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 「確認されたと思われることは、スターリンはクロムウェル、ロベスピエール、ナポレオンと同じ腹から生れた偉大な革命的独裁者のひとりであるということだ……かれは偉大である。かれの巨姿をかれの努力の規模、かれの行動の範囲、かれの支配した舞台の広さで計ってみたまえ。かれはまた革命的である。だがこれは、かれが未来の革命的思想のすべてを忠実に守りつづけたという意味ではなく、かれが根本的に新しい社会組織の原則を実行したからである」(同上、U、二一三ページ)。
 いいかえれば、革命は社会主義建設という革命本来の仕事に直ちに取りかかるための物的・文化的条件が整っていた西欧先進国で起らないで、それが絶望的に欠落していた貧しい後進国で起ったばかりか、これらの条件を外部から補ってくれるはずの先進国革命が後につづかないで、孤立させられてしまった。そのための革命は本来の目的に取りかかるまえにまずその準備として、これらの物的、文化的条件を独力でつくり出さなければならなかった。ムジークの木の鋤を精巧な機械に、小さな仕事場を近代的大工場に、無学文盲のムジークを強制的に徴集して、暴力的な規律と訓練で知的な工業プロレタリアートに変えなくてはならなかった。資本主義の包囲下で(この言葉の真実の意味が指導者たちにとって何であったかは、わたくしたちの想像を絶するものであったろう)、これを実現するために、国民を資本主義的原始蓄積に劣らず苛烈で苦難な社会主義的原始蓄積に、暴力的に服させなければならなかった。トロツキーでさえ内戦終結後、真っ先に労働組合の軍隊化を主張したようにである。社会主義的経済建設でなく、それへの準備のための原始蓄積の、情け容赦ないエージェントは、レーニンでもトロツキーでもなく、スターリンであった。
 氏はつづけていう。「かれの非人間的な独裁はかれの功績の多くに汚点を投げかけたばかりでない。これに対する激しい反動を呼び起すことになるかもしれない。だが、そのさいひとびとは、かれらの反動の対象が何であるかを、スターリン主義の暴政から生じた反動か、それともかれの進歩的社会的業績から生じた反動かを、一時見落す傾向に走るおそれがある」、「ロシアの全社会機構はきわめて深刻かつ多方面な変化をとげた結果、これを逆転させることは現実に不可能である。ロシア国民自身が長らく籠城同然の生活を課せられてきたことにたいして激しい反動をしめすことは想像できる。政治的復古主義のようなものさえも想像できる。〔氏はここで十年後に現れたパステルナークの『ドクトル・ジバゴ』を予見している〕。だが、このような復古さえもただロシア社会の表面にふれるだけであること、また革命の成果にたいする復古の無力さが、スチュアート王朝、ブルボン王朝の場合よりさらに痛烈に証明されることは確実である。というのは『二○年が二○世代の仕事を成し遂げた』という言葉は、他のどの革命的変革をおこなった国よりもスターリンのロシアについていっそう適切に当てはまるからである」。したがって、スターリンとヒットラーの性格と、残忍なやり口、ともに全体主義的国家機構をきずき上げたことなどの類似点をあげて、ふたりは同一だとすることは間違っている。「ヒットラーは不毛な反革命の指導者であったが、スターリンは悲劇的で自己矛盾があったとはいえ、創造的な革命を指導し、開拓した人である」と断言し、最後に、「スターリンの業績のよりよい面がかれ自身より永続ずるこどはぐクロムウェル、ナポレオンの業績のよりよい面がかれらより永続していることと同じように確実である。だが、これを将来のため汚辱から救い、これに充分の価値をあたえるためには、歴史はクロムウェル後にイギリス革命の成果を、ナポレオン後にフランス革命の成果を、洗い清め、作り直したとおなじきびしさをもって、スターリンの成果も洗い清め、作り直さなければならなくなるかもしれない」と結んでいる。(ここであげた引用はすべて、みすず書房刊・上原和夫訳『スターリン』U、「勝利の弁証法」からである)。
 一九四七年末、『スターリン』が出版されたとき、大西洋をはさむ両大陸で、たちまち賛否の激論が巻き起った。あるイギリスの評論家は、「最近出版された伝記類で、これほど関心を呼んだもの、こんなに激情的な怒りと敵意を招いたものはない」とまで評論したと、氏は後になって書きそえた「序論」の中でいっている。
 いちばん激しい攻撃は、そのスターリン観を主としてトロツキーの峻烈なスターリン批判によって培われてきたアメリカや西欧のトロツキー支持者たちから起ったことは容易に理解できる。オールド・ボリシェヴィキの全アトランティスを纖滅し、無数の外国共産党員を処刑し、西欧のプロレタリア革命をつぎからつぎと裏切り、トロツキー一族をほとんど滅ぼし去った反革命の元凶スターリンを、こともあろうに革命家とし、偉大な革命家としてみとめよ、というのは、熱心なトロツキストたちの忠誠心と敏感な神経を逆撫でするのに充分だった。あとになって本や評論を読んでスターリンの非人間的行動や革命の裏切りを知るのとは違って、人類史上最も偉大な歴史的大転換となるべきドイツ革命を、眼の前で裏切るのを、社会ファシズムなどという馬鹿気切った「理論」で裏切り、全ヨーロッパをナチの蟻地獄へ、一歩一歩、引きずり込み、第二次世界大戦を不可避にするのを、恐ろしい危機感と無力な憤りをもって見守っていた痛烈な経験をもつわたくしの、スターリンにたいする不信と反発は、はるかに、盲目的に根強かった。ドイッチャー氏のすばらしい業績と、厳しく、しかも均衡を失わぬマルクス主義的プリンシプルと、人間味豊かな暖かい人柄に深く傾倒しながらも、氏の著書や論文を自分なりの情熱をもって日本に紹介しながらも氏のこうしたユニークなスターリン観からのいくつかの結論には、心情的に素直に和解できなかった。『スターリン』にたいするアメリカの「ミリタント」紙の怒りをこめた批評や非難攻撃を読まされていたわたくしは、一九六二年五月二十八日の氏の手紙で、新しく書いた「序論」といっしょに、『スターリン』を改訳してどこか出版社から出してはくれまいかと求められたときも、本書を読んでもみもしないで、婉曲に断わりさえした。氏はそれにたいして、心配をかけて済まなかった、あの本は他のルートにまかせることにしよう、といかにも氏らしい寛容な返事であった。その後『スターリン』は上原和夫氏のすぐれた訳で出版された。これは本書のためかえって幸いであったと思う。それはともかく、自分の心ない拒否が寛容な氏の心をどんなに傷つけたかを想い、その後わたくしが本書をどんなに深い驚きと感動をもってくりかえし読んでいるかを、氏に伝えて、無知なものの不明と思い上った独善を氏に詫びるすべが、越えることのできない死の谷を距てて、もはや永久に失われてしまったことを、いまも悲痛な思いで自責している。わたくしは四十何年か昔、トロツキーについてもこれとおなじ誤りを犯して、身を灼かれるような恥かしい思いをしたことがある。そのことは、ひとりの真摯な民青の青年とのふとしたエピソードについて、河出版のトロツキー著『永久革命の時代』の「あとがき」の中で述べておいた。
 わたくしがいまここでこのような私的な恥を告白するのは、けっして感傷のためではなくて、わたくしが最近話をしたアメリカや西欧のトロツキストたちのように、かれへの忠誠に熱心なあまり、ドイッチャー氏と氏のこの『スターリン』その他の業績にたいし、不必要なほど感情的な不信を不用意に発して、多くの若いひとたちに、氏のものを偏見なしに、期を失わずに、虚心坦懐に、そしてまた批判的に読んでみる興味と意欲を削がせ、その機会を失わせることがあっては、大きな損失であり、不幸であると、痛切に感ずるからである。
 かつてトロツキーは、若いひとたちに、レーニンの本を読むことをすすめて、「その内容を全面的に完全に習得するためには、一冊の本を、しかも注意深く、入念に、批判的に読むがよいだろう……真の共産主義者は何ごとも軽々しく信用せず、すべてを批判的に点検して、つくり直し、それから基本的な結論を血とし肉とするものだ」と教えた。
 ドイッチャー氏は『資本論』や『剰余価値学説史』を読むにあたって、「わたくしはこの知的構造の全体を、冷静に、疑い深く、吟味検討し、おそらくはあるはずと思われる瑕《き》謹や裂け目を、ひとつも見落さないようにしようと決心した」といった(ドイッチャー著『レーニン伝への序章』岩波書店、「資本論と私」三二八ページ)。わたくしもこれとおなじ言葉を、氏のこの『スターリン』やその他の著書に添えて、若いひとたちに必読をすすめたい。
 『スターリン』が出てから五年たった一九五三年三月初め、「スターリン病篤し!」の報が電撃のように伝わって、世界を揺るがせ、全世界のひとびとを深刻な不安と混乱に陥れた。スターリンが死んだら、ロシアで何が起る? ソ連はどうなる? 東欧は? 世界は? だれにもわからなかった。スターリンの存在が、こんなに巨大に、無気味に、不吉に感じられたことはなかった。
 そのとき、ドイッチャー氏は「スターリン危篤」の報を聞くと同時に、タイプにむかって、二十余年にわたる「スターリン時代」の研究の薀蓄に立ち、「スターリンが死んだら、ソ連はどうなる?」という、全世界が息をのんで凝視しているこの巨大な問いと取り組み、スターリンが死の床にあるいま、ソ連ではそのスターリン時代との絶縁が始まろうとしている、とはっきり断言した。氏がこの論文を書き上げてから数時間後に、スターリンは死んだ。論文は翌六日の早朝の「マンチェスター・ガーディアン」紙に発表された。わたくしの友人の多くは疑わしげに首をふった、と氏はいう。本書第三部の「スターリンの死亡通知《オビチュアリ》」 がそれである。
 氏はそこでふたりの人物の違いを如実にしめすレーニンの死とスターリンの死を比較して、「ある意味でスターリン時代はレーニン時代よりも大きく歴史に姿を残すかもしれない」、それははるかに長くつづいてき、世界を震憾させるでき事でいっぱいであった。だが、スターリン伝統の弱さは、それが「現代の現実からあまりにも強く遊離している」ことであり、それが「大部分官僚的機関がつくり出すあの滅びやすい材料からつくりあげられている」ことである、と断じた。さらに、このふたりの死がそれぞれ直面していた重大な歴史的転換を、つぎのように説明した。レーニンはソビエト国家をプロレタリア独裁としてだが、同時にまたプロレタリア民主主義として樹立したが、否定的任務は達成したものの、この後者の積極的希望では挫折した。かれが死んだとき、世界革命の希望の上に生きていたボリシェヴィズムにとってロシア革命の孤立時代がはじまっていた。スターリンの一国社会主義は、ボリシェヴィズムを封じ込めようとする世界にむかって、ボリシェヴィズムは自分で自分を封じ込める用意があることを宣言した決まり文句であった。三十年間のスターリンの歴史的業績の核心は、木の鋤で土地を耕していたロシアから、原子炉をもつロシアにしたことである。「かれはロシアを世界第二の工業国にしたが、それは広大な文化革命、全国民に徹底的に集中的な教育を受けさせるため、かれらを学校に送ったあの大文化革命なしには不可能であったろう」。こうして、かつてスターリニズムがレーニン主義に追いついたように、いまや歴史がスターリニズムに追いつき、自己封じ込めの章は閉じられた。そして、レーニンの死のように、スターリンの死もまた、国内的危機、けっきょくはクレムリン内での目前の権力争奪よりもはるかに重大な国内的危機を強める、多くの要素の蓄積と一致するだろう。それは、当分は西側の眼には見えないでいるかもしれないが。この危機がどう解決されるか、予言はできない。だが、近い将来、急速な発展は期待すべきでないだろう。「スターリンは死んだ――スターリン万歳!」の叫びは、今後数ヵ月、モスクワから鳴り響くだろう。ソ連の国民は、やがてスターリニズムを、スターリニズムの抑圧的な面をふりすてるであろうが、かれらが真実に、そして効果的にボリシェヴィキ革命を放棄するだろうと想像すべき理由は何ひとつない――ソビエト国民の反政府的な動揺と、帝国主義的介入を期待するかもしれない西側にたいし、氏はきっぱりと、そう警告してこの「死亡通知《オビチュアリ》」を結んだ。
 スターリニスト官僚にたいするトロッキーの、「第二の、補足的革命」であるべき「政治革命」の到来を信じ、モスクワ市民はいまこそスターリニスト官僚の打倒のために決起するだろうと、熱心に期待するトロッキーの信奉者たちにとって、モスクワ市民はそうするかわりに、差当りここ数ヵ月は、スターリン万歳を叫ぶだろうという氏のこの展望は、かれらの楽観的な、熱烈な期待に水をさし、それを裏切るように思われて、けっして快く受けいられはしなかった。だが、大抑圧者スターリンにたいするモスクワ市民の直接の反応は、エフトシエンコの『早すぎる自叙伝』の中の、スターリンの亡骸に最後の別れを告げるために、婦女子を踏み殺しながら押し寄せる、熱狂したモスクワ市民の洪水の大殺到となって、氏の分析と見通しが正しかったことを、劇的に実証したのであった。
 「美しい外観の裏は、いっさいが不毛であった。かれらの生活は、ただ労苦とあきらめの生活であった。かれらは、抽象的な技巧を丹念につくりあげ、抽象によって考え、抽象によってかたり、けっきょくなにひとついわないための、複雑きわまる儀礼を考えだし、目上のものにたいして、かつて人間が感じたこともないほどの激しい畏怖をいだきながら生きている、抽象的な国民であった」――日本敗戦直後、占領軍の一兵士として銚子や小名浜に駐屯していた二十四歳の若いノーマン・メイラーの眼に、日本人はこのように映ったのだった。(『裸者と死者』上巻新潮文庫、四○一ページ)。
 その日本人、その東京市民もまた、モスクワ市民とおなじように、「大規模な戦争は、このまえの世界大戦で帝政ロシアに起ったとおなじ革命的破局を日本にもたらすだろう」と、トロッキーが、おそらくは日本軍部の対ソ冒険の牽制をかねながら、くりかえしおこなった警告と予見(ドイッチャー著『追放された予言者』新潮社、五九二ページ、『トロツキー著作集一九三八―三九年』上巻、柘植書房二七ページ)を裏切って、敗戦直後、悲痛と、餓えと、絶望に打ちひしがれ、だれに怒り、だれにうったえるべきかも知らず、二重橋前の炎天下の、または夜の闇につつまれたあの広場に、連日、何千となく、さながら考える力も感覚も失った亡霊のように、ただ切ない思いに突き動かされて、黙々と集まってきては、姿も見えず、声もなく、固い沈黙に深々とつつまれた宮城にむかって、ただ額づき、ただひざまづいて、身も世もなく嗚咽し、号泣し、慟哭していたのだった!!
 ドイッチャー氏は、この「死亡通知《オビチュアリ》」についで、スターリンの死の数日後、早くもつぎの仕事に取りかかった。それはこのスーパー独裁者が去ったあとにできた巨大な空洞の前に昏迷しているソ連の国民はどんな反応をしめすか? スターリンの衣鉢をつぐ支配的グループはどう動くか? 軍部はどう出る? そして、ソ連邦はどうなる? という、いま恐ろしい緊迫のうちに全世界が息をのんで凝視する問題に答えその理由を解明する、途方もなく困難な、だが、だれかがやらねばならぬ仕事だった。世界史がそれを要求していた。
 ドイッチャー氏はそれをサリー州コールズドンの寓居で、事態の激しい進展と時を争いながら、わずか数週間で書きあげ、四月二十日には早くもその序文でつぎのように書いた。
 「……わたくしは本書を……スターリンが死んでから数日後に書きはじめた。スターリン時代を大きく要約し、この要約にもとづいて、かりに将来に対する、若干の予測を立ててみたいと考えたのである。序論は、ロシアではスターリン時代との絶縁がはじまろうとしているという予言で結んだ……わたくしが最初の数章を書きおわったころ、モスクワでは早くも驚くべき変化が起っていた。マレンコフ政府は、特赦令を出し、いわゆるクレムリン医師団事件という、スターリン時代の最後の忌わしいスキャンダルの空気を一掃した。まさか自分の予言がこんなに早く実現しようとは、わたくしも思ってはいなかった。わたくしは数ヵ月、数年を標準にして考えていたのであって、日や週で考えていたのではなかったのである……」
 この本は最初ニューヨークのOxford University Pressから"Russia: What Next?"『ロシア次は何か?』として、ついでロンドンの同社から"Russia After Stalin"『スターリン死後のロシア』として出版された。邦訳は、一九五三年十月、「日本版のための特別追録、ベリヤ事件」を添え、日本版として光文社から、『ロシア・マレンコフ以後』という、著者の真意にはずれた、奇妙な書名で出版された。スターリンの死が世界を巻き込んだ昏迷と混乱のさなかで、ただひとり、著者自身も驚くほど的確明快に明日のソ連の動向を予見して、ロシア革命にたいする『総括と展望』のように、水際立って鮮やかな歴史的役割を果した。これは氏の全業績の中でもユニークな著書であるが、当時はまだ禁物であったスターリニズム批判に気づいたためか、初版後間もなく絶版とされ、入手不可能になっているので、ドイッチャー氏について予備知識をもたない新しい読者が、この『現代の共産主義』の中の諸論文を系統的に理解するための手がかりとして、次にその内容を、重複を避けながら簡単に要約する。

 氏はまずスターリンの死が提起する問題の解答は、かれの時代の決算の中にこそ求められるとして、この本のはるか半ば以上を第一部「一つの時代の総決算」にあて、「序論」についで「レーニン主義からスターリン主義へ」、「マルクス主義の原始的呪術《マジック》」、そして「スターリン主義の遺産」の四つの章にわたって四半世紀にわたるスターリン時代についての徹底的な知識に立ち、ロシア史やイギリスとフランスの革命に関する豊富な薀蓄を見事に駆使して、その類似と相違を鮮やかに対照させながら、レーニン主義からスターリン主義への変化の歴史的必然と、スターリン主義の性格を分析し、その一枚岩的な表面下で進行していたダイナミックな変化を究明した。
 上述のように、ロシア革命は資本主義諸国の武力干渉と封じ込めにより、また一九二二年までには西欧の革命的労働運動の余勢も消耗しつくしたことによって、完全に孤立し、ボリシェヴィキ・ロシアはこの孤立に順応しなければならなかった。ここから生れたジレンマが、トロツキーとスターリンの闘争の中心にあった。いいかえれば、ボリシェヴィズムは自己の将来を今後とも外国労働者階級の「自己解放」に賭けていくか、それとも資本主義をソ連国境で抑止し、食い止めておくか、いずれかひとつを決定しなければならなかった。だが、外国の労働者階級は資本主義を打倒する用意もなく、それを望んでもいなかった。ソビエト政府は、徐々に、だが、いやおうなしに「抑止」の方向へむかって動いた。それにはレーニン主義的仮説や態度に対する徹底的な修正がともなった。
 レーニンは歴史がかれに追いついたとき死んだ。かれの病気と死は、かれには解決不可能であったかもしれないジレンマ(「レーニンのモラル的ジレンマ」〔本書所収〕参照)と格闘しなければならぬという苦しい必要から、かれを解放してくれた。
 ソビエト制度の最初の数年、ボリシェヴィキ指導者たちは自分を異教国におけるマルクス主義者であり一時的に自分たちの運動の自由を制限し、自分たちに暴政を押しつけようとする、自分たちとは異質的な東洋的背景にたいして闘っている、西欧的革命家であると感じていた。ボリシェヴィズムが自国の殼の中へ引っこんでからは、ロシア革命の孤立は革命の精神的自己隔離となり、原始的なロシア的伝統に、精神的、政治的に順応していかねばならなかった。スターリニズムは、西欧マルクス主義と――つまり、その全的否定ではなくて、それとロシア的野蛮性のアマルガムである。革命後の変化しつつある条件の中でも世界におけるボリシェヴィキ・ロシアの政治的孤立と、世界からの精神的自己隔離は、いちばん重大なものであった。孤立はスターリンがつくったものではなくて、かれが権力を握るより以前のでき事の結果であった。
 レーニンとかれのオールド・ガードたちは、西欧的マルクス主義の伝統に生き、ロシアの後進性と帝政時代の過去に軽蔑感をいだき(この軽蔑感をレーニンほど無遠慮に洩らしていたものはひとりもなかった、と氏はいう)、西欧の革命に未来を賭けていた。だが、スターリンは生涯ロシア国内で、それも大部分はアジアとの境のコーカサスで過ごした。レーニンたちが西欧を見るとおなじ眼で、グルジア人の元農奴の伜スターリンは大ロシアを見ていた。他のボリシェヴィキたちが革命ロシアの政治的孤立と西欧からの精神的自己隔離にモラル的ジレンマを感じていたのに、スターリンはそれに何の困惑も感じなかったばかりか、西欧にたいする無知のおかげで、レーニンその他のボリシェヴィキ指導者たちよりも、いっそう現実的に、西欧の革命的勢力を評価することができた。一九一八年のはじめにさえ、すでにかれは西欧の革命運動に氷のようにつめたい懐疑をいだいて、レーニンの叱責を受けた、と氏はいう。
 また、帝政時代のボリシェヴィキ地下組織でばかり活動していたスターリンの政治的見解は、もっぱらこの秘密結社的なボリシェヴィズムによって形づくられた。そこでは、地下組織を政治警察から防衛するための規律厳守と厳格な統制が支配し、民主主義的生活の余地はほとんどなかった。「権力の座にのぼると、かれはこの習慣を怪奇なまでに極端に押しすすめ、ソビエト国家の中へも、全国民の生活の中へももちこんだ。そこではすでに、いっさいの民主的衝動は萎縮しはじめていた。かれは早くから自分のマルクス主義と無神論に押しつけられていたギリシャ正教的な型や方式を、かれのボリシェヴィキ党に容赦なく押しつけた」
 こうしたことを、モラル的ジレンマも感ぜず、理論的矛盾に困惑もせずに、シニカルなまでに無慈悲にやれる指導者は、かれしかなかった。
 スターリン時代の最も困難で、いちばん爆発的な問題のひとつは、ソビエト社会にゆきわたっていた恐るべき経済的不平等であった。五ヵ年計画が開始されるまえ、靴の生産はソビエト市民に「三人に一人一足の靴」の割しかなく、政府は全部の靴を、国家と経済にとって必要不可欠なひとたちに差等質金率によって、直接ないし間接に分配し、裸足のひとたちの自然な嫉妬や敵意から、靴をもった人間を保護しなければならなかった。これはあらゆる消費物資、住居についても同じだった。この極端な不平等主義に抗議するものは、マルクス主義、レーニン主義と手を切るものであり、反動的なプチ・ブル的な、馬鹿げた考えであり、反革命の手先であると断じた。
 工業革命は、社会的、政治的、戦略的理由から、ウラルを越えたアジア諸国、原始的呪術の本土に持ち込まれた。ソビエト・シカゴ、ソビエト・デトロイト、ソビエト・ピッツバーグが初期のアメリカ・インディアン共同体とおなじ環境に起った。強制移住させられた何百万もの文盲や半文盲のムジークが、そこできびしい工業的規律の習慣にたたきこまれ、非人間的な工場規律と教育で短期間に工業労働者にたたきあげられなくてはならなかった。このための文化革命は、暴力的な強制によっておこなわれた。
 この大規模な工業革命には、人的資源を急造するための強制的文化革命だけでなく、増大する工業人口を養うために、原始的零細農場を強制的に解体し、集団農業化、農耕の大規模機械化を強行しなければならなかった。ところで、中央集権的なロシア官僚の絶対権力は、原子のように零細に分散されたムジークの政治的無力に基礎をおいていた。集団農業化は、ムジークのこの分散した力を集中化し、これにいままでよりはるかに強大な政治的潜在力をあたえることによって、中央集権的官僚にとって危険を潜ませていた。零細ムジークの自分の土地や家畜にたいする執着の根深さは、どこの国でも、いつの世でもおなじである。それを暴力的に一挙に廃止し、機械化的な共同の大農耕法に服させることは、機械の不備、官僚の不手際、ムジークの機械への無知、住宅問題等々の混乱とともに、多くのムジークにはこれこそ世の終りと思われ、集団化突撃隊にたいする猛烈な抵抗に駆りたてられたりした。新機構は長年の間極度に不安定で、「暴力で支え、鉄の環でしめつけておかなかったら、崩壊してしまったかもしれない〔*〕」。こうして最初は不整備と混乱、強制への不満と抵抗で能率は低下し、それはまたいっそう残酷な強制手段を生み出す悪循環がつづいた。その間にも、新しい集団農耕の基本的構造はしだいに強化され、安定していくにつれて、最初は反抗のため機械をいためたり、破壊したりしたムジークも、大部分集団主義的生産体制に順応していき、「一九三〇年代の終りになって、はじめて前進ができるまでに不安がしずまり、機械の扱いも改善された」と、氏はいう。ちょうどそのころ、トロツキーはロシア革命に関するかれの予見を最終的に修正したのである。そしてその八ヵ月後に暗殺され、翌々年九月、ロシアは独軍の侵攻によって第二次大戦に巻き込まれるのである。
〔*〕 エンゲルスは、集団農業は当の農民たちの理解と同意のもとに始めなくてはならないといい、トロツキーはスターリンの集団農業化の現実をくりかえし厳しく批判した。ことにレーニンは、書いた物や説得で理解させただけではいけない、集団農業の実際を見て納得したのでなくてはならないとまでいっており、わたくしたちもそれを唱和してきた。だが、あの貧窮と欠乏のどん底で新設工場に徴集した何万、何十万のムジーク労働者を抱えて、それを待つことが実際問題として果してできたろうか?


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