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国際革命文庫  20

国際革命文庫編集委員会

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電子化:TAMO2

「なにを いかに学習すべきか」
――マルクス主義の基礎的理解のために 上巻――


F 社会主義と戦争(レーニン)
     ―国民文庫に収録―

1 第一次帝国主義戦争と第二インターナショナルの崩壊

 一九一四年、サラエボを訪問したオーストリア皇太子フランツ・フェルディナンドを狙った一人のセルビア人青年によって放たれた銃弾は、オーストリア・セルビア間紛争から、四年間にわたってヨーロッパ大陸を戦乱のちまたに巻き込む大戦争へと発展していった。この第一次大戦は、十九世紀後半からのヨーロッパ諸資本主義国の、金融独占資本の支配権をテコとする帝国主義段階への突入を基礎とした矛盾のケイレン的爆発であった。
 ヨーロッパ帝国主義諸列強は、相互に三国同盟、三国協商を結成し、植民地市場の争奪と再分割のための戦争にのり出していったのである。それは「植民地の奴隷制を強化するための戦争」であり、「大国自身内の他の民族にたいする抑圧を強化するための戦争」であり、「賃金奴隷制を強化し延引させるための戦争」であるという、「三重の意味で奴隷制強化のための奴隷主の戦争」(国民文庫P94)であった。
 こうした帝国主義政治の延長としての帝国主義間強盗戦争の勃発にあたって、社会主義者の国際的連合体として一八八九年に結成された第二インターナショナルは、一九一二年に自ら策定した、戦争の機会を利用して資本主義の没落を促進しなければならないというバーゼル宣言の趣旨を役げすて、公然とブルジョア祖国防衛の立場に移行したのであった。平時の「国際連帯と友愛」の原則は、各国の労働者を相互に敵対させる排外主義の実践にとってかわられたのであった。フランスの社会民主主義者は、「ドイツの軍国主義からフランスの民主主義を守る」ために、ドイツの社会民主主義者は、「ツァーリの脅威からドイツの労働運動を防衛する」ために、という工合に各国の第二インター諸党は、自国の労働者をブルジョアジーの戦争機械にしばりつける役割を果した。かくして第二インターナショナルは実質的に帝国主義戦争の到来とともに崩壊しはてたのであった。
 第二インターナショナルは、一九世紀後半ヨーロッパ帝国主義諸国が植民地からの搾取と収奪を通して相対的な繁栄を誇った時期に形成された。その結果として、それは内部に植民地からの超過利潤を労働者の地位の漸進的発展に利用せんとする改良主義的労働官僚の支配権を作り出していくこととなったのである。言葉の上では「社会主義」や「階級闘争」を語りながらも、実践面では議会でのおしゃべりや、植民地人民を犠牲にしたささやかな賃上げにうつつをぬかす、社会民主主義官僚の立場は、自らをブルジョアジーの尻尾の位置に止めるものであった。帝国主義戦争下における自国ブルジョアジーの戦争遂行への協力はその帰結であったのである。社会主義革命の大業は投げすてられた。
 一九一四年八月四日、第二インターの最大最強の党であり、世界の労働者階級の“輝ける星”であったドイツ社会民主党が、カイゼルの「軍事公債」に賛成投票をおこなったとき、その報に接した亡命中のレーニンは容易にそれを信ずることができず、スパイによってデッチ上げられた悪質なデマだと思ったのである。しかし事実を知ったレーニンは、すぐさま精力的に第二インターの社会排外主義的堕落に対決する国際的活動にのり出していった。レーニンは戦争にたいする革命的社会主義者の態度を、一九一四年九月にロシア社会民主労働党中央委員会宣言として発表し(「戦争とロシア社会民主党」として国民文庫版「社会主義と戦争」の冒頭に収録)、排外主義の嵐のなかで孤立しつつも、プロレタリア国際主義者のヨーロッパ規模での結集を追究していく。
 一九一五年夏にスイスの小村ツィンメルヴァルドで開催された社会主義者の国際会議はその一歩であり、翌年のキンタール会議で闘いはより前進した。ツィンメルヴァルドに結集した社会主義者は、わずか三八名であり、戦争から一年たった今、全世界の国際主義者は馬車四台に乗り込めるほどでしかない、と語り草になったと伝えられている。「社会主義と戦争」は一九一五年八月、ツィンメルヴァルド会議の直前に執筆された。本書は、ドイツ、フランスで非合法に出版され配布された。ロシアでは労働者たちが手書きで転写したといわれる。
 しかしツィンメルワルド会議においては、本書に表明されているレーニンの革命的国際主義の原則は、未だ少数派であり、総体として中間主義的、平和主義的傾向が優勢であった。レーニンはツィンメルヴァルド派内の左翼を結集させつつ、平和主義者との闘いを貫徹し、第二インターナショナルの屍をのりこえる新しい革命的インターナショナル=第三インターナショナルのための闘いをおしすすめていったのであ
る。

2 帝国主嚢戦争を内乱へ!

 ロシア社会民主労働党内部においてメンシェビキをはじめとする様々の修正主義・日和見主義との熾烈な党内闘争、党派闘争を展開してきたレーニンにとって、第二インターの公認指導部の祖国防衛主義の転落の根拠は明確であった。社会主義革命を放棄し、日常の改良のための運動が全てであるとしたベルンシュタインや、ブルジョア政府への入閣を合理化したミルランなどの公然たる背教者とは一線を画していた、カウツキーに代表される「中央派」は、現実には「社会主義」をいつの日か成就される約束された未来にまつりあげ、議会における議席の拡大と、労働者の経済的改良に闘いの課題を限定する日和見主義であり、活動の分野をゆるされた領域に厳密に制限する合法主義の潮流であった。
 平時における日和見主義は、戦時には社会排外主義に容易に転化した。「日和見主義と社会排外主義の経済的基礎は同一である。すなわち、それは特権的な労働者と小ブルジョアジーとのごく小さな層の利益である。これらの労働者と小ブルジョアジーは、自分の特権的な地位を擁護しており、他の民族の略奪と大国的な地位の便益、等々によって『自』国のブルジョアジーが取得した利潤のおこぼれを手に入れる自分の『権利』を擁護しているのである。」(国民文庫版P103)
 自国のブルジョアジーと癒着した日和見主義者は、戦争が開始されるや「他国」のブルジョアジーにたいして「自国」のブルジョアジーの利害を防衛するために帝国主義戦争を「民族戦争」といつわって、資本主義制度の擁護にまわるのである。「労働者は祖国を持たない」「共産主義者は国籍に左右されない全労働者階級の利害を守る」という、マルクス主義の原理は御都合主義的に屑かごに投げ入れられてしまったのであった。
 戦争にたいしてとるマルクス主義者の立場は「戦争は別の手段による政治の継続である」というクラウゼヴィッツの見地に他ならない。すなわち「どちらが先に攻撃をしかけたか」「防衛か侵略か」といった皮相な解釈を基準にするのではなく、交戦諸国の平時における政治の内容を判断の基礎にすえ、その階級的基礎を明らかにすることが必要なのである。
 植民地で人民を収奪し、本国で労働者階級や被抑圧人民を支配しつづけている帝国主義国家の行なう戦争とは、侵略か防衛かにかかわりなく、ブルジョア戦争、帝国主義戦争であり、植民地と本国の階級支配を維持・強化するために行なわれるものである。平時においてブルジョア制度に反対してその打倒のために闘っている階級は、戦時においてもこの戦争に反対し、戦争を利用して革命の条件を準備する闘いを飛躍的に強化しなければならないのである。
 それは帝国主義戦争を内乱に転化するために闘うことであり、自国政府の敗北のために交戦諸国の内部で闘うこと、すなわち革命的祖国敗北主義の実践に他ならない。
 マルクス主義者の「帝国主義戦争反対」のスローガンは、抽象的な平和主義とは無縁である。マルクス主義者は、帝国主義政治の基礎の上に「公正な平和」が確立されるというような幻想ときっぱり手を切り、「平和」のスローガンを資本主義の革命的転覆とむすびつけて語るのでなければならない。またマルクス主義者は一般的に「戦争反対」を語ることをしない。マルクス自身、一八四八年にヨーロッパ大陸を革命の嵐が吹き荒れたときには、オーストリア、ロシアなどの封建反動にたいする革命的民族独立闘争を支持し、反動の支柱たるツァーリ・ロシアへの全ヨーロッパ革命的民主主義勢力の戦争を戦略的軸にすえたのであった。また一八七〇年の普仏戦争においては、プロシアの勝利が、ドイツの封建的地方割拠を根絶する統一ドイツ国家の創設をもたらし、フランスの敗北がヨーロッパのプロレタリアートを抑圧する中心的任務を担っているルイ・ボナパルト体制の最後的解体を意味するという観点から、プロシアの勝利を支持したのである。一九世紀中葉においては、封建的貴族階級にたいするブルジョアジーの勝利は、客観的に歴史の進歩的要因となっていたのである。このように戦争にたいする革命的社会主義者の態度は、きわめて具体的でなければならない。二〇世紀に入り、帝国主義が先進資本主義国において確立するや、戦争の性格は帝国主義ブルジョアジーによる植民地からの強収奪、国内の労働者人民を抑圧し、腐敗した資本主義制度を維持するためのものに転化した。そこには一片の進歩性も存在しない。帝国主義国の労働者階級人民は、この戦争による支配の強権化、生活の貧困化をバネとして蓄積された怒りを解き放ち、自国支配階級打倒のための革命的内乱で応えなければならないのである。この内乱は、交戦国の相互の社会主義者によって同時に追究される国際的な内乱として貫徹される。また帝国主義のプロレタリアートは、植民地人民の民族解放闘争を断固支持し、自国内の抑圧された民族の自決権を無条件に防衛し、帝国主義にたいする国際的包囲と攻勢の陣型を構築する必要があるのである。
 「帝国主義戦争を内乱へ、自国帝国主義の敗北を!」とするレーニンの非妥協的主張は、各国ブルジョアジーや、社会民主主義労働官僚からの集中砲火を浴びて孤立しながらも、戦争の進展とともに多くの労働者階級に浸透していった。非合法のビラがまかれ、集会やデモが行なわれ、ストライキが遂行され、前線では交戦する兵士間の塹壕での交歓が組織されていった。まさにヨーロッパのプロレタリアートは、戦争をとおした無慈悲な弾圧体制の網の目をかいくぐり、戦後における革命的激動を準備していたのである。人民を殺し合いに駆りたてる帝国主義戦争を終結させる道は革命以外にないことが、明らかとなっていった。いかに困難な条件であれ、革命的国際主義の原則をつらぬきとおすことこそが、一時的表面的な排外主義の開花とうらはらに、歴史を前進させる根本的な力となりうろことがここに証明されるのである。
 レーニンのこの闘いは、同時に破産した第二インターナショナルに代る、新しい革命的第三インターナショナルのための闘いでもあった。レーニンは常に革命を国際的な戦略の視野で捉え、国際党の建設に意を注いだ。第一次世界大戦で露呈した第二インターナショナルの根本的欠陥は、それが単一の世界戦略で組織された世界党ではなく、各国労働者党の連合体という水準にとどまっていたことである。それは、必然的に民族的利害の上にたった相互の交流という水準をついに突破することができなかった。民族的規模で組織された労働者の党は、絶対にブルジョア国家の枠をはみ出ることができない。換言すれば、ブルジョアジーからの根本的訣別をかちとることができず、ブルジョアジーの付属物とならざるをえないのである。レーニンの闘いは、社会排外主義者、平和主義者との鮮明な分岐を明確化することによって、プロレタリアートの階級的利害を表現する唯一の形態である国際主義に武装された単一の世界党を建設する闘いでもあったのである。

3 現代における革命的国際主義とはなにか

 第一次大戦の渦中でレーニンが確立した、戦争問題にたいする革命的国際主義の原則は今日、どのように継承されねばならないのか? 換言すれば革命的祖国敗北主義の具体的適用は現在どのようになされるべきなのであろうか?
 まず、はっきりと確認しなければならないことは、革命的祖国敗北主義とは多くの日本の新左翼諸君が誤まって理解しているように「自国帝国主義打倒の主体的立場」なるものに切りちぢめて捉えてしまってはならないということである。レーニンは決して「自分の国のブルジョアジーは自分の国のプロレタリアートが倒す」という一国主義的レベルで祖国敗北主義を唱えたのではなかった。レーニンの「帝国主義戦争を内乱へ」というスローガンは、第一次帝国主義戦争という植民地再分割戦のまっただなかにおける、国際革命の戦略の実践的貫徹としてそれを提起したのである。したがってそれは世界革命の展望、帝国主義ブルジョアジーを打倒する国際的労農同盟の組織化と密接に結合して考えられていたのである。すなわちレーニンの立場はインターナショナルの立場として提出されていた。
 つねにレーニンを一知半解に引用する中核派の「侵略を内乱へ!」を、われわれがカンパニア主義であり一国主義であるとして批判するのは、インターナショナルに集中された世界革命運動の具体的戦略と切断された、「主体的立場」なるものが、結局のところ「戦争の危機」にたいする急進平和主義的反発をのりこえることができないからに他ならない。外見上の戦闘的言辞とはうちはらに、それはなんら革命的なものではないのである。
 ロシア革命の勝利以後、世界は労働者国家を物質的拠点とするプロレタリアートと、アメリカ帝国主義の軍事・政治・経済力を後楯とするブルジョアジーとの世界的二重権力関係に突入している。スターリニスト官僚指導部によって、ソ連をはじめとする労働者国家圏は世界革命の利害を特権官僚層の支配体制に従属させる政策をとり、革命運動に限りない損失を与えているとはいえ、根本的な階級的性格からいって世界革命との関係において帝国主義に対持するプロレタリアートの拠点としての位置を保持しているのである。第二次大戦後の、中国革命の勝利、東欧労働者国家圏の成立、そしてキューバ革命、インドシナ革命の勝利は、世界的二重権力関係が革命の側にとって有利に前進していることを示している。この関係からいかなる国家、階級といえども逃れることはできない。世界革命は、スターリニストの裏切りによって無に帰したから、一からはじめなおさなければならないとか、帝国主義とスターリニストのはざまで「革命的立場」を形成していかなければならないとかの主張は、きわめて反動的な発想である。
 帝国主義ブルジョアジーは、労働者国家圏の成立、植民地解放運動の前進によって危機を深めながらも、相互の利害対立を調整しつつアメリカ帝国主義を盟主とした国際反革命同盟を結成している。
 現代における革命的国際主義とは、アメリカ帝国主義を頂点に形成された国際反革命に対決する、世界的二重権力関係の攻防の尖端に自己を押し上げ、自らその前進を切りひらこうとする闘いを実践することである。ベトナム人民が示した模範はこうしたものであった。
 帝国主義国内部におけるプロレタリアートの祖国敗北主義との貫徹とは、反帝・労働者国家無条件擁護、植民地革命無条件支持の原則において階級の政治的形成をかちとり、植民地被抑圧民族の解放闘争との合流を自国帝国主義打倒においてかちとることに他ならないのである。それはまた、レーニンが第二インターの崩壊に抗して第三インターナショナルのための闘いを行なったように、スターリニストによって破産せしめられた第三インターナショナルに代る、新たな革命的インターナショナル=第四インターナショナルを社会主義革命の単一の世界党として形成し、スターリニスト特権官僚層を打倒していく闘いに他ならないのである。
 今日、帝国主義国の既成スターリニスト指導部は、かつての第二インターナショナル以上の修正主義、日和見主義、合法主義に転落してしまっている。彼らは、「社会主義世界体制の確立」によって「平和勢力」が前進し、各国における革命はそれぞれの国の条件にふまえて平和的に議会の道をとおして勝利しうる、というモスクワ宣言(一九五七年)の修正主義的路線の発表以後、とめどもなく右旋回に拍車をかけている。彼らは、国内においては、プロレタリアートをブルジョアジーの尻尾につなぎとめ、資本主義の民主的改良をとおして社会主義が実現できると語り、ブルジョア的合法制の卑屈な追従者となってしまった。スターリニスト党は、ブルジョアジーにたいする単なる「圧力」としても、戦闘的大衆行動に一貫して敵対している。
 「日和見主義と社会排外主義の思想的=政治的内容は同一である。すなわちそれは、階級闘争のかわりに階級的に協力することであり、革命的な闘争手段を放棄することであり、革命のために『自国』政府の困難を利用するかわりに苦境にあるこの政府をたすけることである。」(国民文庫版P103)
 インターナショナルを自ら解体し、プロレタリアートの国際的利害を売り渡し、「自主独立」の名の下に、祖国と民族の足かせを労働者階級人民にはめることになっている各国スターリニスト党の路線は、日和見主義がすなわち排外主義になるというレーニンのテーゼの立証である。
 日本共産党は、ソ連労働者国家にたいしてブルジョアジーとともに北方領土返還を要求している。この最も強硬な主唱者は中国共産党と日本の毛沢東主義者である。また日本共産党は、日本政府の釣魚台諸島の略奪を正当化し、中国に敵対しつつブルジョアジーの尻押しをしている。(われわれは、中核派諸君のように、釣魚台が「中国固有の領土だから」という理由で、日本の領有に反対するのではなく、まさに労働者国家無条件防衛という祖国敗北主義の見地から反対するのである)
 また、改良主義指導部は韓国朴軍事独裁政権による金大中ら致事件を、「韓国によって日本の主権がおびやかされた」「対韓国辱外交反対」と述べたてることによって、ブルジョア的主権の行使を強硬に提唱するという排外主義的堕落におちいっている。
 中ソ官僚もまた自らの官僚的自己保身の利害から出発して、帝国主義との無原則的な妥協をおこない革命運動にとって許しがたい敵対をおこなっているのである。
 「社会主義と戦争」に提起された革命的祖国敗北主義の立場こそ、ブルジョアジーとの非妥協的な闘いをとおして、社会主義革命を前進させる道なのであり、情勢が危機の爆発にむかって進展すればするほど生起する多くの民族主義的歪曲を粉砕し、プロレタリア国際主義をつらぬく唯一の道なのである。それは多くの中間主義者にとって言うは易く行うは難いことであろう。ただ革命の勝利を国際的な規模で展望することのできる人々、一国における党の建設を世界党の不可分の一部としてのみ追求する人々、すなわち真の革命的国際主義者のみがこの任務をまっとうすることができるのだ。
          (平井純一)


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