つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる


国際革命文庫  20

国際革命文庫編集委員会

1

電子化:TAMO2
●参考文献
「帝国主義論」

「なにを いかに学習すべきか」
――マルクス主義の基礎的理解のために 上巻――


E 帝国主義論(レーニン)
     ―岩波文庫、国民文庫等に収録―

1 第一次帝国主義戦争と第二インターナショナルの崩壊

 一九一四年からはじまった第一次世界大戦は、社会主義インターナショナル(第二インター)を一瞬のうちに崩壊させた。第二インターは、各国政府の戦争政策を支持する公然たる社会排外主義の多数派潮流と、カウツキーを理論的主柱とする口さきではマルクス主義を唱えながら実践的には社会排外主義に他ならない中間的潮流と、国際主義の旗を守ろうとする戦闘的反対派潮流とに、三分解した。
 迫りくる戦争に対して、第二インターは一九一二年十一月のバーゼル臨時大会で「来るべき戦争は帝国国主義戦争であり、各国プロレタリアートは互に撃ちあうべきではなく、戦争を阻止するために全力をあげて反戦・反軍闘争を展開しなければならず、もしそれでも戦争が始まったばあいには、これを内乱に転化し、戦争による危機を資本主義の打倒とプロレタリア社会主義革命へ導くために、総力で闘いぬくであろう」という宣言を採択していた。だが、この厳粛な誓いは、一四年八月の砲声一発で、インターナショナルの大多数によって、踏みにじられうちすてられてしまった。祖国をもたないプロレタリアートの国際的団結のかなめであるはずのインターナショナルは、このとき公的にも死んだ。
 この瞬間から、新しい革命的なインターナショナルの建設のための闘いがはじまった。
 一九一五年九月、スイスのツィンメルワルドで、第二インターの国際主義的な潮流を結集して、第一回国際社会主義者会議が開催された。ツィンメルワルド左派という名で知られるようになったこの部分が、「あらゆる国の反対派の、すでに機運の熱した、緊急な統合、すなわち第三インターナショナルの創設」(レーニン)への第一歩であった。
 レーニンはボルシェビキをひきいて、「帝国主義戦争を内乱へ」のスローガンを断固として擁護し、社会排外主義者との再統一の展望をすてきれないツィンメルワルド左派内の中間主義的部分との闘争をおし進めた。ブルジョアジーの従僕になりさがった社会排外主義者と完全に手をきること、「帝国主義戦争を内乱へ」のテーゼを実践すること(ボルシェビキの決議は戦争の内乱への転化のための系統的な準備として、(1) 軍事公債を拒否すること、(2) 国内平和と手を切ること、(3) 非合法組織をつくること、
(4) 塹壕内での連帯行動を支持すること、(5) あらゆる革命的大衆行動を支持すること、をあげている)、ただこれだけが、腐りきった第二インターの屍から国際プロレタリアートの前衛を救いだし、革命的な第三インターと来たるべき革命を準備する道であった。
 レーニンは、まさにこの観点から、帝国主義戦争の暴露、公然・陰然の社会排外主義とりわけカウツキー主義への非妥協的な批判、なかでもとくに民族自決権の擁護のために、この時期の全理論活動をささげた。「帝国主義論」は、何よりもこうしたレーニンの革命的インターナショナルと来たるべき革命のための闘争の中に、しっかりと位置しているのである。

2 イソップの言葉で書かれた時代的背景

 「帝国主義論」(「資本主義の最高の段階としての帝国主義――平易な概説」)は、一九一六年一月〜六月に執筆された。レーニンはこの著作のために、「帝国主義論ノート」として知られる全二十冊におよぶノート(そこには独、仏、英、露語で書かれた一四八冊の著作、二三二の論文の参照と覚え書きがおさめられている)を準備した。レーニンは、この著作の早急な出版を望んだが、実際に刊行されたのは、一九一七年二月革命の後(四月以降)であった。
 「帝国主義論」は、ツァーリズムの厳重な検閲下で合法的に出版することをねらって書かれたものである。「だから私は、自分の仕事をごく厳重に、もっぱら理論的な――とくに経済的な――分析にかぎらなければならなかったばかりでなく、やむをえず政治についてわずかばかり言及するぱあいにも、非常に用心ぶかく、暗示的に、すなわちイソップの言葉で――ツァーリズムのもとでは、革命家が『合法的な』著作を書くためにペンをとるときにはかならずたよらざるをえなかった、あのいまいましいイソップの言葉で――言いあらわさなければならなかった」(一七年四月付の序文)
 また、こうも言っている。「いま、自由の日に、この小冊子の、ツァーリズムの検閲を顧慮したためにゆがめられ、鉄の万力によって押しつぶされ、締めつけられたこれらの箇所を読みかえすことは、苦痛である。帝国主義が社会主義革命の前夜であること、社会排外主義(口さきでは社会主義、行動では排外主義)が社会主義にたいする完全な裏切りであり、ブルジョアジーのがわへの完全な移行であること、また、労働運動のこの分裂が帝国主義の客観的諸条件と結びついていること、等々について、私は『奴隷の』言葉でかたらなければならなかった」
 だから、われわれが「帝国主義論」を学習する際に、ぜひともおさえておかなければならない点が、二つある。一つは、ごく厳重に経済的な分析にかぎってまで、この著作を早急に、かつ「合法的」に、出版することに重要な意義を与えたレーニンのねらいを、正確に理解しなければならないということである。もう一つは、「奴隷」の言葉で暗示的に語られている部分(言いかえれば、ほとんど触れられていない政治的諸問題)を、正確におぎなって理解しなければならないということであるo
 第二の点の中心的な問題は、いうまでもなく民族植民地問題である。「帝国主義論」を前後して書かれた諸論文は、「社会主義と戦争」「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」「革命的プロレタリアートと民族自決権」「社会主義革命と民族自決権(テーゼ)」「ユニウスの小冊子について」「自決に関する討論の総括」など、ほとんどすべてが、民族自決権の擁護にあてられたものであった。だから、ここではくわしく述べられないけれども、民族自決権のための闘争をぬきに「帝国主義論」を語る(多くの「帝国主義論」の解説はまさにそうなのだが)のは、「帝国主義論」の背景をぬきさるに等しいのだということを、しっかりとつかんでおかなければならない。

3 帝国主義と闘うために

 さて、レーニンはこの著作の公式の目的を、本文の最初で、「帝国主義の基本的な経済的諸特質の関連と相互関係とを、簡単に、できるだけ平易な形で叙述しよう」と、説明している。
 当時の戦争を、協商国(イギリス、フランス、ロシア)も同盟国(ドイツ、オーストリア)も、自国にとっての神聖な戦争として描きだし、人民大衆をこの戦争目的の大義に従わせるために、大きな努力をはらった。君主主義的、ブルジョア的知識人はいうまでもなく、「社会主義者」の大多数までもが、排外主義的「祖国防衛」の大合唱に和し、「聖戦」の意義を人民大衆に叩きこむ役割を担っていた。ボルシェビキやスパルタクス団などの革命的社会主義者のグループは、非合法の新聞やリーフレットを通して、戦争反対・自国政府打倒の煽動を組織していたが、戦争の真の姿をその原因から総括的に明らかにし、御用知識人と口さきだけの社会主義者、とくに「マルクス主義」の衣をまとって排外主義的な宿命論を説いているカウツキー主義者を、体系的、理論的に粉砕することが、ぜひとも必要であった。
 レーニンは、一五年二月付の「エヌ・ブハーリンの小冊子『世界経済と帝国主義』の序文」でこう書いている。「いうまでもなく、現在の戦争を具体的=歴史的に評価することは、もし帝国主義の本質をその経済的側面からも、政治的側面からも完全に解明することをその評価の基礎としなければ、問題にさえなりえない。そうしなければ、この数十年の経済史と外交史の理解に近づくことはできないしまたこのような理解に近づかなければ、正しい戦争観をつくりあげるなどということは、口にするのもこっけいである。マルクス主義は、この問題で現代科学一般の諸要求をとくにくっきりと表現しているのであるが、このマルクス主義の見地からすれば、一国の支配階級の気にいるか、あるいは彼らに都合のよい個々の事実を外交『文書』や今の政治的事件、等々のなかから抜きだすことを、戦争の具体的=歴史的評価と理解するような方法の『科学的』意義などというものは、嘲笑をまねくだけのものでしかない」と。
 ところで、横行しているのはこういう「嘲笑をまねく」べき戦争観ばかりであった。だから真正のマルクス主義者の立場と方法を、包括的に、しかもわかりやすく、説明している出版物を、早急にかつ広範に、流布することには、特別の意義があった。のである。
 こういうわけで、レーニンは当のロシア帝国主義にまったく触れられず、また帝国主義の科学的分析からただちに導かれるべきプロレタリアートの革命的戦術をはっきりと述べられないという犠牲をはらってまでも、帝国主義についての「平易な概説」たる本書の「合法的な」出版に、重要な意義を与えたのである(レーニンは出版の仲介を頼んだポクロフスキーへの手紙の中で、本書の出版に重要な意義があることを繰りかえし、「帝国主義」という書名がつごうが悪ければ「最新の資本主義の特質」でもいい、ただし「平易な概説」という副題は絶対に必要だ、と述べてそのあたりの事情を明らかにしている)。
 だが、レーニンのそうした配慮とはらった犠牲は、本書の出版直前にツァーリズムが倒れたことによって、無駄(もっともこれはうれしい無駄であったろうが)になってしまった。検閲を顧慮する必要がなければ、「帝国主義論」は明らかに違ったかたちで書かれたに違いないのである。しかし、レーニンにはこれを書きなおす余裕はもはやなかった。それに、「またそうすることは、おそらく当をえたものでもないであろう。なぜなら、本書の基本的な任務は、すべての国の争う余地のないブルジョア統計の総括的資料とブルジョア学者たちの告白とにもとづいて、国際的な相互関係における世界資本主義経済の概観図が、二十世紀の初めに、すなわち最初の全世界的な帝国主義戦争の前夜に、どのようなものであったかをしめすことであったし、いまもなおそうだからである」(二〇年七月付のフランス語版とドイツ語版の序文)

4 帝国主義はプロレタリア革命の前夜である

 さきに、レーニンが「帝国主義論」の出版に託したねらいを明らかにすることを通して、本書が革命的第三インターのための闘いの一環として書かれたことを述べた。「帝国主義論」はまぎれもない経済学上の書物である。だが、「帝国主義論」をたんなる経済学的著作として読むことは、「帝国主義論」にこめられたレーニンの革命的精神をぬきさることを意味する。
 スターリニストの手によるさまざまな「帝国主義論」の解説には、「帝国主義論」はマルクスの「資本論」を創造的に適用し、マルクス経済学を深め、発展させたものであり、これが「帝国主義論」の最も車要な意義だ、ということが必ず書いてある。このような「帝国主義論」の神秘化は、ためにするものであり、「帝国主義論」を革命的インターナショナルに向けての闘いから切り離すものである。「帝国主義論」は一国社会主義論の理論的根拠を与えたものである、というスターリニストの神話にいたっては、歴史の完全な偽造そのものであり、神秘化されたレーニンを用いて労働者国家官僚層の反人民的特権を「理論的」に粉飾しようとする許すことのできない嘘であり、革命家レーニンその人への最大の冒涜のひとつである。
 レーニンは、もちろん「資本論」を貫いているマルクスの方法に依拠した経済学的著作として、「帝国主義論」を書いた。だが、「資本論」を「深め、創造的に発展させた」経済学の教科書をつくる目的で、「帝国主義論」を書いたのではないことは、すでに見た通りである。「深め、創造的に発展させる」目的でさまざまな経済学的嘘八百を書く伝統は、スターリニストの御用学者以来のものであってレーニンの時代には誰も考えつかないことだった。
 レーニンが「帝国主義論」で示そうとしたのは、世界の再分割戦争に導いている帝国主義の真の経済的動因が、金融寡頭制を頂点とする資本主義的独占体の膨張運動にあること、帝国主義は資本主義の不可避的な、特殊のかつ最高の発展段階に他ならないこと、したがって、独占的資本主義から非独占資本主義への復帰の要求以外を意味しない小ブル自由主義者からカウツキー主義者までの帝国主義批判は無力かつ反動的であり、プロレタリアートの要求はただひとつ、資本主義の打倒=社会主義でなければならないということであった。レーニンはこのことを、「すべての国の争う余地のないブルジョア統計の総括的資料とブルジョア経済学者たちの告白とにもとづいて」明らかにしようとしたのである。
 レーニンは本書の最後で総括的に、「帝国主義の経済的本質について以上述べたすべてのことから、帝国主義は、過渡的な資本主義として、もっとも正確に言えば、死滅しつつある資本主義として、特徴づけられなければならない」と述べている。これは言いかえれば、「帝国主義は、資本主義の最高の発展段階である。先進諸国の資本は、民族国家の枠をこえて成長し、競争を独占におきかえ、社会主義を実現するためのあらゆる客観的前提条件をつくりだした。それゆえに、西ヨーロッパおよびアメリカ合衆国では、資本家政府をうちたおしブルジョアジーを収奪するためのプロレタリアートの革命的闘争が日程にのぼっている」(十六年二月『社会主義革命と民族自決権<テーゼ>』)、「帝国主義はプロレタリアートの社会革命の前夜である」(「帝国主義論」への二十年七月付の論文)ということである。つまり、レーニンは、「帝国主義論」を通して、帝国主義に対する革命的プロレタリアートの戦術の理論的前提を、「平易な概説」として展開しているのである。

5 現代の帝国主義と「帝国主義論」

 「帝国主義論」が書かれてから五十年以上がたった。その間に、二度目の帝国主義世界戦争があった。そしてこの第二次世界戦争に際して、スターリンによってさん奪された第三インターは、この戦争を「民主主義国家対ファシスト国家の戦争」と規定し、「民主主義国家」(連合国)の共産党(第三インター各国支部)に、自国政府の戦争政策への全面協力を命じ、このことの当然の政治的結論として第三インターは自ら解散したのであった。これは、第一次大戦の勃発によって、各国社会主義政党が自国政府支持の立場にたち、第二インターが一瞬のうちに崩壊したのに匹敵する事態であった。レーニンが革命的第三インターの創設へ向けて掲げた「帝国主義戦争を内乱へ」のスローガンは、レーニンの正統な後継者を自称するスターリンによって公然と踏みにじられ、ただトロツキーによって創設された第四インターナショナルのみが、このスローガンを掲げて第二次帝国主義戦争の中を闘いぬいたのである。
 ここで第二次世界戦争にいたる経済的政治的動因を詳しく検討するわけにはいかない。ただスターリニストとその御用学者たちが、「帝国主義論」を経済学上の「教典」として神秘化しうやうやしく教壇の奥深くしまいこんでしまうのは、「帝国主義論」の直接にさし示す政治的結論が、彼らにとって都合が悪くなったからであるということ、「帝国主義論」にこめられたレーニンの革命的核、帝国主義に対する革命的プロレタリアートの戦術は、トロツキーと第四インターの闘争の中でのみ保持され、継承されてきたということ、は確認しておかねばならない。
 第二次大戦後、資本主義的独占の発展は比較にならないほど、だがまさにレーニンの指摘通りに、進んだ。たとえば、世界最大のビッグ・ビジネスであるゼネラル・モーターズ(GM)の年間総売上げ高は、オーストラリア、オランダ、スウェーデンなどのレベルの資本主義国の国民総生産にほぼ同じなのである。ニクソンは、GMをはじめとするスタンダード石抽、シェル石油、GE、IBMなどの巨大独占の政治的総代理人として、これらの巨大独占の利益を防衛するために、インドシナで、全世界で全力をふるっているのである。多国籍企業の誕生、あるいは、EECからECへの発展、という第二次大戦後の資本主義の新しい事態の出現は、だが、レーニンが「帝国主義論」で展開した帝国主義段階に達した資本主義の膨脹運動の今日的な発展以外の何ものでもない。
 二度の世界戦争を通して、帝国主義は世界の三分の一を失なったとともに、アメリカ帝国主義をその絶対的な中心として押し上げた。第二次大戦後、帝国主義どおしの戦争は起っていない。だがそれは、帝国主義圏におけるアメリカ帝国主義の優位が絶対的であるのと、植民地世界における反帝国主義民族解放革命の強力な前進の故である。戦後さまざまな帝国主義変質論(代表的なものはイギリス労働党の理論家ストレイチーの「帝国主義の終末」五十九年)が展開されたが、帝国主義の腐朽性・寄生性・狂暴さは何ら変っていないばかりか、よりいっそう激しさを増している。ゲバラがかつて述べたように、戦後の帝国主義的「平和」の裏側で、アジアで、アフリカで、ラテンアメリカで、帝国主義のくびきから自身を解き放とうとする人民と、これを抑圧しつくそうとする帝国主義との間で、激烈な間断なき戦争が戦われてきたのである(二つ、三つ、さらに多くのベトナムを」六十七年)。
 レーニンが「帝国主義論」で述べ、さし示した帝国主義に対する革命的プロレタリアートの戦術は、今日もなおいっそうの正しさをもってわれわれの前に提起されている。
 レーニンが力を集中した批判の相手カウツキーは、帝国主義を「政策」の問題として展開しより「狂暴」、反動的でない政策を帝国主義に選択させるための闘争にプロレタリアートをしばりつけようとした。今日のカウツキー主義者はスターリニストたちである。たとえば日本共産党は「経済の民主化」のスローガンを掲げている。彼らはわざわざ「これは社会主義的政策ではありません」とことわっている。それはまさにレーニンが口をきわめて批判した「トラストや銀行の経済の基礎には手を触れずに、トラストや銀行の政策と『闘争』するということは、結局は、ブルジョア的改良主義と平和主義のお人よしであどけない願望に帰着するからである。現存する諸矛盾の全根底を暴露するかわりに、それらの矛盾を回避し、そのうちのもっとも重要な矛盾をわすれること、――これこそ、マルクス主義とは縁もゆかりもないカウツキー理論」なのである。
 「帝国主義はプロレタリアートの社会革命の前夜である」、レーニンのこのテーゼは、今日争う余地なく立証されている。プロレタリアートは自己の陣営から社会排外主義者、日和見主義者を叩き出し、ただひとつの要求、帝国主義の打倒と社会主義の実現のために闘うのである。「帝国主義論」は今日もなお、帝国主義に対する革命的マルクス主義の立場への最良の入門書の位置を保ち続けている。
          (本多二郎)


つぎの章へすすむ「国際革命文庫」総目次にもどる