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内戦前夜のハンガリアの社会的、政治的勢力関係もまた、ポーランドのそれとは非常にちがっていた。ポーランドのそれに比較できるほどの「工業の労働者管理」とか、共産主義的な「下からの革命」のためのアジテーション、共産主義体制に新しい力をあたえ、「プロレタリアートの階級的基盤」を見いださせるための、そうした煽動活動は発展しなかった。学生と軍の将校がイニシャティヴを取り、労働者はそれに従う。これが首都ブダペストの状況のようであった。 地方では、東北部のミシュコールツと西部のショールが反乱の二つの中心となった。両市とも、共産主義者と反共産主義者が積極的に活動し、たちまち衝突した。ミシュコールツでは、反乱者はマルクス=レーニン主義の言葉で国民に呼びかけ、プロレタリア国際主義の名でソビエト軍の撤退とハンガリアの主権回復を要求した。一方ショールでは、最初は共産党員アティラ・シゲティが反乱者を指導したが、間もなく聖職者を主力とした反共産主義者が優勢になり、ショール市の闘争スローガンはもはや非スターリン化ではなくて、「共産主義を打倒せよ!」だった。 「共産主義的反乱者が同志ナジの訴えに応じて武器をすてる用意をし、戦友たちにもそうすることを要求したとき、反乱陣営の分裂は頂点にたっした。それまでに、信心深い農民たちが蜂起し、全勢力をあげて反共産主義者に味方した。ポーランドでは、農民はポズナン暴動から十月動乱までの危機のあらゆる段階をとおして、ずっと消極的だった。これがポーランドとハンガリアの決定的な相違のひとつであった」 ナジのスポークスマンたちは、「きみたちにおねがいする、殺戮をやめてくれ。きみたちは勝利したのだ。きみたちの要求は全部容れられた」と必死になって放送したが、むだだった。反共主義的反乱者たちはそれには耳もかさず、反乱が地方に拡大するにつれて、賭けをつりあげた。「共産主義打倒!」の叫びといっしょに、いっさいのソ連軍を即時撤退させよ! の叫びがあがった。この要求は、ソビエトの武力干渉に逆上した国民の情熱を燃えあがらせずにはおかないと同様、およそ受けいれられがたいものでもあった。 「反共主義の高まりは、全世界のひとびとにきこえるように、全首都の教会の鐘を打ち鳴らして、その響きを放送しながらの、ミンゼンティ枢機卿のブダペスト入りで盛大なクライマックスにたっした。一九四八年、反革命の科で逮捕され、五五年七月に仮釈放されたミンゼンティ枢機卿は、反乱の精神的頭首となった。枢機卿の一言は、いまやナジのいくつもの訴えよりも大きな重みをもった。伝統的な革命では、政治的イニシャティヴは急速に右から左へ移るのに、それ以上に急速に左から右へ移っていった。何年かまえに弾圧されたいろんな政党が急に復活した。強大な小農民党もそのひとつだった。共産党は崩壊した。党機関紙は出なくなった。反乱した党員はロシア車の戦車やハンガリアの反共主義者たちの手で殺された。かつての指導者ゲロも殺された。党の無力な首相は、反乱の暴風雨《あらし》に屈し、反共主義者のあらゆる要求を残らず受けいれて破局を回避しようとしたが、ついに十月三十日、単一政党制の終りを宣言して、共産党が多数を占めない連合政府の首相になることに同意した。これは共産主義体制の終末を意味した。そしてロジックの当然の帰結として、十一月一日にハンガリアの中立を宣言し、ワルシャワ条約機構からの脱退を声明した。いまやかれは現実に、『逆のケレンスキー』であった。」 「ポーランドとハンガリアの事件がモスクワを、スターリンの死後最も重大な危機にみちびいたことは疑いない。ソビエト支配グループが割れていたことは、主な三派の指導者、頑迷派のモロトフ、カガノヴィッチ、『自由派』のミコヤン、中道派のフルシチョフの一団が、そろってワルシャワに乗り込んできた、あのポーランド危機中にさえ見られた」(一九六八年のチェコスロヴァキアの危機に、クレムリン官僚が散々もたついたあげく、総勢でチェコスロヴァキアの国境近いチェルナへ乗り込んだときのことが、まざまざと思い出せるではないか!)。フルシチョフは最初は頑迷派に味方して、武力を行使するか、または武力行使で嚇しつけるつもりだった。その威嚇が失敗し、ポーランドの騒動もけっきょく共産主義体制を危くしないことが判明してから、はじめてフルシチョフは新しい情勢に甘んじたのだった。モスクワでは「自由派」が勝利した。 「だが、ハンガリアの蜂起はたちまちこの分裂を激化した。ブダペストでは、ミコヤンがゴムルカの現地の公使の協力や、国境のかなたからのチトーの訴えに助けられて、ソビエト軍の撤退を交渉しており、モスクワ政府は事実上撤退を約束し、他の諸国を衛星国として扱ってきた誤りを告白する十月三十日の声明を準備していた。ところが、ジューコフと外相シェピロフは、十月二十九日、ハンガリア反乱が鎮圧されるまでは、ソ連軍は撤退しないだろうと声明した。ソビエト軍の長官と外相は、他の党指導者たちとの意見の相違をわざわざ公表していたろうか?」 「ソ連軍は、もしもモスクワにおける意見の割れた会議と、矛盾した命令によって妨げられなかったら蜂起の当初、十月二十四日と二十七日のあいだに、いっそう大きな精力と決意をもって行動することができたかもしれない、と想像することができよう。軍は十月三十日、ブダペストから撤退のふりをしたが、それはおそらく幹部の『自由派』からの圧力に押されてそうしたのだろう。『自由派』は、そうすればナジはゴムルカ体制のように、ソビエト・ブロックと提携した民族共産主義体制を樹立することができるだろうと考えたのである。この希望は、それから二、三日後に、ハンガリア共産党の崩壊が明らかになり、ナジがワルシャワ条約を非難したとき打ちこわされてしまった」 「モスクワの『自由派』は大敗北を喫した。スターリニズムの頑迷派と軍が政策を命令した。しかも新しい、いっそう大規模な干渉を命令した。おそらくモスクワではだれひとりナジを擁護しようとする願い、それとも勇気をもたなかったろう。ナジの政府はじき、公然たる反共主義体制にとってかわられることは必至と見られたからである――ソビエトの干渉がなかったら。いまや危険に瀕しているのはハンガリアではなくて、東ヨーロッパ、ドイツ、そして全世界におけるロシアの地位全体であった。ハンガリア共産主義の崩壊は、あらゆるところで反共産主義的圧力を百倍も増大するだろう。したがって、幹部会は、ハンガリアにおけるソビエトの新しい干渉を、おそらく全員一致で是認したろう……」 「ハンガリアの悲劇は、スターリンの死後ロシアに起ったさまざまな変化の直接の結果であった……フルシチョフが二十回大会でスターリンの神話を打ちこわしたとき、その後間もなくハンガリアの反乱者たちがブダペストの中心でスターリンの像を引き倒しているだろうなどとは夢にも思わなかった。かれはそれと知らずに、共産主義とソ連軍にたいする反乱に転化したハンガリア反乱の鼓舞者となった。この二つのでき事、フルシチョフがおこなったスターリン神話のイデオロギー的破壊と、ハンガリアのスターリニズムにたいする反乱とのあいだには、密接な関係がある。スターリンの後継者たちは、かれらが継承した政治制度を合理化し、自由化しようとした。そしてスターリン恐怖政治の膨大な機関を取り壊し、政治警察の背骨をぶち砕き、粛清とスターリニスト的強制収容所の恐怖を廃した。労働者に課していた工業規律の厳しさを緩和し、一般民衆の平等への熱望、スターリンが暴力的に窒息させていたこの願望を、ある程度まで満足させようとした。またいっそう自由な知的風土が発展することをゆるし、鉄のカーテンをある程度開けた」。「スターリン時代の遺産はまだ、新しい時代の上にずっしりのしかかっている。が、それにもかかわらず、ソ連はオーウェルが『一九八四年』で描いた全体主義的社会とは非常にちがいはじめている。わたくしたちはそれが変化し、進化し、改革される社会であることを見てきた。ハンガリアの悲劇は非スターリン化が深刻にリアルなものであったからこそ可能だったのである。このことは、この悲劇をいっそう大きなものとし、またハンガリアに劣らずロシアにとっても真の悲劇としている」 「ソ連では、非スターリン化はそれまで、あらゆる段階で上から規制され、当局によって統制された徐徐の改革として進められてきた。統制がきかなくなったことはいちどもなかった。ソビエトの大衆のあいだでは、政府から譲歩を勝ちとるとか、体制と社会秩序をおびやかすとかいう目的で、下から起った全国的な規模の自然発生的な運動はひとつもなかった。まず第一に、十月革命以来四十年たった〔一九五六年十一月当時〕ソ連の社会秩序は、いまでは充分に安全な基礎に立っている。そのうえ、三十年間の全体主義的統制のもとにあったいまもソビエト国民は、基底にどんな独立的な運動もつくりだしえないでいる。いままでのところ、ソビエト大衆はスターリニズム的正統のかつての守護者と祭司たちが、この正統を破壊するのを見守ることで満足している」 「だが、共産主義体制がまだ十年もたっていない他の東欧諸国では、事情が非常にちがっている。体制の基礎は固まっていない。大衆は、自然発生的な政治活動をやる能力をまだ失っていない。あちこちの国でスターリニスト的政治警察が全能的権力を剥奪されて、恐怖心を起きせなくなった瞬間に、反スターリニスト的大衆運動が下から生れた。運動は、ソビエト支配打倒! スターリニスト体制を根こそぎ廃棄せよ! 官僚の特権と権力打倒! 新しい特権を破棄せよ! などといった、わずかの単純な考えや、ちょっとした鮮烈な感情によって鼓舞された。ポーランドでもハンガリアでも、非スターリン化はもはやあらゆる段階で、上から慎重に統制され、指導された改革ではなかった。反対に、権力を握っているものたちから権力奪取を目指す大衆の、爆発的な反スターリニスト運動であった……ポーランドはロシアに対して反乱したが、いぜんとして共産主義であった。ポーランドは銃剣を追い払ったが、革命は維持した。さらにポーランドでは、下からのプロレタリア革命といったもの、共産主義体制をスターリニスト的影響から解放し、その性格を変えるために、それを継承した革命といったものが発展していた」。ハンガリアの事情はちがっていた。ここでもまた反スターリニスト反乱は、最初共産主義によって鼓舞され、革命を拒否でなく、復活させようとした。だが、ついで革命は共産主義者の手からかれらの敵の手にわたった。共産主義革命を改革しようとして始められたものが、後には――大部分ハンガリアとソビエトのスターリニストの挑発の結果――共産主義と反共主義とのあいだの闘争に発展した。「ハンガリアは事実上ロシア革命を、それをもたらしたロシアの銃剣もろとも拒否した。だが、このハンガリアの反革命は、たいていの反革命とはちがって、民衆に対抗して自分自身の権力を防衛する、孤立した、憎しみの的となった有産階級の仕業ではなかった。絶望と英雄的な熱狂に駆りたてられたハンガリア国民は、時計を巻き戻そうとし、モスクワはその銃剣でもういちどハンガリアの共産主義革命を巻きなおそうとしていた、時計そのものがすでに壊れていたのに、ということができよう」 「三十年ほどまえ、共産主義を武力によって外国の国民に押しつけるという言語道断な試みにたいしてトロツキーが共産党に警告して、次のようにいったことを、ここで思い出してみるのは筋違いではないだろう。『銃剣の先で革命を国外に輸出したいと思うものは、すべて、首に石を結びつけて海に投げこまれるほうがいい』。スターリンはこの警告に耳もかさないで、その石をかれの後継者たちに残した。いまわれわれはそれがフルシチョフの首に吊るされているのを見るのである」 「ポーランドとハンガリアの革命はソ連邦を震憾させた。だが、スターリニズムを再建することができるとは信じられない。そうしようという試みがすでに二度までなされた。最初は一九五三年六月のベルリン反乱後、ベリヤの没落のときであり、二度目は一九五五年初め、マレンコフが辞任に追い込まれたときである。両方の試みとも失敗して、ただ非スターリン化を刺激しただけである。ハンガリアとポーランドの衝撃はただ、おそらく多少遅れて、スターリニズムの腐朽と衰退を強化することしかできないだろう。ポーランドとハンガリアが、あまりにも少ないものをあまりにも遅くあたえてきた、不承不承の、一部欺瞞的な非スターリン化は、もはや充分でないということを明らかにした」 これが、ドイッチャー氏が一九五六年十一月に二つの論文で分析したポーランドとハンガリアの革命に関する評価であった。ハンガリア革命の悲劇の後日談としては、イムレ・ナジの親密な同僚とし同志として、反乱中最後まで終始かれと行動を共にし、反乱勃発一週間後の十月三十日になっても「わたくしはわたくしの友人イムレ・ナジと完全に一致している」とラジオで放送したカダルは、十一月二日に樹立された共産党が少数派のナジ連合政府に、少数閣僚として参加したにもかかわらず、この政権が内戦で崩壊すると同時に、ナジはユーゴースラヴィアの大使館に逃れたのに、カダルはソビエト本部に走り、やがてソビエト指示の新共産党政権の首相として登場した(十一月五日)。ナジ一派はハンガリアをソビエト・ブロックから引き離そうとしたという罪状によって、一九五八年六月、カダル政府の手によって処刑された。これに先だち、モスクワと北京を中心とした長いあいだの激しい論争が戦われ、ソ連共産党中央委員会や幹部の中にも、ナジの処刑に反対の強力な動きがあったことがはしなく露呈されて、一般にいまなお一枚岩視されがちなソビエト支配官僚が実は等質でもなければ一枚岩でもなく、重要問題についてはことごとに論争し、対立抗争をしていること、それはときとして権力争いとして激突にみちびくこともあり、したがって全体として時代とともに変化させられていくことを、ここでもさらけ出した。これは今日のモスクワ政権の(そしてまた北京の支配官僚の)性格と動向を知る上に示唆をあたえるが、いまここでそれにはいっていく余裕はない。 ソビエト戦車によるハンガリア反乱の弾圧は、世界中の共産党を激しく震憾させ、いたるところで深刻な論争と分裂を引き起し、世界共産主義運動を未曾有の危機に陥れた。それはみなソ連にはね返ったが、しかし非スターリン化の歴史的要求を長く阻止することはできず、ジグザグはかえってそれに新しい勢《はず》みをあたえ、一九六一年十月十七日から三十一日にかけて開かれた二十二回党大会で爆発し、基調報告の演説でフルシチョフは、トロツキーの名はただ一度ロにしただけで、非難めいたことはただの一言も発することができず、スターリンの恐怖政治を再び、こんどは公然と、激しく糾弾し、大粛清のきっかけとなったキーロフ暗殺事件の隠された真相をただちに究明するという(その詳細は内務省の極秘文書を見れば、何の手間ひまいらず、五分間で明らかになることだ)、二十回大会の秘密会での公約、五年間ほうりっぱなしにしておいた公約をまたくりかえして、「ハンガリアとポーランドの衝撃はただ、おそらく多少遅れて、スターリニズムの腐朽と衰退を強化するだけだろう」という氏の予見を実証するのである。が、こうしたその後の発展については、別の機会にゆずられねばならない。 ただ、昨年〔一九七二年〕ニクソンの中ソ訪問を転機に、にわかに活発となった中・ソ―米・日間の新しい関係の動向を知るために、スターリンの後継者たちの外交政策に一貫している新しい信念といったものと、また中国の林彪問題を考えるための示唆となるかと思われる、ジューコフ元帥の事件とに関するドイッチャー氏の見解を紹介したい。 「今日、ソビエト外交の一般的な目的は、国際的現状《ステータス・クオ》を維持することである」と、氏は一九五六年二月、二十回大会直後に書いた。「一九二〇年代、スターリンもまた国際的現状を政策の基礎にしていたが、ある意味でかれの後継者たちは当時スターリンがやったことをいましている。だが、大会は当然ながら両名の類似よりも相違にいっそう気づいている。三十年前には、現状は、はるかに優れた非共産主義国にたいする、弱くて後進的なソ連の孤立を意味した。当時はまだトロツキーとジノヴィエフは、共産主義が現状と和解するのは、自分の敵を利していることであると論ずることができた。ボリシェヴィズムは主として国内の『社会主義建設』にたよるべきか、それとも革命が早く国外にひろがることにたよるべきかという問題は、当時は真実のジレンマとなった。ソビエトの『社会主義建設』は極端に弱く不安定であり、外国の、ことにドイツと中国の共産主義は明らかに非常に強力だったからである。今日、そのような尖鋭なジレンマはモスクワを困惑させてはいない。現実的にも潜在的にも、今日の共産主義の主要な力は、ソビエト圏の外部にはなくて、内部にある。昔の論争は、新しい事実には的外れになった。スターリンの『一国社会主義』は過去の記憶に過ぎなくなり、ソ連が生き残れるか否かは、革命がひろがるか否かにかかっているというトロツキーの予言は、ある点では実現されたし、ある点では時代遅れとなった」 「しかも、一九二〇年代以来、世界共産主義はけっきょく資本主義に勝利するという信念の公然たる表明が、今日ほど本来の確信の力をもってモスクワから鳴り響いたことは、かつていちどもなかった。これらの公然たる表明の底には、トロツキー的な響きに似たものがある。一九二〇年代の中ごろ、ソビエト共産党とコミンターンは、トロツキーの批判にもかかわらず、西側の資本主義はある程度の安定に達したと推測した。今日西側の経済はブームの状況を呈し、完全雇用がつづき、ブルジョア的繁栄の神業は頭から否定するわけにはいかないにもかかわらず、この西側経済の現状についてそのような臆測はひとつもなされていない。この西側の長いあいだの『人為的に維持された』繁栄は、遅かれ早かれ一九二九年のスランプのように、惨憺たる崩壊におわらざるをえないと、モスクワは確信している」 「では、こうした予想や世界共産主義にたいする信念の表明は、外交での現状の防衛や平和的共存のスローガンとどう関連するだろうか?『歴史の流れ』は全体としての人類を、いろんな段階や逆流を通りながらも、けっきょく共産主義に向って押し流していくというのが、昔からのボリシェヴィキの公理でありマルクス主義の原則である。ところが、その『流れ』はかれらが十年、二十年前に予期していたよりも速く動いていて、そのベースを無理に速めようとしなければしないほどいいことを、かれらは過去十年のドイツや朝鮮、中国やインドシナで学んだ。ところで、国際革命の過程は、継続的ではなくて、はっきり切り離された二つのサイクルないし『波』をなして発展した。一九一七年―二〇年の第一の革命の波から、ボリシェヴィキ・ロシアは勝者として現れたが、しかし満身創痍、出血に蒼白となり、孤立していた。第二の波からは、中国革命と、重要性はそれほどではないが、東欧革命が生れた。革命の第二波もすでに消耗していた。第三波がやがてやってくることはもちろんであるが、いつやってくるかはだれにもわからない。第一波も第二波も世界大戦のあとにやってきた。第三波もまた戦争の大変動からしか生れないだろうか? 二十回大会はこの問いに否とこたえた。東と西との力の一般的均衡、第一に核の行き詰りは、アメリカの態度がいささか予言できないにしても、第三次世界大戦の可能性は強く反対に働く、とフルシチョフは論ずる。これが武力衝突は回避できるという『テーゼ』の意味である」 第三の革命の波は、第一波や第二波のように、必ずしも戦争による破壊から起る必要はなくて、ソ連圏、ことにソ連の経済建設の達成から生れるかもしれない。だが、経済建設の達成が実現するには時が必要であり、最も尖鋭な形の国際的階級闘争、世界大戦にみちびくような形の闘争からの長い「休息」が必要である。東西両陣営とも、こうした「休息」から利益を得られよう。だから、両陣営ともこの「休息」を維持し、無期限に引き延ばすことに共通の利益をもっている、とソビエトは考える。ソビエト政策はこの共通の利益にうったえる。この問題に関するソビエトの声明がいろいろ変るにしても、水爆の時代には武力衝突は両陣営を絶滅をもって脅かすがゆえに、いっそう執拗にこの共通の利益にうったえる。 ところで、ソビエトの指導者たちは、この休息の使い方についてはっきりした考えをもっている。「西側の、というよりもむしろアメリカの原爆と水爆の独占を破ったかれらは、かれらの自由になる時を利用して、西側がまだもっているもうひとつの、おなじように決定的な独占――高い生活水準の独占を打ち破ることを計画している。この独占を、この独占の利点を、全力をあげて防衛することは西側の仕事でありソ連がこの問題で西側に挑戦することは当然である。とかれらは論ずる。これが平和共存における『平和的競争』の意味である。」 二十回大会が是認した新五ヵ年計画は、西側のこの最も重要な独占を打破するための闘争におけるひとつの里程標である。「この闘争はさらに十年、二十年を要するだろうが、それが達成したあかつきには、大衆に高い水準の生活と教育を提供し、テロ手段によって気のすすまぬものに自分を押しつける必要がない共産主義の魅力は、圧倒的で、ブルジョア秩序はこれに効果的に抵抗することはできないだろうと、ソビエト指導者たちは期待しているのである。」 |
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