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三、朴の二つの五ヶ年計画と日本帝国主義の侵略

 四・一九革命後の南朝鮮内部における学生を中心とした南北統一へむかう流れを、暴力的に押しとどめて登場した朴は、アメリカの軍事力の庇護とともに、北部朝鮮に対抗できる経済力の建設をとうして、南北分断の固定化にもう一つの基盤を与えようとした。そのために「先建設・後統一」のスローガンをかかげ、日本帝国主義の経済力を動員しつつ、ただちに五ヶ年計画に着手した。しかもかなり大規模な工業建設を目標にして。
 しかしこの朴の二つの五ヵ年計画も、結局それまでの停滞した経済と、帝国主義支配によって歪められた構造によって制約された。最初のそれは、「自立経済の達成」を掲げて出発したものの、六二年六月の通貨改革の失敗による内資調達の不振と外資導入計画の挫折によってたちまち行き詰まり、六四年から計画目標を大巾にダウンせざるをえなかった。
 朴の工業化政策が現象的であれ本格的な成長をとげるのは、日本の資本との結合が大巾に進展しはじめる時期、すなわち、日本帝国主義の海外進出のはじまる時期と一致している。結局、すでにみてきたように分断された経済的二重構造をもつ韓国経済は、構造的に帝国主義を補完する役割をになうことによってのみ、ある程度の成長を達成しえたのである。
表1
1962―64年平均 1965―68年平均
GNP成長率
設備投資増加率
輸出の伸び率
輸入の伸び率

7 %
16 %
14.6%
12.8%

10.8%
30 %
40 %
38.9%

 急速度の工業化を主要因とする高度成長の推進力は、いうまでもなく設備投資の拡大と輸出の急増にあった。いまその伸び率の変化を、朴の第一次五ヵ年計画が始まる六二年以降、第二次五カ年計画の最初の段階までを、六五年の日韓条約の締結の前後にわけて比較してみると、 ##表1## によって六五年以降の急速な伸びを確認することができる。また輸出の異常なまでの伸び率の高さと、それに対応した設備投資増加率の大きさが目立つ。だが、この設備投資の急増の半分近くは、商業借款を含む外資の導入によっている。そしていうまでもなく、その導入外資の大半はアメリカと日本であり、六八年までの確定ベース外資導入総額一五億一六〇〇万ドルのうち、アメリカか四〇・三%、日本が二七・三%、両国で六七・六%を占めている。
 日本資本の導入は、商業借款とそれを補完する政府借款の形で、六五年以降急激に増大した。その特徴は、@それまでのアメリカからの“援助”の導入による成果を継承しつつ、A商業借款を中心にして、短期間に集中的に導入され、Bその結果、特定産業部門に集中して、韓国経済の管制高地を掌握している。導入外資統計に対する日本の比重が一九・九%の段階(六九年)で、業態別にみると、一般機械の五四・二%、建設業・繊維の約四〇%、製紙・金属・窯業の三〇%というように、特定部門への明らかな集中を示している。日本の民間借款供与にもとづく主要生産企業の概要をみると、 ##表2## の如く、そのほとんどが韓国における同業界ののトップメーカーである。この表でも、日本からの民間借款による設備の導入は六七、八年に集中しているのがわかる。そして、セメント、肥料、PVC工業、合繊の諸企業では、日本からの借款により導入された設備で、その過半が生産されているのである。
 政府借款は有償・無償含めて、港湾、道路、輸送設備、電力等の産業基盤整備にあてられ、民間の資本投下を補完しているのであるが、肥料、化学品、繊維品、自動車部品、繊維機械などに関しては、政府供与の無償借款の中から、その半分近くが原資材供与として調達されている。
 ところでこうした企業のほとんどが、十数家族の韓国財閥の支配下にあり、それが三井・三菱を中心とする、戦前において朝鮮経済を植民地的に支配してきた資本によっていま再びその系列下におかれつつあるという事実に注目しておかなければならない。
 このようにして外資との結びつきを強めることによって膨張してきた韓国経済は、けっして総体としての「韓国経済」の均勢のとれた成長でもなければ、国内市場を基礎にした自生的な資本蓄積の成果として確立されているわけでもなく、いってみれば、それと分断されて形成された日米帝国主義の出島的構造がひとつのガン細胞のように韓国経済にとりついて、異常な膨張をとげてきているというのが真相である。この間の成長が、輸出産業の造成と輸出の目ざましい伸びによって主導されてきたことの内実は、まさにこの特徴をよく示している。

 この点を繊維産業を例にすこしくわしくみてみよう。
 たしかに韓国の産業構造のなかで、繊維・衣料部門は製造業部門の中心的な位置をになってきている。七二年には製造業全体の雇用の三〇%、輸出の約四〇%を占めている。七三年の輸出は一二億五〇〇〇万ドルに達した。そのうえ、綿織物から、綿・合繊混紡へ、さらには一〇〇%合繊へと移行しつつある。六〇年代末には五割を占めていた純綿紡績が七二年には約四割に減少し、逆に合繊は二割から三割に増加している。
 ところが、こうした韓国繊維産業の化合緘への転換が、実は日本における繊維産業の構造変化に対応しており、同時に日本資本の支配が浸透していく過程にほかならないのである。たとえば輸出の四〇%を占めている繊維製品も他の輸出商品と同様、アメリカと日本で地域別輸出シェアの七割を占めている。つまり逆に日本からみると、日本における「東南アジアからの繊維輸入品の約八〇%が日本の進出企業からの輸入」だといわれているように、本格的な現地操業をはじめた進出企業からの輸入が大半を占めているのである。日本における労働力不足と賃金コストの上昇によって競争力を失った労働集約的な紡績、織布、縫製部門はどんどん海外に進出していって、そこから日本に逆輸入してきているのである。ちなみに織布企業では韓国の時間当り賃金は、日本の五分の一以下であるという。
 まず最初の段階では織布部門が進出し、それにつづいて紡績部門が進出していくのであるが、六〇年代末の段階では織布部門の相つぐ進出を反映して、日本からの合繊織物の輸出は急速に低下してきているのに、これに代って加工段階が一つ手前の合繊繊維の輸出は、逆に年率四〇%以上の割合で増加してきている。すなわち、韓国で日本から原料としての合繊繊維を輸入し、それを加工して再輸出している構造が定着していることを示している。
 このような状況のなかで、六〇年代末に朴は第二次五カ年計画をとおして、 ##表2## でみたように、日本からの商業借款によってプラント類を輸入し、化学繊維工場の建設をすすめた。六四年にナイロン糸工場(韓国ナイロン・韓一ナイロン)、六六年にビスコース、レーヨン工場(興韓化繊)、六七年にアクリル繊維工場(韓一合織・東洋合繊)が次々と稼動をはじめ、六八年にはアセテート工場(鮮京化繊)、ポリプロプレン繊維工場(高麗合繊)が新設された。日本からの借款による五工場の生産力は全体の約半分を占めた。
 ところがこれらは、韓国において主要輸出品の位置を占めはじめていた合繊織物に、原糸を供給するという点では全く役に立たなかったのである。日本の大手メーカーの設備規模が一〇〇〜一八〇トン/日というのにくらべて、二五トン/日程度の小規模工場で、借款による設備導入で過重な金利負担をかかえているうちに、高い輸入原料を使用していては、とうてい輸出用の価格を維持することができない。この国産の原糸を使用したのでは、コスト高になって織物の輸出ができないのである。その結果、国内で生産された原糸は内需要のみにむけられた。だが輸出競争力をもちえなかったこれら国内産の糸も、国内市場との関係では過剰となり、たちまち四〇%近い操短に追いこまれ、七ヵ月分にものぼる在庫をかかえて軒並み欠損をつづけていったのである。
 こうした事情のため、すでに指摘したように輸出用の合繊織物は日本からのナイロンやアクリル原糸を買いつけ、それを織って輸出を達成しなければならなかった。しかも通常、国内産業を保護するという観点からは、競合する輸入品には関税をかけるのが普通であるし、すくなくとも民族資本の要求なのだが、この原糸の輸入には関税は一切かけられなかったのである。
 このように、原糸を輸入にたよっているために、輸出が伸びても外貨獲得率が低い。そこで朴は輸出奨励策の一つとして、輸入原糸の五%を製造上のロスとして計上することを許したり、輸出奨励金として、一ドルにつき九五ウォンから一二〇ウォンまでの輸出補助金支援を行ったりして輸出増進をはかったのである。輸出業者は、この五%分の輸入原糸を販売価格の高い内需要にまわすことによって利益を得て、それで採算をとっていたという。注E
 つまり国内産業の発展を抑え、均衡を破壊し、国内の消費者からの収奪を強めることによって輸出を伸ばしてきたのである。その結果輸出が伸びれば伸びるほど、輸入がそれを上回り輸出入アンバランスが拡大して貿易赤字が年々大巾に増加する構造が定着してしまったのである。こうして朴の五ヵ年計画がつくり出したものは、自国の経済を侵蝕して、日本の大資本のためにプラントの輸出市場と、原料、半製品の市場を開拓していくメカニズムにほかならなかったといえる。
 実際 ##表2## でみせたセメント、肥料、PVC工業のほとんどの企業が、中途半端な規模と借入金の金利負担の累積から採算がとれず、莫大な欠損を計上しつづけていたといわれる。例の不実企業続出の問題である。こうした企業が、輸出産業へ発展していく展望は、直接投資の導入による合弁企業の形で設備規模を飛躍的に拡大していく方向で見出されていったのである。日本の大企業は、繊維部門においても、七〇年代に入ってからの直接投資の急増のなかで、次々と合弁会社の設立にのり出していった。今日韓国の合繊設備能力の七七%が日本系列下の企業で占められるにいたっている。韓国における輸出産業が外国資本の支配下で、帝国主義本国からの輸入原資材を使って運転され、土地と動力とを無償に近い形で提供し、豊富な安い労働力を自由にさせるためにのみ操業をつづけているにすぎないことが明らかである。
 その結果、韓国経済は国際収支、支払準備の点からみて明らかに破産状態にあるといえる。韓国の輸出入総体の推移と貿易逆調の拡大等については ##表3## にみるとおりである。日本と韓国とのあいだの貿易のアンバランスについても同様に、日本からの輸入が韓国の輸入総額に占める率は、四割も占めており、韓国が日本へ輸出する額の四倍から五倍以上を、日本から輸入させられているのである。韓国の貿易赤字の半分は、日本との貿易赤字によって占められている。六六年から七三年に至る期間に、韓国からの対日輸出総額は一七億四〇〇〇万ドルであったのに対し、日本からの輸入は五六億四〇〇〇万ドルで、三九億ドルの対日貿易の赤字である。輸出入品目でみると、対日輸出の主要品目は繊維、のり、魚貝類、合板、かつら等であり、日本からの輸入の主要品目は一般機械、輸送機械、電気機械等のプラント類で占められており、完全な垂直分業型にあることを示している。

表3

1963年

65年

66年

67年

68年

69年

70年

72年
韓国の輸出総額

(100万ドル)
87


175


250


320


455


623


835


1,624
対日輸出の比率

(%)
58.4


47.1


43.0


27.9


27.9


36.9


34.2
韓国の輸入総額

(100万ドル)
560


463


716


996


1,463


1,824


1,984


2.522
日本からの輸入が占める割合

(%)
32.8


14.6


54.6


39.1


47.4


42.1
韓国の貿易差額

(100万ドル)
-473


-288


-466


-676


-1,007


-1,201


-1,149


-898
対日アンバランス

-139

-501

-633

-589

 また商業借款主導による朴の工業化政策は、元利償還額の巨額の累積をもたらした。韓国の元利償還金は、七一年―二億三〇〇〇万ドル、七二年―三億一五〇〇万ドル、七三年―三億四七〇〇万ドル、七四年―四億六〇〇万ドルの予定だという。これを商品輸出八億ドル、貿易収支の赤字一一億ドル、外貨保有高六億ドルといった数字と合せて考えてみると明らかに国家財政そのものが破産の淵にたっていることが明白である。
 そこで朴は、七〇年代に入ってからそれまでの商業借款主導型から、直接投資を大巾に受入れる方向に政策転換し、より一層深く自国経済を外国資本の手にゆだねていくのである。日本からの直接投資も七〇年以降急速に増大していった。六九年までの日本の直接投資の累計が四八〇〇万ドルに対して、七〇年一年で八六三五万ドル(全体の二五・一八%)、七二年一億一七二四万ドル(六七・一%)と増え、七三年にはほとんど全部を占めるまでになっている。
 馬山輸出自由地域では、進出企業の九割以上が日本企業で占められているといわれ、韓国で生産される化学繊維の九割以上を、日本が原材料を供給して生産させ、さらにその製品を買いとるという“下請的体制”が定着しているのである。ところでいうまでもないことであるが、こうした原材料や製品の輸出入にあたっては両国の市場を一般的に開放しているのではなく、原料輸入のほぼ九〇%は日本の親企業からの直接の輸入であり、民間借款のうち八〇%以上が、三井、三菱、伊藤忠、トーメン、丸紅の五大商社によって握られ、これらの大商社が韓国の財閥と結びついて、その外資導入から、輸出入のほとんどを独占しているのである。「七二年の段階で韓国の輸出の三五・三%、輸入の三三・六%まで」が日本商社に依存しているという。
 以上みてきたように、朴の二つの五ヵ年計画がつくり出した輸出産業の発展と急速な輸出の成長そのものが、これまでにのべてきた、帝国主義の飛び島的産業構造の膨張、肥大化でしかなかったことが明白である。

四、「国民経済」を侵蝕して拡大する輸出産業

 すでにみてきたように、朴の二つの五ヵ年計画がつくり出したものは、国民経済を破壊し、侵蝕することによって、帝国主義本国の飛び島的構造を拡大することであった。そこで韓国労農人民にとっての「経済」 がどのように破壊され、侵蝕されてきたかをみなければならない。輸出産業を中心にこれまでみてきたことから明らかなことは、外資導入をテコにして肥大化していった輸出産業を基軸とする再生産構造と、国内市場の停滞と結びついている構造との間の分断とその払大再生産である。それは、急速度の経済成長の中の農業の停滞と危機として典型的にあらわれている。
 GNPの成長率が五八〜六一年平均で四・一%から、六二〜六八年九・一%へ、その中で第二次産業は七・三%から一七・二%へ、第三次産業も三・二%から九・三%へ高まっているのに、第一次産業は四%から三%へ逆に低下しているのである。
 この結果、総人口の約五〇%が農業人口で占められているなかで、食糧を輸入にあおがなければならないだけでなく、それが年毎に大巾に増大していく状況をつくり出している。食糧自給率の推移をみると六一年の段階では食糧自給率は九〇・八%を維持しており、米は韓国から日本へ輸出されていたのである。それが七〇年には七七・九%へ、七三年には六八・五%へと食糧自給率は低下し、六九年以降は逆に米まで日本から輸入しはじめているのである。六九年に一億三五〇〇万ドル、七〇年に一億一〇〇〇万ドルもの米を、韓国は日本から輸入している。
 こうして食糧輸入量は、需要量の二三% (六九年)から七二年には三〇%近くに増加し、その額も六二年には四〇〇万ドルにすぎなかったのが、六八年一億五三二〇万ドル、六九年二億六三〇〇万ドル、七二年三億五〇〇〇万ドル、七三年四億八八〇〇万ドルと急速に脹れあがってきている。これを六九年の韓国輸出総額六億二〇〇〇万ドル、七二年の一六億二〇〇〇万ドルと比較してみると、食糧輸入が毎年いかに国際収支を圧迫しているかが明白になる。
 朴の第二次五ヵ年計画が目標にした工業化率と輸出増進は目標を上回りながら、「食糧の自給体制確立」については、目標を達成しなかったというのではなく、停滞の中に全く放置され、省りみられなかったことを示している。そのことは、産業構造比率が、農業部門三二%、製造業二〇%という比率のもとで、六八年の設備投資のうち製造業の二五・一%に対して、農業部門へはわずか六・二%が投資されたにすぎなかったことをみてもはっきりしている。
 こうした農業の停滞は、あとでみる所得の低水準とともに国内市場を鮪少し、輸出産業と国内市場との分断をますます深くしていく。その結果、原材料や生産手段、各種部品等の供給を国内において保障する均衡のとれた工業の発展を構造的に阻害することになる。原材料や生産手段の供給がつねに帝国主義本国の景気動向や経済的諸事情によって左右され、そのためにしばしば生産削減や操業短縮が余儀なくされる。朴政権のこれまでの「重化学工業化」の内実が、投資財生産の工業ではなく、耐久消費材に集中していたことが、それを最もよく示している。とりわけ農業生産の停滞は、農機具生産の発展がほとんどみられないことのなかに象徴的に示されている。(したがって、こうした構造のうえに、今、朴政権によって大々的な「重化学工業化」が推し進められようとしていることの意味は重大である。この点はあとてみるように、韓国における消費材工業の発展に関連づけられたものではなく、日本帝国主義が、鉄鋼や石油化学、非鉄金属等を含む重化学工業部門の海外立地=企業進出を促進しはじめたことによって規定されているのである)。
 ともかく、こうしたことの結果国内金融は生産的傾向をおびるよりも、投機的・高利賃的性格をおび、私債とよばれる私金融がばっこするとともに、国内金融の金利が異常に高くなる。銀行の貸出金利でさえ二四〜二六%という高金利で、私金融になると六〇%前後という高率である。このような高金利は、外資の導入などおよびもつかない零細企業をますます停滞に追いこむ反面、外資の借款を特権的に認められる輸出関連産業は、ますます大きな恩典をこうむることになる。このような事情は、一面では導入した外資の一部が生産に投下されずに、金利差を利用して巨利をむさぼる投機的傾向に流れるのを助長し、高利貸的性格を再生産する。だが他面では、かぎられた国内資金をより一層輸出関連産業に集中させる結果をも生み出す。
 こうして多くの中小企業が輸出産業に動員される。とくに一九六四年以降、輸出産業への転換と特化に重点を置いた朴政権の中小企業政策が展開され、多くの中小企業が、繊維、合板、雑貨などの労働集約的生産を中心にした輸出産業への転換を強制されたのである。この政府の政策は、輸出産業優遇というだけでなく「輸出商品を生産できない企業は業種転換をはかる」といったほど徹底したものであった。かくして七二年末の合弁企業のうち、一〇〇万ドルを超えるのはわずか一三%で、圧倒的に中小企業によって占められたのである。このことからも、朴の工業化と「高度成長」や「輸出急増」の中味が、圧倒的に低賃金による労働集約的産業を中心にしたものであることがわかる。
 輸出産業は、低利資金を土台にして、そのうえ政府のさまさまな輸出奨励金の支給や関税の免除、電気、水道料金の割引等々が与えられて、輸出商品のダンピングか政策的に促進されている。
 これに反して、国内市場価格は全般的にますます割高になり、そのことが国内市場と輸出とをますます切断していくことになったのである。

五、収奪される労働者・農民の実態

 ところで、この輸出の増進を軸に達成された工業化の過程で、一方では農業の停滞をつくり出したのであるが、同時に労働者階級のかなり急速な増加と都市への集中をもたらした(多くのスラム人口を含みつつ)ことも事実である。一九六五年から七一年の間に、就業人口は八五二万二子人から九七〇万八千人へ一四%増加した。そのなかで第一次産業では、就業者数は五〇三万七千人から四七〇万九千人へ五%減少し、構成比でも五八%から四八%へ低下している。ところが、鉱業、製造業を中心とする第二次産業では、八八万人から一三七万五千人へ、六年間で五六%も増加している。第三次産業では約四〇%。たしかにまだ相変らず農業人口が全体の五〇%近くを占めているとはいえ、かなり急速なプロレタリア化がすすんだことがわかる。

表4
自営業・家族従業者を除く就業者

(単位:1000人)

常雇 臨時 日雇

1963
1965
1967
1969

974
1,139
1,532
2,014

515
708
628
519

1,007
884
973
1,020


1963
1965
1967

169
217
331

161
221
175

403
337
337



1963
1965
1967

805
902
1,301

354
487
636

554
547
466

経済企画院『経済活動人口調査』(1967)

 しかしながら、これまでにみてきたように国内産業を侵蝕しての輸出の増進、帝国主義の出島的構造の膨張、輸出関連産業と国内市場との分断という経済構造は、労働者人民の恐るべき低賃金とスラム化をもたらした。とくに農業の停滞、すなわち農民層分解の進展していない状況下でのプロレタリアートの数の増加、これはまず第一に多くの離農民の都市への集中、一四〜一八歳の低年令層の雇用の増大と、婦人層の臨時・日雇といった形での不安定な雇用構造の拡大を意味している。いくつかの指標によって、われわれはそれを確かめることができる。
 まず韓国の産業労働者の平均賃金は、一貫して一世帯当りの家計消費支出をはるかに下まわる低い水準にある。たとえば七一年の数字でみて、製造業の平均賃金が一万七〇〇〇ウォン(約一万二千円)程度で、一ヵ月の勤労者家計一世帯(五人家族)の消費支出三方五〇〇〇ウォンの半分にも満たない。製造業における #男子# の平均賃金二万五〇〇〇ウォンとしても、とても生活できる貸金ではない。このため、家庭の主婦や児童の臨時・日雇その他の形の労働による家計補助が不可避となっている。表4にみるように全体として臨時と日雇の合計が常雇を上回っており、農業人口の季節による変動が三〇〇万に達するのと合せて、近年の工業化の過程における労働者数の増加が、かかる不安定な雇用構造の拡大と結びついていることは明白である。この点は、月別平均賃金の極端に激しい変動のうちにも反映されている。そして、このような雇用構造が厖大なスラム人口を背景にして成立していることについては、もはやあらためて指摘するまでもあるまい。七一年の段階で四五万人の元全失業者と一四〇万人の半失業者がいたといわれている。
 いずれにせよ、韓国の賃金水準は、政府統計やその他銀行等の政府系機関の統計でみてもアジア地域で最も低い。しかも政府系出版物が、その点を憶面もなく最初に指摘し強調している。それによって、外資導入を積極的に推進するために、投資環境の「良さ」を宣伝しているのである。
 この韓国のアジア一低い賃金は、さらにはなはだしい格差をともなって、かの不安定な重層的雇用構造のうえに展開される。産業別、規模別、性別、さらに学歴別の賃金格差が非常にはなはだしいうえに、常雇と臨時・日雇労働者の貸金格差がこれに加わるのである。

 まず五〇〇人以上規模の労働者の賃金水準にくらべて、一〇〜五〇人規模のそれが六一%、五〜九人規模では四六%という低さである。また生産に従事する労働者の賃金は事務系労働者の三分の一にしか達していない。さらに同じ生産に従事する労働者でも常雇と臨時の賃金比率は一〇〇対六三である。したがって臨時工の賃金は事務系労働者の二〇%程度の賃金しかうけていないことになる。女子労働者の賃金はさらに低く、男子平均賃金の四六%であるという。(注F)表5から、生産従業員の八四%が中卒以下であり、全従業員の七五%を占める中卒以下の労働力が生産の主力を形成していることがわかる。また全女子従業員の九割が生産労働に投入されている。このような低賃金のうえに、ほとんどの労働者が十時間から十五時間の長時間労働を、ほとんどなんの特別手当もなしに強いられている。したがってその時間当り賃金はさらに低くなり、ほとんど日本の十分の一以下になる。

表5

男女計

全規模

5―9

10―29

30―99

100―199

200―499

500―
全従業員(生産従業員+事務職員)
うち、生産従業員比率(%)
生産従業員(常雇+臨時職)
うち、常雇比率(%)
生産従業員に占める中卒以下の比率(%)

549,156
82.3
451,869
84.7
83.9

83,040
88.3
73,339
79.5
92.3

103,972
82.2
85,489
80.5
90.7

114,577
80.1
91,780
83.5
85.0

66,114
79.9
52,799
85.4
81.4

70,691
79.0
55,839
87.7
76.1

110,761
83.6
92,622
91.9
76.1

(出所)韓国銀行『賃金基本調査報告1967』1968年、ソウル.より作成。

 こうした驚くべき低賃金よりさらに低い所得水準の中に放置されているのが、人口の約五〇%を占める農民とその家族なのである。農業所得は、都市生活者一世帯当りの所得のわずか六〇%にすぎないという。収入の六〇%を米の販売に頼らなければならないのに朴政権による低米価政策によって、その市場価格は、国際価格(一俵=六○キロ当り二万二〇〇〇ウォン)の半分以下に押えられている。ところが工業製品の価格は上る一方で七三年から七四年にかけて、肥料は平均三〇%、配合飼料二五・五%、澱粉四二%(以上一二・四告示)、農薬は二五・二%、セメントは三四・二%(以上二・五告示)の値上げとなった。そのうえ、すでにみたように輸出促進のための工業化政策の結果、農業部門への投融資はほとんどなされず、いまだに三割から四割の水田が灌漑設備の不充分なままに放置されている。このような状況のなかで「農村では不在地主が増え、不動産投機があらわれている」という。そして“財閥”による土地の買い占めがすすみ、耕作地面積二反歩以上の土地の六〇%が耕作者の手を離れて、事実上の小作制が復活しているという。七〇年の『農業センサス』の結果で「全農家世帯数の三三・五%にあたる八〇万九〇〇〇世帯が借用耕作をしている」ことが明らかにされている。これは六〇年のセンサスに比べて、世帯数で三割以上の増加を示している。
 このうえに「セマウル(新しい村)運動」によるあらたな農民の収奪が進行しはじめている。「セマウル運動」は、政府資金による農業近代化なのではなく、農民自身の負担による農業基盤の整備にむけて、村落規模でその労働力や資金を動員しようとするものにほかならない。政府資金は、村ごとの競争をあおりつつ、農民からより大きく収奪するためのテコとして利用されているのが真相だといわれている。だが朴政権が誇大に宣伝しているこの運動も、土地革命が不充分で、小規模農地を土台として停滞した農業生産がつづく状況を基礎とするかぎり、上から強権的に持ちこまれる行政的措置の歪みをますます大きくしていくだけである。行政に対する不信で塗り固められた農民の消極的対応と抵抗は、いたるところで官僚と衝突し、不満を増大させている。
 また、下からの参加が欠落しているところへ、上から官僚的に押しつけられてくるプランは、地域の特殊性を全く無視した融通性のないものとなっている。そのうえ村道や農道の拡張または新設のため、耕地の切り捨てが強要され、農民の生活を補完してきた共有地が強奪されている。さらに屋根のふき替えなどが画一的に強制されて、この運動による農民の負担が塁積しているという。慶尚南道山清郡矢川面では、二九の部落がすべて十〜十五万ウォンの共同負債を負っており、一四〇〇余世帯のすべてが四〜五万ウォンの負債をかかえて、そのうち四〇〇余世帯が日雇で食いつないでいるということである。(注G)
 そしてここでも、権力と癒着した財閥資本が入りこみ、土地の買い占めがすすんでいる。「セマウル運動」の名による「生産基盤改善」のために行われる各種土木工事(河川改修工事、橋梁工事など)に、土地や労力の提供を保障されて、財閥資本が侵透していくのであるが、その過程で種々の「総合開発センター」がデッチあげられて、多くの土地が買い占められていくという。
 こうしたなかで棄農の形をとった農民の都市への流出がつづいている。農林水産業に従事する人口は、六四年から七一年までに年々減少し、六二%から四八・五%に減っている。だが、これはすでにみたように、農業の近代化や農業生産性の上昇による結果ではなく、農村の疲弊の結果としての離農なのである。
 したがってその農村人口の流出が、ますます農業を停滞に追いこみ、農村を疲弊させている。ある村(許南基面)では、「一万余名の村民のうちすでに二千名近くが離農し、村はゴーストタウンのようになっている」という。(注H)
 かくして、首都ソウルの人口は、七一年十月一日で五五〇万をこえたといわれているが主として離農民の流入による増加だという。そのほとんどはスラムに住み、ソウルの東大門の貧民街の七四%までが離農民によって構成されているという。
 以上みてきたような労働者の極度の低賃金と、多くの離農民を背景にして、朴政権は輸出専門の多くの「工業団地」をつくり、外資導入にますます積極的な姿勢を見せている。
 数年前まで人口十四万人くらいの小さな田舎町馬山に、自由貿易地域がつくられてから人口は急速に膨脹し、七二〜七三年には一挙に三五万人くらいに脹れあがった。自由貿易地域内部では一○五の企業(うち日本資本の企業八七)で二万四千人が働いている。そのうち女子労働者が二万一千人で、賃金は日本系企業の場合、ほとんど基本給のない日給制で、最初の三ヵ月から六ヵ月間は、見習期間と称して、せいぜい二五〇〜三〇〇ウォン(一五〇〜一八〇円)、見習期間が終っても五〇〜一〇〇ウォンが上積みされる程度で、月平均一〜一万二〇〇〇ウォン(六千円から七二〇〇円)の低賃金である。(注I)
 さらに亀尾につくられている電子工業団地では、三一八万五〇〇〇坪の地域を七三年十月までに造成を終えて、ここに三三〇社(電子関係三〇〇、繊維三〇)を誘致する計画であるという。工団敷地は三〇〇〇坪を基準に分譲する計画で、地価は坪当り四千五百円で五年分割償還条件である。そして、労働力については、亀尾を中心に半径五〇キロ以内の一四〜二四歳の地域内労働力四三万四〇〇〇八を「調査・確保している」という。その初任給は、日本円で男子一万一千円、女子六千円程度である。七三年末にすでに決定している企業三〇社のうち、国内企業はわずか五社で残り二五社が直接投資が合弁企業で、しかもそのほとんどが日本投資であるといわれている。そのほか九老洞のマンモス工業団地をはじめ、原州、永登浦、富平等々に輸出工業団地がつくられ、あらたに裡里にも輸出自由地域かつくられようとしている。
 七〇年代に入って急速に進展した直接投資とともに、このような形の輸出自由地域の造成が対応してすすめられ、馬山における企業の九六%が日本資本の支配下にあるといわれるように、ほとんどが外資系企業によって占められている。したがってこうした外資系企業に従事する労働者の数が急速に増え、七一年末で、投資認可三七四件中、稼動を開始した企業一七五の雇用労働者が五万五〇〇〇人に達した。これは十人以上雇用される事業所の労働者一二〇万の五%にあたるという。これは今日ではさらに数倍に脹れあがっている。そのほとんどの「工業団地」が、あたかも「日本内の一工業団地」といわれ、そこに地域内のほとんど全部の労働者が動員されて、「一種の強制連行」だといわれるほどの状況をつくりだしている。しかも「大部分が就業規則、給与規定、勤労契約書などをまともに備えていない」という状況で、労働環境がひどく、暗い部屋で顕微鏡を使う連続作業や狭い空間での無理な姿勢からくる肉体的疲労のため、視力障害が多く、また通風の悪い部屋で塵埃や化学薬品の被害による気管支系統の職業病、電気ノコギリやプレスの型抜きによる手首、手指の切断等の労働災害が頻発していても、ほとんどなんの保障もなく、一方的に解雇されていくケースが圧倒的に多いという。そのうえ外資系企業での労働組合の結成は事実上禁止されており、情報部政治に支えられた朴の軍事・警察力によって、すべての闘争と労働者の要求が日常不断に弾圧解体され、外国資本の利益だけが手厚く保護されているのである。

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