずしてしまった。今日のケミカルでは、第二組合が多数派となっているにもかかわらず、依然として第一組合の戦闘力は保持されている。ケミカル闘争が資本に与えた恐怖感と、まだ残っている職場活動家の“にらみ”が、不当労働行為の全面化による第一組合解体の挙に出ることをためらわせているのである。どんなたたかいであっても、徹底的にたたかいぬくことは、労働者にとって決して悪い結末をもたらさないのである。
 第二組合首謀者であるSは、翌年ケミカル合理化の第一線である宮城新工場設立にあたって青梅工場を去った。このときSは、一つの文書を作製して組合員に送りつけた。
 「青梅工場を去るにあたって
 私達の生活を破かいしようとしている組織のあることを知っていますか。
 これからの青梅工場を考えると、ゾッとするような気持にならざるを得ません。私は住みなれた青梅工場を後に、宮城県の新工場へ行きますが、この書面を見て、良識ある皆さんならきっと真実をつかみ出し、正しく立上っていただけると信じています。私はその日のケミカルを信じて、宮城工場で頑張りたいと思います。(中略)
 私は、ここ二、三年余、自分達の姿勢を正そうとしないゆがめられた労組の路線に少なからず矛盾を感じて来ました。“昨年の春闘”でそのすべてが証明されたわけですが、この中には最初にのべた私達の生活を破かいしようとしている組織『社青同』が入っていたからです。
 私達働く者には何の縁もゆかりもない、何の益にもならないばかりか、まったく害悪としか考えられない社青同の意見が強く入っていたからです。
 私らが私達の組合で何をしてきたか、そしてこれから何をしようとしているのか、これがどういう結末になるのか。すでに彼らのやり方を見れば判ることですが、昨春闘を例にとれば、良識ある組合員を八〇日近いストに追いやり、無責任な結末と失敗に終らせたことです。(中略)
 秘密組織によって出された指令は社青同同盟員、それに同調する一部の組合活動家を通じて流され、何も知らない組合員は危険きわまりなく毒されおどらされるのです。彼らは組合の執行部、職場委員、青婦部等のあらゆる機関、組織に深く喰いこんで、良識ある組合員の意見を押え、うまくまるめこんでいるのです。(中略)
 恐しい暴力革命の思想は、実はすべて裏面にかくし、口を開けば労働者の権利の伸長、生活の向上を表に出しているので判明できないが、その思想におどらされている組合員の姿を見ては陰でうまくいったとはくそえんでいるのが彼等社青同の実態です。
 社青同は休むことなく組合の平和を乱そうとしている。暴力革命思想による闘争至上主義の他に、例えば日常の職場内においては、人間関係のあらばかりさがし出し、故意に不信感をつのらせ、相互間にミゾを作ろうとしている。また一つには労使をむきだしに対立させ、いかにもみじめさをよそおわせて無理に闘争意識をかりたて、ひいては政治闘争にまでまきこもうとしている。不和を生み出すばかりで和睦への努力は何一つしない。ことあるごとに暴力手段にうったえるのが彼等の手口です。(中略)
 私はこのことにより、“卑怯者”“裏切者”とののしられあらゆるいやがらせ、迫害を受けました。しかしこのための弁解をしようとは思いません。またそのためにこれを皆さんに送るわけではありません。真実はいつまでもまげられるものではなく、いつかは必ずわかっていただけると信じているからです。
 しかしその時期が彼等社青同の陰謀にひっかかって、とり返しのつかない不幸な事態になってからではおそすぎます。良識ある皆さん一人一人が、敢然とこの毒蛇をたたき出し、労使共存の信頼感あふれる職場で、また日常の生活の中で、一日も早く笑顔の毎日がすごせるように願ってやみません。」
 この文書の結びには、「主な秘密組織員」と「主な社青同員およびその同調者」として、二九名の実名が付記されていた。
 毒蛇とののしられ、糾弾された第二組合の首謀者Sの、この憎しみにみちた文書と、しかもそれを彼が青梅を去るときにはじめて書き記したという事実は、第二組合とのたたかいで社青同が果した役割の大きさを、かえって示すものとなっている。統一労組運動以来、社青同は、第二組合にたいするたたかいの多くの経験を積んできた。そこから導びき出した結論は次のようなものである。
 第二組合とのたたかいは、基本的には、資本とのたたかいである。第二組合に打ち勝つのは、第二組合をつくると、資本がどれだけ損をするかを、実際に示すことである。だから第二組合とのたたかいは、徹底した実力闘争であり、ことにそれが未だ芽のうちに断固としてたたきつぶすことが必要である。そして第二組合をこのようにとらえ、それにたいしてこのようにたたかうことこそ第一組合自身を階級的・戦闘的な組合につくり上げていく最大の機会なのである。
 ケミカル闘争の第二組合とのたたかいの教訓は、今日でも十分に学ぶ価値をもっている。

 五・一八立川基地突入闘争とケミカル七六日間のたたかいは、三多摩社青同の“頂点”をなした。六四年の後半から六五年初頭にかけて、六〇〇名に達した組織人員は赤化運動の呼びかけにもかかわらず、六五年夏には四五〇名に減少していた。たたかいのなかで新たに加わった仲間達を差し引くと約二〇〇名の活動家が組織を去ったことになる。この事実は、三多摩社青同の危機が深まっている一つの重大な兆候である。大衆的な活動家組織の組織人員の減少は、運動と路線のきびしい再点検を要求する。だが三多摩社青同の指導部とJR中央は、すでに深い対立に足をふみ入れていた。五月一中委以降、JR内部の政治的分化が、急速に表面化しはじめた。
 六〇年安保闘争から出発した三多摩社青同の歴史のなかで、六五年のたたかいは、これまでのものとは全くことなったひとつの性格を刻印していた。社会党と労働組合の諸闘争の舞台のうえで、その最左派として自らを形成してきた三多摩社青同が、この年には、自分で自分の舞台をつくりはじめたのであった。社会党とは異った独自の情勢把握をおこないそれにもとづいて、社会党・三労をもまき込んだ闘争を組織しはじめようとしたのである。三多摩社青同は、自らの党をもったのだ。
 社会党・労働組合の闘争スケジュールとその世界のなかで、最左派の位置を占めるたたかいにおいては指導部内部の対立が発生しても時間と経験にてらして克服されてきた。社会党の世界のなかにつつみこまれているために、対立の最後的な結着は、この世界の側が与えてくれた。だが、六五年以降、独自の世界を自律的に形成しはじめた三多摩のたたかいは、その方針も総括も、まず自らの組織で決定することを要求しためである。
 指導部内部の対立を時間と経験によって克服してくれる“自動調整装置”はもはやはたらかなくなった。こうして、逆に、指導部内の対立が、直接に三多摩社青同の組織にもちこまれ、三多摩社青同自身を分解させていく危険が発生した。五・一八闘争とケミカル闘争がJR内部につくり出した対立は、三多摩社青同の全体にひろがり、同盟員を混乱させ、多くの部分を組織から去らせるという結末にたどりついていった。加入活動の性格から、この対立と分派闘争は、はじめは抑制された形でおこなわれた。しかしそれがいったん非和解的で感情的な対立の水準にまで達してしまうと、“敵”にたいしてより打撃的な方法をえらぶようになり、加入活動の制限を突破して社会党や労働組合の場でも公然と非難や中傷、組織的な排除という手段がとられるようになった。
 対立をこういう水準に押し上げていったのは、もっばら太田竜である。太田竜の精神構造は三才〜四才の幼児の“ワガママ”をそっくりのこして、知性だけが“大人”になったような、珍しいものであり、彼を一度でも知った人はそのアタマの回転の独得の“速さ”(きわめて独特の論理的飛躍)とともに、その性格の毒気を、だいぶ長い間忘れられないものである。こういう種類の人間は、中小企業の経営者などに多く見受けられるのであるが、政治の世界にも一つの類型をつくっている。新左翼のなかで言えば、黒田寛一や岩田宏、滝口弘人などであろう。彼らは、失意のドン底にいてもうぬぼれだけは絶対に失わないから、本当の意味で挫折の経験をもたない。どれ程重大な敗北にであっても、かならず誰か他のものの責任に転嫁してしまうという特別な能力をもっている。しかもそれを、本気でやれるのである。
 太田竜はできあがった青年運動を受けとって、それを崩壊にみちびいた。そしてそのことの責任はすべて他のものの責任にした。こういう芸当は誰にでもやれることではない。
 六五年の前年をたたかいぬいた三多摩社青同が自らの内部につくり出した矛盾と危機は慎重な方法できりぬけるべき性格のものであった。なぜなら、単独で権力と激突するにいたった三多摩社青同のたたかいは、全国的政治闘争から孤立した突出であった。孤立のなかで突出した組織が受ける打撃を回復する方法と、情勢の全般的な成熟のなかで突出する組織の強化の方法とは、根本的にちがうのである。だからまた指導部の固い結束か何よりも必要とされていたのた。対立がどれ程深く鋭いものであったとしても、指導部間の統一と団結の枠のなかでその対立の克服がはかられなければならない。加入活動であれば、なおのことである。
 だが、事態はまるで逆にむかった。太田竜は、情勢がすでに成熟しきっていると判断していたのである。彼は、政治的対立を解決する方法、分派闘争に勝利する手段は、打撃的であればあるほどよい、大衆をまき込めばまき込むほどよいという立場に立った。
 こうして六五年前半の激突をすぎた三多摩社青同は、分裂から崩壊にいたる坂道を、まっしぐらにころがり落ちていくことになった。指導部のあいだの公然たる対立や攻撃は、三多摩社青同の大半の活動家にとって、どちらかの立場を選択しようという意欲よりも、活動そのものがいやになり、しばらく様子を見ようという心理に傾かせ、そのうちに活動の意欲自身を失なわせていくという性格のものであった。もともと三多摩社青同は指導部にたいする非常に強い信頼を特徴としていた。仲間が警察に逮捕されていくことを目撃しながら、ただちに奪還の行動にうつらないのは、ヒキョウであるという風な、仲間意識にも支えられていた。こうした作風のなかで、まったく突然に、指導部間の攻撃的な対立が表面化したのである。大半の同盟員が“傍観”の席についていったのは、ある程度必然ともいえる。しかしそこには、もうひとつの要因があった。太田竜の分派はいっかんして攻撃的であったが、三多摩社青同の主流派分派は、終始受け身で、おずおずとした遠慮がちの反撃しか組織しなかった。この派は、加入活動の限界を忠実に守ろうとしていたと同時に、自らのはっきりした積極的な解決策をもっていなかったのである。大半の同盟員は、この主流派分派とつながっていた。
 こうして、開始された分派闘争は、どちらかの分派を三多摩社青同の新しい指導部につけるという結果にたどりつく前に、三多摩社青同自身を崩壊にみちびいていった。
 六五年前半のたたかいを中心として、どのような矛盾が組織と運動のなかにつくり出され、どのような対立が生まれ、そして急激な崩壊へみちびかれていったのか、次章ではこのことを明らかにしなければならない。


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