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 氏は本書の「スターリニズムの遺産」の中で、「農民はいまでも昔の零細農にかえることを望んでおりただその機会を待っているだけである」というロシア亡命家や、当時の避難者たちに反対して、つぎのよ、つにいう。
 「集団農業が第二次大戦の衝撃に、予想以上にはるかによく耐えたということ、崩壊の重大な兆候はひとつもみせなかったという事実は、その反証とならざるをえない。新しい制度のもとに育った若い農民が小規模の個人農業にかえることをほんとに切望しているとは思えない。たとえそれを切望しているとしても、巨大農場にしか使用できない巨大トラクターなどしかないソビエト農業の技術的構造などの関係で、近代的大タンカーをぶち壊して、小さな帆船にしてしまうことができないと同様、零細農にかえることは全農業の崩壊をきたし、同時にソビエト工場体制の崩壊を意味するだろう。国有制ソビエト工業はなおさらそうであって、ロシアは国有化と総合計画化から引きかえす道は永久に閉ざされてしまった」
 「恐怖政治は冷酷無慈悲に、ときには盲目的に、だが全体としては有効に強行された。それが効果をあげえたのは、弾圧の純物理的な重圧といっしょに、モラル的支持があったからである。政府は国家的大目的、つまり歴史的必然性と一体となっていた。国民が恐怖政治にたいして無力であったのも、党と軍隊がこれと共謀したのも、けっきょくはそのためであった」。だが、「革命前の状態へ復帰するいっさいの可能性を、血と鉄で廃止した残酷な独裁は、そのとき終らねばならぬ。たとえ永続しようと戦ってみても、敗北は必至である」。スターリンの死の数年前から、支配グループの間でさえ、強制実施に用いられた恐怖手段の必要は減少したという自覚が増してきたことは、国家が「衰滅」するテンポに関する論議に反映され、苛酷な刑法や、工場や集団農場の峻厳な規律をいつゆるめるか? 強制収容所はいつ一掃してしまうか? そういった実際的な、執拗な疑問が大きくあらわれていた。スターリニズムの力のいまひとつの源泉――ソ連の孤立主義もまた涸れた。東欧諸国、中国、北朝鮮の新たな大共産主義国の出現は、敵対的世界に包囲された唯一のプロレタリア革命の堡塁という、これまでスターリニズムの専制政治を正当化し、無数の反抗精神の持主を武装解除し、麻痺させてきた事情は大きく変った。
 アレクサンドルは父王ニコライ一世以上に偏狭な反動的保守主義者だった。そのかれがアレクサンドル二世として帝位にのぼるやいなや、農奴制廃止のえせ自由主義的改革を実行した。それは農奴制廃止が国家的必要となっていて、この必要がこの反動的後継者をつかまえて、この歴史的改革のエージェントに使ったのである。ニコライ一世の時代は社会的、経済的に行き詰り、沈滞した時代であり、アレクサンドル二世の時代も経済的に行き詰っていた。ところが、スターリン時代は、木の鋤から原子炉の時代へひと跳びに飛躍した未曾有の進歩の時代であり、さらに新しい発展と変化への #はずみ# ははるかに強大であった。だが、オールド・ボリシェヴィキや多少とも独立的なスターリニスト分子は、残らず粛清され、ロシア社会はスターリン時代の終りまでには、アレクサンドル二世の時代同様、支配者まかせで、独立的な行動を取ることはできなくなっていた。敗戦直後の日本の社会が悲劇的に露呈したように。(終戦直後の混乱のさなかで、学生有志たちのため「ジャパン・タイムス」をテキストに使っていたわたくしは、アメリカ占領軍の局長級のひとたちの座談会で、もし徹底抗戦派と左翼との間に武力衝突が起ったら、左翼勢力に武器を提供して支援するはずだったという意味の話の記事を読んだことを記憶している)。
 いまやソビエト社会の歴史的必然となっていた改革は、こうしてただ上から、支配的グループの内部から始めることしかできなかった。
 マレンコフ政府の第一声は、スターリン政策の継続を厳粛に保証した。それは工業化と集団主義的農業機構を促進させ、計画経済を固守すること、つまり、社会主義の広範な目的を追求することであった。だが、時代遅れとなったスターリニズムの遺物との絶縁は、かれの死と同時に、ほとんど間髪を入れぬほどの迅速さで開始された。死後数時間もたたぬ三月六日、スターリンの遺骸も葬らないうちに、早くもスターリニズム的ロシアの総本山レーニン廟は廃止され、レーニンとスターリンの遺骸のほか、それまで赤い広場のクレムリン城壁に葬られたまま忘れ去られていた革命の指導者や英雄の遺骸を全部合祀するパンテオン(合祀廟)建設を決定、布告した。これはスターリニズム的な原始的呪術《マジック》にたいする打撃であり、個人崇拝を廃棄し、より文明的、合理的なやり方で党の集団的功績を強調するための、意味深長なゼスチャアであった。政府はスターリン死後数時間内に党と政府の広範な改組を発表、党幹部会は三分の一に減らし、三月十五日までに政府の四十五省は十四省に統合された。おなじく三月十五日の最高会議で「スターリンの古き同志」のふたり、同幹部会議長で名目上の国家元首シュヴェルニクと幹部会書記ゴルギンは罷免ないし左遷を「提議」され、ヴォロシーロフが新しい国家元首に「推挙」された。これがマレンコフが首相就任と同時に、スターリンが生涯の最後の数ヵ月につくった自慢の党指導部の構成にたいしてやってのけた三重のクーデターであった。
 スターリン時代の最後の数年、支配的グループ内では国内的には改革派と改革反対派、対外的には西側との宥和可能論者と戦争必至論者との抗争がつづいていた。スターリン死後マレンコフ首相は直ちにスターリン最後の指導機構を改組して、国家保安省と内務省を統合してその省の長官に据えられたべリヤ、外相モロトフ、国務省ブルガーニン元帥、経済部門全体の統制者カガノヴィッチの四副首相に党書記長フルシチョフの新指導部を構成し、個人独裁を廃して集団指導性をとることを明らかにしたが、いまいった支配的グループ内の激しい抗争はここにも反映していた。
 ドイッチャー氏は本書『スターリン死後のロシア』の第二部「転換期のロシア」、第三部「改革時代か?」で、マレンコフ政府がレーニン廟の廃止について、まるで息つくひまをゆるすことを恐れるかのように、矢継早やに打ち出した、新しい時代を切り開くほどの思い切った改革、それが生み出す複雑深刻な対立関係、改革の歴史的意義を、深い洞察と弁証法的明確さで明快に論述している。それは、絶大な権力をもっていた国家保安省の改組と抑制、クレムリン医師団の陰謀事件暴露による政治警察への屈辱的な打撃、三月二十八日の特赦令と強制収容所の事実上の閉鎖、刑法改正、一般民衆の生活改善等々であった。どれひとつとってみても、独裁者の死が生んだ底知れぬ不安と新しい期待とに混迷するロシア社会を揺るがすほどの、強烈な衝撃だった。
 政治警察は現状維持に既得権益をもち、支配体制を自由化しようとするいっさいの企図に、不安と疑惑の眼を光らせる。独裁制下では、半自由主義的改善者と政治警察との宮廷的抗争が政治的危機ごとにくりかえされる。
 内相べリヤは政治警察の親玉としてスターリンの恐怖政治の直接責任者視されているが、一九三五年エジョフに代ってNKVD(内務省)長官にされたのは、大粛清後の結末をつけ、スターリンによって血に狂わされた政治警察を抑えるためで、粛清の多くの犠牲者を「告訴は悲しむべき誤解にもとづいていた」といって釈放し、復職させさえした。当否は別として、一般の評判では、ベリヤはスターリンの側近者の中では穏健で教養ある人間のひとりとされていた、と氏はいう。かれは独裁者の死と同時に内心「自由主義者」の正体を現わし、マレンコフと組んで幹部会を絶大な力でリードして矢継早やに改革を打ち出した。まず内務省と政治警察とを統合してその長官となり、スターリン最後の国家保安相を管轄する国家保安省として「医師団陰謀事件」をでっち上げたイグナチョフを、三月十四日に党書記局に追い、前国家保安省の書類を取り出してこの事件の背後関係を調べ上げ、四月三、四日、これを暴露し、事件の調査を担当した役人たちを逮捕、かれらが自白を強制した犯罪的手段を一般に公表して医師たちを全員釈放、四月六日には党書記長に選出されたばかりの前国家保安相イグナチョフを罷免した。そしてこの「陰謀発覚」以来つづけられてきた反ユダヤ主義運動を断固として拒否した。医師団事件は「犯罪者たる医師たちが軍指導者たちの健康を害し、かれらを活動不能におとしいれ、国防力を弱体化しようとした」というもので、明らかに政治警察と軍指導部が共謀し、頑迷派の支持のもとにでっち上げたもので、「治安の危険分子」のユダヤ人攻撃を煽り(告発された医師たちはみなユダヤ人ばかりだった)、内政改革とそれを促進するための対外宥和政策(国際緊張緩和のための対外宥和政策は、内政改革の成功のための根本条件だからだ)を打ちこわし、大ロシア的民族主義と戦争ヒステリーの雰囲気をつくりだすための陰謀であった。この煽動は、一九五三年一月十三日の事件発覚の発表から四月初めまでつづけられた。
 べリヤとマレンコフを中心とする内政改革・対外宥和派とそれに反対する頑迷派・政治警察・軍部の連合勢力との激しい抗争は、モスクワから地方に拡大し、東欧各国の首都にまで及んで、衛星諸国の政府にたいする支配権を争っていた。五二年にスランスキー一派を粛清したチェコスロヴァキアは後者が支配しポーランドとルーマニアは宥和派と同一戦線にあり、ハンガリアでは両派がしのぎを削っていた。べリヤは四月三、四日に陰謀の実体暴露で政治警察に破滅的屈辱をあたえると同時に、スターリンの少数民族を抑圧する大ロシア化政策(スターリンが最初にレーニンを激怒させたあの大ロシア的民族主義だ)の終結を宣言し、キエフ、ハリコフ、チフリスなどの大ロシア主義者の高官たちを全部罷免してしまった。そして反対派連合勢力の憎しみに油を注いだ。
 マレンコフ、ベリヤ(そしてミコヤン)の改革派が放った改革の第二弾は、三月二十八日発表された特赦令と刑法改正であった。監獄や大強制収容所には「子供づれの母親や身重の婦人、老人や病人、十八歳未満の少年や少女たちまではいっていた」と、政府はスターリンの政治警察のやり口と強制収容所の実態を世界にむかって公表し、かれらを全部釈放した。また五年以下の刑の囚人も全部自由の身となった。五年以上の刑のものも刑期を半減された。ただ反革命家、巨額の公金消費者、殺人強盗だけが特赦から除外された。刑期五年以下のものが大部分だったから、多数の、または大部分の強制収容所は閉鎖されたにちがいない。この布告の範囲内の犯罪の告発は即時停止された。釈放されたものは、直ちに公民権を回復された。これまでは、一度政治警察の手に落ちたものは、二度と自由人にはなれなかった。特赦令はスターリン崇拝にたいする最大の打撃だった。政府はまたおなじ三月二十八日、工場や集団農場関係の軽犯罪にたいする刑事責任を廃止し、それ以外の刑罰も減じた。この軽犯罪は、土地を追われた何百万の無知文盲のムジークを、工場の仕事台と、集団農場の農耕機械と、監獄部屋の掟にも似た、苛酷な軍隊的規律に縛りつけておくための鉄の輪と鎖であった。
 この二つの布告は、スターリン時代の末期から、改革派と反対派の間で抗争されてきたもので、頑迷派と政治警察にたいする痛烈な打撃の追い打ちであった。と同時にこれは相争う両派の個人的、派閥的対立の次元を越えた、ロシアの経済的発展の現実と将来の展望とに合致する歴史的必然であって、氏は「三月二十八日の法令のもつ意義は非常に大きくて、われわれはこの日を新制度の誕生日ということができるほどである」とまで断言した。
 マレンコフ政府はこれを実証するかのように、これまで軍需工業と重工業の犠牲にされていた消費工業の増産と消費物資の値下げ、賃金引き上げによる市民の生活改善を発表した。
 外交政策では、マレンコフは最初の声明でつぎのように宣言した。「最も正しい、必要不可欠で、公正な外交政策は、各国民の間の平和の政策、相互信頼の政策――事務的で、事実にもとづき、事実によって確認された政策である」
 これは、スターリン外交のやり方にたいする暗黙の批判であった。国内政策に染みこんでいた偽善は、外交政策に、したがって大使や外交スポークスマンにも影響し、かれらを奇怪なまでに非現実的で、頑なにしていた。スターリンの葬式の直後、ソビエト外交は前より文明的に、冷静で宥和的になり、際立って新鮮な感じをあたえた。
 第十九回党大会前夜にスターリンがボリシェヴィキ誌に発表した論文で暗示しているように、西側との和解を熱望する宥和論者と宥和反対論者との争いが何年もつづいていた。
 宥和論者は、全占領軍の撤退を条件に、ドイツとオーストリアからソ連軍を引揚げて、平和と長い間の息つくひまを購《あがな》うべきだ、占領から解放されたドイツが「欧州防衛共同体」に加盟するか否かは第二義的重要性しかもたず、各国占領軍の撤退後は、長期にわたる国際的和解が期待できる、国際的和解は国内建設と改革に絶対必要であると考えた。反対論者は、第三次世界大戦は不可避であり、切迫している。エルべ、ダニューブ両河沿岸の戦略的前進基地を確保することは、防衛作戦計画のためにも、西欧への進撃の前進基地としても不可欠である。朝鮮戦争は長びかせ、米軍兵力はできるだけ多く釘づけにしておき、西欧での大西洋ブロックの兵力と予備軍の建設を妨害しなければならない、と主張した。
 三月二十八日、北朝鮮軍と中国共産軍は、ソ連の示唆によって、朝鮮の休戦交渉のための新しい提案をし、休戦交渉を行き詰らせていた戦時捕虜送還拒否を即座に放棄した。(本書が書きあげられて後間もなく、停戦協定は調印された)。これは宥和論者の勝利であった。
 こうしたロシア国内の変化はまた、他の国々の共産主義運動に強力な影響をあたえるだろう。外国のスターリニスト指導者たちは、モスクワで起っていることを悟るのがこっけいなほど遅かったが、それにもかかわらず、スターリン崇拝の静かな打ち切りは全世界の共産主義陣営に反響を呼んでいる。ソビエト共産党が新しい方向をどこまで進むかに、多くのことがかかっている。ソ連共産党のスターリニズムの軍隊的規律がもっと自由な制度に変るなら、共産党の隊列内に真正な、公然たる論争が発展し、外国共産党はロシアへの傀儡的態度をかなぐり捨て、かれらの魅力を非常に高めるだろう。だが、もし改革の時代がロシアで時期至らずに終ったら、外国共産主義運動でもこの過程は中断されてしまうだろう。だが、その場合でさえ、世界共産主義とロシアを結ぶ環は断ち切られはしないだろう。共産運動全体のパイオニアであり、主権であるロシアにたいする共産主義的献身は、卑屈な、追従的な堕落から解放されて、はるかに自発的になり、威厳をもってくるだろう、と氏はいった。
 ここでまたロシアの新しい支配者たちは、共産主義ブロックが自己封鎖と資本主義との「平和的共存」の政策を追求するとしたら、その指導者たちは共産主義がさらに拡大するのを防止する方が利益であると考えるかもしれない。共産主義の新しい拡大は、現状を危険に陥れるかもしれないからである。一方、かれらはフランスやイタリア、ないしインドシナ共産党に政策を命令し、その動きを統制することはできないという、困難なジレンマに直面するかもしれない。チトーや毛沢東がスターリンの自己封鎖の政策をぶちこわしたように、別の毛沢東がどこかアジアの一角で起り、別のチトーがヨーロッパの一部で権力を握り、マレンコフの自己封鎖の政策をもぶちこわさないともかぎらない。スターリンのように共産主義ブロックの支配者たちが新しい革命を挫折させるとしても、かれらはかれらの背景と伝統のゆえに、世界のどこで新しい共産主義制度が生れようとも、これと同心一体とならざるをえない。ところで、このような発展はすべて東と西の紛争を激化させ、危機に陥れるであろう。だが、将来の見通しはただ共産主義ブロック内のでき事だけで決定されるのではなく、また主としてそれによって決定されもしないだろう。「 #将来の展望は、アメリカの政策の大勢によっていっそう確実に決定されるだろう# 。」(傍点は山西)。
 ロシアの新しい妥協的態度はアメリカの共産主義「封じ込め」政策に遅ればせに積極的反応をしたもので、この政策の成功である。だが、アメリカ政府がこの政策の鼓吹者ジョージ・ケナンの成功を称えてしかるべきときに、かれは国務省を去り、政府は「封じ込め」政策を捨てて「解放」政策、東欧と中国を共産主義から解放する十字軍を起せ、の叫びが起り、この政策は危機に陥っている。もしも新制度が強化されないうちに西側から戦争の脅威が加えられるなら、マレンコフ政府は引っ込んで、ソビエト版ボナパルティズムがこれに取って代わるかもしれない。トロツキーもスターリンも、それぞれの仕方でこの亡霊と取り組んだ。スターリンは大元帥として将軍たちの上に立ち、いささかソビエト・ボナパルトの恰好をしたが、それは一部仮画劇であって、かれは制服を着た非軍人の党指導者であった。ソビエト・ボナパルト的人物は、ひとつの大陸を征服するのでなかったら歴史に名を挙げることはできない。過去のロシアの工業力と軍事力は、それにはまったく不充分だった。だが、いまはそうではないかもしれない。ソビエト的ボナパルトが出現する兆候はいまはない。だが、もしもスターリンの非軍人的後継者たちの平和提案が失敗したら、西欧はこのボナパルトを相手にしなければならぬであろう。「クレムリンにロシア版ボナパルトが登場する日こそ、いっさいの自己封鎖の終りとなる時であり、ボナパルトはいっさいの党書記を蹴散らして、血と栄光を浴びながら、イギリス海峡へ駒を進めるだろう」
 氏はここでソビエトがこれからたどるつぎの三つの方向、
 1 スターリニズム形態の独裁への逆戻り
 2 軍部独裁
 3 徐々に発展して、社会主義的民主主義へ移行
をあげて、権力の力学上からそれぞれの可能性を論ずる。
 「特赦令の布告と『医師団の陰謀事件』の暴露とは、げんにこのページを執筆しているいまもつづいている激しい闘争の重要な動きであった。前グルジアの国家保安相と高官が何人も逮捕されて、市民の立憲的権利を侵害し、『自白』を強要したかどで告発され、党の地区指導者たちはこれを黙認したかどで罷免されている。全団地方首都のイグナチョフやリューミンがげんにいま地位を追われ、投獄され、告発されている。ひとつの制度から他の制度への転換が、ただの宮廷反乱でもなければ真の革命でもなく遂行されつつある。今日マレンコフ政府は、一九三〇年代にトロツキーが唱導したスターリニズムにたいする『制限された政治革命』を、そっくりそのまま実行しているのだ。保安警察の頑迷派はスターリンが反対派を追ったような口実で、改革派の追い出しを計るかもしれない。仮にそれが成功しても、スターリニズムの復活はほんの束の間のエピソードに過ぎないだろう。スターリンの取巻きたちにスターリン時代と絶縁の端緒をつくらせた動機は、人民の現在の状態と必要から生れたもので、いまも作用しつづけている。人民の憎悪と恐怖の的である政治警察は、これまで以上に精神的に孤立している。改革派に対抗するためには軍首脳と結ばねばならぬだろうが、成功しても軍部独裁の下っぱの相棒でしかないだろう」
 「医師団の陰謀事件」は軍首脳だけを唯一の想像上の的として選び、党幹部にたいして元帥や将軍たちの威信をきずきあげようと目論んだもので、一九五三年の一月から三月までの間に、ロシアのボナパルトが行く手に影を投げかけた。それから後退させられて、形勢を睨んでいるのだった。もしも改革派が時局収拾に失敗し、外国からの危険が迫り、国内が混乱したら、将軍たちは再び前面に躍り出て、権力を掌握するであろう。軍部独裁はマルクス主義的な意味での反革命を意味しもしなければ、スターリニズムへの復活も意味しないで、現在の経済的秩序を保持するだろう。かれもまた統治方法を合理化し、国内の緊張が激化したら、それを国外への軍事的冒険に吐き出させるだろう。そのときこそ、かれはナポレオンを遥かに凌ぎ、自ら滅び去るまえに、ヨーロッパとアジアをロシアの膝下にふまえるであろう。
 だが、いまはまだそのような危機への前提条件は存在していない。新政府は保安警察に打撃をあたえたと同時に、大部分の消費物資の価格の五%から五〇%におよぶ全面的価格引き下げを発表し、賃金や俸給は引き上げるか、据えおきにし、消費工業の拡大増産を公約した。もしも戦争がなかったら、猛烈な勢いで拡大しているかれらの工業は、いっそう上等な消費物資を間もなく入手できるようにしてくれるだろう。民衆の憤激が深刻で、強烈で、政治的にはっきり表現されているときには、独裁政府は改良主義的譲歩によって自分を救うことはできない。ひとつひとつの譲歩は、政府の弱体化の兆候と見られ、反対者を勇気づける。反対に、時間を失せずに改革を遂行する場合には、一般の不満をしずめて、既存秩序を強化する。スターリン時代の終りの国民の政治的沈黙は、スターリンの後継者たちにはひとつの財産である。国民は変化などほとんど期待せず、変化を起させることは夢にもできなかったので、どんなに控え目な改革でさえ、かれらを雀躍《こおど》りさせたろう――ところが、マレンコフの改革はけっして控え目ではなかった。国民が忍耐と希望にみちていることは、マレンコフ政府の安定と、制度が徐々に民主主義的に復活する機会とを保証するかもしれない。
 支配体制は、自衛的に、または惰性的に、今後何年間か単一政党制をつづけるだろう。国民の中で政治的関心をもった積極的分子は、とにかく共産党にはいっている。その党内にはすでにいろんな潜在的傾向が存在し、これらの傾向は、党内論争の過程中に現実化し、結晶するだろう。今後多種多様な国際主義と民族主義が生れてき、農民の問題や工業化のテンポ、消費者の利益、教育問題、その他重大な諸問題について相対立する見解が現われるだろう。支配的政党が党の問題を討論しはじめたら、討論の自由は労働組合、集団農場、協同組合、ソビエト、教育団体、作家同盟、各種のアカデミー組織等にもたちまちひろがるだろう。そして、つぎの時期には、革命当初のソビエト民主主義が独裁政治に変化した過程が、驚くほどのスピードで逆戻りさせられるだろう。
 「逆戻りの過程は、共産党内に民主主義が浸透することによってはじめて開始される。言論の自由は、ただここから他の団体や組織にひろがり、さらに広範な範囲に及び、ついには高度の工業文明と最新の社会主義組織に支持された、完全に成熟したソビエト民主主義が生れることができる。この偉大な目標は、いまはただ遠い地平線上に、ただぼんやりと大きく現われているだけである。それに近づくためには、ロシアは、平和、平和、そしてもう一度平和を必要とする。マレンコフ政府の意図がどんなに生ぬるいものであり、この究極の運命がどうであるにせよ、民主主義的復活へみちびくべき最初の一歩をふみだしたという、歴史的栄誉をすでにもっている。何十年かにわたり自由は社会主義の敵であったがゆえに、もしくはそう考えられていたがゆえに、ロシアから追放されていた……だが、自由は再び社会主義の味方となり友となるであろう。そのときこそ、ロシア革命の四十年の砂漠の彷徨は終るであろう」
 一九五三年四月、ドイッチャー氏はそう予言して、ソ連全国と東欧全域で起っている複雑な激しい変化と、スピードをきそいながら書きあげた『スターリン死後のロシア』を結んでいる。
 『スターリン死後のロシア』が出たとき、世界のスターリニズム同調者や反共産主義者、リベラリスト、著名な評論家たちは、ほとんどみな否定的な反応をしめし、全体主義国家の政治に変化が起るという予見を批判した。こんどもまたいちばん激しい反論は、アメリカや西欧のトロツキストたちから、ソ連の特権的官僚がスターリン時代と決裂するだろう、特権的官僚にたいする下からの反乱的な政治革命よりも、すでに開始されている民主主義的改革の道をたどるだろう、という予見に向けられた。
 そういうわたくし自身も、すでに告白したように、不可抗的な説得力をもつ氏の明快な論理と偉大な芸術家的な洞察にみちた解明に、深く感銘させられながらも、心情的な抵抗の尻尾を切りすてることができなかった。最後の抵抗が崩れはじめたのは、スターリンが何といい、何をしようと、ヒットラーの問題は第一にドイツ共産党とドイツ労働者の問題であり、世界の知性の集まりであった西欧人全体の問題ではなかったか、自分は完全に何ひとつしないでいて、全責任をスターリンに押しつけて、モラル的満足を見いだしているのは、あまりにも不毛な身勝手ではないだろうかという、わかり切ったことに、ふと気づきはじめたときだった。この意識も忙しい仕事の間にしばらくチラチラ消えたりよみがえったりしていたが、やがて堰が切れたように、強い陽の光でも射し込んできたように、いくつかの問題もつぎつぎに氷解されていった。そしていまでは「政治的闘士は自分の行動する環境を決定論的に眺めたためその行動がきびしく制約されてはならない、環境の要素の一部、機会の一部がまだ未知であり、不定でさえあり、かれ自身の行動があたえられた環境に及ぼす影響を確実に予見できないからであるが、自分は歴史家となって、感情をまじえずに、原因、結果を究明し、白紙の態度で敵対者の動機を検討し、敵対者の力の所在をあるがままに求めて認めなければならなかった」という、本書にもそのまま当てはまる氏の言葉を、全面的に認めることができるようになっている。
 翌年、氏はこれらの騒然とした批判にこたえていった。
 「自分は個々の指導者の星占いをしようとは思わないで、その代わりに、現代のロシアで作用している広範な社会的傾向を略述し、要約して、未来に投影することに集中した。ここからわたくしは、ソ連は重大な歴史の転換点に近づいていて、そこから新しい方向にむかって進みはじめるだろう、スターリンの死はこの変化の主要な原因ではけっしてなくて、ただこの変化を促進し、その不可避性を強調するだけであろう」
 「スターリン時代とその結論の現実的《リアリスチック》な分析は、すべて、過去二十五年のソビエト工業革命、その力でロシアが工業的に最も後進的な国のひとつから世界第二の工業国となったあの革命の総決算をしなければならない。この過程は、ソビエト社会の大部分を引き込んだ広大な教育の進歩を伴った。スターリニスト的独裁とテロリズムは、一部はソビエト国民の意志に反しながら、前代未聞の困難を押して、未曾有の速度でこの工業革命をやり抜かせた。『スターリニズムの原始的呪術《マジック》』はスターリン時代の形成期と中間期のソビエト社会の文化的後進性を反映した。ここからわたくしは、一九五〇年代に到達した進歩でもってスターリニスト的テロリズムと原始的呪術は時代遅れとなり、ソビエト社会の新しい要求と衝突しはじめていたという結論に到達した。より高度な工業的、一般的な文明は、ソビエトの政治生活の徐々の民主化を助けた。もっとも国際的緊張の高まるさなかに、ボナパルト的タイプの軍事独裁もまた起るかもしれないが。この二つの展望とも、スターリニズムの終りを意味する。スターリニスト体制と正統に活を入れようとする試みもまだ可能であり、ありそうなことでさえあった。しかしそれはおそらくエピソード的成功しかあげることができなかったろう」
 「ソビエト社会は、敵意の眼で見ようと、友好的な目で見ようと、それともただ偏見なしに見ようと、もしその基本的特徴のひとつを無視したら、けっして理解することはできない。これはどんなに強調しても足りないほどである。その基本的特徴とは、ソビエト社会は拡大しつつある社会であり、しかもブルジョア社会であったらファシズム的マス・ノイローゼを生み出しがちな極度の経済的、モラル的不安定から免疫にしてくれる、計画経済を基礎にして拡大する社会であるという事実である〔*〕」
〔*〕 この事実は、氏のソ連社会の民主主義的発展の展望の基礎である。


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