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 先にもいったように、スターリニスト体制の邪悪のひとつは極端な社会的不平等、収入の冷酷な格差であったが、しかしこれこそまさしくロシアが当初の極度の貧困、平等の分配など夢にも想像することを許さなかったあの極度の貧困を、充分に克服するまでその資力を発穣させることができるたったひとつの道であった。つまり、経営者や官僚の特権もふくめて社会的不平等は、いっそう広範な国民的利益と一致した必要悪であったのである。だが、生産力の増大は消費者物資の貧困を緩和させるといっしょに、不平等の軽減を可能にし、ねがわしくし、国の富と文明がいっそう発展するために必要にさえする。何年にもわたって国民収入の額が停滞している不振な社会では、大衆の生活水準は、特権層を犠牲にしてしか改善できない。したがって、特権層はそうした試みには何でも抵抗するが、ソ連のように国民収入が急速に成長している社会では、労働者大衆の生活水準引き上げのために、大きな犠牲を支払う必要はない。したがって、引き上げに必ずしも抵抗はしない。ソ連の少数特権層は、経済的発展が低水準だったときには不可避だった経済的矛盾や社会的対立を永続させることに、相対的、一時的な関心はまだもつにせよ、絶対的な関心はもっていない。また「一枚岩的」な正面《ファサード》の背後に隠されたいろんな対立を押えつけたり隠蔽したりするための政治体制にしがみついている必要もない。スターリニズムはその正教と鉄のカーテン、入念につくり上げたその神話で、ソビエト国民にかれら自身の社会的分裂の大きさと深さを多少とも押し隠してきた。だが、ソビエトの富がすばらしく増大するにつれて、そうしたものは社会的に無用になる傾向がある。ただ惰性だけがまだそれをしばらくは存在させておくかもしれないが、惰性は燃えつきずにはいない。ソビエトの舞台の注意深い観察者なら、惰性はすでに衰えはじめていることを見逃すことはできないだろう。
 だが、一国の政治的発展が今日ほど国内的要因と同様に国際的要因に依存することはかって一度もなかった。戦争の危険と恐怖は、世界のどこでも民主主義的制度をけっして強化しはしない。ソ連の民主主義的傾向は、いずれにせよ非常に多くの抵抗と戦わなければならないだろう。したがって、ソ連の内外で好戦的空気がびまんしているとき、この民主主義的傾向が強められることができるなどと期待してもむだである。国際的緊張がさらに増大するなら、おそらく民主主義的傾向を阻止し、新しい形態の権威主義または全体主義を刺激するだろう。スターリニズム的形態はもはや相対的な歴史的正当化を失っており、戦争の危険はすでに強力な軍隊の地位を強めるので、新しい権威主義ないし全体主義はおそらくボナパルティスト的形態をとるだろう。ソビエト版のボナパルティズムは戦争の危険を増大し、おそらく戦争を不可避にするだろう。
 ジャコバンは国内問題では恐怖政治をおこなったが、外交政策は、国内問題で法と秩序を支持したナポレオンよりもはるかに平和的で、革命の国外持ち出しには反対した。同様にスターリンも第一に国内問題で頭がいっぱいで、そのため対外的には本質的に防衛的な態度をとらねばならなかった。だが、スターリンのこの国内的恐怖政治と、用心深い、「平和愛好的」外交対策は、ただおなじメダルの両面にすぎなかった。もしもソビエトの元帥が権力を握るとしたら、かれは国内的混乱と尖鋭な国際的緊張の状態でそうするだろう。いっそう正常な状態では、そうするチャンスはないだろう。スターリニスト的恐怖政治の機構は粉砕されているか、でなかったらかれ自身自分を正当化するため粉砕しなければならないだろう。こうしてかれは国内的緊張を統制し、抑圧する旧来の手段を奪われるだろう。危険な国際情勢はかれがそれらの緊張を辛抱強い、手間のかかる改良主義的な手段で処理することを許さぬだろう。国内の不安定はかれの外交政策に爆発的な性格をあたえ、かれは国内的緊張の吐け口を国外に見いださざるをえなくなるだろう。
 「ロシア・ボナパルトは、最初は国内の法と秩序を確立し、対外的には最も平和的協調を保つ意図で出発しても、ナポレオン・ボナパルト同様、苛烈な恐怖政治で国内を統制することができないこともあって予言もできない軍事的冒険に駆り立てられるだろう。ナポレオンはけっきょくロベスピエールやダントンよりもいっそう好戦的になったが、かれもまたスターリンやモロトフ、マレンコフよりはるかに好戦的になるだろう」。「かれは最も平和的な意図に動かされているかもしれず、かれのアミアンの講和を結びさえするかもしれない。しかもかれは国際的要因と国内的要因の結びつきによって、おそらく戦争に、『侵略的』戦争にさえ駆りたてられるだろう」
 「二者択一は、いぜんとして共産主義の平和主義的発展か、それともある種の軍事独裁かのいずれかである。これが基本的な、 #長期的# な二者択一であるようにわたくしには思える。この歴史的選択がスターリンの死の直後になされるだろうという考えは、わたくしには一度も浮かばなかった。いずれにせよ、体制の完全な『自由化』ないし共産主義のプロレタリア民主主義的伝統の完全な復活は、数ヵ月の問題でもなければ、数年の問題でさえもありえない。スターリンの死にすぐつづいて起ったでき事が証明することができたし、これまで証明してきたことは、上に輪郭をしめした二者択一が真実であること、そしてソ連をいずれか一方に押し動かす衝動はすでに働いており、早くもたがいに衝突しあっているということである」
 「だからといって、短期的な発展と長期的な発展との結びつきを無視することができるとか、後者にだけ眼を向けていて、そのため前者に不意をつかれたというわけではない。われわれの予測は短期の展望もまた考慮にいれていた。わたくしは『スターリン死後のロシア』で、基本的な二者択一――社会主義的民主主義対軍部独裁――のほかに、スターリニスト的形態の独裁に逆戻りする可能性がまだ存在する、と書いた。そして『 #長期にわたって# スターリニズムへ逆戻りすることは、まずありそうもない』と書き添えた。『 #長期にわたって# 』という傍点つきの形容詞は、あまりに簡潔すぎたろうが、短期的な逆戻りがありそうなことを、直接指していたのである。この間、そういったようなことがすでに起きて、いまも進行している――だが、この逆戻りさえほんの部分的で、漠然として、弱々しいものであって、注意深く隠されている」
 「歴史はロシアに新しい一ページを開いただけである――この国がこれからのページを満たすのを、わたくしたちは辛抱強く見守ろうではないか」

 氏はこういって、『スターリン死後のロシア』が出てから一年後、フランス語版の出版に当り、この間にこの注目すべき著書に向けられた欧米の批判にたいする氏のすぐれた反批判を結んだ。それは大独裁者没後の一年間に生起した重大なでき事と変化をふまえて、氏の歴史的展望の論理とヴィジョンをさらに深め、いっそう明確にしたものである。この一年間のソ連の政治と社会状態の変化の規模と深さは、一九五三年三月五日前と一年後のロシア社会を比較しただけで、百万言を弄するよりもはっきりわかるだろう。
 だが、いまはこの「あとがき」の補足の目的を急がなくてはならない。これは、ドイッチャー氏にはじめて接する若い読者たちが、本書をただ一冊の論文集として読みすててしまわないで、それらの個々の論文が書かれた前後関係《コンテクス》について補足的、それとも予備的知識を提供すること、そしてわたくしたち人類が資本主義から社会主義にはいっていくこの偉大な過渡期において地軸のように不動の地位を占める「未完の革命」としてのロシア革命にとって、「スターリン時代」の意味は何であったか、スターリン死後のロシアはどのような国内的情況と国際的関係の中でどう発展してきたか、そしていまどこにいるか、ソビエトや中国は、そしてそこでの社会主義的計画経済の建設は、わたくしたちにとっていったい何か、もっと具体的には、一段と躍進している日中貿易や、シベリアの大規模な開発計画の意味は何かについてさえ、多少ともまとまった理解を得、個々の論文の中にこめられている、マルクス主義者的情熱に裏打ちされ、しかも一貫した理論とヴィジョン、社会主義国の社会体制はその指導者たちよりも つまり、スターリンやフルシチョフやブレジネフ、毛沢東や周恩来などのだれよりも、いっそう知的で進歩的であり、その国有制計画経済は緩慢な成長テンポをゆるさない、強制的な発展力をもっているという、氏の不動のヴィジョンを読みとるのを、すこしでも助けることである。それには本書第三部の「スターリンの死亡通知《オビチュアリ》」と、第一部の冒頭の二十回大会におけるフルシチョフの「秘密演説」とを結ぶ歴史的背景、この間に生起して、モスクワ政府を、ソ連と東欧を、そして西欧を揺り動かした重大事件と、それにもまれながらの指導者たちの激しい抗争の二、三について、簡単に触れなければならない。わたくしはできるだけ氏自身の豊かな表現を通して、そうしたいと思う。
 東独の反乱とべリヤ処刑 三月初めから六月半ばにかけてべリヤを先頭に改革派が矢継早やに出した内政外交両面の思い切った改革と自由化は、頑迷派と軍部、政治警察を圧倒し、後退させたことは前述の通りである。政治警察が屈辱的打撃を受けて絶対権力を失い、もはや恐れる必要がなくなったという一事だけでも、ソビエト大衆にどんなに大きな解放感をあたえたことか想像できよう。それはまた傀儡共産政権に抑圧されていた東欧各国民にも衝撃的な解放感と勇気をあたえたろう。こうした改革と非スターリン主義化は一般大衆を新しい希望に目覚めさせる一方、反対派をどんなに怒らせ、切歯させ、危機感に陥れていったかも想像されよう。思い切った改革と非スターリン化の先頭を切ったのはべリヤであって、首相マレンコフは消費工業の拡大増産を主張し、そのためには宥和的外交による国際平和と大規模な軍備縮小協定を熱望していたが、大胆な改革を急ぐことには危惧を感じていた。不安定な国際関係で爆薬を蔵しているのは、朝鮮半島とドイツであった。いつ点火して、第三次世界大戦を爆発させないともわからなかった。朝鮮では、マレンコフ政府はスターリンが行き詰らせていた停戦協定にさっさと調印した。ドイツ問題では、ドイツからの全占領軍の撤退だけでなく、米ソ両軍の全欧州からの引き揚げであった。「一九一四年―一九一八年に、ドイツは、二つの戦線で戦いながら、片一方の手だけでロシアにノックアウト・ブローを食らわせることができた。一九四一年―一九四二年には、ヒットラーはロシアにたいして兵力の大部分を投じたが、あと一息でおなじ結果をあげることに失敗した。一九四五年のロシアの勝利と戦後十年間の発展は、力の均衡を非常に深刻に一変したので、ドイツは、たとえ統一して、完全に武装しても、ロシアにとってふたたび重大な独立の脅威となることはできない」と氏は一九四五年の当時断言した。一国の兵力の強さは、それを支えるその国の経済力とおなじである。両国の経済力の差は、年ごとに格差を広げるだろう。五四年当時のソ連は、両ドイツが統一、完全武装して、欧州防衛共同体に加盟したとしても、恐れることはなかった。恐ろしいのはただアメリカだけだった。欧州からの米ソ両国軍の完全撤兵の協定ができたら、両ドイツの統一を認めるばかりでなく、ピーク=ウルブリヒトの共産政権を、したがって東独を非共産主義政権にまかせて、ソ連は東独から引き上げてもいいと考えた。そして、おそらく、ベリヤが主になって、宥和政策を進め、ベルリン反乱直前の一週間にチュイコフ将軍をベルリンから召還。それと同時に、ピークとウルブリヒトの東独政府の政策がそれまでの頑なな態度から急に一変して、両独間の鉄のカーテンはほとんどこわされ、労働条件は改善され、政府と教会との闘争は中止され、農業の集団化も中止され、西独に逃亡した農民は財産引き取りに戻るように、個人資産も工業や商業に復帰するように勧告された。ベルリンのソ連代表は東独人の不信と憎しみの的であるピーク=ウルブリヒト政府を見すてる用意のあることを明らかにしめした。それは東ベルリンの労働者と市民を勇気づけて「ロシアは自分の傀儡政権を見すてようとしている、おれたちが直接行動に出たら、それを早めることができるだろう、――いますぐかれらを追い出してしまおう!」という気にさせ、街頭にとび出させ、政府の辞職を迫り、政府官庁を襲撃する態度に出させた。おなじ週の六月十日、モスクワはオーストリアと外交関係を復活して、そこの占領軍制度の終結を宣言した。こうして六月十六日、東ベルリンの建築労働者のノルマ引き上げ反対の暴動を発火点にして、翌十七日はライプチッヒその他に拡大、労働者と市民百万の大反乱となった。暴動は傀儡共産政権ばかりでなく、ソ連戦車にも向けられ、反ソ的性格をおびた。西欧は、ことにアメリカ占領軍は東欧各国の民衆にむかって反乱を呼びかけた。ソ連政府の対独政策は、占領軍の全面的撤退とドイツの中立化であったが、新政府の急速な宥和的態度はその交渉のためのソ連の持ち札を交渉にはいる前に出してしまったことになった。東欧にむけて反乱を煽動する西独の呼びかけは、「モスクワには『戦争の脅威』の代用品、つまり戦争の準脅威となった」。この情況下でソ連軍の撤退は絶対に不可能だった。それは整然たる撤退でなく、算を乱しての総潰乱になりかねなかった。反乱は、傀儡共産政権にたいする憎悪と対ソ反感が鬱積していた全東欧に深刻な衝撃をあたえた。モスクワでは、宥和反対派ばかりでなく、宥和政策を支持していた中間派まで、深刻な危機感に駆られた。ソ連戦車は、東独政府の要請に応じて、東独労働者と市民の反乱を弾圧した。一月に医師事件をたくらんで反撃に失敗し、機をねらっていた軍部と政治警察の連合勢力は、いっせいに強力な攻撃に出た。
 「治安警察の頑迷派は地方から反撃を起し、モスクワで失った地歩を奪回しようと試みるかもしれない。かれらはクレムリンの内部に有力な仲間や協調者をもっているかもしれない。かれらはマレンコフとその仲間を追い出し、かれらを変節者、秘密のトロツキスト、ブハーリニスト、帝国主義の手先として糾弾し自分たちこそスターリンの唯一の真実の正統な後継者であると主張するかもしれない」と、氏は四月半ばに『スターリン死後のロシア』で書いた。マレンコフではなく、改革と自由化の先頭に立っていたべリヤが「追い出され」、「糾弾された」。七月十日、かれは内相を罷免され、逮捕されたと発表された。そして、「人民の敵」であり、特に一九一九年以来イギリス情報機関の手先として働いていた、その他、スターリンの粛清裁判特有のあの奇怪な罪名が科せられた。それはスターリンの死と同時に、完全に廃止されたやり口だった。マレンコフは反撃の凄まじさをかわすため、三月初めまでスターリンの恐怖政治を象徴していたこの強力な協力者を獅子に食わせたのである。べリヤは、ウクライナ人やグルジア人を抑圧していた大ロシア化主義の高官たちを罷免したときかれに協力し、 #いま# ロシアに敵意をもっているといって告発されたウクライナ人やグルジア人の被告たちとともに被告席に立たされた。裁判長の席には、威風堂々としたコニエフ元帥が厳然と構えていた。元帥の左右の判事席には、セミ・クーデターに勝利したあの連合勢力、軍首脳と頑迷なスターリニスト、ベリヤに反逆したかれの警察の代表者たちが並んでいた。被告たちは十二月二十三日に有罪を宣言され、直ちに銃殺された。裁判のやり方自体スターリニズムへの半逆戻りをしめすとともに、軍法会議でない正常の裁判で、軍を代表する元帥が裁判をおこなったことは、ボナパルティズムの不吉な影がこの非常時局に投げかけられていることを語っていた。
 マレンコフの転落 一九五五年二月八日、ソビエト最高会議で突然マレンコフが首相を辞任し、ブルガーニン元帥が新首相となり、ジューコフ将軍が国防相になった。これでソビエト最高会議幹事長、つまり国家元首ヴォロシーロフ元帥とともに、新政府の要職を三人の軍首脳が占めることになった。この政変は一九五四年を通じて、改革派と改革反対派の間で闘われた激しい抗争の結果であった。抗争は内政外交のあらゆる重要問題についておこなわれたが、いっさいは一九五五年―六〇年の第六次五ヵ年計画の基本方針に集中された。マレンコフとミコヤンの改革派は、消費者物資の倍増を主張し、ことに悲惨な住宅問題解消のための野心的計画を主張し、軽工業の拡大を要求した。軍は国際情勢の不安定をあげて軍備改善とともに、即時軍需工業に転換できる重工業の拡大を主張した。五ヵ年計画決定に重要な役割を果すゴスプラン(国家計画委員会)は、一般に消費財工業を年一〇%増大するためには、まず資本財工業をすくなくとも一八%増大しなければならない、そうでなかったら、消費財工業は機械の不足のため、たちまち停滞してしまうだろう、生活水準の控え目な向上を維持するためだけにも、まだ重工業を最優先させなければならない、今日一般の誇大な希望を煽ることは軽率であり、まったく危険である、建設工業を含めて消費財工業は、次の五ヵ年計画の最初の一、二年ないし三年度、年一二%ほどの建設工業の増大が可能なだけで、その後はそれさえ維持することが不可能だろうと主張した。ゴスブランの指導者たちはまた、次の五ヵ年計画から、かなり大規模にソビエト工業を石炭エネルギーから原子力エネルギーに転換しはじめなければならないと要求したが、これにもまた巨大な資本投資が必要だった。軽工業か重工業かの問題は、ソ連国内だけでなく、対東欧共産圏政策の問題でもあった。新五ヵ年計画における軍備拡張の問題も重大な論争を呼んだ。改革派は、「平和攻勢」外交によって国際緊張を緩和して、軍備競争を減速させることができると主張し、反対派はこれを危険な希望的観測だと拒否した。十月初めには、ソビエト最高会議幹立会はすでに西独のNATO加盟に対抗するソビエトの対策試案を作成し、軍費の大増額を組みこんでいた。幹部会はまた毛沢東にむかって中国の徴兵制布告を提唱することも決定していた。中国はそれまで工業力の不足のため徴兵制を控えていたが、もしこれに踏み切ったら、ほんの数年で二千万の予備兵をソビエト最高司令部の下におくことができるだろう。一九五四年十月、フルシチョフ、ブルガーニンその他の首脳陣は、この計画をもって北京を訪れた。だが、このような膨大な予備軍を確保するたゆには、ソ連は中国の軍事工業を建設したり、莫大な兵器を提供したりしなければならないだろう。毛沢東はこの提案に同意した。平和外交への毛沢東の支持を熱望していた改革派にとって、これは致命的打撃だった。西独のNATO加盟に関するロンドン・パリ協定をためらっていたフランス議会が一九四五年末についに批准したことで、マレンコフ=ミコヤンの改革派の敗北は決定された。マレンコフ辞任の翌日、北京は徴兵制を布告した。
 「ソビエト重工業建設の強化、軍備の増大、新しく生れる中国軍、支那海からエルべ河にいたる全兵力を指揮するソビエト最高司令部――『この新しい力の拠点』から、モロトフは西側と交渉しようとしているのである」と、氏は一九五五年二月十日にいった。
 半自由主義的改革派の敗北が、この敗北に最も強大な力をあたえた軍の影響力を大きく強化したことはいうまでもない。支配体制の二つの権力機構は政治警察と軍であったが、政治警察はスターリンの死直後の #医師事件の暴露とべリヤ事件# 、それにつづくべリヤ派の広範な粛清によってほとんど粉砕されていた。そして軍はいまや三名の元帥を政府首脳に送っていて、内政と外交にソビエト史上未曾有の発言力をもった。だが、軍の首脳たちはおなじ見解と抱負によって団結していないで、ヴァシレフスキーとジューコフ両元帥の対立によって割れていた。マレンコフ危機の結果、過去十年間ジューコフの上司であったヴァシレフスキーは、ジューコフが国防相になったため、国防次官としてジューコフの部下となった。ヴァシレフスキーはソ連で最も強力な参謀総長で、作戦と兵站が専門部門であったが、ジューコフはソ連軍中最も偉大な戦闘将軍で、トルストイが『戦争と平和』の中で描いたクツゾフ将軍のように、勇敢で忍耐強く、民衆的精神の化身そのものと見られていた、とドイッチャー氏はいう。ヴァシレフスキーは共産党員としてでなく、「専門家《スペシャリスト》」として赤軍に参加した。党には一九三八年、トゥハチェフスキーの粛清後、戦争の切迫を前に四十三歳ではじめて入党した。大戦中は、当時の激しい国家主義と、旧帝政時代の軍事的伝統伝説、英雄にたいする主な鼓舞者のひとりであり、スターリン時代の末期には「根無しかずらのコスモポリタニズム」や、「西側への叩頭」や、ユダヤ人等にたいする反動的キャンペーンを、全影響力を傾けて支援した。「医師団の陰謀事件」に関連していたことは疑いない。世論のまえには、「医師団の陰謀」による暗殺計画の主要な対象とされていたが、ジュtコフの名は全然あげられなかった。ジューコフは貧農出身で、内乱の初期に赤軍に参加、一九一九年、白軍がモスクワとペトログラードに迫り、赤軍の命運がどん底にあったとき共産党に入党した。精神形成はレーニン時代になされ、スターリン体制に順応はしたが、かれの初期の共産主義的信念と国際主義的心情、そして人間関係でのちっとも形式ばらない親切心と暖かい心を持ちつづけていたように思える。ドイツでは軍司令官兼ソビエト軍政の長官として、軍にたいする保安警察の干渉に憤慨し、ベルリンにおける自分の行動にたいするスターリンの猜疑的な統制に苛だたされた。その統制がまたあまりにも野暮ったく、安細工で、西側の司令官たちに丸見えなため、誇り高いジューコフを赤面させた。かれはモスクワからの指令をいくつか無視したり、形式張らない態度だったり、ことに危険なほど人望があったため、その罰として五年間オデッサに隠退させられた。いまスターリンの寵を得ていたヴァシレフスキーと逆転して国防相になったことは、党指導者たちが対外対内政策をもっと強硬にせよという軍の圧力に屈しはしたが、将校団中のいっそう極端で、外国人嫌いで、政治的野心ももった分子、ヴァシレフスキーの後に食っついていくような分子を寄せつけないように熱望している証拠であった。この取り合せは、「強硬な」党指導部と、穏健で、党員的精神をもった軍人との同盟であるだが、穏健な軍人たちでさえ、マレンコフの「柔軟」政策に反対したことは明らかで、ジューコフもまた「ソビエトの柔軟さは西側から弱さと誤解される」ことを恐れているように思われる、とドイッチャー氏は断じた。
 「フルシチョフはたしかになかなか迫力があり、エネルギッシュな行動家である――これはスターリンと共通の特徴である。だが、スターリンの冷静で、寡黙で、抜け目のない自制力を欠いている。屈託がなく、おしゃべりで、押しが強いが、あまりにも粗野で、ときにはほとんどナイーヴ過ぎて、スターリンの単独の後継者のデリケートで危険な仕事には、適さないように思える。かれは膨大で複雑な工業設備と原子炉をもった今日(つまり一九五五年)のロシアでなく、計画的工業化にやっと乗り出したばかりの、二十年ないし二十五年昔のロシアの人間である(氏はまたフルシチョフを、ロシアの最後のムジークであるとも評した)。かれの最近の演説はみな、この国の経済の実際の問題とは何の関係もないもので、複雑な近代的大会社のボスに出世して、手馴れた原始的な手段でその問題を何とかうまくこなしたいと思っているけちな鉛管工の、的外れの夜なべ仕事に似ている。これはスターリン死後のロシアが必要としている人物では断じてない。もしだれか辞任するための理由として、不適任なことを挙げるべきだとしたら、それはまさしくフルシチョフである」。氏は、二十回大会の「秘密演説」を一年後にひかえた一九五五年のフルシチョフをこう評した。マレンコフは辞意を表明する書簡の中で「ソ連は政治の諸問題でいっそう大きな経験をもつ議長を必要としている」といい、経済政策や農業政策の欠陥は自分の責任であったと自責し、「重工業を最大限に発展させるという、唯一の正しい政策を基礎にしている」新農業政策に、心にもない賛辞を送ったのだった。
 ブルガーニンの首相任命は当座しのぎの間に合せでしかなかったが、いずれにせよソ連の政治にたいする軍の影響の重力が、これほど増大したことはかってなかった。ブルガーニン自身は将校団の真正な代表ではなく、むしろ軍にたいして党を代表し、将校団にたいする党のお目付け役でもあった。だが、かれの背後には将校団の本物の指導者、ヴァシレフスキー、ゴヴォロフ、ジューコフの各元帥のほか、まだ空席のままになっているソビエト・ボナパルトの地位にたいする真正の候補者たちがずらりと控えていた。国際的緊張がさらに高まり、それを契機にソ連国内に重大な混乱が生れ、明らかに無能なこの五執政官《ディレクトワール》政府を行き詰らせたら、権力の移行がさらに起り、ついには全政治権力は真正な軍指導者たちの中の単独の勝者、ソビエト・ボナパルトの手中におかれるだろう、と氏は見た。
 ロシア革命の推移を、いつもクロムウェル革命やフランス革命との歴史的類推をとおして見るドイッチャー氏が、この時点におけるフルシチョフ=ブルガーニン政権を、ブリュメール十八日の前過渡的政権、五執政官政府に比したことは注目すべきだろう。
 ところで、ポーランドとハンガリアの十月革命の導火線となったフルシチョフの「秘密演説」に移るまえに、この革命的爆発がソ連本国で起らないで、この両衛星国で起ったのはなぜかを知るために、東欧衛星諸国の情況をちょっと見てみる必要がある。
 スターリンは東欧諸国を軍事占領して衛星国とし、ソ連型の小スターリン独裁の共産主義体制を樹立したが、その基本的な目的は、これらの衛星国を植民地的に搾取することではなくて、帝国主義的侵略の不断の危険から社会主義的経済建設を護るための大緩衝地帯とすることであり、軍事占領とはいえ、ルーズヴェルトやチャーチルとの協定にもとづく占領であったのである。国内の混乱と戦うために恐怖政治を遂行したジャコバンは、対外政策ではナポレオン――国内では法と秩序を代表したあのナポレオンよりも、はるかに平和主義的だったように(銃剣の切っ先で革命を国外に輪出してはならないと警告したのは、革命的テロリストのダントンとロベスピエールではなかったか? と氏はいう)、スターリンもまた、国内政策では激しい緊張を抑圧するため恐怖政治を行使したが、対外政策では、かれ式のやり方で時をかせいで国内建設に専心するため、防御的であって、帝国主義との現状維持のための平和共存を、それこそ非情鉄面皮に追求したことは周知のとおりである。
 ソ連がまだ大戦に呻吟しながら、大破壊と荒廃から立ち上るため悪戦苦闘していた一九四八年四月三日アメリカは初年度五三億ドルを投じてマーシャル援助プランを発動させ、五一年までに一二五億ドルを投入して、西欧十六ヵ国の戦前の工業水準を三〇%も上回る復興を達成し、東欧諸国に強烈な圧力を加えた。荒廃しつくした国土と民衆を抱えた衛星諸国の指導者たちにとって、この米ドルの誘惑がどんなに強く、どんなに大きな圧力であったか想像できよう。だが、かれらがこのマーシャル援助を受けいれることを禁じたスターリンは、その圧力と誘惑に対抗するゼスチュアとして、経済相互援助協議会なるものを翌年一月結成したが、相互援助どころか、全身創痍、出血に蒼白化したソ連自身の復興を遮二無二急ぐため、衛星諸国をしぼりとることが精いっぱいで、これらの国に設立した混合の会社も、一方交通の経済的搾取の道具とされて、根強い怨嗟の的となり、ソビエトの復興が進んで、一方通交の搾取貿易が相互貿易になり衛星諸国が投資と技術援助の利益を受けるようになった後も、この悪印象は消えなかった。スターリンの後継者たちによって合資会社が解体されてからも、ジラスなどの批判者に、ソ連は「国家資本主義的搾取」をやっているといって非難されるのだった。
 こうしてソ連内外の利用しうるものはすべて利用し、過酷きわまる工業規律のもとに、崩壊にひんしたソビエト経済のたて直しを急いで、講和締結後最初の五年間に、都市雇用者一千二百万の激増、一九五〇年には労働者と従業員の数が一九二○年より八百万も多いという、目覚ましい復興を達成して、世界第二の工業国の基礎を固めた。
 その間、東欧衛星諸国の共産政権は、モスクワ裁判をまねた血の粛清と政治警察的テロリズムによって「民族主義的偏向」を弾圧しながら、スターリンの政策をそっくりまねて、一つの東欧圏内に自給自足を目指す一国社会主義を七つも八つも同時に発足させて、建設をきそいあい、それで小さな国境内で重機械工業をふくむ重工業の各基本部門を全部建設しようとした。その結果は、重工業への投資過剰、農業生産軽工業、農業への投資不足という、重大な全面的危機に陥っていた。モスクワ一辺倒で民衆に背を向け、非能率きわまる独裁政治を押しすすめる、硬直した、無能な小スターリン的政治警察政権にたいする民衆の憤懣は、東欧全体にびまんしていた。
 スターリンの死と同時に開始されたマレンコフ=べリヤの非スターリン化は、真っ先に政治警察の背骨を叩き折って、その恐怖から大衆を解放した。かれらはまたその非スターリン化を東欧にまで及ぼし、衛星諸国をその危険な行き詰りから解放しようとした。この政策は、政治警察の無力化となり、それでなくてさえ憤懣侮蔑の的となっていた小スターリン政権をいっそう孤立させ、支配的グループの分裂を生んだ。


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