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国際革命文庫 15
党史編纂委員会・編

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電子化:TAMO2
●参考文献
現古研党派・団体別目録

「日本革命的共産主義者同盟小史」
――日本トロツキズム運動の20年――

第四章 労働者の中へ
  ――加入活動の時代――

 1 加入戦術をめぐる論争と分裂

 加入戦術をめぐる論争は、日本トロツキズム運動の初期に、組織方針の分野でもっともはげしくたたかわされた論争である。
 加入戦術は、一九五〇年代に、山西英一や太田竜によってすでに実行に移されていたが、六全協以後の日本共産党の学生党員を中心とする大量の代々木ばなれした活動家にとって、新しい党建設を志向する立場から第四インターナショナルに判断を下すための重大な問題点としてクローズアップされた。
 加入戦術を一貫して熱心に主張したのは、太田竜であった。彼は、パブロの第三回世界大会における立場と路線の熱心な支持者であり、日本の第四インターナショナルを強固なパブロ派として組織しようとしていた。
 パブロの加入戦術論は、次のように提起された。
 「第三回世界大会=ついで国際執行委員会第十回総会によって決定された戦術(加入戦術)は何よりも時代の深く革命的な性格の評価と国際的力関係の革命に基本的に有利な発展に基づいている」
 「帝国主義の戦争へ向っての志向と具体的前進にもかかわらず国際的力関係が革命に基本的に有利に発展する基本的に革命的な時期という条件のもとで、第三回世界大会ついでIEC第十回総会は、各国の現実の大衆運動への可能なかぎりのあらゆる深い浸透と作用という戦術を決定した。」(第四回世界大会への報告――パブロ)
 「……この展望は、資本主義の終局的危機と世界革命の拡大の展望として定義づけられる。この二つとも、第二次世界大戦でひきおこされた混乱によって激化し、終戦後ますます顕著となり、いまや決定的解決への決定的闘争にむかうこの歴史的時期全体を特色づけるものである。」
 「決定的戦闘までになお二年か三年――いやもう少し――残されているとしても、われわれが準備するのに十分ではない。それどころかいたるところでわれわれが現実の大衆運動へ参加するためにすみやかに行動し、われわれの勢力を配置し、今から行動にうつらなければならない。これが、第三回世界大会の戦術適用についての討論を長々とひきのばしてはならない理由である。」(第十回国際執行委員会報告――パブロ)
 きわめて急速に革命的危機が到来する。われわれはこの危機にどのように間に合うことができるか――これが、パブロが加入戦術を提起した核心の問題設定であった。パブロはユーゴ革命と中国革命を総括するなかから、革命的大衆の圧力は、スターリニスト党をも(革命党不在の場合には)ゆり動かして、権力にむけて押しやるであろうと予測した。今日第四インターナショナルがきわめて微弱である前提のうえに立てば、来るべき数年のうちに開始される決定的戦闘においては、大衆の革命的エネルギーは、スターリニスト党や社会民主主義党の既成の大衆的政党に流れ込むであろう。われわれはそれを外から評論するのではなく、これらの党の内部にいて、大衆のエネルギーを待ちうけ、合流し、これらの党の官僚と大衆のミゾを拡大し、大衆的な革命党建設のダイナミックな出発点をたたかいとらなければならないのである。
 来るべき二〜三年というようなパブロの切迫した問題設定は、事実とはならなかった。世界資本主義は世界大戦を回避しながら、経済上昇の長い時代に入っていった。こうしたなかでマンデルは、加入活動を全般的な組織戦術として再度定式化した。
 「一、大衆的革命党の創造は広汎な勤労大衆の急進化なくしては不可能である。
 二、……この急進化は、その第一局面においては、伝統的大衆党への労働者の流入とこれら諸党の労働者党員の重要な部分の急進化によって表現されるであろう。
 三、この急進化の基盤に立って強力な左翼がこれら諸党の内部に結成されるし、それは大衆の目には予備指導部としての真の役割をはたすであろう。この左翼は伝統的指導部とあすの大衆的マルクス主義政党とのあいだにわたされたカケハシとなるだろう。」(IEC二十回総会)
 マンデルはこう定式化することによって、加入戦術を、一般的な組織戦術に高めた。パブロの「来るべき対決」の展望はくずれたとはいえ、加入活動の戦術は、第四インターナショナルの基本的組織戦術として六〇年代後半の急進的青年運動の爆発の時期まで受けつかれていくのである。
 これにたいしてキャノン派は、加入戦術一般には反対しないが、その基礎にすえられている「スターリニスト党と革命的大衆」の関係のとらえ方が、修正主義的であるとして猛烈に反対した。キャノン派によれば、こうしたとらえ方はトロツキストの原則の放棄、武装解除につながるのである。したかってキャノン派の加入戦術にたいする理解は、あくまでも一時的で部分的なものでなければならず、スターリニスト党の「可能性」に立脚したり、主体性を喪失した「全面加入」であったりしてはならないのである。
 ICPの太田竜は、パブロ―マンデルの方針を忠実に実行すべきだという立場に立った。
 「第四インターナショナル日本支部は、社会党左派とその周辺、及び共産党の戦闘的労働者・学生の中に見られる革命路線への多分に自然発生的な潮流を意識的に指導し、その中に計画的にボルシェビズムを注入し、この潮流を強化し、意識化することを当面の任務とする。この目的のために支部は独立の組織をあくまで維持しながら、比較的長期に亘って既存の労働者諸党すなわち社会党及び共産党の内部で活動することにその主たる努力を向ける。」(日本革命のテーゼ)
 ここでは社・共両党としてのべられているものの、共産党内活動はエピソード的にしか展開されず(「鉄の戦線」の活動)、太田は全力をあげて、社会党加入活動を早くから推進しようとした。
 これにたいしてJRは、加入活動には当初から消極的であった。西京司が行った六一年の第二回全国大会政治報告の結語は次のようにのべている。
 「いずれにせよ、今日労働運動内部における左への潮流は、なお多分にこれら既成組織(特に社会党)の下部における左翼的動きとしてあらわれつつあること、このことをはっきりと認めねばならぬ。そしてその事実の上に立ってわれわれは労働者大衆との接触を求め、その左翼化をおし進めるに当って一切の戦術的組織的配慮を行うことが必要である。それは加入戦術の採用の可否を考慮する点においても極めて重要である。だが、もちろんこのことは決して安易に加入戦術の採用を正当とするものではない。われわれはこの労働者大衆内部の左翼化の傾向にいかに接触し、われわれの影響を拡大するか、という見地から戦術を考慮する。それはいうまでもなく、わが同盟自身の独立の組織の強化拡大と深く結びつけて考えられるべきであり、結局はそれに従属させられねばならない。」
 第二回大会の最終日、九州の代議員は、青年労働者が安保闘争のなかで政治化し、社青同に結集しつつあること、彼自身も社青同加盟をすすめられているが、どうすべきか、という問題を提起した。これと同じ問題は、全国各地方ですでに起っており、JRの地方組織は、社青同・社会党系の組織に接触しつヽあった。加入戦術をめぐる実践的な決断を行なうべき必要が、運動のなかからつき出されていた。しかし大会は、結論をくださず、加入戦術の検討に着手することをきめるとともに、他方青年インター(国際主義共産青年同盟)準備会の発足を決定した。社学同左翼反対派(レフト)は、青年インターに解消、吸収されることになった。
 大会後、中央書記局の鎌倉らは山西英一らの示唆をうけて加入戦術の採用を提案した。鎌倉提案は、組織全体を社会党加入活動に移行させようとするものであった。したがってそれは青年インターの解散をもふくんでいた。この提案は、すでに青年インターの組織化のとりくみを開始している関東のメンバーに、強い不満と反発を生み出した。他方、関西は、全体として鎌倉提案に反対であった。関西は、部分加入はあり得るが、全面加入は誤りだとの立場にいた。だが、関西でも青年労働者は社青同に急速に結集しつつあった。青年インターとして活動を開始した若い労働者活動家は、孤立を強制され、分散化していた。彼らは、大原を中心とする関西の青年インター指導部がこうした現場の困難に適切な指導を行ないえず、官僚化しているとして不信と反発を深めていた。青年インターのこの混乱のなかで、関西ビューローは、部分的加入戦術を採用することによって、労働運動の総体的情勢との結合をはかることを提案した。大原は、ビューローのこの方針に反対し、ビューローは鎌倉を中心とする全面加入派と野合したとの批判を展開した。
 関東の青年インターメンバーは、当初、関西ビューローと結合して鎌倉提案に対抗しようとしていた。だが中央指導部の岡谷らは、彼らの実践的な困難を理解せず、方針上問題はあるけれども指導部としては鎌倉を信頼するとして、彼らの直訴を斥ぞけた。大原はこうした複雑な組織内情勢を利用して、政治的には十分な必然性が存在しなかったにもかかわらず、関東の反対派と結合することに成功し、「革命的分派」なるものを結成したのである。それは「青年インター派」と呼ばれた。
 六一年末の六中委において、「青年インター派」はJRから分裂した。
 「彼らの政治的主張と批判は@全国指導体制と能力の弱体さ、A同盟活動の政治的・組織的総括の必要性の主張、B社会民主主義政治組織への加入戦術に対する絶対拒否、C青年インター(レフトをふくむ)の解散に対する反対等であった。
 これらの政治的主張ないしは批判はそのままでは同盟の分裂を正当化する何等の理由もない。分裂の決定的点は、同盟中央委員会を、『革命的分派』と同盟の残余の部分との連邦主義的機関に変更せよという要求が、中央委員会多数派によって拒否されたことによる。彼らはその組織的要求を固執して分裂していった。
 この連中は分裂以降、身を細らせて細々と『高く独立の旗』をかかげている。」(六四・一一、『政治討論ブレチン』bU、酒井)
 六中委は分裂の後、主たる組織戦術を加入戦術とすることを決定した。さらに翌年の第三回大会では、六中委決定を確認、青年インターの解散を決めた。
 だが、六中委の後、もう一つの分裂が、関西と神奈川を結んで発生した。その中心は、大原指導部との闘争で先頭に立った京大の篠原である。
 「第二は、主要に関西を中心とするものであって『赤い旗手』グループ、『革命的理論建設』派である。彼らの言い分は『結局のところ、我々はトロツキストだと思って活動してきたが一切は全く疑がわしいということに気づいた。自分自身、果して現にマルクス主義者であるか否かわからない。まず、このことを理論的に確かめ、そして世界革命の理論、その展望、戦略、戦術を明らかにすることが第一に必要なことであって、それ以前には一切の実践は行うべきではない』として、書斎派の立場へ『確固として』移行し、一切の大衆的諸闘争への参加を拒むことによって、同盟から分裂していった。このグループは、黒寛に接近しつつ、革共同全国委員会に参加し、今日『前進派』にいるr (同右)
 加入戦術の全国的実践に先立つ二つの分裂は、JRの中央機関に深い打撃を加えた。そのなかで、東京の東学大グループによる加入戦術が開始された。中央機関の中心メンバーも加入にふみ切った。二つの分裂と同時におこなわれたこの加入の実践と同じころ、中央書記局の独立活動メンバーは、事実上活動から召還した。こうした連続的な痛手のために中央指導部の機能はマヒし、加入活動の統一的な組織的な展開はおこなわれず、地方の組織の自主的な実践にゆだねられることとなった。
 他方ICPも、六〇年に分裂を経験し、さらにその年の末、三多摩の加入グループは太田と袂別して離党した。                        」
 六〇年のICP分裂の基本的背景は、やはり加入活動にあったといえよう。学民協という形での無理な加入活動の結果、学生運動での基盤を失なってしまった学生カードルが、太田の路線に反乱し、基本的に独立活動にうつることを主張して多数派を形成したのである。かれらは六月には太田を除名して、JRとの合同に踏み切ったが、そののちJRからもとび出して、闘争から召還してしまった。
 六〇年末の三多摩グループの離党は、これとは逆に、太田の指導の下では、加入活動そのものがつづけられない、加入活動をより深く推進するためには、太田と一旦絶縁しなければならないという危機感から出たものであった。
 旧JRにおいても旧ICPにおいても、加入活動は大きな犠牲を払ってはじめて実践にうつされ、しかも多くの場合、組織的な指導がないなかで始められていったのである。

 2 加入のためのたたかい

 加入活動は、このように、けっして組織的とはいいがたい、多分に個人的、経験的なやり方ではじめられた。
 三多摩では、最初の加入はICPによって五九年におこなわれていたが、その段階では、純然たる個人活動の領域を出なかった。加入メンバーのイニシアの下で、社青同三多摩支部準備会が結成され、機関紙「青年の力」が発刊され、労動組合を対象とする宣伝活動がおこなわれていたが、参加する活動家は社会党の青年党員に限られていて、しかもそのほとんどは、青年というよりは社会党の若手というにすぎず、青年部運動に一定の基盤をもっていたのは国鉄労組八王子支部だけであった。
 六〇年安保闘争のさなかに、第二陣が加入して来た。このメンバー達は、東京学芸大学に社青同の班を組織して、十数名の活動家を三多摩支部に提供した。六月四日、六月二二日の国労ストに際して、東学大で百名をこえる学生を支援動員し、社会党、三労に一躍社青同の名を売った。
 この時点から、三多摩での加入活動は、急速に前進しはじめた。
 社会党にとって、ある組織が有用であるか否かを見きわめる最大のテストは、つねに選挙である。六〇年秋の衆院選で、山花秀雄選対に参加し、行動隊として活躍した東学大グループは、社会党のこのテストに見事に合格した。三多摩での加入のためのたたかいは、この衆議院選挙で基本的に終ったとしてよいだろう。これ以後、三多摩の社青同運動の指導部は、最後まで加入メンバーの手からはなれたことはなかった。
 六一年四月、社青同三多摩支部が結成された。
 「同盟員数六〇名。うち五分の一は学生で他のほとんどは社会党青年部活動家であった。
 われわれは六〇年に社会党、労動組合活動家の信任を得、六一年にその全ての青年部活動家と親密になった。社会党に合体するという視点から言えば、もうやることはなかった。社会党系青年運動というものはまったく存在しなかったr
 「だが、いずれにせよわれわれが支部を結成したとき、そこにはまだ運動はなかった。二年前に学民協をはじめたときと同じ矛盾にわれわれは直面した。われわれは青年運動を通じて社会党に食い入ろうとしたのだが、青年運動自身が社会党に存在せず、われわれの手で最初からはじめなければならなかったのである。」(『三多摩社青同闘争史』)
 三多摩における加入のためのたたかいは、先行する青年運動の不在、対抗する異なった党内分派の不在にうらづけられた、合体の容易さによって特徴づけられる。唯一の行動力ある部分であった加入メンバーの手に、社青同の指導権はすぐに帰した。そこで、すべての問題は、この指導権をどこにむけて発揮するのか、どのような青年運動をつくり出していくのかにあった。
 東北地方では、これとはまったく事情がことなっていた。宮城における加入のためのたたかいは、きわめて大きな障害にぶつかった。ここでは、加入を達成するために、独自の運動をつくり上げ、その運動の力を動員しなければならなかったし、加入のためのたたかい自体が、数年にわたる分派闘争となったのである。
 当時社会党宮城には、旧左派社会党の青年活動家グループが地区労働運動に影響力をもっていた。労働運動への介入をはじめようとしたJRメンバーは、この旧左社グループと接触し、ここから、五九年四月の統一地方選挙を通じて地区労働運動への足がかりをつかんだ。
 彼らは五九年夏、民間労連の書記のポストを得た。仙台の主要な民間中小労組を結集した民間労連の中で、彼らはその戦闘化と産別組織への再編を押し進めた。五九年の年末闘争の中で、いくつかの組合は結成以来はじめてのストライキ闘争を行い、全国金属加盟をきめた。また、同じ年の十一・二七安保闘争に参加した民間労連の部隊は、JRメンバーの指導のもとに果敢なデモを展開し逮捕者を出すなど、その戦闘化は急速に進んだ。
 六一年民間労連は、全金宮城地本、仙台印刷労組、宮城化学労協の三つの産別組織に再編され、六五年に仙台印刷労組は宮城合同労組と統一する。JRメンバーは、その各労組にひきつづき書記、あるいは専従役員として活動を継続していった。
 加入活動の宮城での第一段階は、このように、かならずしも社会党への加入活動ではなく、労働組合活動への介入を目的としながら、そのために社会党の活動家グループと接触をもっていくという形ですすめられた。したがって、社会党加入活動自体にたいして、どのような方針をとるべきかという点では、JRとしての基本的な一致が確立されていたわけではなかった。
 六〇年に、社青同宮城地本準備会がつくられたとき、JRメンバーは、旧左社青年グループとともにここに参加した。だが、一年後、実際の宮城地本結成が、構造改革派のイニシアティブのもとですすめられるようになったとき、そこに参加すべきかどうかをめぐって、JR内に対立がおこった。全金に参加していた部分は、構革派主導下の社青同運動への合流を主張し、JRを脱党していった。他のメンバーは、この路線に反対して、社青同運動からはわかれて、独自の労働組合を拠点とする活動をつづけていった。
 JR中央委において、加入活動を支持する多数派と反対する少数派の間で分裂がおこなわれたのち、六一年暮、レフト(社学同左翼反対派)東北大班は、社青同加入を決定し、四〜五人のメンバーが、社青同東北大班に加盟した。東北大の社青同には、当時解放派の活動家が、同じく四〜五名所属していたが、かれらは大衆運動に足をもたず、レフトが民青に対抗する大衆運動の指導権をもっていた。
 六二年四月、憲法公聴会が仙台でひらかれた。レフトの社青同グループは、まだ社青同に加入していないメンバーとともに、新入生を結集し、阻止闘争のヘゲモニーを完全にとった。当然のなり行きとして、この闘争は、構革派の地本指導部と、東北大班の解放派を脅やかした。
 当時社青同全国学生班協議会の指導部であり、中執メンバーであった、解放派の創設者佐々木は、中執内部では構革派と対立していたが、東北大班におけるレフトの抬頭に危機感をもち、地本執行部と結托して、レフトのメンバーの排除の陰謀をめぐらした。
 五月、闘争において中央の指揮、統制にしたがわなかったという理由で、一名が除名通告をうけた。この処分は、抗議をうけて一たん撤回されたが、その後、今度は教養部班解散という、いっそうきびしい処分が、強行された。このときの理由は、直接に「加入活動とみなす」というものであった。反対派を組織処分によって排除するという方法は、やがて解放派自身が社青同から追放される際にうけたのであったが、その先鞭をつけたのは、かれら自身であったという歴史的事実は、記憶されてよい。
 これ以後約二年間にわたり、宮城のJRは処分反対をかかげ、非合法の社青同を名のりつづけ、加入のためのたたかいをおこなっていった。
 地本から追放された東北大の社青同は、社青同東北大学生班と自称し、公聴会阻止闘争以後、ソ連核実験をめぐる論争、青葉山移転阻止闘争、学園民主化闘争をたたかいぬき、大学法闘争の先頭に立つなかで、急速に大衆的な基盤を獲得し、六三年には、九〇名以上に成長した。自治会においても、六二年には川内東分校六三年には文学部、六四年には経済学部の執行部をにぎった。
 この間、公認の社青同東北大班、(解放派)は、なんら大衆闘争に登場できず、弱小なセクトの位置にとどまりつづけた。
 他方、労働戦線ではこの学生班の闘いを地区に動員しつつ、構革派に対抗するために、国労、全逓、市職等社青同のメンバーを左派として社会主義協会に組織する活動が進められた。
 六四年、社青同第四回全国大会は、構革系指導部にたいする、協会派を中心とする左派の反乱が勝利した。いわゆる「改憲阻止・反合理化の基調」が、修正案として提出され、採択されたのである。これは、江田ビジョンのもとで展開されて来た社会党構造改革派の運動が、次第にその右翼的本質を明らかにして、反共右寄り統一戦線づくりであることが暴露されるなかで、社青同運動のなかに反撥をつくり出して来たあらわれであった。第四回大会は、全国の構革派系地本に大きなショックを与えた。
 宮城地本も例外ではなかった。二年間にわたる「加入のためのたたかい」を進めてきたJRに、攻勢のチャンスが訪れた。
 六四年はじめ、開店休業となっていた仙台支部が、左派の手で再建され、七月支部大会で、学生班から専従書記長を送り出して、指導権が掌握された。つづいて、この年の秋に地本再建大会が左派のヘゲモニーでひらかれた。学生班からは、専従組織部長が送り込まれた。この過程で、六二年の処分は、事実上撤回され、「加入のためのたたかい」は完全に勝利した。
 宮城の加入活動の特質は、重要な政治闘争に打ち勝つことではじめて加入を達成し得たという点に、まずある。加入活動の通常の理解では、加入すなわち同化の第一段階では、われわれは独自の政治性を表わすことは極力さし控えるべきであり、加入の過程が完全に終り、社会党の党機構のなかに一つの歯車としてわれわれがくみこまれたのちに、注意深く情勢を待ち、機会をつかんで徐々に政治的な独自性を主張し始めるべきであるとされていた。事実、他の全ての地区での加入活動は、程度の差や時間の長短はあっても、基本的にはそのような第一段階を必ず経ていたのである。
 だが、宮城のJRは、加入のためのたたかいそのものが、明白な分派闘争であり、加入が完了したときには、社青同宮城全体において、すでにヘゲモニーをゆるぎなく確立していた。この経験は、加入活動の教科書には、想定されていない経験である。
 宮城のJRの加入の前に立ちふさがった勢力は、右派構革派だけでなく、当時全国社青同の最左派分派となっていた解放派でもあった。この「反四トロ左右連合」は、機関の力に依拠していたが、大衆運動を組織する能力をもっていなかった。JRは、学生の大衆運動を先行させ、その大衆的戦闘力の魅力をもって、労働運動への工作を並行して進めた。解放派は学生運動で終始劣勢に立ち、防戦を強いられたために、労働運動工作でもほとんどなに一つできなかった。JRの組織した二つの戦線が合流したとき、勝負がついたのである。大衆運動の魅力には、なにものも勝てない。
 独自の大衆運動を組織することによって、既成の社青同運動を内側から変革する方向で加入活動を成功させたという点では、三多摩と宮城の二つの事例は共適している。だが、三多摩の場合、この変革の過程は、上から、丸がかえ的にすすめられた。宮城の、下からの分派闘争を経てたたかいとられた過程と比較するとき、活動家の結集の質の政治的水準において、大きな差が存在していることは否めない。この差は、六〇年代後半の情勢転換に対応する、加入活動から独立活動へむかう転進の際に、大きなハンディキャップとして三多摩にあらわれたとみなければならない。この転進において、宮城のJRは加入活動の基本的成果を失なうことなく新しい段階に飛躍できた。だが三多摩のJRは、ばくぜんとした地区的な影響力という点ではたしかに大きな財産を残したけれども、新しい段階をになう具体的なカードルという点では、きわめてわずかな収獲しかかちとり得なかったのである。このことの原因は、三多摩を中心に展開したJR指導部の混乱に帰すべきではあるが、さらに遠くさかのぼって、三多摩での加入のためのたたかいと宮城のそれとの質的なちがいもまた、無視し得ない背景の一つをなしていたことを、認めなければならない。
 他の地区での加入のためのたたかいは、この二つの地区よりも時間的にも、また量的にもおくれていた。
 山形、福島、秋田を中心とする東北の各県は、六二年〜六三年にかけて加入が進んだが、これらの地区では、さして問題になるような障害に出合うことなく、六五年頃までに、地本における一定のヘゲモニーを獲得することに成功した。
 東京では、三多摩地区以外には、太田竜を中心とするICPのメンバーが、東京南部の社会党、社青同に加入し、JRのメンバーは、三多摩や、その他の地区で、主として労働組合の書記として加入していった。
 太田竜は、社会党の品川に加入したが、ここでかれは反右派闘争の先頭に立ち、品川を曾我派の拠占にするために大いに役立った。だが、品川における左派のヘゲモニーが確立されたのち、曾我は右派の攻撃材料を後にのこすことを恐れ、この天下にかくれないトロツキストを、さっさと除名してしまった。
 東京JRの加入部分の中心的指導者は、社会主義協会のなかで活動していたが、かれはあまりにも深く加入しすぎて、その思想もふくめて社会主義協会派になってしまい、トロツキストであることをやめてしまった。かれがその後の社会主義協会の発展のなかで、どのような非凡な役割を果したかについては、ここではふれない方が礼儀であろう。
 この二つの実例は、東京都内における加入のためのたたかいが、基本的には失敗したことを示している。このため、東京の社青同運動には、協会派、解放派、そしてわがJRによる三派鼎立の条件が出来上ってしまった。これは、六〇年代後半の、東京を中心とするはげしい分派闘争の構造をつくっていったのである。
 関西での加入活動は六一年から部分的に開始されたが、機関として開始されたのは六三年であり、六三年から六四年にかけて大阪の学生、高校を中心に加入が進んだ。
 だが、関西の創成期から六〇年前後までJRをになった第一期のカードルは、加入活動に消極的であった。このため、加入の実際的指導は若いメンバーにゆだねられた。関西では、六〇年前後にすでに一定の労働者拠点を、JRはつくり出していたのだが、この拠点と加入活動は結びつくことができなかった。この事情は、若いメンバーによる加入が基本的に完了し、社青同大阪池本を中心とした浸透が開始されたあとでも、一つの無視しえないシコリとして尾を引いていった。
 それにもかかわらず関西の加入活動は、きわめて有能なカードルによってになわれて急速に前進し、社青同大阪地本のイニシァチブは六〇年代後半にはJRの手に帰した。このもとで六七年以降の反戦青年委員会運動のヘゲモニーもまた、JRによって掌握されることになっていくが、旧指導部と加入メンバーのシコリが、完全に解決されていなかったことが、六六年のビューロー指導メンバーの交代以降大きな問題になっていくことになる。だがその点は、次章にまわすことにしよう。
 加入のためのたたかいは、全国的にみるとき、六四年にほぼ完了したといえる。この時点で、組織建設をめぐるICPとJRの間の対立は、理論的にも実践的にも解消したのである。両者はともに社会党、社青同の加入活動に立脚しており、情報交換や方針上の一致が要求されていた。 統一のための条件と、なによりもその必要が生み出されていたのである。

 3 同盟の統一

 太田竜とわかれ、ICPから離脱した部分によっておこなわれてきた三多摩の加入活動は、三多摩社青同を拠点にして、急速に発展した。六一年からはじまった統一労組運動は中小企業の青年労働者の戦闘的活動家を大量に社青同に流入させ、その生々とした運動は官公労や民間労組に波及し、文化運動、婦人運動にも広がり、さらに六二年以降JRの東学大グループが社青同加入を決めたことによって、学生運動でも大きな前進がかちとられた。その勢いは、誕生後三年にして民青を大きく引きはなすところまで到達し、六四年の四月、青学共闘主催の春闘決起集会では、民青の動員力一五〇名にたいし、社青同は七〇〇名を上まわったのである。
 三多摩社青同のこうした発展のなかで、専従者が次々と配置され、社会党、地区労の書記は、ほとんどICP、JRメンバーによって占められることになり、その数は五〇名近くにのぼった。こうした活動家の増大と、それを基盤とする全国政治闘争への登場は、社青同運動を指導する党の必要性を増大させた。六三年半ば、極秘裡につくられていた三多摩社青同トロツキスト・フラクションは、ICP、太田竜のもとに復帰することを決定し、ただちにそれを実行した。突然の復帰の申し出を受けた太田竜が、きわめて複雑な感慨を抱いたであろうことは、想像に難くない。
 こうして、三多摩のICPの組織化が、三多摩社青同の活動家を対象としてすすんだ。このICP組織は、厳格な非合法中央集権であった。それは加入活動は二重の秘密活動であるという理由にもとづいていた。
 一方、在京の指導的メンバーが、加入活動のなかで社会主義協会派に移ってしまったこと、そして独立活動メンバーの招還という二つの理由によってJRの関東指導部、中央指導機能は、きわめて弱体化した。こうしたなかで東北、関西から、数名のメンバーが六三年〜六四年に在京、ことに三多摩に派遣され、加入活動強化の努力がつづけられた。
 東北、関西からのメンバー派遣は、三多摩のICPからの要請を受けておこなわれた場合もあった。急速に力を拡大しつつあった三多摩の加入活動は、社会党、社青同の地区機関や労働組合の専従者に配置するトロツキスト・カードルを大量に必要としたが、ICPのメンバーだけではこの需要に応じられなかったのである。
 JRメンバーの三多摩への配置がすすむことによって、ICPとJRの実践的な協働がきずかれ、過去の経緯にもとづくよそよそしい関係を克服することが要求されて来た。とりわけ、このことは、JRの側にはつよく意識されていった。三多摩社青同を中心とするICPの加入活動の急速な発展は、エピソード的な成功の様相をこえて、社会党、社青同における一つの重要な拠点として機能しはじめたのである。
 六三年七月に書かれた関東書記局通達(bS)は、JRの側のこのような問題意識を正直に伝えている。
 「……多摩において、ICPの部分に対する我が方の介入は飛躍的に進みつつある。しかしこれは理論的なあるいは将来の見通しに関するものであって、指導部内部に限定されたものである。この地域における我々のメンバーが、各自、その直面している具体的闘争の先頭に立って果敢に活動し、ここにおける社青同運動の発展に対し全く具体的な寄与をなすなら、我々とICPの部分との合同統一の問題は全く近い将来の時間の問題となるであろう。
 理論的には全く反バクの余地なく、彼らは我々の見解にひきつけられつつあるが、我々のメンバーの戦闘性の欠除、実践活動におけるサボタージュとそれと対照的なICPに対する評論家的な批判的態度は、実践活動のなかで彼らを我々に決定的に引きつけることを妨げている。」
 「具体的な闘争の先頭に立つことをぬきにした、他党派に対する理論的優越などというものはどっちみち長続きするものではない。運動の尻尾からついていって、理論的批判的言辞によってのみ、党派的独自性、運動における地位を獲得しようとするのは、革命家として、革命的政治組織として、全く恥ずべきことである。
 関東書記局は、全メンバーに対し、各自の活動場所における当面の具体的任務を、SKにおける討論と客観的資料から、絞り出し、全メンバーに具体的特殊的任務を課し、その任務がどのように果されたかをねばり強く点検しつづけるであろう。」

 JRの中央指導部再建の努力は、二つの分裂を経た後に、六三年から開始された。六三年第四回大会、六四年第五回大会によって、中央委員会、中央書記局体制が再編、確立された。ICPからの統一の申込みは、六三年に太田竜によってなされた。第四回大会は、この申し込みを受けて、統一にむけた努力を開始することを書記局に義務づけた。
 両組織の統一へのとりくみが開始された背景には、六三年、第四インターナショナルの国際書記局派(IS)と国際委員会派(IC)の統一があった。従来、JRはキャノンに代表されるICを支持し、ICPはパブロに代表されるISを支持していた。もっともこの支持の色合いは、それほど厳密なものではなく、JRのICにたいする態度は、批判的な支持といったものであり、またICPのISとの関係は、IS内のポサダス派(ラテン・アメリカビューロー)に近いものである。
 第四インターナショナルの六三年における統一は、どちらの側にも新しい分裂をつくり出した。IC内では、ランベール派(フランス)、ヒーリー派(イギリス)の二つのセクト主義潮流の分離を生み出し、IS内ではポサダス派(植民地革命派)につづいて、新パブロ派(平和共存、労働者管理、植民地武装解放闘争)が分裂したのである。
 だが、いずれにせよ、第四インターナショナルの基本的中心は、ICとISの合体した統一書記局(US)にうけつがれた。JRは、このUSへの合流を志向し、その立場から、ICPとの統一についても努力することになった。
 ICP、というよりも太田の統一についての立場は、奇妙なものである。
 統一にたいする太田の熱意は、二つの動機あるいは背景にもとづくようである。一つはいうまでもなく、国際的な統一の動きである。しかし、それに劣らず大きな比重をしめていたのは、国内的な要因、強力な全国組織を手に入れることへの要求であったのだろう。三多摩社青同の成功は、既存の社会党、社青同の全国組織から注目される水準に到達し、それをになっているICPのカードルの太田にたいする忠誠と献身は、異例なものであった。すでにのべたように、JRは東京が弱体であり、東京の一角をしめる三多摩での実力に依拠できる太田は、統一組織の全国ヘゲモニーを確立できるとふんだのであろう。太田の立場の奇妙さは、交渉の経過のなかで示される。
 六四年第五回大会後、ICPとの統一交渉に対処しつつ、JR中央指導部を東京で再建する任務を負って、酒井が上京した。交渉は急速に進展した。
 太田が提示した統一の条件は、当初、三点からなっていた。
 (i)国際的にはポサダス派を志向する。
 (ii)組織形態は非合法中央集権主義とする。
 (iii)中央徴関の構成は、双方、同数づつとする。
 JRは、この三条件にたいして、
 (i)ポサダス派への志向を拒否する。
 (ii)非合法中央集権主義の組織形態は、政治情勢と組織の現状において、受け入れることはできない。
 (iii)中央機関の構成は、大会に委ねるべきである。
と回答した。
 大田が、ボサダス派加盟を提起したのは、論理的にみても、現実性かち考えても、不可解である。太田自身、その前にも、その後にも、このために工作した事実はない。彼が実際にICP内部で提起したのは、理論的にはポサダス派を支持すべきであるが、組織的にはUSでやっていくべきだ、ポサダス派の分裂行動は誤りだということにすぎなかった。また実際、太田のような非妥協的な人間が、ポサダス派を全面的に支持していながら、USの統一に歩調を合わせるような矛盾した行動をとるとも考えられない。したがって、なぜ太田がポサダス派加盟を提起したのか、しかもすぐに撤回したのか、それが奇妙な点である。
 事実、太田は、この条件を直ちに撤回した。さらに、非合法中央集権主義の問題も、三多摩内部から反対が出て、条件からはずされた。六四年の段階では、三多摩社青同は全国政治閥争の最前線に出ていて、東京社青同内部の協会派、解放派との三つどもえの分派闘争にすでに介入している。そうした状況で、労働者出身カードルの急速な理論的成長が要求されており、この要求を満すためには、閉鎖的な非合法中央集権の組織体制がしっこくになりはじめていた。
 ICPは、民主的中央集権の体制に移行して、学習会や討論会を精力的に開始した。この努力は、JRに好感をもって迎えられた。
 「ICPが、その実践的組織規律と強力な下部にたいする指導力によって、下部における全般的な政治討論へのトビラを開き、政治教育への活動に着手し、これを押し進めつつあることを、我々は確認する。」
(「ICPとの即時統一達成のために」六四・一一・七――文責酒井)
 この努力のなかで、当初、三多摩のICPメンバーが、第四インターナショナリストとして必要な政治意識を真に保持しているのかどうかを危ぶみ、全メンバーを無条件に統一組織に受け入れるわけにはいかない、としたJR側の懸念は、一応ぬぐわれた。しかし、この懸念が何の根拠もないものではなかったことは、その後の事態が示す通りであろう。
 条件の第三点については、大会決定の執行部構成が、全体としてはJRが多数、在京メンバーではICPが多数となることによって、解決された。
 統一のための最後の作業は、JR機関紙「世界革命」の共同編集(第一一二号、六四・一〇・三〇)から開始された。一一・三〇、統一協定案が、太田、酒井によって合意され、両組織の内部討論にかけられることになった。

 統一協定(案)
 (1)JRCL、ICPの双方は、第四インターナショナルの綱領「資本主義の死の苦悶と第四インターナショナルの任務」(「過渡的綱領」)および第四インターナショナル規約を承認する。
 (2)われわれは、一九六三年に統一した第四インターナショナルの日本支部として活動しようとする。同時に、統一インターナショナルの外にとどまっているトロツキスト諸グループの統一インターナショナルへの参加のために努める。
 (3)ICPは、一九五八年、JRCLから分裂した(当時ICPは、トロツキスト同志会と称した)。この分裂の原因は、当時JRCL内にあった黒田寛一派との闘争戦術の相違にもとずくものであった。
 黒田寛一は、一九五九年、官憲に労働者階級の情報を売ろうとするスパイ行為によって、JRCL第一回大会によって除名され、同時に黒田寛一派はJRCLから分裂した。こうして、分裂のこの理由はとりのぞかれた。
 双方は、黒田寛一派との闘争戦術およびICPのJRCLからの分裂についての評価を留保する
 (4)六〇年十一月、JRCLはICP(当時第四インターナショナル日本委員会)と統一した。
 この統一は失敗した。今日のICPはこの統一に参加しなかった。他方JRCLと統一したICPの代表的メンバーは、統一組織の活動から脱落し、第四インターナショナルのための活動から離脱した。
 双方は、この統一とその失敗にかんする評価を留保する。
 (5)双方は、多くの政治的対立をもっているが、以下のような諸点においてトロツキズムの立場を政治的実践において防衛してきた。
 @一九五九〜六〇年の石炭産業合理化にたいする「炭鉱無償国有化労働者管理」のスローガン。
 A労働者国家の政治的防衛と核兵器を含める武装の承認。これは、ソ連の核実験、中国の核実験にさいしてテストされてきた。
 B植民地革命における永久革命の防衛とキューバ、アルジェリア革命の防衛とキューバ労働者国家の承認。第四インターナショナル・セイロン支部サマサマジスト党多数派のブルジョア政府参加への批判
 C革命的労働者党建設における加入戦術の承認。日本における社会民主主義影響下の労働者階級の運動内に主要な革命的労働者党建設の場の設定。
 このことはプロレタリア統一戦線戦術を承認し、階級にたいするセクト主義にたいして、双方が自覚して批判的であることを示す。
 双方は、これらのトロツキスト的原則の実践的防衛という政治的テストによって、第四インターナショナルの綱領規約のもとに統一し、第四インターナショナル内の政治的生活によって双方の対立の克服のためにつとめようとする。
 (6)双方は、六三年以降、組織の政治的再建のために努めてきたし、また統一のための相互の討論をすすめてきた。
 @JRCLは、ICPの地域的性格と政治的独自性の弱さを批判し、
 AICPは、JRCLの日常的な政治指導能力と組織規律の弱さを批判した。
 双方は、これらをみとめ、克服に努めてきた。
(7)国際情勢(略)
(8)国際情勢のこのような性格は、インターナショナルの指導力、理論と分析と政策と組織力の飛躍的強化のために全力をつくすことを求めており、現状のインターナショナルの指導部と組織の弱体さは明白である。
 われわれは、日本トロツキスト運動の統一とその努力の発展によって、このインターナショナルの任務に参加しようとする。
(9)国内情勢(略)

(10)統一組織は、レーニン主義・第三インターナショナルと第四インターナショナルによってうちたてられてきた民主的中央集権主義である。
 統一組織の暫定規約は次のとおりである。……
 統一組織は、双方の綱領をそのまま暫定的に採用し、別に綱領委員会を設け、単一綱領を作成する。

 ICPは、太田の早期統一方針でかたまっており、内部になんの異論もなく、六四年十二月に第十三回総会をひらいて満場一致で統一協定を確認した。
 JRは、この当時、基本的には三つの見解に分れていた。この三つの見解は、それぞれ、東北、関東、関西の傾向として存在していた。
 情勢のとらえ方において、東北は多角的平和共存論の展望をうち出していた。関東はアジア革命―植民地革命の発展にポイントを置いて情勢をとらえていた。これにたいし関西は、独占資本主義の肥大化に問題の焦点をあて、ここから、構造改革理論の批判的摂取の必要を説いた。情勢のとらえ方と社会党、労働運動の地方的性格に規定されて、加入活動のすすめ方においても三地方の見解はまた異なっていた。関東と東北は、佐々木派への加入を主張したのにたいし、関西は江田派への加入を主張していた。
 統一の問題にかんしては、関東は、三多摩を中心とする加入活動上の実践的協力が深まっていることを反映して、もっとも熱心であった。すでに三多摩では、JR、ICPの合同会議がもたれ、路線をめぐる論争が開始されていた。とくに、統一労組運動が壁にぶつかりはじめていた六四年からは、ICPの中小企業労働運動中心主義の再検討がおこなわれ、またJRの側からはアジア革命派としてICPに接近しつつあった。こうして関東では統一の条件は成熟していた。関西は統一に賛成であった。それは主として第四インターナショナルの統一にもとずく、原則的な支持であった。これにたいして東北は、太田路線にたいする警戒がもっとも強く、頑強に早期統一に反対した。
 十二月に開かれた東北地方総会は、@主体的にJRCLの理論的討論が整理不十分である、A対立点が明確化されておらず、またICPの総括、JRCLの総括双方が留保されるのは非原則的である、B安保暴動論の傾向は何ら克服されておらず、原潜闘争において復活している、との理由で、ICPとの早期統一に満場一致で反対した。
 JRの討論は、一月中央委員会にもち込まれたが、ここでも決定を見ることはできなかった。二月二八日、JRは第六回大会をひらいた。東北地方委員会は、時期尚早の統一にはあくまでも反対するが、大会決定には服するとの態度を決めてきた。大会は、統一協定を多数決によって採択した。
 JR第六回大会は、閉会し、すぐに統一大会、(それは、第四インターナショナル日本支部結成大会と称された)に移行した。大会は宣言と新指導部を選出した。
「……第四インターナショナル日本支部は、そのアジアビューローの一員としてはじめて現実的に存在し得るであろう。我々はインド、セイロン、インドネシア、中国、オーストラリアの同志達(このときには未だ、インドネシアに万を数えるトロツキスト党、パルタイ・アコマが合法的に活動していた―引用者)と共に、近い将来にアジアビューロー結成大会を獲ち取るであろう。日本支部大会はまさにそのための第一歩として理解されなければならない。」
 「日本帝国主義の離陸の危機はすでに開始された。このことが池田の退陣と佐藤の登場によって劇的に表現されたのだ。佐藤内閣の内政、外交すべての面に亘る行き詰りと破産、そして政府と大衆の間の敵対の増大。ここにいま我々の立っている地点の特徴が求められる。革命的プロレタリアートが事態の主導権を掌握し、深まりゆく危機を革命へと転化することができなければ、公明党、ファシズムの脅威は飛躍的に増大するであろう。」
 「いまや全日本の第四インターナショナル派は結集された。我々は長期に亘る準備期を終え、強力な日本支部の建設の道へ一歩ふみ出した。日米帝国主義、社民・スターリニスト官僚をしてトロツキズムの名に戦慄せしめよ。
 全国の労働者・学生の同志たち!
 いまや第四インターナショナル日本支部は諸君と共にある。
                    一九六五年二月二八日」
 大会は、中央執行委員長に林(太田竜)、書記長に酒井を選出して終った。一年半の交渉と討論の後に、統一が達成したのである。だがこの統一は、新しい分裂の開幕でもあった。

 4 加入活動の発展と同盟の危機

 ここで、この時期全体の社会党内部の情勢を簡単に説明しておこう。
 浅沼稲次郎の暗殺後、社会党のヘゲモニーは江田派にうつった。六〇年から六四年まで、江田は構造改革路線のもとで、一方では、大衆運動における共産党との分裂を系統的に進めながら、他方では共産党と対抗する組織力の獲得のために、オルグ制度の確立、社青同の建設、社会新報の確立などの党改革を次々と進めて来た。江田によるこうした展開には、共産党を除名、追放された構造改革派の理論家や活動家が大きな役割を果した。
 江田派の反共主義的党建設路線は、民同労働運動の反共組合主義化と並行して進められた。そしてこの過程は、池田内閣の高度成長政策を基礎とする大巾賃上げ闘争中心の労働運動の展開に支えられた。すなわち、安保と三池の六〇年の激突は、六一年以降アメリカ・ケネディ政権の対日政策とむすんだ池田と江田のアベックによって収束されていったといえるのである。
 だが、こうした社会党・労働運動の巧妙な右傾化にたいし、六四年二月に開始された社青同の左派の反撃の成功は、社会党に波及して、佐々木派を中心とする左派勢力の反江田派闘争が前進していった。
 六五年五月、社会党二五回大会は、佐々木更三を委員長に選出した。六〇年代にはいってからはじめて、左派が勝利したのである。この背景には、ベトナムを中心とするアジア革命の発展が、アメリカ帝国主義との全面対決につきすすんでいく国際情勢の激動があった。佐々木は、江田の反共路線を修正し、ベトナムを焦点とする共闘を提起していった。

 社会党内情勢のこのような進展は、加入活動の発展の絶好の基盤となった。
 三多摩社青同の六四年原潜闘争への彗星の如き登場は、社青同全体はもちろん、全国政治勢力に巨大な衝撃を与えた。皮ジャンパーとヘルメットに身を固めた一五〇〜三〇〇の戦闘部隊の出現は、ベトナムの対決の深化のなかで、新しいたたかいのイメージを鮮烈にやきつけていったのである。
 三多摩社青同の政治的登場は、解放派を左傾させ、協会派との亀裂をつくり出した。それまで反江田―構革派の闘争のなかで一体となっていたこの両派は、反戦闘争―街頭闘争をめぐってするどく対立し、六
年以降の社青同の分派闘争激化の最初の対決の主軸となるのである。
 三多摩社青同が全国政治闘争の実践的先端に立っていった六四年には、東北では宮城を中心とし、関西では大阪で、加入活動は飛躍的な発展を遂げた。宮城では社青同地本が旧JRのヘゲモニーの下で再建、確立され、その成功を背景に東北全体(青森、岩手をのぞく)での加入活動が発展して、各県の社青同の中心支部や地本に旧JRの指導権が確立していった。また大阪でも、六四年以降、社青同地本の指導部に旧JRメンバーが配置され、そのヘゲモニーによって大阪の青年運動がひきつけられていく情勢がつくり
出されていった。
 加入活動は、全国的には六四年に、「加入のためのたたかい」を終えるのであるが、この時期は同時に社会党における左派の前進の時期でもあり、第一段階を終えたばかりの加入活動が、各地方の拠点で急速に社青同運動の指導権に挑戦して勝利していくことを可能にしたのである。
 加入活動は、六五年はじめには、東・西の政治的中心地方で、まさに足並みをそろえた。こうした運動の発展のなかで、旧JRと旧ICPは統一を達成した。立ち遅れた中央指導部の再建がたたかいとられた。加入活動は、この主体的前進に助けられて.さらにいっそう大きな発展を約束されたかに見えた。

 六三年の憲法中央公聴会阻止闘争から政治闘争へのとりくみを開始した三多摩社青同は、六四年の原潜闘争を経て、一躍、全国政治闘争の前衛部隊として登場するに到った。警察当局は、三多摩労働運動に根を下すことに成功した、この過激なトロツキスト運動にたいして、重要な関心を寄せ、大衆闘争があるごとに三多摩社青同にたいする弾圧を強化して、その破壊をねらった。このため、三多摩社青同と権力の間の緊張関係は、全体の政治的関係よりも一歩、するどいものとして高められていった。
 六五年は、日韓条約締結の年であった。また国際的には、ベトナムにたいするアメリカの介入が、トンキン湾事件を口実として、一挙にエスカレートした年でもあった。かくて六五年は、ベトナム―日韓を焦点とした、政治的対決の一年となったのである。
 この年をむかえるにあたり、三多摩社青同は、これまでの活動の結論としての政治的突出を決意していた。それは、同盟中央の太田にひきいられた旧ICPグループの路線として打ち出されていった。
 統一後三ヶ月、第一回中央委員会が開かれた。太田は、次のような議案を提出した。
 「ついに二月七日、米帝国主義は北ベトナム爆撃を開始した。
 『世界革命』は次のように書いた。
 『現瞬間の世界情勢の特質は、主導権が米ソから、中国を中心とする植民地革命の側に決定的に移行したという点にあると我々は判断する。これは劇的な一瞬である。』
 まさにこのような瞬間にこそ、単一の、最高に緊密に団結した、強力な中央指導部の指令のもとに一体となって闘争する革命的前衛党の現存こそが、はかり知れぬ重大な意義を持つのである。このことを予測したがゆえに、我々は六三年秋以来、単一の強力な日本支部の建設を一刻も早く実現したいと、心血を注いで来たのだ。
 我々は二月二十八日、単一の日本支部をついにかちとった。
 我々は辛うじて間に合ったのだ。我々は危うくも間に合ったのだ。いま始まりつつある政治的激動=均衡の崩壊=革命前的情勢への発展の中で、階級闘争全体の主導権を掌握すべき部隊として、まさに時間切れ寸前にすべり込むことができたのだ。」
 「我々の今日的課題は、現実に日本の労働者階級を導いて政府危機を発展させる政治的機動を実施することである。我々はそれを拠点地区において、拠点単位において、ようやく、端初的形態においてではあるが始めようとしている。我々はゆっくりと構えていることはできない。評論家的に外から眺め、無責任な、高踏的な論評をして満足していることは断じて許されない。我々はいま、まさに時々刻々、革命的前衛としての価値それ自身を問われている。」
 「米軍がダナンに原子砲を配備したという事実は後のワシントンの見解(戦局の焦点はダナンに移るとする見解)と結びつけるならば、恐るべき爆発的な事態が次の一、二ヶ月のうちに展開されるであろうと我々は判断しなければならない。」
 「我々は次の数ヶ月の階級闘争の激化の中で、六・一五をはるかにのりこえるような敵権力との暴力的衝突を指導し得なければならない。
 街頭での衝突と、『生産点での闘い』とは正しく弁証法的に統一されなければならない。『労働者階級』がゼネストを整然と打つところ迄成熟し、しかるのちに十分に準備された武力闘争が展開される、というような図式主義を断固として克服しなければならない。労働者は逆に街頭で直接に国家権力と対決する闘いを通じて、企業をこえた=個別資本への憎しみをこえた階級意識へ飛躍する。だからそれが次には企業をこえた政治スローガンのためのストライキの意識を成熟させるのである。」
 「我々はベトナム侵略反対闘争に立つ。アメリカ大使館への抗議行動を市街戦へ転化させねばならない。そして更に米軍基地に対する実力行動のイニシアをとらねばならない。」
 一中委議案は、採択されなかった。東北と関西がこれに反対し、東京は、旧JRをふくめて、議案の立場を基本的には支持したが(東京の旧JRは、街頭行動とストライキの関係についての太田の方針にたいしてだけ保留した)採択に付さず、方針としてはこの内容で関東が実践にうつすことに同意することで妥協が成立した。
 一中委譲案は、数日後に予定されていた三多摩での基地闘争について、同盟の機関決定を得ようとするねらいを、直接にはもっていた。この闘争は五月十八日に行なわれるはずになっており、日本の反戦闘争の新しい地平――米軍と日本の大衆の直接的衝突を切りひらく目的で、立川基地にむけて計画されていたのである。つまりこの議案は、三多摩社青同運動の政治的頂点を意味していた。六三年以降の政治的突出の最高の地点が、五・一八の半武装デモであり、その理論的裏づけが一中委譲案であった。もちろん旧ICPグループは、機関決定にはこだわってはいなかった。しかしこの闘争の成功をテコに、同盟全体を太田路線で獲得していこうとする意欲を議案は宣言していたのである。闘争にむかって、三多摩社青同の内外における政治的緊張は、増大していった。警察権力、社民官僚、同盟内部の論争、そして新たに、社青同東京地本を中心の舞台とする、社会主義協会派との分派闘争がはじまっていた。
 五・一八闘争は予定通り遂行された。闘争の物理的目標――イエロー・ゾーンの突破と座り込みは達成した。だが、予想された米軍との衝突は、起らなかった。事実としては、六人の同盟員が刑特法違反で起訴されただけである。しかも、この闘争にたいする全国的関心は引き起されず、一地方のエピソードとして新聞に紹介されるにとどまった。
 闘争にむけた意識の緊張がきびしいものであっただけ、不発に終ったあとの弛緩もまた大きかった。そのなかから、太田路線全体にたいする疑惑が、急激に広がった。
 旧ICP内部から、太田路線にたいする反対派が生れてきた。この部分は、最初から三多摩社青同運動をにない、つくり上げてきたカードルと、その影響のもとでトロツキストになっていった労働者達であった。旧JRは、彼らと結合した。
 五・一八以後の三多摩地区総会は、太田派と反太田派の対決の最初の場となった。ここで反太田派の旧JRメンバーが地区委員長として選出され、太田派は一挙に少数派となった。だが混乱は拡大した。
 労働者同盟員のなかから、JRを離れる者が出て来た。旧ICPのなかには、太田にたいするつくり上げられた過信があった。それが突然崩壊したことによって、志気沮喪もまた広がっていったのである。たしかに旧ICPのなかには、統一交渉で旧JRから指摘されたような太田の思想的独裁の傾向、メンバーの太田にたいする政治的依存の傾向がこの時まで根深く残っていたのである。このため、旧ICPのメンバーにとっては、第四インターナショナルとは、太田そのものであった。
 こうした心理的背景のもとで七月、三多摩の旧ICPの指導的メンバー、徳川、中曾根によって「第四インターナショナルを脱退し、新しいインターナショナルをめざしてたたかおう」と題する文書(「徳川・中曾根提案」)が発表された。この文書は「第四インターナショナルは、死産であった」との主張を展開した。「第四インターナショナルは、ロシア革命がヨーロッパ革命に引きつがれるという展望のもとで組織された。だが現実の世界革命は、ヨーロッパの方向にむかうのではなく、中国革命を突破口としてアジア=植民地革命の方向へ発展した。第四インターナショナルは、革命のこの転進に根づくことができず、土台を失なってしまった。このため、その生誕は一個の死産にすぎなかった。よってわれわれは、第四インターナショナルを脱退すべきだ」というのである。
 「徳川・中曾根提案」 は、同盟内部、とくに三多摩の同盟に、巨大なショックを与え、論争は、単なる太田の政治方針の是非をめぐるものから、太田を先頭とする党堅持派と、提案者達の解党派との論争という性格のものに急速に変った。「提案」を太田は大喜こびで利用した。彼は、五・一八闘争の失敗を論争の片隅に押しやり、解党主義攻撃を通じて自らの権威を再確立しようとしたのである。
 太田のこうした路線は、八月の第二回全国大会で粉砕された。二回大会前夜、宮城代議員団は、「提案」の問題提起は、同じ問題意識をもつものとして歓迎し、継続討論に付すべき性格のものであること、しかしその結論についてはいったん撤回する必要があること、また大会の討論の中心を、この間の政治方針、政治闘争の総括にうつすべきことを、徳川、中曾根に申し入れ、意志統一をはかった。
 二回大会は、東京に反太田派が生れたことによって、一中委とはちがった力関係になっていた。
 太田の起草した議案は、中執会議によってその矛盾を追求された。すなわち議案の全体が「米中戦争不可避論」でつらぬかれており、これは「ポサダス派」の主張と同一だが、「ポサダス派」を支持するのか、と詰問されて、太田は、「私はパブロを支持する」とこたえたのである。中執は、議案を採択にかけないことを決定し、討論の素材として太田が提起するだけのものとなった。大会の討論では、議案にたいする反対が、旧JRの部分から激しく展開されたが、旧ICPは太田擁護の論陣を張らず、沈黙を守った。
 大会は「徳川・中曾根提案」を継続討論に付すことを決定し、この問題で反撃のチャンスをつかもうと
した太田の計画は挫折した。さらに第三の打撃が加えられた。太田の婦人メンバーにたいする誤った個人的指導がスキャンダルとして暴露され、はげしい糾弾を受けたのである。太田を査問せよという要求がつきつけられた。ここにおいて太田は、一切の役職からの辞任を表明した。大会はこれを受け入れ、太田を査問会議に付すことを決定するとともに、権限をもたない書記として太田を活動の場につけることを決定して閉会した。
 二回大会で逆転劇が演じられた直後から、太田の分派行動が開始された。旧ICPグループの一部が、太田の行動と路線を擁護し、太田派(のちに、BL派=ボルシェビキ・レーニン主義派と自称)を結成した。
 統一大会から丁度半年で、同盟は新たな分裂・分派闘争の時代に足を踏み込んだのである。
 新たに選出された中執は、BL派と反BL派との論争の場になった。統一した政治方針や戦術決定は得られなくなった。こうしたなかで、秋の日韓闘争が展開されていった。
 皮肉なことに、分裂が不可避的に進行していった六五年の秋は、東北と関西の加入活動が大きく前進し、そこでつくり出された杜青向の隊伍が、中央闘争において、三多摩を中心とする東京の社青同の隊列と始めて合流したときであった。国会前の闘争で、しばしば、宮城の社青同と三多摩社青同は、となり合わせに坐り込んだ。だが一方は、まさに上り坂にあり、意気軒昂の部隊であり、他方は、壁につき当たり、指導部が混乱し対立して、方向感覚を失ないつつあった。全国的な「政治的機動」が、はじめく可能になったこのときに、「単一の、緊密に団結した中央指導部」か、おそろしい早さで崩壊していったのてある。
 同盟の危機は、こうした同盟自体の内的要因によって生み出されていったか、さらにそこに外部からの要因が加わって加速された。日韓闘争を通じて、社青同内部の社会主義協会派と左派〔第四インター派と解放派の連合戦線)との対立が、東京を中心に激化し、一部では、暴力的な衝突さえも起きはじめた。協会派は社会党と労働組合組織に根を張った全国分派であったか、解放派は、東京では強力だか、地方にはごく限られた力しかもたず、また第四インター派は、その加入の時間的前後関係や、加人のためのたたかいの条件の違いから、各地方ごとに全く違った政治的位置におかれている。この条件の困難さは、協会派との分派闘争が必然的に全国性をもって展開されざるを得ないにもかかわらず、対決が局地的に先行してしまう危険を生み出している。それゆえ、加入活動における分派闘争への介入には、とりわけ全国指導部の強力で綿密な点検と指導が要求されるのである。
 だが、崩壊しつつある新中執は、論争の場になりこそすれ、加入活動の実践的指導の場からははるかに遠くなってしまった。こうした状況のなかで、日韓闘争の敗北へむかっていく過程で、社青同の分派闘争は一方的に進んでいった。都労連と結合した東京社青同のデモ隊列から、協会派は同盟員を召還し、東京の社青同部隊は、左派だけの構成になっていった。
 日韓闘争のなかで、全国反戦青年委が結成された。ここには、多くの新左翼セクトも席を与えられた。とりわけ東京反戦は、戦闘的な青年労働者と学生の共闘の場となった。協会派は、過激派に開かれたこの東京反戦にたいしても、憎しみをつのらせ、労組機関を通じて統制をはかろうとした。社青同内部の分派闘争は、こうして、外にまで広がっていった。
 拡大し深化する社青同分派闘争の一方で、同盟の分裂が進行し、新中執は機能麻痺におちいりつつあった。加入活動の発展のなかでの同盟の危機、これが六五年を特徴づけたものであった。

 5 BL派の分裂と社青同東京地本問題

 六六年に入ると、東京の同盟は、BL派の攻勢的な分派闘争に一層ゆさぶられることになった。「革命的社研」づくりと称する彼らの組織方針は、社会党内分派闘争を展開することが目的ではなく、三多摩社青同、三多摩社会党オルグ団の多数派でもあるJR中執多数派に打撃を与えることをねらうものだった。こうして、JR内の分派闘争は、まったく無原則的に社会党、社青同にもちこまれた。大衆闘争、大衆組織内での対立の公然化は、分派闘争をさらに先鋭化させ、それとともにJR多数派も分解した。
 最初に、酒井を中心とし、社会党と労働組合内で主に活動しているメンバーによって、社会主義通信派が結成され、分派機関誌「社会主義通信」が創刊された。三多摩社青同に中心的な活動基盤をもつメンバーは、社通派の「統一労働者党」的傾向に反撥し、実践的には東京の解放派との共闘を発展させながら、「マルクス・レーニン主義研究会」=M・L研に結集し、後に分派的性格をもった機関誌「レーニン主義」を発行した。一時期太田と接触していた学生グループは、横国大、東学大、中大、東洋大などを活動の根拠地にして、関東社研を発足させ、その機関誌「武装」を全国学生運動に発表していった。
 四月、社通第四号は、「第四インターナショナルの早産論」を提起した。この議論は、「徳川・中曾根提案」が主として中国革命との関係に力点を置いて「第四インターナショナルの死産」を主張していたのとはちがって、現実の世界情勢をトータルにとらえようとする視点から展開されていたが、実践的には同じく「解党提案」の要素をもつものであった。「徳川・中曾根提案」、「社通第四号」と、二つの「解党提案」を打ち出した東京同盟内の傾向にたいし、東北は「東北B通信」で、真剣に検討されるべき問題提起であると肯定的に評価する論文をのせてこたえた。
 BL派は、この動きにたいし、ただちに組織問題として反応した。四月にひらかれた三多摩地区執行委員会は、社通派に属する三名の地区執行委員の除名を決定、これに反対するML研をも排除して、BL派だけの三多摩指導体制をつくり上げ、つづいて東京臨時指導部を名のり、「世界革命」一六五号において、これらの事実を公表して、中央執行委員会は今後すべての解党主義者を放逐してBL派の手によってになわれるであろうと断言したのである。
 社通第四号の提起は、内容の是非はともかく、第二回大会によって満場一致で確認された「徳川・中曾根提案」の継続討論という決定に沿ったものであり、いかなる意味でも、機関を無視した独走とはいえない。それは、討論にゆだねるべきことがらであって、統制処分の対象として議論されるべきではない。
 中執多数派もただちに反撃した。五月二十一日第四回中執が招集された。しかし、BL派は、中執多数派はすべて解党主義者であり、そのような中執会議は認めないとして出席しなかった。多数派のみで開かれた中執は、BL派による三同志の除名をとりけし、今後インターナショナル問題の討論を全同盟的に行うことをきめた。だがBL派は、電光石火の早業で同盟を分裂させる口実に、社通第四号の問題を利用したのであった。
 こうして、二回大会後一年を経ないうちに、しかも唐突なやり方でBL派は同盟からの分裂の道をえらんだ。そしてその後二年程のうちに、BL派もまた分裂し、太田は孤立し、やがて評論家の一員になって、第四インターナショナルはもちろん、マルクス主義そのものから公然と袂別していったのである。太田を除く他のBL派の諸君は、社会党にもどったり、他党派にうつったりしたものもあったが、全体としては、闘争から召還してしまった。
 BL派の分裂のあと、中央執行委員会は機能を停止した。東京の同盟は、社通派、ML研、関東社研の三「分派」によって、それぞれになわれ、必要に応じて、臨時の会議がもたれるという状況がつづいた。「世界革命」はBL派の手によって潜称され、二百号をこえる頃までつづけられたが、反BL派の三「分派」は、この不当な行為にたいして、実践的にたたかい、機関紙をとり戻す努力を一年以上にわたって放棄した。
 こうしたなかで、社青同内部の協会派と左派の緊張関係は増大しつづけ、八月、有名な東京地本問題が発生したのである。
 解放派の協会派にたいする集団リンチ事件として知られる、社会党史上はじめての大不祥事件である東京地本の第七回大会での暴力的衝突は、協会派によって、左派の組織的排除の絶好の機会としてとらえられた。東京地本は解散処分をうけ協会派系のメンバーだけによる東京地本再建が強行された。
 この事態にたいする対処をめぐって、同盟は緊急拡大中執を開催した。各地方の見解は異なっていた。もっとも強硬に事件の責任者である解放派を非難し、協会派にたいしての全面屈伏を要求したのは関西であった。他方むしろ協会派こそが非難されるべきで、いかなる妥協も排して左派東京地本の旗をかかげるべきだとしたのは、東京のML研と関東社研であった。社通派の一部は関西に近い立場にいたが、全体としての共通見解はもたなかった。東北は社青同の全国的な反協会闘争に合流していくために、若干の犠牲を払っても妥協の道を当面は追求していくべきだ、とした。
 拡大中執は二度にわたってひらかれたが、一致した結論には到達しなかった。協会派による統制処分と東京地本再建の既成事実は、次々とつみ重ねられた。ML研と関東社研の立場が、事実によって強制された。
 社青同への介入は、社会党加入活動のもっとも重要な手段であった。全国社青同から切りはなされ、排除されたことは、社会党加入活動自体の展望もまた閉ざされたことに他ならない。東京地本問題は、この意味で、加入活動自体の終りが始まったことを明らかにしたのである。
 協会派による組織処分は、六六年十二月の東京地本再建によって完了した。この過程でひたすら妥協の可能性を探しつづけた解放派と、事実上加入活動からの引き上げの方向にむかって動いた東京の第四インター派とのブロックもまた解消した。
 社青同内部の分裂と、JR内部の分裂、そして指導機能のマヒのなかで、三多摩社青同はついに完全に崩壊した。
 六七年、ML研グループによる三多摩社青同の活動は、反戦青年委員会として砂川を中心に細々とつづけられていったが、全国社青同と完全に断絶してしまった三多摩社青同には、社青同として存続する意義はなくなっていた。ML研は独立活動への移行の意志をかため、六八年の春、分室機関からメンバーを引き上げた。

 6 急進的青年運動の高揚と独立活動への転換

 六七年、全世界の急進的青年運動の発展の一翼として、日本でも反戦青年委員会、三派全学連等の急進的青年労働者、学生による反戦闘争が高揚を開始した。それは砂川現地闘争を契機として、六八年一〇・八、一一・一二羽田闘争六八年一月佐世保闘争へと大きく発展していったが、この砂川闘争を準備し担ったのは三多摩社青同――ML研のメンバーだった。彼らは現地反対同盟を獲得し、全国オルグにとんだ。二月、五月、七月と現地闘争のたびに、青年学生の結集は増大した。「この米侵略機をベトナムに送るな!」というスローガンは、六五年日韓闘争の敗北によって一時停滞していたかにみえた反戦青年委員会の活動家たちに、新しい闘いの方向をさし示すものとなった。
 しかし、三多摩社青同はもはや事実上崩壊していた。砂川闘争は六四年原潜闘争で全国政治闘争の最前線におどり出た三多摩社青同の最後の闘いとなった。そして同盟中央機関と関東の組織は壊滅状況であった。
 加入活動の最大拠点としてあった三多摩社青同が、全国社青同からきりはなされ、かつ崩壊したという事実は、加入にもとづく同盟建設の展望に重大な問題を提起するものだった。このまま加入活動を通じて進もうとするのか、独立活動に転換すべきなのかが問われたのである。
 社青同の協会派による左派排除路線の勝利と反戦青年委員会運動への敵対、他方、高揚する反戦闘争に結集する青年活動家たちが、六〇年安保闘争のときのように民青や社青同にむかうのではなく、新しい左翼、新しい戦闘的潮流にむかっているという事実は、その答えを示していた。
 梶は基本的に独立活動の方向に、したがって加入活動からの引き上げの方向にむけられた。その方向にすすみながら、加入活動の最終戦をたたかいぬくこと、つまり、一人でも多くの社青同、社会党員を引きつれ、われわれが加入活動のなかでつくり出した運動の成果を防衛しながら、新しい活動の場、新しい組織へ飛躍するために、六七年以降全国的規模で再開された社青同分派闘争に攻勢的に介入すること、が課題に上ったのである。
 この加入活動最終戦の主力を担ったのは宮城を中心とする東北であった。宮城のJRは、反対派の代表であった東京池本が排除されているいま、社青同第七回全国大会において公然たる反対派の登場が絶対に必要であり、宮城地本がそれを担う以外にないという結論をもった。地本執行委員会が起草した第七回大会への意見書は、協会派系、解放派系の同盟員を含めて拡大池本委員会で満場一致で決定された。
 六七年六月の社青同第七回全国大会は、東京地本の官僚的組織処分にようやく成功した協会派にとって、新しい全国分派闘争の再開を思いしらせることになった。新しい反対派が宮城―福岡連合、大阪―埼玉連合という二つの方角から登場した。前者は協会派系自らの内部から、後者は、第四回大会で一度はほうむりさられたかにみえた構造改革派の戦闘的再建として。
 宮城地本意見書は、第一に反戦闘争の強化、第二に「改憲阻止・反合理化」の基調の全面的再検討、第三に組織の民主的運営を要求するものであり、それは反対派全体に共通する意見でもあった。そして、協会派のメッカとされていた福岡地本が中央に反逆したことは、全国協会派に大きな打撃となり、反対派にとっては全国展望を与えるものとなった。
 六七年十月末、大阪、三多摩、東北各県のメンバーによって、仙台で開かれた全国社青同グループ会議は、社青同内に公然たる全国連合反対派を形成すべきであるという結論をだした。宮城地本がそのイニシアチブをとった。
 六四年から六五年にかけて、協会派系の姿をとりながら宮城地本を全面的にヘゲモニーをとって再建したのち、宮城のJRは、社青同運動を労働組合に根づいた反戦闘争の部隊としてつくり上げていった。東北大で最盛時には百名に近い班をつくり上げることに成功したことが、豊富な活動家を保証し、この活動家たちを全県に派遣して宮城社青同総体を活撥な反戦派として組織することに成功した一つの大きな理由であった。六七年以降のベトナム反戦闘争の高揚は、東北の政治的中心である宮城の労働者を政治的に活撥化させ、学生達と青年労働者の連帯した反戦闘争拠点へと宮城の社青同を前進させた。六七年宮城平和友好祭蔵王祭典は、ベトナム一色でぬりつぶされ、一千名の青年達が、「グエン・バン・チョイの歌」を歌いながら山を上り、そして下った。国際主義的な連帯の感動が蔵王をつつむなかで、宮城社青同は、その運動の絶頂期を、反戦派として全国政治闘争に踏み出していくことを宣言したのである。
 六八年三月、三里塚現地闘争で、一五〇名の赤へル部隊が宮城反戦の旗のもとに文字通り機動隊との激突を展開し、全国の反戦青年委運動の最前線におどり出た。それ以前の一月佐世保闘争の中では、福岡社青同の部隊が、闘争の中心を担っていた。反戦闘争の高揚の中で社青同の各反対派はそれぞれの地で県反戦を担い、その闘いを通じて宮城を中心に連合反対派の形成にむかっていた。
 この時点まで、宮城社青同の政治的急進化は、協会派系、解放派系をも有無をいわさずにまき込んですすめられた。しかし、権力との公然たる激突は、遅まきながら社民たちのこれ以上の随行をあきらめる決断を下す機会となった。協会系、あるいは民同系、そして解放派系の同盟員達は、撤退を考えはじめた。だが、主力の大勢は決していた。この部分は、そのまま蔵王の誓いの道を憶することなく突き進み、やがて宮城国際主義労働者委員会の隊列をつくり出していったのである。
 六八年の社青同第八回大会は、前年末の社会主義協会の向坂派、太田派への分裂によって、三派鼎立の大会となった。この大会で成立した連合反対派としての反戦派は大会代議員の三分の一をかぞえ、どの派も単独過半数をとることができなかった。協会両派の妥協が成立し、両派による中執を選出することで社青同は辛じて統一組織の体裁を保つことができたとはいえ、社青同の政治的分解はもはや明らかだった。中央委員会を開いても何も決定できない状況が続いた。
 六八年十月一〇・二一新宿騒乱を機に総評青対部、社青同中央によって全国反戦が凍結された。しかし、青年労働者、学生の闘いはさらに発展していた。六九年三月、宮城反戦、埼玉反戦のよびかけによる全国県反戦代表者会議がもたれ、四月沖縄闘争の方針をきめるとともに総評、社会党に「全国反戦再開」を申し入れた。この行動は社青同はもちろん「社会―総評ブロック」のワクをはみ出すものだった。九月全国全共闘の結成に呼応する形で、「全国反戦」が再建された。
 こうした中で、六九年十・十一月闘争をまえにして開かれた社青同第九回大会は、統一組織としての最後の大会になった。中執多数派をにぎる太田派が起草した大会議案は、大会冒頭に反戦派が提案した動議「中執(多数派)提案の議案と、中執少数意見書(向坂派)、八地本共同意見書の三つを大会議案とする」が可決されることによって事実上否決されてしまった。執行部は総辞職し大会は大混乱となった。結局三派による執行部をつくる以外になかった。しかし太田派が最終日に大会をボイコットしたため、向坂派を多数、反戦派を少数とする中執が成立した。反戦派は社青同中執の名のもとに、やりたいことをやれることになったわけである。
 七〇年七月、社青同の組織的統一性はついに全面的に崩壊した。向坂派が作成した第十回大会議案が中央委員会で否決された。反戦派中執は直ちに辞任した。しかし、向坂派は中央委員会多数の辞任要求を拒否し、七一年二月、自派だけの十回大会をひらいた。こうして全国社青同の分裂が完了した。
 これ以後、向坂派のひきいる社青同が社会党の公認を得ているが、太田派の社青同、解放派の社青同もそれぞれ自己の正統性を主張して今日まで組織を存続させている。また反戦派は、次々と社青同を解散して、新しい組織形態や活動家グループにうつった。構革系は「主体と変革」派へと結集し、旧福岡地本は、ゆるやかな学習会的活動家グループに転じた。そしてわれわれは、国際主義労働者委員会=ILCから、日本共産青年同盟へと飛躍したのである。
 加入活動の最終戦は、こうした社青同内の分派闘争と結合しながら、雑誌「根拠地」の活動としても展開された。「根拠地」は主として社会党、総評内の反戦派活動家とJR東京の社会党加入部分の共同で、六八年に発刊された。それは、急進的青年学生運動の発展がつくり出した社会党、総評内の反戦派を基盤として、反戦、全共闘の闘いと労働運動の架橋の役割を果そうとしていた。
 六九年十二月の総選挙での社会党の惨敗の結果、七〇年春に社会党本部専従者のクビキリ反対闘争がおこった。クビの対象者は反戦派の活動家であり、「根拠地」の主力メンバーでもあった。この「社文闘争」(社会党本部の建物「社会文化会館」の名からこうよばれた)は、社青同内分派闘争の協会派の勝利、急進的青年学生運動の全般的後退の中で敗北に終った。そして「根拠地」もこの同じ背景の中で七一年に停刊した。JR東京の加入活動もまた終了した。
 こうして加入活動は終った。加入活動は、わが同盟建設の巨大な礎石を築いた。
 それは、パブロやマンデルの予想した方向にほかならずしも進まなかったけれども、ダイナミックな、荒々しい大衆運動のなかでわれわれの基幹部をきたえたのである。同時にそれは、階級闘争の沈滞の時期を高揚の時代にむかって生きのび、階級の体温と政治的リズムに密着しながら、新しい爆発にそなえていく前衛党の役割、統一戦線戦術と反対派活動の経験を、否定的にも肯定的にも与えたのである。
 加入活動の基本的成果のうえに、七〇年代、わが独立の党建設のたたかいが、本格的に始まっていく。


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