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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital
Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。 http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/DVProject/DVProjectJ.html http://www5.big.or.jp/~jinmink/TAMO2/DT/index.html |
☆ 四
資本が増大すれば、賃労働の量が増大し、賃金労働者の数が増大する。一言で言えば、資本の支配がさらに多くの個人のうえにひろがっていく。そして、もっとも有利なばあいを仮定すると、生産的資本が増大すれば、労働にたいする需要が増大し、したがって、労働の価格すなわち賃金があがる。
家は大きくても小さくても、そのまわりの家も同じように小さければ、その家は住居にたいするいっさいの社会的要求をみたす。しかし、その小さい家とならんで邸宅がたてられると、その小さい家はあばら家にちぢんでしまう。そうなると、その小さい家は、その住み手がなにも要求する権利がないか、ごくわずかしか要求する権利がないことを、証明する。そして、文明のすすむにつれて、その家がどんなに高くなっていこうと、隣の邸宅が同じ程度に、あるいはそれ以上にさえ高くなるなら、比較的に小さい家の住み手は、わが家のうちで、ますます不快に、不満に、せせこましく感じるであろう。
賃金がめだってふえるためには、生産的資本が急速に増大することが前提される。生産的資本が急速に増大すれば、その結果、富や、ぜいたくや、社会的欲望や、社会的享楽も同じように急速に増大する。だから、労働者の享楽がたかまったにもかかわらず、労働者には手のとどかない資本家の享楽の増大にくらべれば、また全体としての社会の発展水準にくらべれば、それがあたえる社会的満足はすくなくなったのである。われわれの欲望や享楽は社会からうまれる。だから、われわれは、欲望や享楽を、社会を標準としてはかる。われわれはこれらを、それを充足させる物を標準としてははからない。欲望や享楽は社会的なものであるから、それらは相対的なものなのである。
一般的に言って、賃金は、それと交換に得られるいろいろの商品の量だけで、きめられるわけではない。それは、いろいろの関係をふくんでいるのである。
労働者がまず彼らの労働力と交換にうけとるものは、一定額の貨幣である。賃金はこの貨幣価格だけによってきめられるのであるか?
一六世紀には、アメリカでいっそう豊富な、採掘の容易な鉱山が発見された結果、ヨーロッパで流通する金銀がふえた。したがって、金銀の価値は、他の諸商品にくらべてさがった。労働者は、彼の労働力にたいしてひきつづきそれまどと同じ量の銀貨をうけとった。彼らの労働の貨幣価格はまえと同じであったが、それにもかかわらず、彼らの賃金はさがった。なぜなら、彼らが同じ分量の銀と交換にうけとる他の諸商品の総和は、まえよりすくなくなったからである。これこそ、一六世紀に資本の増大、ブルジョアジーの勃興をうながした事情の一つであった。
もう一つべつのばあいをとってみよう。一八四七年の冬には、凶作の結果、もっともなくてならない生活資料である穀物、肉、バター、チーズなどの価格が非常にあがった。労働者が彼らの労働力にたいしてこれまでと同じ額の貨幣をうけとったものと仮定しよう。彼らの賃金はさがったのではなかろうか? もちろんさがったのだ。同じ貨幣と交換に彼らのうけとったパン、肉などは、まえよりすくなかった。彼らの賃金がさがったのは、銀の価値が減少したからではなくて、生活資料の価値が増大したからであった。
最後に、労働の貨幣価格はもとのままなのに、新しい機械の使用、豊作等の結果として農産物と工業製品の価格がみなさがったと仮定しよう。そうなると、労働者は同じ貨幣であらゆる種類の商品をまえより多く買えるようになる。だから、彼らの賃金はあがったのであるが、それはまさに、彼らの賃金の貨幣価値がかわらなかったからである。
だから、労働の貨幣価格、すなわち名目賃金は、実質賃金とは、すなわち実際に賃金と交換に得られる諸商品の総和とは、一致しない。だから、賃金のあがりさがりをいうばあいには、われわれは、労働の貨幣価格、すなわち名目賃金だけを眼中においてはならない。
しかし、名目賃金、すなわち労働者がそれとひきかえに資本家に自分自身を売る貨幣額によっても、実質賃金、すなわちこの貨幣とひきかえに買うことのできる諸商品の総和によっても、賃金のなかにふくまれているいろいろの関係はまだつくされない。 賃金は、さらに、なによりも、資本家のもうけ、利潤にたいする賃金の割合で、きめられる。「「これは、比較的な、相対的な賃金である。
実質賃金は、他の諸商品の価格とくらべた労働の価格をあらわしているが、これに反して相対的賃金は、直接の労働によってあらたしく生産された価値のうち、蓄積された労働すなわち資本のものとなるわけまえにくらべての、直接の労働のわけまえをあらわしている。
われわれはまえに一四ページ〔本書三〇ページ〕でこう述べた。「賃金は、自分の生産した商品にたいする労働者のわけまえではない。賃金は、資本家が一定量の生産的労働力を買いとるのにもちいる既存の商品の一部である。」しかし、資本家はこの賃金を、労働者によって生産された生産物を売った代価のなかから、うめあわせをしなければならない。それをうめあわせても、ふつうはなおあとに、彼の投下した生産費をこえてある超過分、すなわち利潤がのこるような仕方で、うめあわせなければならない。労働者の生産した商品の販売価格は、資本家にとっては三つの部分にわかれる。第一には、彼が前払いした原料の価格のうめあわせ、およびやはり彼が前払いした道具、機械その他の労働手段の磨損分のうめあわせ、第二には、彼が前払いした賃金のうめあわせ、第三には、以上のものをこえた超過分である資本家の利潤。この第一の部分がまえからあった価値を回収するにすぎないのに反して、賃金のうめあわせも、超過分たる資本家の利潤も、だいたいにおいて、労働者の労働によってつくりだされ、原料につけくわえられた新しい価値から得られることはあきらかである。そしてこの意味では、賃金と利潤を相互にくらべるために、この両方を労働者の生産物にたいするわけまえとみなすことができる。
実質賃金がもとのままであっても、またあがってさえも、相対的賃金は、それにもかかわらずさがることもありうる。たとえば、あらゆる生活資料の価格が三分の二だけ下落したのに、一日の賃金は三分の一だけ、つまり、たとえば三マルクから二マルクに、下落するものと仮定しよう。労働者はこの二マルクで以前に三マルクで手にはいったよりも多量の商品を手にいれられるけれども、彼の賃金は資本家のもうけとくらべればへったのである。資本家(たとえば工場主)の利潤は、一マルクだけふえた。すなわち、資本家が労働者に支払う交換価値はまえより少量となったのに、労働者は、それとひきかえに、まえより多量の交換価値を生産しなければならない。労働のわけまえにくらべて資本のわけまえは増大した。資本と労働とのあいだの社会的富の分配は、さらに不平等になった。資本家は、同じ資本でまえより多量の労働を支配する。労働者階級を支配する資本家階級の力は大きくなり、労働者の社会的地位は悪化し、さらに一段と低く資本家の社会的地位の下におしさげられたのである。
では、賃金と利潤の相互関係において、そのあがりさがりをきめる一般法則はどういうものか?
賃金と利潤は、反比例する。資本のわけまえである利潤は、労働のわけまえである一日の賃金がさがるのに比例してあがり、またその逆のばあいは逆である。利潤は、賃金がさがっただけあがり、賃金があがっただけさがる。
おそらく、つぎのように言って異論をとなえるものがあるであろう。資本家は、彼の生産物を他の資本家たちと有利に交換することによってもうけることもできるし、また、新しい市場が開拓された結果としてであれ、古い市場における需要が一時的にふえたことなどの結果としてであれ、彼の商品にたいする需要が増大したためにもうけることもありうる。つまり、資本家の利潤は、賃金すなわち労働力の交換価値のあがりさがりとはかかわりなく、べつの資本家たちをぺてんにかけることによって、ふえることもありうる。あるいはまた、資本家の利潤は、労働用具の改善や、自然力の新しい応用等によってあがることもありうる、と。
まず第一に、これは、逆の道をとおってではあるが、やはり同じ結果に達したものであることを、みとめなければならないであろう。なるほど、賃金がさがったから利潤があがったのではないが、利潤があがったから賃金がさがったのである。資本家は、同じ量の他人の労働で、まえより多量の交換価値を買いとったが、それだからといって労働にまえより多く支払いはしなかった。だから、それが資本家にあたえる純益にくらべて、労働にたいする支払いは低くなったのである。
そのうえ、商品価格は変動するにもかかわらず、各商品の平均価格、それが他のいろいろの商品と交換される割合は、その生産費によってきまっていることに、注意をうながそう。だから、資本家階級の内部におけるぺてんは、かならずや相殺される。機械が改良されたり、自然力があたらしく生産に応用されれば、一定の労働時間内に、同じ量の労働と資本とでまえより多量の生産物をつくりだすことはできるようになるが、まえより多量の交換価値をつくりだすことはけっしてできない。私が紡績機械を使用することによって、一時間のうちに、この機械が発明される以前にくらべて二倍の糸を、たとえば五〇ポンドのかわりに一〇〇ポンドを、供給できるとしても、私はこの一〇〇ポンドと交換に、結局は、以前五〇ポンドと交換にうけとっていた以上の商品をうけとりはしない。それは生産費が半分にさがったからである。いいかえれば、同じ費用で二倍の生産物を供給することができるようになったからである。
最後に、一国についてみても、また全世界市場についてみても、資本家階級すなわちブルジョアジーが生産の純益をどんな割合で自分たちのあいだに分配しようとも、この純益の総量はいつでも、だいたいにおいて、蓄積された労働が直接の労働によってふやされた量に過ぎない。したがって、この総量は、労働が資本をふやすのに比例して、すなわち利潤が賃金にくらべてあがるのに比例して、増大する。
これでわかるように、われわれが資本と賃労働の関係の範囲内にとどまるばあいにさえ、資本の利害と賃労働の利害とはまっこうから対立するのである。
資本が急速に増大するのは、利潤が急速に増大するのと同じことである。利潤が急速に増大できるのは、労働の価格が、相対的賃金が、同じように急速に減少するばあいだけである。実質賃金が、名目賃金すなわち労働の貨幣価格と同時にあがっても、利潤に比例してあがらないなら、相対的賃金はさがることもありうる。たとえば、好景気のときに、賃金が五パーセントあがり、一方、利潤が三〇パーセントあがるとすれば、比較的すなわち相対的賃金は、増大したのではなくて、減少したのである。
だから、資本の急速な増大にともなって労働者の所得がふえるにしても、それと同時に労働者と資本家をわかつ社会的溝もふかくなるし、それと同時に労働を支配する資本の力、資本への労働の依存も増大するのである。
資本が急速に増大することが労働者の利益であるというのは、つぎのことを意味するにすぎない。それは、労働者が他人の富を急速にふやせばふやすほど、ますます大きなかけらが労働者の手におちてき、ますます多くの労働者を仕事につけ、うみだすことができるようになり、資本に依存する奴隷の数をますますふやすことができる、ということである。
こうして、われわれはつぎのことを知った。
労働者階級にとってもっとも有利な状態である、資本のできるだけ急速な増大でさえ、どれほど労働者の物質的生活を改善しようとも、労働者の利害と、ブルジョアの利害すなわち資本家の利害との対立をなくしはしない。利潤と賃金とは、あいかわらず反比例する。
資本が急速に増大すれば、賃金もあがるかもしれないが、資本の利潤のほうがくらべものにならないほど早くあがる。労働者の物質的状態は改善されたが、それは彼の社会的地位を犠牲にしてである。彼らと資本家をわかつ社会的な溝は、ひろがった。
最後に、
賃労働にとってもっとも有利な条件は生産的資本ができるだけ急速に増大することであるというのは、つぎのことを意味するにすぎない。それは、労働者階級が、彼らに敵対する力、彼らを支配する他人の富を急速にふやし増大させればさせるほど、労働者階級はそれだけ有利な条件のもとで、あたらしくブルジョア的富をふやし、資本の力を増大させるためにはたらかせてもらえる「「ブルジョアジーが彼らをつないでひきまわす金の鎖をあまんじてみずからきたえながら「「、ということである。
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