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国際革命文庫  17

山西英一論文集 中巻

 

電子化:TAMO2
第四部
目次


第四部

 スターリンの死からハンガリア革命
  ――I・ドイッチャー著『現代の共産主義』訳者あとがき
 スターリニスト官僚独裁とトロツキーの闘い
  ――トロツキー著『スターリンの暗黒裁判』解説
 ハンガリア革命の歴史的意義
  ――トロツキー著『スターリンの暗黒裁判』あとがき

編集あとがき


上巻 国際共産主義運動史

第一部
 国際共産主義運動史
  ヒトラー反革命とトロツキーの死闘
   ――トロツキー著『次は何か』訳者序文
  スターリン崇拝の崩壊とトロツキーの復権

第二部
 五月革命――永久革命の時代と学生運動の高揚
   ――I・ドイッチャー著『トロツキー・アンソロジー、永久革命の時代』訳者あとがき
  反ヴェトナム侵略世界共闘会議を
   ――二つの提言

第三部
 トロツキー著『ロシア革命史』を邦訳するまで


下巻 ベトナム革命と現代

第五部
  ベトナムに殉じたドイッチャー氏の生涯の最後の三年
  ――I・ドイッチャー著『現代の共産主義』訳者あとがき

 第六部
  『収容所群島』とわたくしたち
  地球の土台がゆらぐとき
   ――ソルジェニツィーンとわたくしたち

 あとがき

第四部 スターリンの死からハンガリア革命
――I・ドイッチャー著『現代の共産主義』訳者あとがき――


  一九七三年十月三十一日に執筆され、ドイッチャー著『現代の共産主義』(番町事房、七四年九月刊)に発表された。

 最近わたくしは、アメリカや西欧のトロツキー支持者たちの何人かと会って話をした。理論家として著名なオールド・トロツキストもいた。そのかれらがほとんどみな、一九四九年にドイッチャー氏の最初の著書『スターリン』が出版されたとき、主としてアメリカのトロツキストたちがこれに向けた、激しい批判と多少とも心情的な非難反発を、あれから四半世紀を経た今日も、そのまま、いとも断定的にくりかえすか、でなければ極めて無関心なのをみて、これでいいだろうか、といろいろの不安を感じさせられた。わたくし自身、自分のスターリン観を直接トロツキーの厳しいスターリン批判によってつちかわれたもののひとりとして、おなじスターリン批判でも、トロツキーとは若干違いのあるドイッチャー氏にたいして警戒し、反発せずにはいられない気持はよくわかる。だが、歴史は絶えず加速度的に変化しつづけている。トロツキーはかれの時代の確固とした歴史的事実にもとづいてスターリンを批判したのである。歴史的現実が変れば、批判も変ってくることが当然ありうるはずだ。それを超歴史的な法則のようにして、十年一日、定り文句的にくりかえしていていいだろうか、という疑問を禁じえないのである。
 マルクスからトロツキーまでの古典的マルクス主義者の偉大さは、先人の画期的な発見を継承しただけでなく、それを超歴史的な不変の法則にしてしまわないで、つねに変化してやまない生きた歴史の、先人たちがもはや見ることができなかった新しい事実を、先人と同様にいち早くとらえ、的確に分析解明してそれが内包する新しい意味を洞察し、そこから新しい展望と行動綱領を引きだしたことであり、プロメシウス的先見者であったことだった。
 トロツキーの先見がすばらしかったことは、トロツキストがいちばんよく知っているはずである。その中でも、マルクス以来の通説を突き破って、一九〇五年と一七年のロシアのプロレタリア革命をはっきり予言したときと、一九三〇年代の初め、ヒットラーの勝利は独ソ戦争と第二次世界大戦を意味すると警告して、警鐘を乱打したときの、数学的に正確だった二つの先見は、まったく見事《ブリリヤント》というほかない。
 ドイッチャー氏の歴史的な先見の真価は、トロツキーのこの歴史的先見と比較対照するとき、いちばんはっきり理解できるように思われる。
 レーニンもトロツキーも、工業社会的西欧を発祥地とした西欧的マルクス主義派の思想の中で成長した。「プロレタリア革命、プロレタリア独裁、社会主義的経済の性格に関するマルクス主義思想は、強力に発達した工業労働者階級をもち、高度に工業化され、文明化され、組織化された資本主義社会にぴったり当てはまるように設計された、実用的な仮説であった」と、ドイッチャー氏は氏の『スターリン死後のロシア』でいっている。それは後進国ロシアには直接実際的な関係は何ひとつない、とレーニンたちに思われた。レーニンは第一次世界大戦の末期まで、予見できる将来におけるロシアの社会主義革命の考えなど、主張しなかったばかりか、それに好意をよせることさえ拒否していた、と氏はいう。これは西欧のマルクス主義者だけでなく、レーニンのボリシェヴィキ全体にとっても、議論の余地のない、わかりきった自明の理《トゥルーイズム》になっていた。ボリシェヴィキの基本的スローガンは、レーニンのいつ到来するか予見されない、二段階的な「プロレタリアートと農民の民主的独裁」であった。ロシアだけではなく、西欧でもまた、ブルジョア革命の波もパリ・コミューンも遠い昔のことになり、エンゲルスでさえ、ビスマルク治下のドイツ社会民主党の選挙投票数の躍進に平和革命の幻影を抱いたように、一般マルクス主義者は、革命を考えることを止め、労働者階級はイギリスのように、徐々に増大して過半数を占め、支配権を握るのだ、それまでは権力奪取を試みることはできないし、また試みるべきものではないと考えていた。マルクスとエンゲルスの思想の権威をバックにしたこの観念が惰性となり、一般的ムードとなってずっしりと定着し、新鮮な感覚も自分で考える習慣も麻痺させ、眠りこませる自明の理と化していた。この一般社会主義のイルージョンが、どんなに根強いものであったかは、つぎの例を見ても想像できよう。一九〇五年十月のソビエト革命の後でさえ、それどころか、第一次世界大戦もすでに末期になり、ロシア軍の惨憺たる大敗北となって、ついに二月革命が勃発してもまだボリシェヴィキは、二段階的労農民主独裁を固執し、国内指導部のスターリンやカーメネフは、このスローガンの中に潜む妥協的精神に忠実に行動しており、四月にペトログラードへ到着 #してはじめて# このスローガンの情勢への絶望的な立ち遅れを知ったレーニンは、党内での完全孤立の窮地に立ちながら、政策の大転換を戦い取らなければならなかったことである。
 ただ独り若いトロツキーだけは、一九〇五年の革命の前から、この自明の理が時代遅れの幻影と化していることを見抜き、ロシアに革命が、それも近代的プロレタリアートを先頭にした革命が切迫していることを予見し、一九〇四年の未頃にはそれを「プロレタリアートと革命」の論文にまとめ、「プロレタリアートは革命的宣伝をおこなうだけではいけない。プロレタリアート自身が革命にむかってすすまなければならない」、「人民のあちゆる階級とあらゆるグループには、絶対主義にたいする憎しみ、つまり自由のための闘争への同情が浸みわたっている。われわれはこの同情を、ロシアの未来を救うために闘争する人民の前衛とすることができる、唯一の力である革命力としてのプロレタリアートに、集中することができなくてはならない」、「出発点は工場とプラントであるべきだろう。ということはつまり、決定的なでき事にみちた重大な性格の街頭デモは、 #大衆の政治的ストライキ# で開始さるべきである」といって、「まるで一九〇五年と一九一七年の革命の後で書かれたかと思うほど」、革命の事態の怒涛のような劇的な発展過程を、眼に見るように躍如と予見した、 #革命近し# !の勝利的予感に躍動する、具体的で広範な行動綱領の草案を書きあげていた。ボリシェヴィキもメンシェヴィキも、内部闘争にしのぎを削って、肝心の革命の到来を見落しかけていたときにである。すでに一九〇四年のこのパンフレットには「事件が未来のテンスで書かれていることを除けば、かれ自身の書いた一九〇五年と一九一七年の歴史の中の文章とそっくりおなじ個所がある。スローガンさえ一九〇五年と一九一七年に響きわたったスローガンとおなじである」と、ドイッチャー氏は讃嘆している。翌一九〇五年一月九日の「血の日曜日」についてその十一日後に書いた「ペテルブルクの事件」と、一九〇六年にペトロ・パブロフスク監獄の独房で書いた、「永久革命の理論を完全に、ほとんど数学的に簡潔に体系化した」と氏が舌を巻いて嘆称した、一九〇五年の革命の 『総括と展望』、一九〇九年に書いた『一九〇五年』、そして『ロシア革命史』の中の「ロシアの発展の特殊性」と「プロレタリアートと農民」を、わたくしはわたくしが最近会った外国のトロツキー信奉者たちや、日本のトロツキーに関心を持つひとたち、そして政治に目覚めかけた若いひとたちに、改めてじっくり読みなおすことをすすめたい。それは、おなじくドイッチャー氏が「さながら実験室での実験」のようだと賛嘆した、一九三〇年代初めの「ヒットラーの勝利は独ソ戦争と第二次世界大戦を意味する」といって、ただ独り警鐘を乱打した、あの正確無比な分析と予見と、大叙事詩的な闘争とともに、『共産党宣言』の先見を思わせる、近代史上最も輝かしい、再読するごとに驚嘆の感動を新たにさせられる、誠に水際立った予見と洞察であった。
 だが、それは格別深遠な理論からの演繹でもなければ、神業的な霊感の閃めきでもなかった。かれを新しい歴史的現実に激しい力で開眼させたのは、一九〇二年から、ことに三年夏にかけて、南部と西南部のロシアに起った大規模な政治的ゼネストであった。それは無知盲味なムジークの後進的な封建的ロシアという、固定した観念とはまったく異質な、最新鋭の大工場と大プラント、西欧からの外資導入によって原始的土壌の上に建設された、大企業に働く近代的な労働者であった。今日、開発途上国ならどこでも見られる「複合的発展」の顕著な現象である。続発する農民暴動、大学紛争、日露開戦後一年近い軍隊内への反戦気運の浸透などの事態は、「後進的ロシア国」内で爆発したこの近代的ゼネスト闘争の衝撃のもとに新しい性格をおびて見え、新しく生れたこれらの近代的労働者は、十九世紀の民衆から孤立した革命のインテリゲンチャに代って、急速に革命運動の先頭に立ちはじめていることを、トロツキーに悟らせたのだ。かれはただ、だれの眼にも明らかなこれらの新しい事実にハッキリ注目し、この新事実の斬新さにそれが孕む重大な歴史的予兆を見抜いただけであって、種も仕掛けもあったわけではなかった。ここから「永久革命論」へは、ほんの一歩、であった。他の社会主義者はみな、そしてレーニンさえ、トロツキーとおなじようにあの新しい事実を見ながら、社会主義革命は西欧の工業先進国でという、あのマルクス以来の固定観念に知覚と思考を麻痺されて、新事実のもつ歴史的意味にはっきり気づくことができなかったのである。これは明らかに歴史的立ち遅れであり、あのような時代として、極めて重大な、危険な立ち遅れであった。
 もちろん、トロツキーは高度の工業化と科学技術、文明化、そして近代的労働者の存在という、社会主義革命の前提条件に関するマルクス主義の原則を否定したわけではない。かれほど純粋に、一貫してこの原則に賭けていたマルクス主義者はないといっていい。原始的なロシア砂漠の中の少数の近代的プロレタリアートは、一定の条件のもとでは帝政を打倒し、政権を奪取することができるし、奪取しなければならないが、ロシア一国で社会主義建設のための計画経済を、つまり本来の革命を進めることはできない、無知文盲のムジークの木の鋤をもとに社会主義を建設することは絶対にできないとして、かれはスターリンの一国社会主義と最後まで闘ったのである。
 「精神的に時代に立ち遅れるということは、政治的分析家に共通な傾向である。以前の状態に適用して成功した分析とか、成功しなかった分析をさえ、新しい問題にあてはめようとするのは、政治家にとってそれ以上に共通な傾向である。われわれは、どの国について考える場合にも、いろいろ誤りは犯しがちである。だが、この時勢に遅れるということは、ロシアの場合には、どの国の場合よりもいちばん大きな問題であるだろう。なぜなら、普通なら半世紀間に国民生活に起る変化よりもはるかに徹底的で深刻な変化が、ロシアの国民生活に、最近十年ごとに起っているからである」と、ドイッチャー氏はいい、「ソ連は毎年ヨーロッパの中規模の大きさの国をひとつづつ加えたほど力を増大している」ともいっている。
 トロツキーは世界の情勢を絶えずその視野におさめながら、関心の不動の中心は、将来のひとつに統一された世界共産主義社会のための唯一の砦であるソ連の問題、ことにソ連の計画経済建設の情況に向けられていた。ソ連の運命は、究極的には計画経済の成否にかかっていたからである。そのトロツキーにとって、スターリン独裁下のソ連の孤立した国有経済体制は、非常に不安定で、きわめて危険であり、敗戦はブルジョア反革命の勝利にみちびくように思えた。
 一九三六年八月、ソ連の問題に献げた最後の著書『裏切られた革命』の結びでも、「もしもソビエト官僚が『人民戦線』の裏切り的政策をもって、スペインやフランスにおける反動の勝利を保証することに成功するなら――コミンターンはこの方向にむかって全力をつくしている――ソ連は破滅の危険に瀕するであろう。官僚にたいする労働者の反乱よりも、ブルジョア反革命が日程にのぼるであろう」と書いた。(『裏切られた革命』が書きあげられ、序文が書かれたのは八月四日だった)。だが、それから三年半後、一九四〇年一月二十七日号の「リバティ」誌に発表した論文では、つぎのように断言している。「ソ連が戦争に参加した場合、その測り知れない犠牲と欠乏とともに、国家体制のいっさいの欺瞞、その暴虐行為は、今世妃すでに三度にわたる革命を遂行しぬいた人民の側に、深刻な反応を不可避的に呼び起さずにはいないだろう。このことを熟知しているのはスターリンのほかにはいない」(柘植書房刊・酒井与七訳「トロツキー著作  一九三九年―一九四〇年』上巻、四五ページ)。
 三年半を距てたこの二つの予見の違いは重要である。この間に事態は、おなじ一九三六年の八月十九日に始まる三回にわたる大粛清裁判と何十万とも知れぬ内外党員の抹殺、三九年の独ソ協定から第二次世界大戦へと一気に雪崩《なだ》れこんでいく。この重大な危機の発展をまえに『裏切られた革命』を書き上げたときかれに予見されたのは、官僚に対する労働者の反乱、つまりは官僚の独裁から国有化経済体制を防衛するための、補助的な「政治革命」を指向するプロレタリアートの反乱ではなくて、ブルジョア反革命であった。これは集団農業体制がまだ定着しないで、農民――前には零細に分散されていたため巨大な政治的零《ゼロ》だったが、いまは集団化されたため強大な政治的潜在力となっていた集団農民は、集団農場をかつての零細な私有農場に再分割することを望み、そのために反乱を起す危険があると見たのである。だが、ヒットラーが政権を握った瞬間から、かれらがあんなに恐れていた独ソ戦争がいよいよ秒読みにはいり、ソ連が未曾有の危険にさらされていたとき、逆にかれは、ソ連におけるブルジョア反革命の可能性はもはや去った、その反対に、スターリニスト官僚の欺瞞と暴虐にたいする人民の、かつてみたび革命を遂行した人民、労働者だけでなく、ロシアにおけるブルジョア反革命のための最大の潜在的基盤であった集団農民もふくめた、全人民の、国有経済体制を防衛するための政治革命を明らかに指向する、深刻な反官僚的反応が不可避である、と予見したのである。これは、国有制工業だけでなく、集団農業も確実に根をおろしはじめていて、これを再分割し、零細私有農業に逆戻りさせる道は、もはや歴史的に閉ざされたということである。トロツキーがかれの生涯の最後の年、非業の死をとげる八ヵ月前に打ち出したこの新しい展望は非常に重大なものであったが、それを可能にしたロシア社会の新しい変化を、事実にもとづいて具体的に詳論する機会をついにかれは見出しえなかった。かれのこの最後の予見のうち、ソ連ではブルジョア反革命への社会的基盤は失せたという、大胆な断定は、歴史的に実証された。だが、反官僚的政治革命を意味すると思われる「人民の深刻な反応」に関しては、かれの予見よりももっと複雑な発展過程をとった。
 トロツキーがもはや見ることができなかったこの歴史的実証と、かれの死後のはるかに複雑な発展を、四半世紀にわたり、かれに代って、かれのそれを思わせるほどの明快さで、弁証法的に分析解明し、『総括と展望』のように鮮かに予見をしたのは、アイザック・ドイッチャー氏であった、とわたくしは思う。
 一九〇二、三年の西部ロシアの労働者の大規模な政治的ゼネストはトロツキーに衝撃をあたえて、ロシアの新しい歴史的現実に目覚めさせ、新しい展望を引き出させた。トロツキーの死後三年経た一九四三年レニングラードとスターリングラードの英雄的防衛戦は、トロツキーの最後の予見をはるかに乗り越えるほどの驚異であった。ドイッチャー氏はこの二つの英雄的防衛戦の強烈な衡繋のもとで、「ロシア問題に関する所見」を書いた。氏はこの論文で、ロシア革命の「パンドラの箱」はまだ開かれていて、依然として「その怪物と恐怖」を解き放っているが、それはまた巨大なモラル的、物理的エネルギーを解放して、全国民を勇気と犠牲の偉大な高みに到達させたといった。そして、イギリス清教徒革命とフランス革命の例を引いて、復帰してきたブルボン王朝派やスチュアート王朝派がどんな役割を演じたかということよりも、革命前の時期に、のちに安定の要因となって出現することができるまで成熟していた社会的勢力に注目して、クロムウェルのシティの商人と、ナポレオンのブルジョアジーは、安定の任務にとって必要な実力と伝統と自信をもっていたが、ソビエト官僚は、スターリンの度々の粛清で大量に抹殺され、自信を喪失、自分の特権を永続させ、それを自分の子孫たちに残すことができず、したがって革命的過程を停止させるような結果と独立を獲得することができなかった。また陸軍の将校団も、帝制時代の名将クトゥゾフやスヴォロフが、レーニン以上に盛んにほめそやされていた一九四二年にさえ、(軍部、つまりボナパーティズムにより)革命を逆行させることができず、復古のエージェントになりうるものは皆無だということをはっきりさせた。このエッセイのためのモットーは、四半世紀後に書いた『ロシア革命五十年―未完の革命』(岩波新書)のそれと同様、「歴史的展望は均衡のとれた、偏見のない判断にとって必要不可欠である」ということであり、ソ連の将来の展望は「ロシア革命は……どんな復古への道も、二度と取りかえすことができないまでに閉じてしまった」ということだった。
 それから四年後の一九四七年の初めから四八年にかけて、最初の大著『スターリン』を書きあげた。氏は後に書き添えた新しい序論の中で、この場合の著者としての氏の態度をつぎのように明らかにした。自分は一九三〇年代の初めからスターリンの強制的集団農業化に反対し、三一年からかれの社会ファシズム論的政策を批判し、集団テロ、粛清、モスクワ裁判などを暴露してきた。そして、スターリンの手で無残に打ち破られたひとたちのひとりであった〔*〕。だから、スターリン弾劾の伝記を書くことは容易であった。だが、自分はそうする代わりに、スターリンは「なぜ成功したか?」を明らかにする問題を自分に課した。そのためには、自分は党派人たることを止めて、感情をまじえず、あるがままの現実を認めて、原因、結果を客観的に究明する歴史家、つまりすでに生起した現実は不可避的であったとする決定論者である歴史家にならねばならなかった。「原因、結果を事件の経緯の中に、間隙の余地のないほど密接かつ自然に織りこんでしめさない限り、取り上げられた歴史的過程の不可避性を実証しない限り、歴史家はその任務を完全に果したということはできない」(みすず書房刊『スターリン』T、六ページ)。
 氏はこの厳しい歴史家の立場に立って、スターリン主義的な強制的工業化と集団農業化、旧ボリシェヴィキの全アトランティスの殲滅、一国社会主義の強行、それと同時に教育制度の大拡張と全国民の義務的就学という、スターリン主義の不可避性と、それが成功するにつれて、非スターリン主義化の不可避性が生れてくることを、非常に豊富な資料で弁証法的に明快に分析究明した。そして、最終章「勝利の弁証法」の中で、つぎのように確言した。
〔*〕 ゲーテとドイツ文化を深く愛していた父と家族をアウシュヴィッツのガス部屋で失ったことや、タマラ夫人の母堂はワルシャワのゲットーで虐殺され、兄夫妻は国境でゲシュタボに捕えられて処刑されたことも氏の急逝後、タマラ夫人から聞くまでは、氏夫妻の痛ましい個人的悲劇については、私信からも、著述からも、わたくしは何ひとつ気づかず、知ることもできなかった。


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