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クレムリンの平和攻勢は世界革命の政策をおし進めるための方便にすぎない、と言うものがある。とんでもない買いかぶりである。スターリンは、一九二四年十月、「一国社会主義」を唱え出したとき、世界革命の綱領は放棄したのであって、それ以来、世界革命の立場にたつトロツキーと死闘をつづけてきたのである。膨大な特権を独占している独裁官僚の最大の関心は、この特権を失わないことである。ソ連の勤労大衆の革命的蹶起は、独裁官僚をその途方もない特権もろとも、真先に一掃してしまうであろう。国内大衆の革命化ばかりでなく、他の国の革命も、巨大な火薬庫と化しているソ連に燃えうつらずにはおかないことを、クレムリン官僚は知悉している。戦争もまたソ連の経済を混乱させるばかりでなく、革命を誘発する危険があるがゆえに、絶対に回避しなければならない。
 帝国主義、ことにアメリカ帝国主義の基本的世界政策は、失われた世界の三分の一を奪いかえすことである。世界の三分の二で帝国主義を維持しようというのは、完全なユートピアであり、ソ連圏を包囲する基地線は、アメリカ帝国主義が死活をかけているものである。一方、世界の労働階級は資本主義を廃棄して、社会主義を樹立しようとしている。前者は反革命的、後者は革命的に、世界の現状を打破しようとしている。ただクレムリン官僚だけが、世界の「現状維持」の擁護者となっているのである。「現状維持」の政治的スローガンは、「平和的共存」(帝国主義と社会主義との)である。クレムリンの目的は、帝国主義の打倒でもなく、労働階級の革命の援助でもなく、労働階級を「平和的共存」のスローガンのもとに動員し、その圧力を利用してアメリカ帝国主義と世界の現状維持のための #取引# をすることである。二十回党大会におけるフルシチョフ報告をはじめ、クレムリン巨頭たちの演説中には、階級闘争に関する言葉が皆無であることは、ちっとも偶然ではない。だが、帝国主義を世界の三分の二にとどめておくことがユートピアであると同様、労働階級を現状に満足させておくこともユートピアであるとすれば、「平和的共存」は徹底的に保守的なユートピアであって、現在のような激動の時代には水の泡よりも脆い。ハンガリー革命の武力弾圧は、何よりの証拠である。

 スターリニズムの基盤は、すでに見たように、ソ連の後進性と孤立であった。だが、今日、この条件は激しく変化した。まず後れた農業国だったソ連は世界第二の工業国となり、労働階級は、ホワイトカラーもいっしょにして四千八百万を数える。ソ連にはマッチ工場などは一つもないがゆえに、最も近代的な労働階級である。一人当りの生産率が低いのは、官僚的運営のためであって、直に労働者の質の低さを意味するものではない。しかも、その中青年労働者の率は非常に高く、ブルガーニンは一九五五年七月四日、党中央委員会総会で「工場労働者の約半数は青年である」と報告している。農民は啓蒙され、集団化され、機械化されて、国民生活の反動的な錘であった伝統的性格を失っている。重工業偏重と官僚的経営の混乱によって、消費物資はなお不十分ではあるが、昔日の比ではない。一方、六億の中国と東欧諸国を包含する大ソ連圏の出現は、帝国主義的包囲下の孤立から半ば脱け出させた。植民地革命の拡大もこの孤立を破っている。
 こうして、ソ連は未曽有の強大な国家となったが、それは同時にスターリニズム的官僚独裁の基盤が、国内的にも国際的にも急速に弱められていることである。現在のスターリニズムの空前の危機は、ここから発している。全東欧の激動と、ポーランドとハンガリーの労働者の政治革命の爆発はこの危機の直接の現れであって、この猛火はやがてプロレタリア民主主義の最大の火薬庫と化しているソ連自体にも燃えうつらずにはいないであろう。そうなったらどうなる? わたくしたちはいま、まことに壮大な時代のまえに立っているのである。
 第四インターナショナルの基本綱領となっている、『過渡的綱領―資本主義の死の苦悶』(一九三八年)の中で、トロツキーはきたるべきソ連の政治的革命の綱領をつぎのように規定している。
 「ソヴィエト連邦における新しい革命の高揚は、明らかに #社会的不平等# と #政治的抑圧# にたいする闘争の旗印のもとにはじまるであろう。官僚の特権を打倒せよ! スタハノフ主義を打倒せよ! ソヴィエト貴族とその位階と官僚を打倒せよ! あらゆる形の労働にたいして、いっそう平等な賃金を支払え! 労働組合と工場委員会の自由、集会の権利と出版の自由のための闘争は、ソヴィエト民主主義のための復活と発展のための闘争のうちに展開するであろう。
 「官僚は階級的機関としてのソヴィエトを普通選挙権の――ヒットラー=ゲッベルスの型の――作り話にすりかえてしまった。ソヴィエトに、その自由な民主的形態ばかりでなく、その階級的内容をかえしてやることが必要である。かつてブルジョアとクラーク(富農)がソヴィエトにいることをゆるされなかったと同様に、いまや #官僚と新しい貴族をソヴィエトから追い出すことが必要である# 。ソヴィエトには、労働者、平《ひら》の集団農民、農民、および赤軍兵士の代表しかはいる余地がない。
 「ソヴィエトの民主化は、ソヴィエト諸党を合法化することなしには不可能である。労働者と農民は、彼ら自身の自由な投票によって、彼らはどんな政党を、ソヴィエト政党としてみとめるかどうかをしめすであろう。
 「生産者のために、 #計画経済# を上から下まで修正せよ! 工場委員会は、生産管理の権利をとりかえさねばならぬ。民主的に組織された消費者の協同組合が、生産品の品質と価格を統制しなければならぬ。
 「そこに働く労働者の意志と利益にしたがって、集団農場を組織しなおせ!
 「官僚の反動的な国家政策を排して、プロレタリア的国際主義を樹立せよ!
 「クレムリンの外交文書を全部公開せよ!
 「秘密外交反対!
 「テルミドール的官僚によって演出された一切の政治的権利を、完全な公開、公然の論争、誠実をもって再審せよ。ただ被抑圧階級の勝利的反乱のみが、ソヴィエト制度を復活させ、社会主義へのいっそうの発展を保証することができる。ソヴィエト大衆を反乱にむかって導きうる党は、ただ一つしかない。それは即ち第四インターナショナルの党である。
 「カイン的スターリンの官僚ギャングを打倒せよ!
 ソヴィエト民主主義万歳!
 国際社会主義革命万歳!」〔本文庫I参照〕

 一九三六年八月十九日、第一回モスクワ裁判が開かれた。被告席には、ジノヴィエフ、カーメネフ、スミルノフ、ムラチコフスキー、エフドキモフ、テル・ヴァガニャン、バカエフ、ドライツァー等、レーニンとともに十月革命をおこない、ボリシェヴィキ党と第三インターナショナルを樹立した、指導者たちであった。検事席にあって、これを糾弾したのは、かつてはしーニンにたいする反革命的な、右翼メンシェヴィキだったヴィシンスキーであった。ヴィシンスキーは一年半以上もまえに殺害されたキーロフの暗殺を企図し、ヒットラーと組んでスターリンその他の官僚指導者にたいするテロ行為の陰謀をはかったといって、彼らを非難した。そして、ノールウェイに亡命していたトロツキーと彼の息子のセドフは、この陰謀の首謀者であるとして告発された。十六名の被告にたいし、公判はわずかに五日間だけで、六日目には「銃殺刑」が宣告され、二十四時間以内に死刑が執行されたことが発表された。
 第二回モスクワ裁判は、翌三七年一月二十三日に開かれ、ピャタコフ、ムラロフ、ソコリニコフ等、おなじくレーニンの戦友であり、かつてのボリシェヴィキ党指導部の精華であった人物たちが、おなじかつての右翼メンシェヴィキ、ヴィシンスキーによって、資本主義の復活、スターリン等の暗殺、日本やナチ・ドイツの帝国主義者との反ソ戦の陰謀を企図したといって告発された。その欺瞞と虚構の真相は、トロツキーの演説によって完膚なきまでにばくろされた。だが、旧ボリシェヴィキの精華たちは、第一回裁判の犠牲者たちと同様、直に処刑されてしまった。
 それから約一年、一九三八年三月、第三回モスクワ粛清裁判が開かれた。ルイコフ、ブハーリン、ラコフスキー等、卓越した旧ボリシェヴィキの幹部でレーニンの戦友であった人物たちが被告として裁かれた。ヴィシンスキーはいままでの裁判でも、官僚支配によってひき起された国内生産活動の混乱や、大衆生活の困難を被告たちに転嫁したが、こんどもまた、いろんな非難といっしよに、「馬の飼育を崩壊させようとして陰謀をはかった」などというような、途方もない非難と罵倒を浴びせた。そして、被告たちはソヴィエトの馬の性生活を混乱させるだけで満足しないで、「故意に豚に丹毒やベスト菌を注射した」と非難した。「たとえばゼレンスキーを見よ。わたくしはここではただ食料品、ことにバターにガラスのかけらや釘を混入するという最も忌わしい手段だけをあげておく。これはわが国民の最も重大な利益、つまり健康と生命に打撃をあたえるものであった。バターの中にガラスや釘をである! これこそまことに極悪非道な犯罪であって、そのまえには他の一切の犯罪も色褪せてしまう、とわたくしは考える。……われわれの国富と、ありあまるほど豊富な生産品にもかかわらず、物資の供給があっちこっちで中断されているのはなぜか、その理由はいまや明白である。その責任はこれらの裏切り者どもにあるのである。」
 メキシコに亡命中のトロツキーは、一九一八年の昔に、ブハーリンといっしょにレーニン暗殺の陰謀を企てたと非難された!
 被告たちは何らの抗議もせず、罪を「自白」し、そして直に銃殺されてしまったことは周知の通りである。
 これらの三つの粛清裁判が全世界の世論に深刻な影響をあたえたことは当然である。この深刻な世界的世論を代表して、一九三七年、アメリカ自由主義の長老ジョン・デューイ博士を委員長とする、「モスクワ裁判において、トロツキーにたいしてなされた非難調査委員会」なるものが結成された。委員は、つぎのような国際的に著名な人物たちによって構成された。
 ジョン・R・チェンバレン 著述家、ジャーナリスト。『ニューヨーク・タイムズ』の元文学評論家、コロンビア大学等の前講師、『土曜文学評論』の副編集者。
 アルフレッド・ロスメル 著述家、労働問題関係のジャーナリスト、第三インターナショナル執行委員会委員(一九二〇―一九二一年)、第三インターナショナル第二回大会幹部会委員、『ユマニテ』の編集長(一九二三年―一九二四年)。〔著書『レーニン下のモスクワ』柘植書房)参照〕
 エドワード・A・ロス 教育家、著述家。ウィスコンシン大学教授。『ロシア・ボリシェヴィキ革命』、『ロシア・ソヴィエト共和国』その他、経済学、社会学、政治に関する無数の著書がある。
 オットー・リューレ 著述家、『カール・マルクス伝』の著者。ドイツ社会民主党の前国会議員。一九一八年十一月のサクソン革命の指導者。
 ベンジャミン・ストルバーグ 著述家、ジャーナリスト。労働問題や文学関係の雑誌の編集者。アメリカ労働問題に関する著述にしたがう。
 ウェンデリン・トーマス 一九一八年十一月七日のウィルヘルムスハーフェン反乱の指導者。ドイツ独立社会党、ついで共産党の前国会議員(一九二〇―一九二四年)。日刊『フォルクスウィレ』紙(アウグスブルグ)の編集者 (一九一九―一九二二年)。
 カルロ・トレスカ アナルコ・サンジカリスト指導者。『イル・マルテロ』(ニューヨーク)の編集者。メサバ・レーンジ、ローレンス、ペーターソン等のストライキの指導者。サッコ、ヴァンゼッチの擁護運動の指導者。
 フランシスコ・ザモラ ラテン・アメリカの左翼出版者。『エル・ウニヴェルザール』(メキシコ)紙編集者。メキシコ労働総同盟全国委員会の前委員。
 スザンヌ・ラ・フォレット著述家、ジャーナリスト。『フリーマン』と『ニュー・フリーマン』の前編集者。
 委員会は、サッコ、ヴァンゼッチやトム・ムーニイの顧問弁護士としても、世界的に著名なジョン・F・ファイナティを顧問弁護士とした。
 委員会の活動は九ヵ月にわたり、いくつかの国々から蒐集された証拠文書は、すべて委員会の公式報告『無罪』の中に引用されている。これは一九三八年ハーパー社から、四二二頁の膨大な書物として出版された。
 一九三七年四月、委員会は調査の一部として、小委員会をメキシコ市郊外コヨアカンに派遣し、トロツキーの答弁を聞き、彼に質問し、彼が所有している証拠文書を研究することになった。同時に、アメリカ共産党、アメリカの指導的なスターリニスト的弁護士ジョセフ・R・ブロヅスキー、駐米ソ連大使トロヤノマスキー、メキシコ共産党、メキシコの指導的なスターリニスト的労働組合の代弁者ヴィセントー・ロンバルド・トレダノにたいして、この審問に参加するようにもとめた。だが、彼らはすべてトロツキーを反対訊問したり、ヴィシンスキーの告発を支持するような証拠を提出する絶好の機会を利用することを拒否した。
 コヨアカンにおける審問の逐語的報告は、一九三七年、『レオン・トロツキーの立場』という題名で、六一七頁の浩瀚な書物として出版された。審問は一九三七年四月十日から四月十七日まで行われた。わたくしがここに訳出したのは、この審問におけるトロツキーの最終弁論である。この審問は、第二モスクワ裁判後、第三モスクワ裁判の以前に開かれた。そのためトロツキーはこの演説で、第三回の裁判に触れることはできなかった。トロツキーはこの演説でこれらの裁判がスターリンの陰謀による完全なでっち上げ裁判であることを、完膚ないまでにばくろしているが、これはマルクスの『フォウクト氏』などとともに、革命家の法廷闘争の古典といっていいであろう。
 だが、トロツキーはこれらのモスクワ裁判の虚構と捏造裁判こそはスターリニスト的官僚独裁制そのものの本質的な要素であることを明らかにし、裁判の批判を通して、ソ連ならびに世界のスターリニズムの本質とその過渡的運命を明白にしている。本書はソ連と東欧の緊迫した性格を理解し、その発展の明日への展望を予測するための指針となるとともに、クレムリンの外交政策の本質を知る上にも、すぐれた鍵となるであろう。
 最後に一言つけ加えておかねばならないことは、激動する東欧において、チトーやゴムル力は当然ながら反スターリニズム的革命運動の指導者として、非常な信頼をはくしてはいるが、しかし彼らもまたかつてはスターリン主義者としてトロツキーに反対し、左翼反対派の弾圧を支持し、一国社会主義を唱導したのであって、今日でも本質的にプチ・ブル的なこの立場を放棄してはいないことを忘れてはならないということである。彼らは #民族主義的# 共産主義者と言われているが、その通りであって、そこに彼らの宿命的な限界があり、いま澎湃として起っている東欧労働者の革命運動の国際的性格とは、今後必然的に衝突せずにはいないであろうし、革命運動は彼らを乗り越えて進むであろう。
 周知のように、東欧諸国の国境は第一次大戦後、戦勝国の帝国主義的利害から勝手に、言わば鉛筆書きで、こまかく引かれたものであり、かつて華かだったころのフランスの帝国主義的政策の遺物であって、スターリンはヤルタ会談の闇取引で譲りうけ、分割支配のため武力をもって維持してきたのであって、東欧諸国の生産活動と国民生活は、人為的に設けられた小さな鉄の檻の中で窒息させられていたのである。東欧労働者や大学生の反クレムリン闘争が重大な発展をするとき、こんな反動的な人為的境界はひとたまりもなく粉砕され、チトーやゴムルカの民族主義もまた、いよいよはっきりと日程にのぼってくる全ソ連圏社会主義連邦の壮大無比な展望のまえに、跡かたもなく消え失せるであろう。


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