つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる

 「ミコヤンの演説は、かれ自身フルシチョフやカガノヴィッチがスターリン分派に加わるずっと以前からの、すくなくとも一九二二年以来の熱心なスターリン主義者であったということからだけでも、注目すべき政治的、人間的ドキュメントである」。「フルシチョフやカガノヴィッチはもっぱらスターリンのおかげで出世したのに、ミコヤンはレーニン時代にすでに頭角をあらわし、レーニンの学校で精神形成をすませていた。かれの演説には、自分がスターリンを助けて支配権を得させるために演じた役割にたいする、老レーニン主義者の改信といったものがあった。それはありふれたスターリニスト式の改信ではなくて、一生涯に犯した世にも恐ろしい、重大な数々のあやまちの、真正な、控え目の、ただ暗黙の告白であった。だが、それはまた共産主義的信念と、いまなお跳梁しているスターリニズムの害悪を、多少とも消し去りたいという念願の告白であった」。「フルシチョフとミコヤンのデュエットは、党の考えが分裂していること、すくなくとも支配的グループの考えが割れていることを世界にさらけだした。それはまた中央委員会内部にある意見の相違と組み合せを、多少とも明らかにした」
 ミコヤンが大会の壇上からかれの見解を述べることをゆるされたことは、それ自体前例となる、重要な革新的でき事であった。だが、それは、大会で中央委員会の多数派が公式の報告をし、それに反対の少数派は、論争的な「反対報告」をおこなうことができたレーニン時代の、党内民主主義の復活ではなかった。ミコヤンはそれを主張したにちがいないのだが、中央委員会はそれをゆるさず、フルシチョフとの意見の相違を具体的に語らずに、自分の意見を述べることだけゆるされた。「表現の自由」はあたえられたが、「論争の自由」はあたえられなかった。ミコヤンが演説を終ると、大会はだれにも送られないほどの熱烈な拍手をかれに送った。それはあの高い官職への敬意をしめす、儀式的な「長くつづく拍手」ではなくてミコヤンが話したことに、それを話すかれの真摯な熱意に送られた、魂を揺さぶられるほどの深い共感と感動の拍手であった。ミコヤンの勝利は、党内に鬱積し、みなぎっていた反スターリニズム的感情の力を突如明るみに噴き出した。フルシチョフも、かれの仲間も、だれひとりとして、立ち上ってミコヤンが大会にむかっていったことにあえて反論するものはなかった。スターリンのもとで特権をたのしんでいたものは、かれらの「既得権」を防衛しようとして、スターリニズム的正統の名残りを「イデオロギー的」に擁護しようとし、進歩的な労働者や進歩的インテリゲンチャ、党内の「レーニン主義者」たちはみな、まだ残っているスターリニズム的正統の痕跡の枷《かせ》から解放されたいとねがっていた。対立するこの二つの流れが、フルシチョフとミコヤンを代弁者としていた。
 四月四日、アメリカ国務省はフルシチョフの「秘密演説」のテキストを突然公表した。そのようなものがあったということは日本にも知られていたが、二十回大会の最終日の二月二十八日まで、改革派と改革反対派の間のバランスをとりながら、ミコヤンの激しいスターリン批判にたいして、スターリニスト的特権グループの代弁者として、批判の「行き過ぎ」に極力抵抗してきた当のフルシチョフが、その夜も遅く予定の大会議事が全部終了し、閉会間際になって、外国友党の代表を全部締めだして、慌てて開いた秘密会で、支配グループ自体の命取りにもなりかねないスターリンの恐怖政治の犯罪の実情を、かれ自身の戦慄の経験をとおして、あれほど劇的に生々しく暴露したということは、およそ革命史上かつてない突発的大事件であった。中央委員会のフルシチョフ側の多数派と、ミコヤン側の小数派は、フルシチョフの基調報告に関する決議で、新中央委員会に「指導者崇拝の名残りにたいする闘争の継続を呼びかける」という抽象的な表現にすることで妥協したが、歴史的真実を要求する広範な叫びが大会の内外に高まって、フルシチョフ多数派全体を、もはや一瞬の逡巡もゆるされない、指導権の喪失ばかりか、一挙に歴史の掃き溜へ押し流してしまいかねない、爆発寸前の状況に追い詰めたのかもしれない。党も国家も一枚岩であってどんな独立的な見解の形成も、どんな反対派の結晶もけっしてゆるされない、ただ「人民の父」スターリンの意志だけが、党と国家の意志であるという、スターリニズムの本質、その基本的な基範を、フルシチョフはまるでパニックに陥ったように、夢中で打ち砕いたのである。打ち砕いてから、「この問題を党のそととくに新聞に洩らすことはできない。それは、われわれはこの大会の秘密会で考えているという理由からである。われわれは限界を知らなければならない。われわれは敵に弾薬をあたえるべきではない。われわれは敵の面前で汚れたリンネルを洗うべきではない」と慌てて警告する。だが、それは警告というよりも、この思わぬ暴露が引き起しかねない爆発的な影響に怯えるものの必死の哀訴のようにさえきこえる。事実フルシチョフの秘密演説の衝撃は、ソ連国内では主としてこの演説のことを知った党幹部が感じただけで、国民大衆が感じたわけではなかった。これを知った党幹部たちは、直ぐに口も利けないほどびっくりしたが、しかしたいていのものはいままで生活していた歴史的な恐怖の部屋から、ついに脱出したことにほっとして、ショックも和げられたと思われる。だが、それは一時的な状況であって、口コミによる情報の拡がりは加速されて、やがて公然陰然の討論は党のあらゆる層に持ち込まれ、何十万、何百万の党員がスターリニズムとの決裂の意義を論じあうであろうし、さらに何十万何百万の非党員たちもこの論争に巻き込まれるだろう。共産党が全体として党の問題を討論しはじめるということは、過去三十年来はじめてのことで、これこそ二十回大会が動き出させた最も重大な新しい発展であった。
 だが、この衝撃による熱狂的な政治的発酵は、ソ連本国よりもソ連の衛星国家とされていた東欧各国でいっそう高まり、はるかに尖鋭な性格をおびた。わたくしはこの年〔一九五六年〕の四月に書いた小文で、その情況をつぎのようにいった。
 「いまわたくしたちの眼の前で、二つの壮大な劇が進行している。二つとも今後の世界情勢に直接重大な影響をもっていて、その激しい深刻な影響はとどまるところがないであろうし、世界の労働者運動にたいしてすばらしい展望を開いている。一つは英仏の植民地帝国主義の崩壊であり、いま一つはスターリン崇拝批判の形をとったスターリン主義的官僚制全体の危機であって、両者は国際的急進化の大きな一部として、反響誘発しあいながら進行している。
 スターリン批判はフルシチョフやミコヤンにより上からはじめられたが、たちまち暴風雨《あらし》のような反響を巻き起し、恐ろしい爆発力で全東欧諸国に燃えひろがっている。スターリンの『誤謬』はつぎつぎに摘発され、血の粛清裁判を直接指導したヴィシンスキーは、被告の自白だけで断罪したという理由で槍玉にあげられている。いっそう弱体な政権を持つ東欧諸国の動揺は、一九五三年六月の東独労働者の反乱直後の大混乱を思わせ、小スターリンとして絶対権力をふるってきた輝かしい小巨頭たちが、『八方から非難攻撃を受け』、つぎつぎに、まるで古雑巾のように見捨てられている。それと同時に、ソ連をはじめ緩和政策が争って宣言され、ポーランドでは政治犯を含む十万の囚人が釈放ないし減刑されるというし、ハンガリアやアルバニアでは大衆の消費生活への広範な譲歩が発表される。フルシチョフ―ブルガーニン―ジューコフの新三頭政治が厳然と登場して、消費材生産の代わりに重工業、自由の代わりに団結、生活緩和の代わりにいっそうの耐乏生活を宣言したあのスローガンの厳めしさは、全戦線にわたり引っこめられるという退却ぶりで、むしろ壮観でさえある」
 「いったいこの『スターリン崇拝』は、現在スターリン批判を上から指導している当のひとたちが、過去三十年間スターリンともども国家権力と血の粛清によって築きあげてきた膨大な特権体制の集中的象徴ではなかったろうか。その大事な象徴を自分の手で、上から叩き壊すという危い芸当を演じねばならなかったこと、しかも大衆からは何の抵抗もなかったどころか、(グルジアの戸惑った学生デモは別として)逸早く大衆の『行き過ぎ』に警告しなければならなかったということは……この『スターリン崇拝』が労働者大衆の中に根をおろしていなかったこと、大衆は嫌悪と憎しみをもっていて、この鬱積した反発のバロメーターが危険なほどはねあがったためではないだろうか。上からの批判は下からの批判を力づけ、誘発しないではおかない……プロレタリア民主主義への熱意が鬱積しているこの労働者国家と東欧共産諸国に、どんな事態が起るかわからない。大衆は当然この恐ろしい不当裁判のいっさいの真実の公表を要求しこの三十年間に起った国内的・国際的事件に関するいっさいの真実の公表を迫るだろう……保守的で有名なアメリカ共産党さえ、四月一日の党機関紙『デイリー・ワーカー』の社説で、『われわれはハンガリアとソ連における調査を完全に、全面的にやること、不法行為にたいする責任者は、たとえどんな高い地位にあるものでも、これを糾明することを要求する権利をもっている』と叫んでいる……」(一九五六年六月号「社会主義」誌所載)〔上巻に収録、一二二頁以下〕
 スターリン時代の歴史的真実への糾明と吟味詮索はいま、連鎖反応のはずみをもってあらゆるところで党のいろんなレベルで進行していた。ソビエト共産党の指導者たちは、「チトー主義的裏切者」として処刑されたライクやコストフを復権することなしに、チトーと決定的な和解にたっすることはできない。スランスキーとクレメンティスも復権しないで、ライクとコストフを復権することは不可能である。チェコスロヴァキア、ハンガリア、ブルガリア、その他のいっさいの裁判と「自白」の無効を宣するためには、これらの裁判と「自白」の基礎となったモデル、一九三〇年代のロシアの粛清裁判の無効を宣言しなければならない。かれらはこれらの裁判の犠牲者を、「裏切り者」と「人民の敵」トハチェフスキー元帥やかれとともに処刑されたすぐれた将軍たちはいうまでもなく、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリン、ルイコフ、トムスキー、ラコフスキー、ラデック、その他多くの犠牲者を復権させねばならない。いや、一握りの指導者たちばかりでなく、処刑されたり、強制収容所で死んだりした、何十万ともしれぬ党員たちの裁判による殺戮という、呆然自失するほどの次元の大問題があって、犠牲者の家族や友人たちは、真実と死後の公正な裁きを喧ましく要求していた。
 先に述べた破門・除名の異端チトーの復権と、フルシチョフの「秘密演説」は、世界を揺るがせた。全世界のスターリニスト指導者たち、ことに東欧の傀儡共産政権の小スターリンたちは、いっさいの権威を剥ぎ取られ、政治的、イデオロギー的武装を解除されて、かれらの民衆の憎しみと侮蔑のまえに素裸で立たされた。
 ポスナンの暴動とポーランド・ハンガリアの革命 最初の爆発は、四月末に書かれたあのわたくしの小文が雑誌に発表されて間もない六月二十八日、ポーランドの工業都市ポズナンで炸裂して、ポーランドとハンガリアの革命を誘発し、英仏両軍のスエズ攻撃、そしてロンドンにロケット弾を打ち込むというフルシチョフの劇的な最後通牒となった。だが、複雑混迷をきわめた東欧の反乱については、ドイッチャー氏の明快な分析と解明をきくことにしよう。
 「ナポレオンにたいするヨーロッパ諸国民の、一八一二年―一三年の反乱――革命の特徴と反革命の特徴が結びついた反乱――以来、ポーランドとハンガリアを震憾させ、東欧全体を震動させたあの反乱ほど混乱した、絶望的な民衆の反乱を、ヨーロッパはいちども見なかった」
 「十月事件の背景は、ポーランドでもハンガリアでもほとんど同じであった。両国ともにスターリン神話の爆破とスターリニスト的警察の恐怖《テロ》の崩壊が、政府当局の非スターリン化ののろくささと煮えきらなさにじりじりして、スターリン時代と即時徹底的に断絶せよと迫る、広範な民衆勢力を動き出させた。ポーランドでもハンガリアでも、運動は最初は控え目だったが、しだいに規模と勢《はず》みが増して、ついには全国的なスケールになった。どちらの国でも、ロシアの衛星国の役につき落された国民の傷つけられた威厳が、強烈に自己を主張し、その権利を要求した。だが、ポーランド人もハンガリア人もともに民族解放と政治的自由のために闘い、ロシアが自分たちを支配してきた傀儡的なスターリニスト的警察国家にたいして反対した。かれらはまたかれらの消費者的利益を工業化と軍備のために犠牲にして、かれらを耐えがたい不幸に突き落した経済政策にたいして反乱した」
 「両国の民主主義的感情の昂揚、政治的自由への熱望、そして経済的窮境にたいする絶望は、労働者、インテリゲンチャ、学生、公務員、将校、またおびただしい数の旧ブルジョアジーの生き残りたちにとって共通だった。両国とも、いっさいの社会的相違と分裂は、当面、権力にしがみついているひと握りのスターリニスト頑迷派にたいする人民一般の、あらゆるものを巻き込むたったひとつの敵意に、完全に圧倒されていた。頑迷派さえ政治的に武装解除されていた。ところで、かれらを武装解除したのは、ほかならぬフルシチョフであった。二十回大会でのかれの演説後、かれらは追放された偶像と汚された教会の高僧として、国民のまえに裸で立っていた。かれら自身、発作的にその偶像を打ち壊し、教会を穢していた非スターリン化を説いてである。非スターリン化を説くことによって、かれらは下から盛りあがってくる一般民衆の運動に、反乱のスローガンと旗印と、道義《モラル》の武器を提供していたのである」
 「非スターリン化は、その最初の段階で、一般民衆の反乱に合法の衣をあたえ、反乱のさまざまな流れや逆流を隠した。共産主義者も、レーニン主義者もカトリック信者も、社会主義者も保守主義者も、みんなおなじイディオム――非スターリン化のイディオムで話した。しばらくのあいだは、みんな新しい指導者への熱狂で統一されているようにみえた――新しい指導者、ふたりともスターリン時代の民族共産主義者であり、殉教者であって、その名がロシアの支配とスターリニスト的警察国家にたいする反対のシンボルとなっていた。ポーランドのゴムルカとハンガリアのナジへの熱狂で」
 「だが、この外面的には調和した反スターリニスト運動の内部では、最初から、二つの別々の流れが現実に、または潜在的に相対立していて、共産主義者と反共産主義者のあいだに激しい、ただ部分的にだけ公然の闘争がつづいていた。分裂の一線は共産党の党員と非党員とのあいだにだけ引かれていたと想像してはならない。分界線は党そのものを貫いていたが、その党は過去十二年間、正常な場合、選択がゆるされたら、社会民主党の指導にしたがったにちがいないものや、右翼の教権主義政党か国家主義政党に加盟したようなものをも抱えていた」
 「共産党がスターリニスト的一枚岩であるかぎり、これらの相違もほとんど問題ではなかった。これらの相違は表現の機会をもたなかったからである。いまや党は、もはや昔の一枚岩ではなかった。そのため共産主義と反共産主義とのあいだに激しい抗争――意識的な、またはただ本能的だけの――が党そのものの中心で発展しはじめた。党の外部では、反共主義はおびただしい数の有力なカトリック聖職者をもち、農民やインテリゲンチャの大きな部分の感情、都市ブルジョアジーの生き残りたちが抱いている希望をもっていた。新しい反スターリニズムは、非党員たちにも、労働者、インテリゲンチャ、官僚の仲間たちにもうったえた」
 「だが、ハンガリアとポーランドのあいだにもまた重大な相違があった――そしてこれらの相違がこの二つの国の闘争の大きくちがった結果を決定するのである。ポーランドでは、スターリニズムの全盛のときでさえ、反スターリニスト的共産主義がハンガリアとは比較にならぬほど強かった。ポーランドの共産主義者、ことに旧い世代の共産主義者は、スターリンが一九三八年ポーランド共産党を『トロツキストのスパイの巣』だと非難して全部解散させ、ピルスツキ元帥の牢獄と強制収容所からモスクワへ逃れてきた党指導者を、ひとり残らず銃殺してしまったことを、内心けっしてゆるさなかった。一九五〇年―五三年にさえ、ワルシャワの共産党指導者たちは、あらゆる狡智を使ってスターリンを欺き、ハンガリアのライクやチェコスロヴァキアのスランスキー式の裁判をおこなうことを回避した。そのおかげでゴムルカは生きのびて、他日闘うことができたのである。(この年の初めに死んだポーランドのスターリニスト指導者ボレスワフ・ビエルツの書類の中に、かれがポーランドの粛清裁判をやれというスターリンの執拗な要求を無視するように、部下の党員たちに強く要望した文書が発見された〔ビエルツは一九四四年ポーランド人民共和国の政府の成立とともに大統領となり、ついで首相、ゴムルカの失脚後統一労働党の書記長となり一九五六年三月十三日に死亡〕)」
 「マチャシュ・ラーコシ〔ハンガリア労働者党、つまり共産党の第一書記〕とその仲間がかれらの国の非スターリン化を全力をつくして抑制し、遅らせたのとは反対に、ポーランド共産党の活動家たちが非スターリン化をいちばんしっくりした仕事として、安堵し、歓喜しながら受けいれたことはすこしも不思議ではない。ポーランド共産党カードルたちは、全体としてつねに一般民衆の気分に敏感で、ずっとかれらと接触していたが、ハンガリアのかれらは大衆から切り離されていて、かれらの国の政治的感情の大きなうねりには馬耳東風をきめこんでいた」
 ポズナン暴動の発火点となったジスポ工場は、六月二十八日の暴動勃発事件の何週間も前から、労働者たちの秘密討議の会場となっていた。
 一九五三年来二回のノルマ引上げで労働生産性は向上したのに賃金控えおき、前年末の給与規制その他で労働者の生活条件は一段と悪化し、五月以来工場はスト状況だった。下部共産党員の企業委員会が討議を指導し、六月二十五日、直接政府と交渉のため代表団を首都に派遣、関係閣僚をつれて帰ったが、明確な回答が得られず、ポズナン全企業部門の大会討議の決定によって、六月二十七日早朝の街頭デモを決行した。デモは整然とおこなわれたが、国家警察本部前まできたとき、警察隊の発砲に怒ったデモ隊は警官隊と衝突、激昂した群衆は警察や刑務所を襲撃した。鎮圧命令をうけたポズナン駐屯軍隊の兵士は発砲を拒否、銃をデモ隊に渡すものが続出した。政府は士官学校生徒を使って暴動を鎮圧し、暴動は帝国主義のスパイの仕業だと非難しながら、機械工業相と自動車工業相を罷免し、ポズナン労働者から、「不当に徴収した」税金を返却し、経済的、政治的改革をおこなった。
 「ポズナンの六月暴動は、ポーランド共産主義者にとってタイムリーな、健全な警告であった。それはかれらに、かれら自身の支配的グループと労働者階級とのあいだにポッカリ開いた深淵を気づかせた。この暴動によってかれらは、もしも自分たち自身、共産主義者自身が、スターリン時代と急いで、徹底的に手を切らなかったら、ポーランドの非スターリン化は反共産主義者たちによって自分たちに向けられるかもしれないことに気づいた。だから、ポーランド共産党は、ポズナン暴動を□実にして締めつけを強化したりなどしなかった。反対に、党は民主化を押しすすめ、支配者たちと被支配者たちのあいだの深淵をせばめることに努力した」
 「ポズナン以来、ポーランドに生じたはるかに重要な発展は、工場労働者のあいだに起った『工業の非スターリン化』のための強力な運動であった。十月に決定的な役割を演ずることになる、この本質的に共産主義的な運動の主要な基盤は、ワルシャワの諸工場、ことにゼーランの郊外と、シレジアとドンブローワの鉱山と製鋼所だった。この運動に生気を吹きこんだ精神は、ロシア革命の初期、ペトログラードとモスクワのボリシェヴィキ大衆を鼓舞した精神に近かった。ポーランドの労働者たちは、インテリゲンチャの非スターリン化と民主化の呼びかけを、素早くかれら自身の特定の工業関係の要求に翻訳した。かれらにとって民主化は、何よりもまず第一に、『労働者による工業の直接管理』と、労働者の必要と権利を踏みにじってきた、官僚による過度に中央集権化された経済独裁の廃止であった。最初、党指導者たちはこの運動と、これが国家経済計画にたいする潜在的挑戦を、危惧の眼で見た。だが、運動は不可抗的な力をもっていたので、かれらはそれと和解した。この運動は、非スターリン化のための、でき合いのプロレタリア階級の基盤といったものをつくりだした。」
 「ポズナン暴動までは、インテリゲンチャが非スターリン化運動を指導した。だが、それ以後は労働者が前面に出てきて、運動の重みは大学の講堂や文学サークル、編集事務所からすっかり工場に移った。これらの工場は、スターリンがポーランドに押しつけていたあの“上からの革命”が、使い果たされて、おそらくまさに崩壊しようとしていたちょうどそのとき、発展しはじめたあの下からの、本物の革命といったものの舞台となったのである。ここに十月危機中のポーランド共産主義の力があった。労働者たちは、いまやはじめて共産主義の約束はやっぱり実現されるのだ、自分たちは自分たちの工場の主人となるのだ、『労働者の国家』という言葉は空念仏ではなくなるかもしれないと感ずるようになった。そして、新ゴムルカ指導部はこの計画を遂行する考えなのだと考えて、反共産主義の攻撃に対し、この指導部を支持しようとしている。ゴムルカは、自分が、そしてまたポーランド共産党が生き残るため、最善のチャンスは、まさしくこの新しく生れたポーランド労働者階級の本来の力にあるのだと、気づいているようである」。十一月十五日の論文で、氏はこう断じている。
 ポズナン暴動から九月にかけて高まった一般民衆の圧力はポーランド国防相としてモスクワのポーランド支配を象徴する立場におかれたロコソフスキー元帥個人に集中された。党指導部は分裂した。情勢を収拾するため、騒然たる中で十月十九日、中央委員会が開かれた。
 同じ十九日、フルシチョフは六月初めに外相を追われたモロトフとカガノヴィッチの両頑迷派代表と、自由派代表ミコヤン同道、急遽ワルシャワに乗り込んだ。ポズナン以後騒然たる状況の中で、ゴムルカが「逆のケレンスキー」の役割に追い込まれ、反革命に道を開くことを恐れたからである。十二月二十一日ロコソフスキー元帥が党常任幹部会を去り、一九五一年から五六年四月まで、チトー主義者として投獄されていたが、いまは釈放されて衆望の的となっていたゴムルカが、オハブに代って党書記となったことが発表された。フルシチョフは、自由化の即時停止を迫り、ソ連軍の武力干渉をもっておびやかした。ゴムルカは、もしもソビエトが軍部クーデターをそそのかしたら、われわれはワルシャワの労働者を武装させてそれに対抗するであろうといって、逆にフルシチョフを脅迫した。またかれは十月二十二日、首都に学生や市民の反共デモが起ったときも、軍隊や警察でなく、ワルシャワの労働者を送って解散させた。「こうして、ゴムルカは、国境に軍隊を集結してのソビエトの干渉の危険をひとまず回避し、反共産主義的暴発を抑えた。ソ連の干渉の脅威にたいして、かれが断固とした行動をとったことによって、ポーランド共産主義は槐個だ、ポーランド国民の民族的熱望とは永久に対立しなければならなくされているロシアの傀儡に過ぎないという非難と汚名から、党結成以来いまはじめて解放されたのだった。いままで民族的利益と威厳を主張する場合、いつも反共産主義者にたよらなければならなかったポーランド国民もまた、はじめてポーランド共産主義を、かれらの民族独立の熱望を担う真正の代表と見ることができた。フルシチョフはゴムルカと協定にたっすることができた」。ロコソフスキー元帥の罷免については、本書『現代の共産主義』第三部「ワルシャワの評決」を参照されたい。
 こうしてポーランドではゴムルカが、「逆のケレンスキー」の役を拒否したのに、ハンガリアではナジが最後までその役を演じた。東欧諸国でも指折りの頑迷なスターリニスト独裁者ラーコシ一派は、粛清裁判や政治警察によってスターリニズム的正統を最も忠実に固守してきた。ポズナン暴動とそれにつづくポーランド反スターリニスト運動の昂揚は、ハンガリア、ことにブタペスト市民に大きな衝撃をあたえた。首都の作家クラブのペテフィ・サークルが反スターリニズム運動の先頭に立った。この民衆の激しい反発にあって、独裁者ラーコシは七月党書記を追われて、エルノ・ゲロがこれに代わった。十月六日には、一九四〇年代米にチトー主義者として処刑されたライクが復権され、改めて盛大な埋葬式がおこなわれた。だが、一般民衆のこの激しい反ラーコシ運動にも、共産党員の大きな重要な部分が時を失せず、溶けこんで、一体となることはついになかった。ゲロの名はいぜんとして一般憎悪の的ラーコシ時代を象徴する代名詞になっていたにもかかわらず、ゲロは十月六日事件後も党首であった。ロコソフスキー元帥を追放した十月二十一日のポーランドの勝利は、ハンガリアの反体制運動に強烈な衝撃をあたえ、二十二日、首都の学生とインテリゲンチャは大会を開いて、前首相ナジの首相復活とソ連占領軍の撤退を要求した。翌二十三日、かれらのデモ隊はブダペスト放送局に現われて、かれらの要求の放送をもとめた。保安警察は代表者を逮捕し、群集に発砲し、こうしてハンガリア革命は爆発した。革命が誘発されて共産党を押し流した後になって、はじめて党は、激昂した群集の要求に押されてナジを首相の座に呼びもどした。だが、このときすでに首都ブダペストは内乱の戦場と化していた。ナジはこの国民的熱狂の波に乗り、共産主義者も反共産主義者もひとつになって歓呼してかれを迎えた。だが、この熱狂の波では、最初から反共産主義の流れが共産主義の流れよりもはるかに強力だった。「ハンガリア共産党の弱さと孤立感は、最初の発砲後、パニックに陥って、ソビエト軍の救援を求めたことにはっきり現われている」と、氏は断じた。


つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる