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IMF体制の崩壊と戦後帝国主義の没落

 戦後、アメリカ帝国主義を中心として再建された世界資本主義の構造と矛盾を、革命的マルクス主義の立場からトータルに把握、解明を試みた、基礎的論文である。
 一九七三年七月、「第四インターナショナル」誌、第一〇号に発表された。

 尚、文中〔 〕の注は、編集委員会の責任でつけ加えたものである。

##第二次大戦とその諸結果##
  ##一九三八年のトロツキーの予想と第ニ次大戦の世界構造##

           ##(一)##

 ファンズムの勝利が、そのまま第二次世界大戦を意味することを予測したトロッキーは、はやくも一九三四年に書かれた「戦争と第四インターナショナル」の中で次のように述べている。
 「歴史的尺度でとらえるならば世界帝国主義とソビエト連邦との対立は、個々の資本主義諸国を相互に敵対させる対立よりもはるかに一層深刻である」と。
 だが、帝国主義によるドイツ、フランス、スペイン、中国の革命の絞殺を、スターリニスト官僚の日和見主義が手助けし、コミンテルンが重大な敗北をこうむったあとでは、ヨーロッパとアメリカの政府は、「……現段階でのソ連を、原則的問題、資本主義か社会主義かという見地からではなくて、帝国主義列強の闘争におけるソビエト国家の半面の役割という見地からあつかうことを余儀なくさせる」
 さらに、トロッキーは来るべき戦争――資本主義世界において尖鋭化する内部矛盾と対立の構造は一九一四年段階と全く異っていた。いまやアメリカ帝国主義が前面に登場しつつあった――のもう一つの変化した側面について指通した。「アメリカ資本主義は、一九一四年のドイツを戦争の道へとおしやったのと同じ問題にぶつかっている。世界は分割されている?それは再分割されねばならぬ。ドイツにとってそれは『ヨーロッパを組織する』という問題であった。アメリカ合衆国は世界を『組織』せねばならない。歴史は人類をアメリカ帝国主義の火山爆発へ導いている」と。そして事態は、このトロッキーの予測した線に沿って進んだ。
 第二次世界大戦によって、ドイツ、イタリア、日本の帝国主義は完全に解体した。だが長期にわたる戦乱はフランスをも破産に追いこんだし、イギリスですら半身不随にして終了した。この恐るべき生産力の破壊と主要金融帝国の衰退の中で、ひとりアメリカ帝国主義だけが、この戦争をとおして生産力を高め、巨大な蓄積をなしとげた。
 こうしてヨーロッパをその隷属下におき、「世界の組織者」として登場するアメリカ帝国主義のまえに、立ちはだかった新たな壁は労働者国家ソ連であった。そしてこれは、資本主義陣営の中にとりこむことのできない全く異質の国家であった。

  #かくして、第二次大戦がもたらした最も重要な政治的結果は、国際政治における諸関係が、アメリカとヨーロッパの対立からアメリカ帝国主義と労働者国家ソ連の対立へと変化したことにある# 。いまやトロッキーが「歴史的規模において考えるならば……」と前置きをつけた基本的対立――ヨーロッパとアメリカ帝国主義諸国間の矛盾の尖鋭化と、ソ連の日和見主義によって後景に退いていた基本的対立 が、戦後の国際的政治の舞台における主要な構造を規定したのである。
  #このように、戦後の世界構造が資本主義体制と「社会主義体制」との政治的対立と「協調」の次元においてあらわれることによって、第二次大戦後の歴史的時期が、構造的にも帝国主義の末期的段階を画し、世界永久革命の極めて重要な段階にあることを示している# 。

           ##(二)##

  #ところで、戦後の世界構造を特徴づけるアメリカ帝国主義による「世界の組織化」と労働者国家圏との対立の構造(「世界的二重権力」)が、国際政治の面において鮮明な形をとってあらわれるまでには、なお戦後二,三年間にわたるスターリストのジグザグの対応を経過しなければならなかった# 。
 つまり、この基本的な対立構造はロシア十月革命の勝利以来鮮明であったにもかかわらず、スターリニストの一国社会主義の立場と現状維持の外交政策=日和見主義によって大戦中から隠ぺいされ(「ファッシズムに対する民主主義のための戦争」という形で隠ぺいされ)ていた。 #それがより明確な対立構造をとるのは、戦後におけるヨーロッパとアジアの革命がスターリストの思惑をこえて発展していく過程をとおしてであった# 。すなわち、この両体制間の対立構造そのものは、全世界的規模で闘われる労働者・人民の永久革命とアメリカ帝国主義との敵対的対立の屈折した表現でしかなかったのである。

 第二次大戦をとおして、帝国主義のヨーロッパは完全に壊滅させられ、ドイツ・イタリアのファシズムは解体された。だが革命の側=労働者階級の前衛の側もまた疲弊し混乱していた。労働者国家ソ連はスターリスト官僚のために重大な危機に見舞われ、巨大な犠牲を支払わされた。だがもちこたえた。
 そのこと自体労働者国家の体制的優位、すなわち国有化された計画経済の資本主義世界に対する体制的優位によるものであるが、それとともに、むしろそれ以上に、世界的規模で闘われた各国の労働者・人民の闘争によってもちこたえたのである。
 イタリアにおいては一九四三年からトリノ、ミラノを中心にした工場労働者が政治的・軍事的要求をかかげたストに入り、この政治ゼネストの中で、一九四三年七月ムッソリーニの政府は崩壊し、それに代ったパドリオ政権のもとにあってもなおドイツ軍およびファシストとの交戦のために労働者は武器をとって闘った。こうしてヨーロッパ全対で労働者の闘いがすすめられただけでなく、旧植民地でもいたるところでゲリラ闘争が展開されていた。さらにまた当のアメリカにおいても一九四五年秋から四六年にかけて賃上げ要求のストライキが瀕発していた。
 かくしてこの時期のアメリカ帝国主義は、ヨーロッパにおけるこのプロレタリア革命の脅戚から「秩序」を救い出し、反乱を「平定」するために忙殺されていたのである。戦後の荒廃の中で巨大な生産力と軍事力を保持し、すでに核兵器までもっていたアメリカ帝国主義の攻撃から、労働者国家ソ連を救ったのは疑いもなく国際プロレタリアートの闘争であり、植民地人民の闘争であった。

 だがそれにもかかわらず、戦後におけるプロレタリア革命は、ヨーロッパと日本で流産させられてしまった。そして根底から崩壊の危機に瀕し、プロレタリアートの相つぐ反乱と革命の嵐に見舞われていたにもかかわらず、資本主義世界は救済された。そのためにはアメリカの物質的援助と軍事力のほかに、スターリストの下からの支持を必要としたのであった。
 戦争による国家の疲弊と官僚体制の危機に対するスターリスト官僚の自己保身は、戦後の世界的動乱から自己を防衛する方策をとらせたし、それは同時にヨーロッパプロレタリアートの革命的闘争を抑圧することとしてあらわれた。このプロレタリアートの闘いをブルジョアジーとの協調の路線にそらしていく方向は、「人民戦線」方式によって戦前から準備されていたし、スターリストの指導のもとで運動が自然発生的にこれをのりこえてすすむことはありえなかった。
 フランスでは四五年一〇月の憲法議会の総選挙で共産党は第一党をとったが、ド・ゴール中心の連立内閣に入閣していった。翌年十一月の選挙でも共産党は第一党であったし、パリ解放当時から多くの経営者・管理者が姿を消しているなかで、かなりの数の工場が共産党グループによって占拠され、従業員によって選出された経営委員会が工場を支配していた。イタリアでも四五〜四六年にかけて事態は全く同様であった。
 このようにヨーロッパ各国のブルジョアジーは、スターリニストを政府に迎え入れることによってかろうじて体制を維持したのであり、トレーズやトリアッチは完全にそのブルジョアジーの要求にそって行動したのであった。この点で第二次大戦後のスターリニストの役割は、ちょうど第一次大戦後の社会民主主義の役割と全く同様であった。

           ##(三)##

 戦後、一九四七年頃まで、ヨーロッパとアメリカのブルジョアジーが資本主義体制を救済するためにスターリニストの下からの支持を必要としたあいだ、モスクワとワシントンの密月はまだつづいていた。
 世界革命の前進が、戦後の国際政治の舞台に押し出す基本的対立構造は、まだ、「ファシズムに対する民主主義のための戦争」という構造によって隠ぺいされたままであった。 #それは国際的階級闘争のより一層の進展がスターリニストの思惑をこえてすすみはじめるなかで鮮明になってくるのである# 。
 スターリンは一九三九〜四〇年に、バルチック諸国(ルーマニアやブルガリア)、ポーランドに軍隊を送って「ロシア進撃」のための前進拠点をヒトラーから防衛した。その結果これらの地域は、戦後ソ連圏に併合されていった。だがスターリニストはこれを国際革命の観点からやったのではなく「一国社会主義」の防衛の見地からやったのである。だからスターリンは併合した国土に対するツァー(!)の土地権利証をもちだして「ロシアのためにその世襲財産を集めただけだ」と主張した。そしてなによりもテヘラン、ヤルタ、ポツダムの各条項にこと「領土の分割」は記されていた。だがそこにおいてさえも、これらの地域は「ロシアの勢力圏となるもので共産主義の勢力圏ではない」ということが明記されていた。
 とはいえ、疲弊した経済の再建のために資本主義諸国においてさえ、一定の土地改革と産業の国有化政策がとられたのであるから、ソ連軍の戦車と砲塔の中ではかなり容易に、共産党・社会党の政府によって「上からの革命」が遂行された。しかしその場合でも、ハンガリーのように、無償没収された土地は約三〇万ヘクタールで、二八〇万ヘクタールの土地は地主から有償で没収するというおだやかなものであった。チェコにいたっては一九四八年二月の「政変」まで「鉄のカーテン」の内側で資本主義体制が維持されていたのである。さらにもうひとつ忘れることのできないスターリニストの罪悪は、レーニンの無併合・無賠償の原則とは逆に、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、東独から厳しくとりたてたことである。そのことが戦後の荒廃と重なってこれら地域の経済復興を非常に困難にしたのである。

 だが戦後のこうした情勢は当然スターリニストの思惑と予測をこえて発展したし、高揚する革命的人民の闘争はスターリニスト官僚の“現状維持”の外交政策と衝突した。ヤルタ協定のなかに入ってなかったユーゴの革命は、そこで現に闘っている共産党にむかって「王制復古を承認せよ」と要求したスターリンの政策と真向から衝突した。
 スターリニストが「予期しなかった」中国革命についても、本質的に同様の事態が発生したことは周知の事実である。中国革命がヨーロッパにおけるユーゴと同様、スターリンの方針に反対して推しすすめられたものであることはあまりにも有名である。その六ヵ月後に内乱が最後の段階に達する四八年二月にスターリンは「中国革命は全然見込みがない」こと、「毛沢東は蒋介石と仮協定を結ぶよう努力し、蒋介石の政府に参加して共産軍を解散してしまうべきだ」という見解をもらしていた。そして、四八年七月になってもまだスターリンは毛沢東に、武器を捨てて蒋介石に服せよと要求しつづけていた。これに対応して、アメリカ帝国主義は、国民党と中国共産党の調停による中国の和平調停を援助する方針をとっていた。しかし一九四七年三月、トルーマン・ドクトリンが出され「共産主義の拡大を阻止する」方針が出されて以来、アメリカ帝国主義は国民党への強力な軍事援助を強行する。一九四八年には四億ドルの軍事援助が与えられ、終戦以降四八年までに二七億ドルの援助が行われた。
 しかしこうしたなかで、一九四八年秋における「満州作戦」の惨めな失敗を契機に、国民党政府は軍事的にも政治的にも急テンポで自己崩壊をはじめた。こうしてスターリンの妨害に抗して中国革命は勝利し、四九年一〇月には人民政府が樹立された。
 こうして、ヨーロッパとアジアでスターリニストの思惑と統制をこえて革命が進展していくにおよんで、「ファシズムに対する民主主義の陣営」は崩壊した。
 一九四七年のトルーマン・ドクトリン以後この拡大する革命の波を封じこめようとする帝国主義の攻撃に対して、スターリニストも東欧諸国全体を労働者国家圏に包摂し、「一国社会主義」の範囲を拡大する方針で対応した。
 それまで――一九四七年までは、東欧に対してもアメリカ帝国主義の側から一五億ドルの援助が配分されていたのである。
 こうして、四七年にマーシャル・プランにソビエトが加わらないことが明白になり、同年にコミンフォルムが設立されるにおよんでアメリカ帝国主義と労働者国家圏との対立構造が、戦後の国際政治を規定する基本的構造として鮮明になっていくのである。
 そして、この戦後世界政治の舞台における対立構造は、戦後資本主義の再建過程にもそれなりのインパクトを与え、そこにも一つの物質的な基盤をもった。かくして、それは全世界的規模で闘われる労働者・人民の永久革命の進展によって規定され、それを表現しながらも、同時に後者に対する抑圧の構造としても機能したのである。

##戦後資本主義の構造と帝国主黍の没落期の特徴##

           ##(一)##

 戦後の資本主義がアメリカの帝国主義の巨大な生産力を背景にした「援助」と、ヨーロッパおよび日本における革命の敗北と挫折による労働者・人民の途方もない犠牲のうえでかろうじて救い出されたということは明白である。
 だがしかし、それによってひとたび資本主義的基礎のうえで経済構造の再建がすすめられたあとでは、その後の経済成長はある程度まで、それ自身のメカニズムによって保障される。また戦争による経済的土台の破壊が大きければ大きいだけ、経済的発展は全く新たな技術的土台のうえで更新される。一九五〇年代以降のブームは、この技術革新のドラスティックな進行によって可能であった。
 とはいえ、それによって西ドイツや日本の戦後における経済復興が異常な脅戚として語られ、あたかも資本主義の新たに獲得した適応能力であるかのように云うことは、無知がためにする欺瞞である。
 そこで、戦後、それなりの #統一性を回復した資本主義の世界が、それ自身の構造のうちにどのような形で帝国主義の没落段階の特徴をおぴていたのかをみてみる# ことが必要である。
 その点を明かにするために、戦後資本主義の復興過程み若干あとづけてみよう。

 第二次大戦後の西ヨーロッパ諸国の経済力の破壊は第一次大戦後の比ではなかった。フランス、オランダ、ベルギーの生産は戦前の三〇〜四〇%と大巾に低下し、ドイツ、イタリアにおいてはわずかに二〇%にすぎなかった。これにくらべてアメリカはこの戦争をとおして世界の工業生産の六〇%を占め、鉱工業生産は三九年の二倍、耐久材にいたっては約三倍、そして資本主義世界の輸出総額中に占める割合は三七年の一四・一%から三〇%に増加し、貨幣用金の約六〇%二二八億ドル(一九四七年には約七〇%=二四六億ドル)が集中した。戦争をとおして、世界経済の不均衡と富の偏在は、その極に達したのである。
 かくして戦後資本主義は二つの問題に直面した。一つは、アメリカが戦争をとおして拡大した過剰生産力と過剰資本のはけ口をどこに求めるかということであり、もう一つは、荒廃したヨーロッパ資本主義の再建のための復興資材の資金をいかにして調達するかということであった。
 実際、戦争をとおして異常な膨張をとげたアメリカは、戦時経済から平時経済への転換にあたって、一〇〇〇万の失業者を出すような恐慌の到来が憂慮されていた。そのために一九四四年一月のルーズベルト大統領の予算教書において、アメリカ経済の平時編成計画が提出されたのである。他方、荒廃したヨーロッパは食料の多くと生産原材料の大半を対外からの援助と輸入に依存しなければなはなかった。かくしてアメリカの「援助」によるドル撒布が行われた。この時期、ヨーロッパへの民間資本投下はほとんど意味をもたなかったし、「援助」はもっぱら国家による財政支出によってまかなわれた。こうして、一九四五年から四七年までに、アメリカが西ヨーロッパに対して行なったドル援助は一一六億ドルの巨額に達した。だがそれにもかかわらず、アメリカの対ヨーロッパ出超額は一九四五年から四七年までその援助額を超える累計一三二億ドルであったから、ヨーロッパのドル不足は極めて深刻であった。その間、四九年まで、アメリカの国際収支は黒字をつづけており、ヨーロッパの金はそのあいだもアメリカに向って流出しつづけたのであった。
 このように、過剰な生産力をかかえたアメリカ経済にとって、対外援助=ドル撒布は彼らの輸出を維持するための死活の問題でもあった。すなわち、アメリカ独占資本は、戦後の荒廃から立ち直るために支出された全世界人民のエネルギーをも、ドルの吸収する「利潤」に変えることによって自らの経済危機をまぬがれていったのである。
 だがそのようにして供与された巨額のドルも、復興計画が十分進展しないうちに、食糧等の生活必需品の輸入で涸渇するにいたり、各国経済は深刻な危機に見舞われていた。 #とくに各国ともすさまじいインフレに直面し、それから脱出するためには、国家による大胆な経済過程への介入が不可避であった# 。
 フランスの物価水準は終戦当時、戦前の三・七倍、一九四六年末に八・五倍。さらに他の諸国が一応の安定に入った四七年下期から一九四八年にかけて新たに進行し年末には二〇倍に達しようとしていた。
 イタリアでは一九四六年中頃の物価は戦前の二六倍、四七年七月には五八倍に達した。
 日本は公定価格だけでも四七年には、戦前(昭和一二年)の二七・九倍、四八年には八四倍に達し、ヤミ価格では約三六〇倍にものぼっていた。
 こうしたインフレに対して、各国とも通貨と銀行預金の大部分を封鎖したり、賃金の凍結や引下げ、平価の切下げによって切りぬけた。たとえばフランスでは四八年一月に、シューマン内閣のもとで戦後二四目のフラン切下げを断行し、これによってまずインフレによるフラン下落を承認し、公定レートとヤミレートとの開きを小さくして輸出を増加し、不急品の輸入を阻止しようとしたのである。
 このような国家による経済復興計画はヨーロッパではさらに、そのうちに重要産業の国有化政策を含んですすめられた。フランスではすでに一九三六年、ブルム内閣の手によって鉄道と兵器、航空産業の一部、タバコ、マッチが国有に移されていたが、第二次帝国主義戦争勃発後は炭鉱業、ガス、電力および保険会社の四分の三が国有化されていた。そして戦後は銀行、重工業、運輸部門などフランス全産業の二・三%までが国有・国営化された。
 イギリスでも、一九五〇年までの第一期計画として、労働党政府はイングランド銀行、石炭、電力、ガス、国内交通、電気通信、航空、鉄鋼の国有化を計画し、イングランド銀行の国有化は四六年三月、炭鉱は四七年一月、それぞれ実施された。だがこのように重要産業の国有化は進展したが、国有・国営化に対する政府の計画が全部予定通りに実行されたとしても、全産業の二〇%が国有となり、また労働者の一五%がそれに従事するにすぎなかったし、なによりもこれらすべては有償国有化の形ですすめられたのであった。もちろん国家による経済過程への介入は、景気調整策の形をとった財政・金融面からする全般的な性格をもったものであって、重要産業の国有化のみにとどまるものではなかった。
 この国家による経済過程への介入とならんで、 #ヨーロッパにおける経済復興過程でとられた構造的変化のさらに重要なものは、ヨーロッパ経済の相互協力体制である# 。
 これを促進したのは、ヨーロッパの経済復興に決定的な役割りを果たしたマーシャル・プランであった。一九四八年に決定されたマーシャル・プランは、ヨーロッパ諸国に対して、消費物資および資本をアメリカから贈与または貸しつける条件として、@ヨーロッパ諸国は狭い国境をこえて、経済協力体制をつくること。Aアメリカの指示する社会主義圏との貿易制限に服する。等を呈示した。これを受入れたのはユーゴを含む西ヨーロッパ一六ヵ国で、OEEC(ヨーロッパ経済協力機構)を設立した。それは五九年一二月に改組され、六一年九月にアメリカとカナダを加えて(日本は六四年四月に加盟)OECD(経済開発協力機構)に発展的解消をとげる。しかしOEECそのものは、ゆるい結びつきをもった組織でその成果には限界があった。さらに進んだ地域総合計画としてはむしろ、一九四八年一月にベルギー、オランダ、ルクセンブルグ三国によって結成されたべネルックス関税同盟であり、これがEECの最初のヒナ型である。
 このようにして、マーシャル・プランの実施を画期とするアメリカの大巾なドル援助とヨーロッパの経済構造の再編整備によって、戦後資本主義は急速な回復にむかうのである。

           ##(二)##

 このようにドルの「援助」によって再建された戦後資本主義は、同時に極めて重要な構造的変化をこうむった。そしてこの構造上の変化そのものに、帝国主義の没落段階のジレンマが刻印されていることをみなければならない。
 もっとも注目すべきことは、こうした戦後資本主義の構造的な変化が、それによって資本主義経済の新たな成長を保障したと同時に、労働者国家圏との政治的対立構造(「世界的二重権力構造」)のうちにその政治的主張を見出してきたという点である。 #換言すれば、戦後の資本主義経済は、経済構造それ自身が政治的上部構造と有機的に結合し、極めて政治的に「組織」された特徴をもつ。そしてまさしくその点に、没落期の帝国主義の特徴がある# 。
 その第一は前項でみたように、ヨーロッパはその経済的徹興のために、なんらかの形で国境の壁を低め一定の経済統合を達成しなければならなかったということである。二度の戦争にまでかりたてたヨーロッパ資本主義のジレンマは戦争によって解決されなかった以上、ヨーロッパの復興のためには、それが資本主義の枠内であろうとも、民族国家の障壁を低めることが必要であった。 #それほどまで資本主義は歴史的衰退の局面に入っていたのである。しかしそれは、東欧を含む労働者国家圏との対抗構造として政治的に形成されたのであった# 。
 このように戦後の資本主義は国際的調整と一定の組織化を行う(IMFもその一つ)によってのみ、その発展を保障することができたのであるが、それは同時に、国家的規模においても一定の組織化がすすめられ、国家の経済過程への大巾な介入が行なわれるという形をとってもあらわれた。そしてこうした構造的な変化とともに、軍事部門の比重の増大が、戦後経済――とくにアメリカ経済を物質的に支えてきたのである。この点で、第二次大戦後のアメリカ帝国主義と労働者国家との対立構造(「世界的二重権力構造」)のもとでは、第一次大戦後の平和経済への移行とちがって、 #アメリカ帝国主義の軍事体制は、戦後の終結とともに解体されることなく、そのま・継続され強化された# 。そしてこの政治的緊張を利用しつつ、資本主義世界の組織化をになったものは、アメリカの戦時財政機構であり、それによる経済・軍事援助であった。この戦時財政機構にうらづけられた政府支出としての「援助」「借款」は、アメリカ独占企業の商品輸出によってまかなわれるのであり、これが国家による受注とも結びついて、資本財部門に流れる需要と関連産業への波及は既成の蓄積構造を強化し一層収益的なものにしたのである。
 実際、朝鮮戦争による資本主義経済の不況からの脱出と飛躍的発展は、戦後資本主義における軍事経済の役割りの大きさを明白に示しているし、今日まで、それは労働者国家との対立という基盤の上で恒常的な役割りを果している。
 朝鮮戦争によって世界の鉱工業生産は飛躍的に増大した。アメリカの戦略物資の大量買いつけがアメリ力の輸入を増大させ、これが対外援助の増大ともあいまってドル不足を解消するとともに世界貿易を拡大し、ヨーロッパ諸国の重工業や機械工業に重大な刺激を与えたのである。また一九五〇年一二月のアメリカの鉱工業生産は一九四九年のそれにくらべて二三%の増加で、前年の不況時の八%減にくらべ著しい上昇を示している。
 さらにアメリカの輸出の増加も輸入のそれを大巾に上回り、出超額は五〇年の六億ドルから五一年には三〇億ドルにも増大している。だが云うまでもなく、軍備の増強による産業活動の拡大は必然的にインフレを昂進させる。その生産物は再生産には役立たず、むしろ民需を犠牲にして生産され、消費されるからである。「実際、軍需生産は通貨の面からみれば際立った特徴を有している。それは流通している購売力を増大させるが、その対価となる商品の追加的な流れをつくり出すことがない。この増大した購買力は、遊休状態にあった生産設備と労働力の再稼動を促すときでさえも、定期的なインフレーションをひきおこす」(マンデル・『現代アルクス経済学』V・七二七頁)
 戦後資本主義が、その中軸をになうアメリカ経済とともに軍事部門の恒常的なインフレーションをも不可避的に伴ったということは明白である。
 だが戦後資本主義が構造的に定着させてきたインフレーション体質は、ただたんに軍事部門の占める比重の増大によるばかりではなかった。 #それは戦後資本主義の構造上の変化の最も著しい特徴である国家による経済の「組織化」=国家独占資本主義に独特な体質的特徴なのである# 。

 この国家による経済の「組織化」は、さきにも指摘したように、たんに重要産業の国有化にとどまるだけでなく、景気調整策の形をとってなされるさらに全般的な、経済過程への国家の介入によって行なわれるのである。
 それはたとえば、公定歩合の引上げや預金準備率の引上げ等による金融面からの引締め政策や景気刺激策、あゆいは減税などの税制面からの種々の産業救済策や財政投融資の拡大、公債の発行をとおして行なわれる財政面からのテコ入れ、さらに社会保障制度の拡大、価格支持――とくに農産物価格支持や不況カルテル――、貿易と為替の直接・間接の管理によって遂行される。
 そしてこのような形で行なわれる国家の経済過程への介入は、ほとんどすべて通貨政策の面から行なわれるのであり、その点でたしかに、金本位制度からの離脱=いわゆる管理通貨制度への移行を背景としている。
 通貨の流通量と信用が中央銀行の準備金に制約され、金利もそれに応じて自動的に動き、為替相場も金平価にたえずひきつけられるといった、金本位制下のシステムのもとでは通貨面からする国家の経済過程への介入の余地はほとんどない。しかし通貨が金との直接的関係から切断された不換通貨制のもとでは、通貨の対外価値と対内価値の調整に一定のタイム・ラグが生じる分だけ国家の介入の度合が拡大する。このようにして戦後資本主義は、いわゆるスペンディング・ポリシー〔財政支出政策〕をフルに活用して、クリーピングインフレージョン〔はうように(上昇する)物価上昇〕によって景気循環におけるパニックを回避しつつ経済成長を促進してきたのであった。
 そしてこのメカニズムの本質は、国家的規模での大衆収奪によって、搾取のメカニズムが補強されている点にある。

           ##(三)##

 国際通貨制度の面では、いわゆるIMF体制とよばれる国際的機関がつくられたこと自体、戦後資本主義経済が「政治」的に支えられている構造を如実に物語っている。
 この点、従来、一部のマルクス経済学者まで含めて、まるでそれが戦後の資本主義経済の奇跡的な復興をもたらしたかのように一定の評価がなされてきた。「いわゆるIMF(国際通貨基金)とガット(関税・貿易一般協定)を両輪とするブレトン・ウッズ体制によって、世界貿易は戦前のブロック経済を克服して、自由・多角・無差別を原則とする方向で再建された」と。
 だがいま、このIMF体制は破綻し、世界貿易は再びブロック化への傾斜を滑り落ちて行っているようにみえる。
 実際には、この体制はすでにみたように第二次帝国主義戦争の結果がつくり出した関係のうえに築かれたドルの一元的な世界支配と略奪の体制にほかならなかったのである。従って、今日、帝国主義諸国間の力関係の変化に伴って、その対立と矛盾が表面化しているのである。
 そもそもポンドを中心とした国際金本位制度の段階では、このような特殊な国際機関は全く必要でなかった。

 資本主義経済のもとでは世界貨幣は、本来生身の金以外ではありえない。しかし実際には、金現送にともなう危険や磨損、そしてなによりも資本の空費を節約するために、信用制度の発展とともに、生身の金に代ってある一国の通貨が世界貨幣としての金の機能を代行する。すなわち国際信用貨幣としての外国為替手形が登場する。
 だがこの国際通貨の位置――すなわち金貨本位制のポンドと、いわゆる管理通貨制のドルとは、その機能と形態がまるでちがっている。その点で資本主義の衰退と没落の歴史は、国際通貨制度の形態変化のうちに見事に反映されている。
 すなわち、かつての国際金本位制度のもとでは、金の自由容解と輸出入の自由に基礎づけられて、銀行券はいつでも自由に金と見換された。従って為替相場の変動は、平価プラス・マイナス金融送費=金現送点メカニズムによって安定を保っていた。
 ところが見換制の停止によって金との自動的な結びつきが切断されると通貨の膨張・収縮と利子率・為替相場の変動はもはや金によってチェックされなくなる。代って国家が登場する。国家が通貨の発行高と為替相場を操作し統制する。その点で今日のドルを基軸としたIMF体制は、国家の政治的介入によって媒介された全く擬制的な国際通貨体制にほかならない。 #それは現代帝国主義の寄生性と腐朽性をあますところなく示している# 。
 その点まず第一に、IMF体制下のドルは(実質的には一九七八年末まで)各国の通貨当局の要請があれば、金一オンス=三五ドルで金との交換が保障されていた。しかしそれは決してドルの代表金量を表わしているのではない。金の自由容解や国内における自由な見換が禁じられている状態のもとでは、ドルもまた不換通貨であって、ドルの代表金量を規定するメカニズムを失っているのである。従って金一オンス=三五ドルというのは、アメリカによる金の独占的管理のもとで、いわば「金の独占価格」ともいうべき形態をとっているにすぎない。アメリカの卸売物価は一九六〇年代初めに、戦前の三倍以上に騰貴したのに、金買上価格は(金輸出価格も)戦前の一オンス=三五ドルに釘づけされたままであった。この点においても今日のドルが、その国際通貨としての機能を擬制的に代行しているにすぎないことが明白である。

 第二にIMFがこのドルを基軸にして、固定相場制をとったということは、逆説的にはこの死滅しつつある資本主義のもとで、為替相場の安定は絶対的に存在しえなくなったことを示している。
 金一オンス=三五ドルが固定され、各国の為替相場がドルにリンクされ、原則として固定されているわけだから、各国がアメリカと同じ速度で、インフレの進行に見舞われ、各国の物価水準がほぼ並行的に上昇していくとすれば、一オンス=三五ドルを維持したまま固定相場制をとることが可能であろう。
 だが、現実には経済発展は極めて不均等な形をとってすすむのである。ところが実際にはこの固定相場制を維持するために、急速な経済成長をとげた国は(必然的にインフレをともなう場合が多い)デフレ政策をとって歩調を合せなければならなかったし、アメリカがベトナム反革命戦争によってすさまじいインフレに見舞われたときには、各国は輸入インフレの被害を蒙ったのである。
 このように、固定相場制は、ドルの特権的地位を保持するために、他の資本主義諸国に経済的犠牲を強制するものにすぎなかった。
 それでもなお、IMF加盟国一○五ヵ国のうち為替レートを変更しなかったのはわずか一〇ヵ国であり、旧植民地・後進国では三〇%以上の平価切下げがひんぱんに行われ、ラテン・アメリカ諸国ではほとんどの国がいづれも九〇%以上の平価切下げを行っている。
 この点にもみられるように、IMF体制は多くの植民地・後進国諸国の経済を切り捨てることによってかろうじて維持されてきた「体制」なのであった。

           ##(四)##

 だがしかし、この管理通貨制度によって「通貨の有無が全面的に国家の管理にゆだねられた」わけではないし、従って経済過程が、完全に国家によって管理されているわけでもない。
 資本主義が資本主義であるかぎり、いかなる通貨制度をとろうとも、最終的に金の規制から解放されることはありえない。さらにまた経済過程それ自体も、利潤の刺激と競争のメカニズムを媒介にして運動しているのであり、国家はただその前提条件を整備し、その過程に介入しうるにすぎない。「『国家介入』と『国家活動』これらすべての要因は、戦後経済成長のための必要な前提条件ではあるが、その基本的原因ではない。……すなわち、『国家介入』は将来においてもこのような経済成長を保証しつづけるであろうか?もしも国家介入が経済成長の主要な『原因』であるとすれば答えは『イエス』であるはずである」(マンデル「資本主義の歴史とその運動法則」《七〇年度の資本主義》三五頁)

 さらにもう一つ重要な点は、この国家による介入は、ただたんに「資本――賃労働関係に国家が介入して実質賃金を低下させ、資本が労働力商品を利潤を実現しうる形で処理できるようにする」(大内力氏らの宇野派の見解)という点にあるだけではない。
  #それ以上に国家的規模で大衆収奪によって搾取のメカニズムが補強されなければならない度合が増大するという点にある# 。それは戦後資本主義のもとでの新たな追加的需要の創造が、消費者信用制度(月賦制度)の発展によって補強されているという事情によっても明白である。これは将来の収入によって消費を煽る極めて巧妙な収奪の一手段である。「巨大なアメリカの産業機構は、絶えず増大している膨大な国家や企業や個人の債務によって、ようやくその生産物を十分に販売できるということも事実である」(マンデル「現代資本主義の抗争」一三〇頁)
 「アメリカにおける純個人債務は、一九四五年の一四〇〇億ドルから、一九六三年には七五三〇億ドルに増加した……一九六六年には純個人債務は九六五〇億ドルに達し、粗個人債務は一兆ドルの大台を超えた」(同上、一三一頁)
 要するに、戦後資本主義の構造的な変化は一言で云えば、国際的にも国内的にも一定の「組織化」をなしとげたという点に帰省する。だがこの帝国主義的「組織化」は、植民地後進国や農業などの遅れた産業部門を切り捨てることしか意味しなかった。まさしく戦後資本主義は厖大な収奪によって、かろうじて搾取のメカニズムと大資本の利潤を保障してきたのであり、それが今日の資本主義を特徴づける構造的に定着したインフレ体質にほかならない。

 そして今日、インフレは世界的な規模で急速に進行し、資本主義経済を危機に追いこんでいる。「資本主義衰退期に国家がおかれたジレンマは、恐慌とインフレとのあいだの選択にある。恐慌はインフレが進行しないかぎり、避けることはできない」(マンデル「現代マルクス経済学」V、七三五頁)
 ところが現代資本主義の危機はさらに深刻である。すなわち国家的規模での大衆収奪によって搾取のメカニズムが補強される構造が定着していることによって、諸階層が収奪されている規模と深さだけ、それだけ深く国家に対する全人民的な反乱の基盤が準備されているのである。
 これまで中間的で動揺的な階級とされていた農民や漁民や一切のブチ・ブルジョアジーが、反公害闘争の拡がりにもみられるように、労働者階級とともに、資本に対する反乱に立ち上り、帝国主義的国家権力との直接的対決に入りこんでいく状況が現実に進行している。
 さらにまた体制の危機が直接に政治的な危機としてあらわれる点に、現代帝国主義の没落期の特徴がある。
 以前は、主要な産業部門があいついで倒産し、大銀行や株式取引所が取りつけ騒ぎにあい、相つぐ解雇と失業といった経済的破局があり、それが政治的危機を激化させていった。だからそこでは、資本主義の無政府性によって生み出された“経済的危機”がもう一つのブルジョア的“政治”によって救済されるかのような幻想の余地を残していた。 #ところが今日では、経済的な危機そのものが直接政治的な危機としてあらわれ、問題全体が直接に「国家・権力」をめぐる階級闘争そのものの問題として政治的にあらわれる# 。

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