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輸出主導型への転換と海外進出

   ##国際収支の帝国主義的構造への転換##

表−2

総合収支

貿易収支

輸出

輸入
1963年
1964
1965
1966
1969
1971

△  161
△  129
   405
   337
  2,283
  7,677

△  116
377
1,901
2,275
3,699
7,787

5,391
6,704
8,332
9,641
15,679
23,566

5,557
6,327
6,431
7,366
11,980
15,779

(単位:100万ドル)
1972年 通商白書 △はマイナス

 種々の指標によって一九六五年以降、日本の国際収支の構造が輸出主導型に転換したのをみることができる。六四〜六五年の大不況は、重化学工業化投資を軸にして経済成長をつづけてきた日本資本主義経済に、はじめて過剰生産の徴候があらわれたという点で、それは「構造的不況」と呼ばれた。そしてこの「構造的不況」からの脱出に大きな役割りを果したのが急激な輸出の増大であった。前回の不況局面からの脱出の際には、輸入面での改善寄与率が九六%であったのに対して、この時期は輸出増による寄与率が八〇%であった。もちろんこの輸出の拡大は、けっして単純に国際競争力の強化のみによってもたらされたものでなく、アメリカのベトナム反革命戦争のエスカレートと、ドルのタレ流しが生んだ「ベトナム特需」をテコにしたものであった。アジア市場同けの輸出の増大は、反共諸国家へのアメリカのドル撒布に支えられたものであったし、アメリカ向け輸出の増大は、ベトナム特需と結びついてつくり出された世界貿易の拡大と、アメリカ国内におけるインフレの高進に支えられたものであった。
 だがいずれにせよ輸出は対前年比三〇%と急速に増え、この時期以降国際収支は著しく好転するのである。六三年まで貿易収支は一貫して赤字をつづけ、六四年にようやく貿易収支は三億七七〇〇万ドルの黒字を記録するが、資本収支を含む総合収支は一億二九〇〇万ドルの赤字である。ところが六五年には貿易収支の黒字中は一挙に一九億ドルと四倍強にはねあがり、総合収支も四億五〇〇万ドルと、はじめて黒字を記録する。これ以後表2にみるように急速なテンポで輸出が伸びていく。
 このようにして六五年以降、国際収支のパターンが、それまでの一貫して輸入が輸出を上回り、貿易収支の赤字を特需収入と外資の導入によって埋めてきたパターンから、輸入を上回る輸出の増加によってつくり出した貿易収支の黒字を、海外、とくに後進国にむけた援助や借款等の資本の輸出にふりむけていくパターンに転換したのである。これは明らかに帝国主義に特有のパターンである。

   ##日本の輪出市場構成に占める東南アジアの位置##

 一九六三年まで輸出では東南アジアが日本の最大の市場であり、構成比で三〇%を上回っていた。それが六五年以降になると、家電・カメラ・ミシン・合繊・鉄鋼・自動車など、重化学工業品に輸出競争力がつくとともに、アメリカ・EC市場への輸出が急速に伸びていった。それにひきかえ、東南アジアとの貿易のウェートは相対的に低下していった。
 もちろん、この間の日本の東南アジアへの輸出は(六五〜六八年でみて)年率一八%の割りで伸びているのであるが、日本の輸出に占める東南アジアのウエート(構成比)は、六○年の三三・四%から、七○年には二五・四%に低下している。七〇年の段階で、東南アジアと西アジア、大洋州を加えてようやく三二・四%である。これにくらべて、アメリカ市場は三〇%の比重を占めている。これにカナダ・西ヨーロッパを加えると四八%にも達するのである。(注@)このようなアメリカ市場への依存を特徴とする今日の市場構成の変化は、いうまでもなく、戦後の日本が反共軍事体制の一環として、ドルと核の傘に依拠した外交路線によって政治的に形成されてきたのである。
 アメリカ巨大独占による産油諸国の略奪の上で安価な石油を手に入れ、莫大な資本と技術を導入し、韓国・沖縄等の軍事植民地を衝立てに、国家の経済力をすべて大資本の投資にふりむけることによってはじめて、重化学工業化を基礎とする高度成長をとげてきたのであった。
 そして六五年以降、この肥大化した経済を支えるうえで、極めて重要な役割りを果してきた輸出増加の大半がアメリカ・EC市場の拡大に負っていたのである。七〇年の指標で輸出増大に占める寄与率が、アメリカ三八%、先進地域で六五%にも達している。(注A)
 ところが七〇年代に入って、すべての先進諸国が明らかに過剰生産の重圧に脅かされ、それは破局的インフレをますます高進させている。繊維や鉄鋼の自主規制要求、課徴金問題に現われていた保護主義的傾向は、ドル危機の深化と「石油・資源危機」のなかでますます強まってきている。
 先進国市場から徐々に閉め出されていく日本にとって、東南アジア市場の比重は今後急速に高まっていかざるをえない。現実に直接投資を中心とするここ数年の、東南アジアに対する資本投下の伸びと商品輸出の伸びはすさまじい。ところが日本が行ってきた経済援助、借款、直接投資、貿易のすべてが東南アジア諸国の経済建設に寄与しないで、逆に破壊的作用をもたらしてきた方が多いといってよい。そのことが、今後、東南アジアにむけて進出してゆく日本帝国主義の行手に、致命的ともいえる障害を築きあげてきていることを、やがて手痛く思い知らされるであろう。

   ##東南アジアに占める日帝の位置と極端な片貿易##

 六五年以降、日本からみて対東南アジア貿易の比重は相対的に低下しているとはいえ、東南アジアの側からみると逆にそのウエートは急速に高まってきているのである。東南アジア全体の輸入に占める日本商品の割合は、六一〜六三年平均一四%から、六七〜六九年平均二三・一%へ、さらに七〇年には二六%へその比重を高めてきている。とくに、韓国、台湾、タイの輸入に占める日本商品のシェアは表3のように、ほとんど四割から五割を占めるに至っている。
 しかも、日本の対東南アジア貿易は、すでによく知られているように、極端な片貿易、すなわち日本の大巾な出超によって特徴づけられている。日本の対東南アジア貿易収支をみると、日本の出超中は年々急激に拡大してきている。六〇年に五億五〇〇〇万ドルであった出超は、六六年に一〇億一七〇万ドル、六九年に二○億六七〇万ドル、七一年に二三億三、五九〇万ドルと五年間に倍以上のテンポで膨れ上ってきている。(注B)なかでも日本が大巾な出超となっているのは、韓国、台湾、香港、タイ等の典型的な軍事独裁下の反共諸国家である。韓国、台湾、タイはいずれも日本からの輸入が第一位を占めている。これら諸国の日本との片貿易は表4のように極端な形をとっている。韓国の貿易赤字一一億八、二〇〇万ドルの半分以上は日本の出超のせいであり、タイの場合も五億八、八〇〇万ドルの赤字の半分は確実に日本のせいである。
 戦前から日本は欧米との貿易赤字を、東南アジア貿易の黒字でカバーするというパターンをとってきたが、今日においても日本の貿易収支の黒字に占める比重は、その市場構成比とくらべて圧倒的である。
 市場構成で四八%を占める対アメリカとECの出超が一一億ドル強であるのに対して、そのシェアが半分の割合にすぎない東南アジアからの黒字がその倍以上の二三億ドル強なのである。

表−3

韓国

台湾

タイ
1960年
1969年
29.1%
42.1%
40.5%
50.3%
25.4%
34.5%
輸入に占める日本商品の比重
70年代の対共産圏、東南アジア通商政策の方向
(通産省:72年)
表−4

日本からの
輸入

輸出

対日入超巾
韓国
台湾
タイ

820
700
450

229
250
190

591
450
260

(単位:100万ドル)
出典:表3と同じ:1970年の指標
 

   ##ドルに補完された日本の東南アジア貿易##

 ところで対東南アジア貿易におけるこの片貿易についてもう少しくわしくみると、さらに次のような特徴が明らかになる。すなわち石油、木材、ゴム、銅、鉄鉱石などの天然資源をもつ、インドネシア、マレーシア、フィリッピンなどは日本に対して出超、日本の入超になっているのである。その中が最も大きいのはインドネシア(石油・木材等)で、七一年には四億ドル近い日本の入超になっている。すなわち、インドネシアはその輸出市場の二分の一を日本に依存しているのである。マレーシア(木材と天然ゴム)は一億六、九〇〇万ドル、フィリッピン(木材、非鉄金属鉱)はわずか四、九〇〇万ドルとはいえ、いずれも日本の入超である。(注C)つまり、日本は東南アジアにおける資源保有国グループ(インドネシア、マレーシア、フィリッピン)に対して輸入超過で、その他の東南アジア諸国に対しては、大巾な輸出超過になっているという構造なのである。
 国際収支面だけからいえば、対日入超国の貿易赤字は、民間投資と政府援助の増大によって埋めることができる。だがたとえそれがバランスをとる形で行われたとしても、もともと借款や延払い輸出信用の形で行われる援助は、はじめから輸出促進的効果をねらって供与されるものでしかなく、その点では、貿易のアンバランスを拡大再生産するにすぎない。しかも日本ブルジョアジーは東南アジア諸国の国際収支のバランスを考慮して、援助や借款を供与し、資本を投下するわけではない。六〇年代末まで、資源非保有国に対する日本の投資は、市場防衛と低賃金労働力の利用を動機とする中小企業の進出が多く、資源保有国に対しては、資源確保を動機とする大企業グループの進出が目立っていた。額の大きさからいっても、日本の民間対外投資は資源確保型に属するものが多く、対日片貿易の大巾な赤字を相殺するものと期待される民間投資も、政府援助も赤字グループより黒字グループに向う傾向のほうが強かった。
 従って円は対日入超国の赤字を補鎮してはいない。この対日入超国の国々の多くが軍事独裁下の反共諸国家であることと関連して、日本との貿易赤字の大半は、結局、六五〜六九年までとくに、アメリカの援助と海外軍事支出によってばらまかれるドルによってまかなわれてきたことが明らかである。事実タイでは、アメリカの武器援助費、ベトナム派兵費、米軍の落すドルが一九六九年の計で、三億四、〇〇〇万ドルにのぼり、この年の貿易収支五億ドルの赤字の七割を補填しているのである。(注D)韓国においても年間約一二億ドルの赤字の大部分が、ベトナム特需と派遣将兵に対する支払いで埋められてきたことは周知の事実である。このように、七〇年代初期までの日本の対東南アジア貿易は、一貫してアメリカのドルによって構造的に補完されつづけてきたといえる。
 ところが六九年以降、ドル危機の深刻化とニクソン・ドクトリンによって、東南アジアむけのドル援助とベトナム特需は次第に減少しはじめる。この段階からの東南アジア諸国の日本の援助増大に対する期待と、日本資本の導入が大巾にすすむことになる。(もちろん、日本からの東南アジア諸国に対する援助や借款は、六五年以降大巾に伸びていた。)

アジアに向けた帝国主義的海外進出の強化

   ##「もう一方の手で二倍近くを持ち帰る」――日本の借款##

 貿易における大巾出超によって、東南アジアの富と資源を強奪しつづけてきた日本資本主義は、政府援助や借款を含む資本投下のあり方においても、露骨に帝国主義的性格を強めている。
 「日本は借款を供与するが、まるで魔法のように、もう一方の手でその二倍近くを持ち帰っていく」とマレーシアのラーマン首相は七〇年の万博で語ったという。もともと、援助や借款は輸出促進的性格の強いものであって、一つは、労働者人民から吸いあげた税金を大企業や銀行の利潤に変えていく手段でしかなく、さらにもう一つは、植民地後進国の労働者人民を収奪するためのテコとして機能するのである。
 日本の援助総額は六四年までの平均三億ドル台から、六五年には一挙に倍増し、以後急テンポで伸びつつ、六九年には「二億六、三〇〇万ドル、七一年には二一億四、〇〇〇万ドルと六四年までの水準の四倍の規模、国民総生産のこれに近い○・九六%にまで達した。(注E)だがその構成をみると、七一年で輸出信用と直接投資がその半分以上を占めている。つまり援助とはいっても、民間ベースが年々圧倒的部分を占め、政府開発援助はほぼ一貫して二三%くらいである。しかもそのうち、二国間の直接借款=円借款が六〇%以上を占めている。これは明らかにひもつき借款であり、日本の援助全体に占める輸出信用比率が、四〇%という高さと合せて、その輸出促進的役割が露骨である。今後さらに、東南アジアに対する援助供与国として、日本の円借款は年々増える傾向にあり、円借款供与額だけみると、六〇年代の平均二億ドルであったものが、七一年五億六、三〇〇万ドル、七二年九億六、二〇〇万ドルと急テンポで増加し、それは五八〜六五年の累計供与額八億八、〇〇〇万ドルを上回り、イギリス、西ドイツを追い抜いてアメリカにつぐ二番日の位置をしめている。(注F)
 だが日本の借款は@利子が高く償還の期限が厳しい。ヨーロッパ資本の平均金利が三%であるのに対して、日本は四・七五%から五・七五%という高率である。Aさらにひもつきの度合が大きく、「その九〇%近くが日本商品の買付けを義務づけたタイド・ローンであり、政府ベースの二国間借款でも八〇%近くがそうである」(注G)という。このようにして、借款のほとんどは日本からの商品を輸入するために使われ、商品輸入の際それは借款された円によって支払われる。だから ここであらためていうまでもないことであるが――円が実際に被援助国との間を動くのではなく、決済はすべて日本国内の大企業との間で行われるのである。韓国などに対しても、日本は「供与した資金によって韓国側がいかなる商品を購入すべきかを指定する権利を保持」(注H)しているという。こうして、多くの大資本は、あいつぐ技術革新と過当競争で老朽化した過剰生産施設を輸出して暴利を得てきている。
 その典型は、韓国に輸出された東レの合成繊維工場、日本パルプ工業の肥料工場、チッソの塩化ビニール工場等々である。「まさしくスクラップされんばかりであった人絹工場を輸入して設立された合成繊維の工場は、たちまち銀行管理のもとにおかれた下(注I)「日本から旧式のカーバイト・アセチレンの設備を輸入して設立した大韓プラスチックと共栄化学の生産コストはトン当り五〇〇ドルにもついた。」(注J)「朴大統領から一時、韓国内における独占的な自動車生産の権利を得たトヨタは、韓国市場向けにコロナを改良して生産した。その価格は、日本の国内市場価格一、六五〇ドルが韓国では三、三〇〇ドル」(注K)……
 このような形の商取引の中に汚職と腐敗の入りこんでいないはずはない。
 「韓国政府から事業の認可を得るには、政治献金として総事業費の三〜四%、さらに韓国財界の実力者にリベートとしてその四%を支出しなければならない。」(注L)つまり合計して借款の八%が賄路に使われているのである。
 台湾やタイでも事態は同様であるし、インドネシアなど“汚職天国”と呼ばれるほど、下層官僚の間に至るまで日常化しているという。このようにして、“借款”は日本からの輸入代金の決済にあてられるのだから、円は日本国内の輸出業者の手に流れ、相手国には、いまみてきたようにスクラップ寸前の老朽設備や高い商品が押しつけられ、それと同時に債務が累積していくわけである。
 韓国においては、六八年の時点で外国からの融資によって手に入る金はすべて以前の借入れに対する償還にまわされる可能性が示されていた。
 実際、韓国の元利金償還は七一年――二億三、〇〇〇万ドル、七二年 三億一、五〇〇万ドル、七三年――三億四、七〇〇万ドル、七四年――四億六〇〇万ドルの予定だという。(注M)これを商品輸出八億ドル、貿易収支の赤字一一億ドル、外貨保有高六億ドルといった数字と合せて考えてみると、自立した経済建設などとはとうていいえない、国家財政そのものが帝国主義的略奪の前に破産の淵に立っているといえる。

   ##土着民族産業を破壊した企業進出##

 以上みてきたように、「援助」は、東南アジア諸国の工業化=経済援助に役立つ以上に、帝国主義国の輸出増進に役立っただけであり、「援助」をテコにして、帝国主義本国の大資本が、もう一方の手でそれ以上のものを持ち帰っていったのである。
 もちろんこの先進国からの援助によって、東南アジアにおけるいくつかの国の工業化は一定程度進展した。とくに六〇年代の台湾、韓国、シンガポール、香港といった国々は、工業生産指数だけでみるかぎりそれなりにいわゆるテイク・オフ=工業化を達成した国々であった。ところがすでにみたように、まさにこれらの諸国との間の対日貿易のアンバランスが、極端な日本の出超になっていたし、先進国からの債務の累積によって圧し潰されそうになっていた。
 もともとこれら諸国の工業化に役立つはずの援助資金は、はじめから、そのバランスのとれた経済計画の中に正しく位置づけられたようなものではなかったのである。その結果東南アジア諸国が膨大な援助と資金を導入して追求してきた輸入代替工業の育成さえ、それによって、貿易収支赤字中の増大と対外債務の累積をもたらしただけで、失業対策の効果すらなかったのである。これらの国々に輸入代替産業が根づきはじめたとたんに、日本資本が進出してその市場を奪い、産業活動の発展にブレーキをかけてきたのである。つまり、一定の工業化がすすみ、民族資本が育成されてくると、それに対応してその国の政府が民族産業を保護するために、保護政策をとり輸入制限をする。
 ところが日本の企業は既存のマーケットが失われるのを防ぐために資本進出を行うのである。この資本進出は合弁企業の設立をとうして、既存の市場占有率を確保するのがねらいなのである。
 台湾の例でみてみると、家電メーカーの場合、東芝、松下、サンヨーをはじめ、ほとんどの企業が六一〜六二年までに集中して進出していっている。初期の段階での資本進出の目的は、「商品輸出が困難になったための市場防衛」「現地市場での販売拡大」が首位を占めている。(注N)このような形で資本進出がなされたために、それは本格的な企業進出ではなく、たとえば薬品や化粧品メーカーのように完成品に近い原料を日本から持ってきて、包装だけを現地でやるような形態をとったり、要するに「合弁企業」といっても、日本から製品を持ちこみそれを売りさばくためだけのトンネル会社さえもデッチあげられたのである。この傾向を特徴づけているのは、町上場的な小規模多業種の形態をとっていることと、ほとんどの合弁企業に貿易会社が資本参加していることである。たとえば台湾の場合で、「七〇年現在の投資で、アメリカの一五九件に対し、日本は三九一件と圧倒的に多いが、一件当りの投資額はアメリカの一二二万ドルに対して、一八万ドルと七分の一である。」(注O)このようにして、まさに台頭してきたばかりの民族資本と競合し、それを圧迫し、破壊していったのである。
 六〇年代後半に入って、それまでに一定の工業化をなしとげた国ほど、輸入代替工業の育成に代る、輸出の強化を第一目標とする輸出主導型工業政策への転換を模索しはじめたのはそのためである。だがこの輸出主導型工業の基軸にすわるのは重化学工業部門であり、したがってますます巨額の外資を導入することにつながっていくのである。巨額な債務の累積をかかえ、膨大な元利償還のために新たな借款を得なければならないこれらの後進国にとって、さらに巨額の外資の導入が、輸出主導型の工業の育成につながっていくかどうかは極めて大きな疑問である。
 一九七一年で、後進諸国に流れこんだ政府援助、輸出信用、民間投資など資金の総額は一八二億ドル、ところが債務の支払いも一二二億ドルに増えているという。(朝日・四九・五・一)実状は、軍事独裁政権を維持するに必要な外資導へのための工業化プランといえる。
 だがいずれにせよ、七〇年代に入って、東南アジアのほとんどの国が、相次いで積極的な外資導入策と輸出主導型工業への転換に向って突き進んでいる。

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