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 スターリンの後継者たちが衛星諸国の非スターリン化をすすめる過程で、第一に解決を迫られた問題は対チトー関係であった。一九四八年にスターリンがチトーを、民族主義偏向を理由にコミンフォルムから破門除名して以来、各国共産党は反チトー・キャンペーンを国際的につづけるとともに、ユーゴスラヴィア国境にはブルガリアとハンガリアの軍隊を集結し、チトーも総動員態勢でこれと対決していた。同年五月二日、スターリンがソビエト共産党中央委員会からユーゴースラヴィア共産党中央委員会に送らせた書簡で、チトー軍は重大な危機に陥っていたため、パルチザン軍はヒットラーの侵略軍に有効な抗戦ができず、そのためソビエト赤軍がユーゴースラヴィアをドイツ軍から解放してやらなくてはならなかったときめつけて以来、全世界の共産党による猛烈な非難中傷がつづけられていた。スターリンの後継者たちはかれの死後、この非難を全共産圏で静かに中止するとともに、ユーゴースラヴィア国境に集結中のハンガリア、ブルガリア両国軍を撤退させた。チトーも対ソ紛争激化は必至であるというジラスを拒否して、ソビエト体制の変化につれて究極的な対ソ和解は可能であると主張するカルデリ一派を全面的に支持し、同時に一部動員解除と軍事費の削減をもってこたえた。一九五四年九月二十日、赤軍のベルグラード入城十周年記念日には、「プラウダ」は特別論説で、「ユーゴースラヴ兵士たちとパルチザンは、あらゆる戦闘に非常に積極的に参加し、どこでもわれわれとともにあって……しばしば戦闘の成果を獲得したのはかれらであった。事実こうしたことは何度もあった」といって、ユーゴースラヴ軍の英雄的抗戦をたたえ、軍司令官としてのチトーの役割をはっきり認めた。
 モスクワ新政権の非スターリン化は、中国政策にも現われた。一九五四年九月二十九日から十月十一日にかけて、ソビエト政治局員の大代表団が北京を訪問して、中ソ協定を結んだ。協定の第一の成果は、スターリンが一九五〇年二月に約束して以来実行を怠っていた旅順口海軍基地からの撤退を、一九五五年五月末までに完了することであった。全満州を抑え、北京に睨みをきかせ、日本をふくむ全東アジアにたいする戦略基地として、旅順口がどんなに重要な拠点であるか、同時にまたこの要衝を占拠されていることが、中国にとってどんなに重大な脅威であり、国民的威信にたいする深刻な屈辱であるか想像できよう。旅順口からの撤退はまた、中ソ両国の対日本政策の修正を意味した。それまで中ソ同盟は公式に「日本の侵略の復活」にたいする再保険であるとされていた。一九五〇年の同盟条項には日本の脅威がはっきり明記されていた。だが、十月十二日の宣言では、日本の脅威という言葉ははじめて削除されて、その代わりに別の声明書で、中ソ両国はそれぞれ、戦後何年も経ているのに、日本がいまだに「半被占領国」であることに同情と遺憾の意を表明した。ドイッチャー氏はこれを、次のように評価した。「今後日本は昨日の敵でなく、アメリカの犠牲国、今日の敵の犠牲国として、そしてまたアジア中立陣営への潜在的加盟国として扱われるだろう。旅順口撤退は、ロシアが斧を地に埋めたことを日本に保証するためである」
 マレンコフ政府はまた新疆で金鉱、油田、そしておそらくまたウラニウム鉱を開発していた中ソ合資会社を解体し、中国の民間航空全部と造船所の一部を支配していた混合の会社のシェアを放棄しようとしていた。この民間航空の支配は、中国全土をソビエトの情報機関に開放するもので、スターリンが非常に重要視していたものであった。
 「中国や東欧の共産主義にたいするソビエト政策のこの新しい転換の背後には、各国共産党の党内体制の変化という、いっそう重大な問題が、大きく影を投じていた。スターリンの後継者たちは渋々と、ためらいながら、共産主義指導の絶対不謬性の神聖な原則を放棄しつつあった。もしもソビエト中央委員会に反対したチトーのような異論者が正しかったとしたら、異論はもはや犯罪ではないはずだ。こうして各国共産党の『一枚岩的』見解は、疑問をいだかれることになった」
 マレンコフ政権は個人指導を廃して中央委員会による集団指導にかえた。集団指導、つまり委員会による政治は、最初は党の委員会内で、後にはまた党の下部組織の中で、自由討議がおこなわれることを意味した。このような指導体制の変化は、当然ながら摩擦や意見の相違を生まずにはいない。東欧諸国のスターリン時代そのままの単独指導者小スターリンたちは、危機を感じて、自己の大権を防衛しようとし、モスクワ政権はこれに反対した。ハンガリアのラーコシがそれであり、いっぽうポーランドのビエルツは集団指導制に同調したようであった。ルーマニアの党はまだ危機の瀬戸際で、アンナ・パウケルの運命は不安定で、粛清がつづいていた。
 「東欧の共産体制は、ソ連とはちがって樹立後やっと十年で、まだ地についていず、はるかに不安定だった。東欧諸国の農村地方は、零細農民が圧倒的で、旧ブルジョア諸政党はまだ潜在的、または、現実的な支持者をもっていた。労働者階級のあいだでは、社会民主党的伝統が生きていた。支配的共産党の規律の緩和は、党の弱さの兆候と取られて、反対派を勇気づけ、政治的激動にみちびかないともかぎらなかった。共産党の支配者たちは、モスクワの伝染力をもつ改良主義的発酵を複雑な気持で見ていた。東欧の共産党がときとしてスターリン自身の党よりもはるかに頑なにスターリニスト的正統にしがみつくのは、そのためである。いっぽう、スターリニスト的伝統は、東欧共産党の政治的メンタリティに深く根をおろしていない。だから、それらの党はいったん勇気が出ると、ロシアの党よりもはるかに容易にスターリニスト的伝統の重荷をふりすてるかもしれない」。ドイッチャー氏はそう断ずる。
 フルシチョフ一行のベルグラード訪問 これまでのモスクワ――ベルグラードの雪解けは、まだイデオロギー的休戦の城を出なかった。モスクワ政府がいまはあまりにも時代遅れとなったスターリン時代の硬直した狭窄衣をふりすてて、新生ロシアと新しい国際関係にふさわしい、対共産ブロック政策と世界外交を大きく展開するためには、まず第一にチトーとのイデオロギー的休戦の城を乗り越えて、政治的にもイデオロギー的にも現実的な和解を実現しなければならない。一九五五年五月二十六日から六月三日まで、政府代表ブルガーニン首相だけでなく、党第一書記フルシチョフがソビエト代表団の団長としてベルグラードを訪問することになった。ブルガーニンでなくフルシチョフが団長だということは、外交関係の再建だけでなく、何よりも両国共産党間のイデオロギー的、政治的相違の解決を望んでいることをしめしていた。
 「ソビエト使節団は力ノッサ〔*〕の旅であるといわれた。 だが、これは逆の力ノッサである。法王から許しを乞いに行くのは異教徒ではなくて、異教徒に陳謝しに行くモスクワ法王である。かれは異教徒がよろこんで陳謝を受けいれてくれるという確信なしに行くのである」
〔*〕 神聖ローマ皇帝ハインリッヒ四世は、ローマ法王グレゴリウス七世に破門の赦免を乞うために、一〇七七年一月二十五―二十七日の三日間、法王が滞在するトスカナ伯未亡人の居城カノッサの城門の前に立ちつづけて、ついに赦免を得た。「力ノッサの贖罪苦行」という。

 スターリンと名をつらねて、チトーの破門状に署名したモロトフを除いて、モスクワの党と軍の要人たちはみな、口をそろえてチトーを立派な共産主義者、パルチザン部隊のすぐれた革命的指導者として、公けにほめあげた。フルシチョフは見てくれといわんばかりに、チトー氏でなく、チトー元帥でもなく、 #同志# チトーの健康のために乾盃した。だが、東にたいしても西にたいしても独立の立場を守っていたチトーは、 #同志# フルシチョフの健康のためにお返しの乾盃もせずに、両党間の関係についてでなく、ただ両国政府の問題に関してだけ、ソビエトの客人たちと交渉する用意があることを、特に強調して訪問を受けいれた。政治的交渉なら、原則にこだわることなく、相手の便宜の枠内でやれるからである。全世界の、ことに東欧諸国の注目と環視の中で、これほどまで鼻であしらわれ、侮辱されても、なおかつソビエト共産党第一書記をして、チトーにたいして、腰罪の苦行かそれとも臣下の礼にも似たこの一方的な敬意を払わざるをえなくさせたのはいったい何か? これにたいしてドイッチャー氏は、その答えはただ、支配的グループが変化し、交代したにもかかわらず、そしてまたフルシチョフ自身困惑しながらストップをかけようと努力したにもかかわらず、スターリニズム正統の崩壊が、間違いなく、徐々に進行していたためである。モスクワには、最高支配的サークルの中にさえ、スターリンが犯した最悪の失策と愚劣な真似にたいする罪悪感と羞恥の意識がひろまっていることは明らかである。フルシチョフとブルガーニン元帥は、党を昔のスターリニズムの正統に引き戻そうとして、マレンコフを打倒したかもしれないが、スターリニズムへの反発と嫌悪はいぜんとしてかれら両名を、ベルグラードへ送り出すだけの力をもっているのである、と氏はいい添えて、さらにつづける。
 フルシチョフはいや応なしに(おそらくはそれと気もつかずに)、かれ自身の党の一枚岩的見解に新しい打撃を加えていたのであった。「プラウダ」は最近ソビエトとユーゴースラヴィアの社会制度は、両方とも公有制と、労働者と勤労農民の政治的優位とを基礎にしていることを挙げて、両者の密接な近似性について書き、この基本的近似性は、まだ「多大の見解の相違」が存在するにもかかわらず、けっして減りはしなかったと力説したが、そうすることによって「プラウダ」は、読者の心に大量の「異教」を一服注入したのである。「一枚岩的党」のスターリニスト的規範は、「多大の見解の相違」が共産主義者の間に発展することをいっさいゆるすことができなかった。なぜならただひとつの見解、公式の見解だけが社会主義の真実の利益を代表するからであり、異端的見解は不可避的に資本主義の復活にみちびくから、ということであった……。「プラウダ」はいまやこの(資本主義の復活という)ごまかしを暴露したばかりでなく、さらにすすんで、共産主義者のあいだに不一致が存在する場合には、「異端的」見解は必ずしも共産主義ないし社会主義を裏切ることにはならないとまで宣言した。だが、もしも二つの党のあいだの意見の相違についてそうだとしたら、一つの共産党内の不一致についてもそういえるのではないのか? この疑問は「プラウダ」の一部の読者の頭に浮かんだにちがいない。そして、この「プラウダ」の言葉はソビエト共産党内の党内論争もまた間接に、暗黙のうちに公認したのだと考えるかもしれない。チトーの復権よりももっと驚くべきことは、一九三〇年代末の大粛清当時、スターリンがピルスツキスト(ピルスツキーは、ポーランドの独裁者)やトロツキスト、政治警察のスパイの巣だといって解散し、ピルスツキの警察の手を逃れてモスクワに亡命したその指導者たちを全部粛清した、ポーランド共産党と粛清の犠牲者たちを復権したことである。(ポーランド共産党粛清の悲劇の物語は、岩波版ドイッチャー氏遺稿集『レーニン伝への序章』の中の「両大戦間におけるポーランド共産党の悲劇」に鮮かに描かれている)。
 この二つの党の復権は、スターリンの大粛清の、今後何年かかるかもわからない、はるかに広範な歴史的修正のほんの糸口でしかないが、しかしそれはスターリニズム的正統の崩壊と不可分的に結びついていて、共産圏各国のスターリニズムの下に呻吟してきたひとたちの心に、深刻で広範な影響をあたえた。
 だが、ドイッチャー氏はこれらの二つの党の復権もさることながち、それよりもっと微妙で、しかもいっそう重要な「イデオロギー的発酵」の兆候として、この頃レーニンの思い出に、それまでとはちがった新しい型の敬意が払われていることに注目している。当時モスクワでは、オールド・ボリシェヴィキの少数の生き残りたちが書いたレーニンの回想録が洪水のように出ていたが、それはスターリン時代に現われたものとは多くの点でまるでちがっていた。いっそう現実的で、歴史的真実にいっそう近く、レーニンをもうひとりの半神スターリンを産んだ半神として描いたりはしなかった。かれらもレーニンを美徳の鏡として描いたが、そのうちでも「党内民主主義」の尊重というレーニンの美徳を、はっきり浮き彫りにしてしめした。レーニンは自分の意見を党に押しつけるようなことはけっしてせず、党内の異見と論争を寛容し、たとえ意見が一致しない場合でも、多数派の意志にしたがったことを歴史的事実をあげて強調した。こうしてかれらは、ただ歴史的真実だけでなく、むしろ現在のために重大な教訓《モラル》を指ししめそうとしたのである。それは、党は専制政治と一枚岩的正統にうんざりしている、いまや党はスターリンの後継者たちが、かつて党が持っていた見解と異見と論争の自由を党に返すことを期待している、ということであった。世界史上はじめての社会主義革命を達成し、資本主義の包囲のもとでそれを守り抜いてきた、「誇り高い崇高な気品において人類全体の上にはるか高くそそり立っている」と思われたのに、長い歳月、ひとりの偏執狂的な独裁的暴君の足もとにひれ伏してきた国民にとって、レーニンたちの旧い同志、オールド・ボリシェヴィキの生き残りたちの、真実の言葉で語られるこの教訓は、熱砂の中の清冽な泉か、暗闇の中にキラキラ煌《きらめ》く珠玉のように思われたにちがいない。「洪水のように」氾濫し、争ってむさぼり読まれたかれらのレーニン回想録が、ソ連市民のあいだにより微妙で、しかもいっそう重大な、新鮮な「イデオロギー的」発酵を、どんなに深く、広くかもしだしたか想像されよう。国有制計画経済の強大な発展成長を原動力とする、あらゆるジグザグを経過しながらも、モスクワ市民のあいだに不断に鬱積していたスターリニズムへのやり切れない反発と嫌悪のムードが、御都合主義でしかも倣岸尊大なフルシチョフを団長とするソビエト指導者たちの使節団を、ベルグラードへのカノッサの旅に旅立たざるをえなくさせたのである。だがカノッサ城門前の三日の懺悔でなく、五月二十六日から六月三日まで、まる八日間の訪問にもかかわらず両共産党間の交渉はついに許されずに、モスクワへ帰っていった。フルシチョフがチトーから同志フルシチョフと呼びかけられるためには、翌五六年六月二日―二十三日のチトーのモスクワ訪問まで待たねばならなかった。スターリンとともにチトーに破門を宣したモロトフは外相としてチトーの勝利的なモスクワ入りを準備万端整えた後、その前日の六月一日、皮肉にも詰腹を切らされて外相を辞任した。フルシチョフたちは、いわば異端者チトーの敵の首級を盆にのせて、かれを迎えいれたのである。あの歴史的な二十回大会を八ヵ月後にひかえて。
 二十回大会とフルシチョフの秘密演説 一九五六年二月十四日から二十五日にかけて、モスクワでソビエト共産党二十回大会が開かれた。一九五六年の年と二十回大会の名は、フルシチョフの「秘密演説」、その衝撃が引き起した強力な歴史の流れ、そしてそのクライマックスとして爆発した十月のポーランドとハンガリアの革命とともに、世界史に永久に記録されるだろう。本書『現代の共産主義』第三部「スターリンの死亡通知」と第一部冒頭論文「スターリン対フルシチョフ」とのあいだには三年、一九五二年十月スターリン最後の十九回大会から二十回大会までは三年半。この短い歳月のあいだに、ソ連と東欧共産圏諸国は、これまで述べてきたようなジグザグ的な非スターリン化の大きな変貌をとげながら、この三十回大会に到達したのであり、ここまでた引火誘発して、十月の大爆発へと螺旋的に加速されるのである。
 スターリン最後の十九回大会がスターリニズムの葬送の曲を秘めていたとしたら、二十回大会はこれとの激発的な断絶宣言の大会であった。時代遅れなスターリニスト官僚統制の非能率とエネルギーの恐るべき浪費にもかかわらず、国有制計画経済の強大な成長力に突きあげられるスターリニズムとの決裂は、いまやソビエト国内政策のほとんどあらゆる分野にはっきり現われていた。それは深刻で、徹底的な決裂であり、ことに社会政策でそうだった。過去四半世紀間、スターリンが平等主義は反動的なプチ・ブル主義だとして、過酷な不平等主義を強行し、官僚や経営者グループ、熟練労働者たちのエリートの特権の、情け容赦ない守護者たちであったことは周知のとおりである。だから、フルシチョフが大会にむかって、大会冒頭の報告演説で中央委員会は低所得の労働者の賃金と年金を引き上げ、高い俸給や年金のあるものを切り下げることを提唱すると声明したことは、スターリンの社会政策の破棄を宣言したことであって、一般大衆にとって指導者崇拝の廃棄よりも、もっと大きな驚きであったろう。中等教育と高等教育の授業料全廃の声明についても同様で、ソビエトの一般市民たちは、過去三十年来いまはじめてかれらの指導者たちが、スターリンの鉄則、社会的不平等の問題にほんとに取り組んでいることを知った。フルシチョフはまた党とソビエトの組織の堕落を非難し、三年前まで恐怖の的だった政治警察が、一般民衆の軽蔑の対象になっていることを挙げながら、かれらにたいする敵意の行き過ぎを警告した。かれはスターリンをほめたたえることはやめて、かれの邪悪や勝手気ままな専断をほのめかしはしたが、個人崇拝をこきおろしても、スターリンの名をあげはしなかった。そしてスターリンのいっさいの身代わりの生け贄として、ベリヤをあげた。だが、ベリヤは一九三八年の終りになってはじめて政治警察の長官になったのであって、大粛清、シベリヤへの大量追放、恐怖政治の最悪の爆発はそれ以前に起ったことで、このことは、ソ連の多くの人たちに知れわたっていた。また東独反乱後、ベリヤ粛清の理由の一つとなった、「東独を世界資本主義に引渡そうとした」という告発についても、ドイッチャー氏はつぎのように明言している。べリヤが「帝国主義のスパイであったとか、陰謀と反逆の罪を犯したとかいう非難は、途方もない冤罪であって、かれはただ党幹部会の同僚たちといっしよに、きわめて正常な仕方で主張した、はっきりした政治的、外交的な構想の一部として、この『引き渡し』を要請しただけであった。この構想は、当時のソビエトの文書に反映され、一九五三年四月二十五日の『プラウダ』に発表された、あの有名な『アイゼンハワー大統領への回答』に、特に力を入れて明確に表明されていた。べリヤとマレンコフの西側にたいする明白なアッピールであるこの『回答』は、『ドイツ国民に一つの国家に再一統一する可能性をあたえるドイツとの講和条約は、できうるかぎり速やかに締結されるべきである。そしてこれに引きつづき、全占領軍は撤退されるべきである……』と明確に述べている」。これは、重工業重点主義を是正し、軍縮による軍事費削減で消費財工業を拡大し、国民の生活改善と民主化を計るためには、国際緊張緩和が必要であるが、その最大の障害であるドイツ問題の平和的解決には、ドイツ再統一をゆるし、その引き換えに全占領軍の撤退を勝ちとる以外にないという、ベリヤの構想から発していた。
 それでもなおフルシチョフは、「まるで護身の盾かなどのように、ベリヤの屍にしがみつくのだった」。返答に詰るような質問をいろいろ投げかけ、スターリン時代の全真実をしきりに話したがる党のインテリゲンチャを、かれはうさん臭い眼でみた。フルシチョフにとっていちばん力強い味方は、おなじ気持の代表であるカガノヴィッチで、ふたりとも、一歩一歩、渋々と、時代の新しい精神に屈しながら、スターリニズムの後衛戦を戦っているのだった。
 大会冒頭のフルシチョフの演説につづいて登壇したミコヤンは、「戦闘的な反スターリニズムの代弁者として現われた」。かれはスターリンをはっきりと拒否した最初の、そしてそれまでのところ唯一の指導者であった。スターリンの理論的な発表(かれ自身この前の大会では、天才の現われであると讃美せざるをえなかった)など、まるでくだらぬたわ言だと、最初にきっぱり言い切った。かれはべリヤに悪罵を浴びせはしなかった。党がいま戦っている悪は、諸君がべリヤを知るずっと以前に、スターリン時代の初めに、おそらくはそもそもの端緒に、根をおろしていたのだ、とミコヤンは大会にむかっていった。フルシチョフは大会冒頭の演説で、トロツキストやブハーリニスト、その他の「人民の敵」を激しく罵倒したがミコヤンは革命と赤軍の指導者たちを「人民の敵」と中傷することにたいして、敢然と抗議した。そして、その一例として、一九一七年十月のボリシェヴィキ反乱の主要な指導者のひとりであるアントーニオ・オフセーエンコの名をあげた。オフセーエンコは赤衛軍をひきいてケレンスキー政府の牙城冬官を急襲して、政府閣僚を逮捕した。またトロツキーが赤軍の頭首におかれるまえ、最初の三名の陸軍人民委員のひとりだった。かれはトロツキーの献身的友人であり、一九二〇年代のトロツキスト反対派の主要なメンバーのひとりだった。その後闘争をやめてスターリンに屈したが、すぐ大粛清で処刑された。「わたくしはアントーニオ・オフセーエンコを、直接個人的に知っていた。かれはトロツキーにたいする最高の尊敬と愛情を、最後まで持ちつづけたと、わたくしは確信することができる」と、ドイッチャー氏ははっきり断言している。
 「ミコヤンは、この人物(アントーニオ・オフセーエンコ)をはっきり弁護するのはどういう意味かについて、いささかも疑問をのこさぬために、レーニンの死後確立された全『法律学派』と司法制度――一九三六年―三八年の全粛清裁判の検事総長ヴィシンスキーを長とした『法律学派』と司法制度を露骨に弾劾した。したがって、かれの演説は、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、ラデック、ラコフスキー、その他の全被告のやり直し裁判を求め、事実上復権を要求したものであった。そればかりではなく、ミコヤンは大会にむかって、 #官僚的中央集権主義# にたいする容赦ない闘争を断行し、レーニンの #民主的中央集権主義# を完全に復活させるように、情熱をこめて要望した。そのときかれは意識的に、これらの用語や、その他多くの観念や決った言い方を、最初にそれをつくりだした、ほかならぬトロツキーから借用した。ミコヤンはまたレーニンの遺言、レーニンが党にむかって『スターリンを書記長の職から除く』ように勧告した、ソビエトの新しい世代には知られていない、あの失われたドキュメントに暗に触れたが、それもまたトロツキー独特の言い方でそうしたのだった」。フルシチョフは演説で、個人崇拝はいまやあとかたもなく失せてしまったといおうとしたのにたいし、ミコヤンは、それはいまも残っていてそのあとかたがどんなに不吉な恐るべきものであるかということを、大会に強く印象づけようとした。


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