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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/DVProject/DVProjectJ.html
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☆  三

 資本は、新しい原料、新しい労働用具、新しい生活資料を生産するためにつかわれる、あらゆる種類の原料と労働用具と生活資料からなりたっている。資本のこれらの構成部分はみな、労働の創造物であり、労働の生産物であり、蓄積された労働である。新しい生産のための手段として役だつ蓄積された労働が、資本である。
 こう経済学者は言う。
 黒人奴隷とはなにか? 黒色人種の人間である。右の説明はこういう説明とおっつかっつのものである。
 黒人は黒人である。一定の諸関係のもとで、はじめて彼は奴隷となる。紡績機械は紡績するための機械である。一定の諸関係のもとでのみ、それは資本となる。これらの関係からひきはなされたら、それは資本ではない。そのことは、金(キン)がそれ自体としては貨幣ではなく、また、砂糖が砂糖価格でないのと同じである。
 生産のさいに、人間は、自然にはたらきかけるばかりでなく、またたがいにはたらきかけあう。彼らは、一定の仕方で共同して活動し、その活動をたがいに交換するということによってのみ、生産するのである。生産するために、彼らはたがいに一定の連絡や関係をむすぶが、これらの社会的連絡や関係の内部でのみ、自然にたいする彼らのはたらきかけがおこなわれ、生産がおこなわれるのである。
 もちろん、生産者がたがいにむすぶこれらの社会関係、彼らがその活動を交換し、生産行為の総体に参加する諸条件は、生産手段の性格がどうであるかに応じて、ちがったものとなるであろう。火器という新兵器が発見されるとともに、必然的に、軍隊の内部組織全体が変化し、諸個人が軍隊を形づくり、軍隊として作用しうる諸関係が変動し、種々の軍隊のあいだの関係も変化した。
 だから、個々人がそのうちで生産する社会関係、すなわち社会的生産関係は、物質的生産手段、生産力が変化し発展するのにつれて、変化し変動する。生産関係は、その総体において、社会関係、社会とよばれるものを、しかも一定の歴史的発展段階における社会、独特の、特色ある性格をもった社会を、形づくる。古代社会、封建社会、ブルジョア社会は、そういう生産関係の総体であって、それと同時に、それぞれ人類の歴史上の特殊な発展段階をあらわしているのである。
 資本もまた一つの社会的生産関係である。それは一つのブルジョア的生産関係であり、ブルジョア社会の一生産関係である。資本を構成する生活資料、労働用具、原料、それらは、一定の社会的諸条件のもとで、一定の社会関係のうちで生産され、蓄積されたものではないのか? これらのものは、一定の社会的諸条件のもとで、一定の社会関係のうちで、新しい生産に使用されるのではないのか? そして、ほかならぬこの一定の社会的性格こそ、新しい生産に役だついろいろの生産物を資本にするのではないのか?
 資本は、生活資料、労働用具、原料だけ、物質的生産物だけから構成されているのではない。資本は同じように交換価値からも構成されている。資本を構成するいろいろの生産物はみな商品である。だから、資本はいろいろな物質的生産物の一総和であるだけではない。それは、いろいろな商品の、交換価値の、社会的量の、一総和である。
 たとえ羊毛を木綿におきかえ、小麦を米におきかえ、鉄道を汽船におきかえても、その木綿、米、汽船「「資本の体(カラダ)「「が、まえに資本を体現していた羊毛、小麦、鉄道と同じ交換価値、同じ価格をもってさえいれば、資本はやはりもとのままである。資本の体はたえず形をかえても、資本はすこしも変化をこうむらずにもいられるのである。
 しかし、およそ資本はみな、商品すなわち交換価値の一総和であるとしても、商品の、交換価値の一総和なら、どれでもみな、資本だということにはならない。
 およそいくたの交換価値の一総和はみな、一つの交換価値である。およそ一つの交換価値はみな、いくたの交換価値の一総和である。たとえば、一〇〇〇マルクの価値の一戸の家は、一〇〇〇マルクの額の一つの交換価値である。一ペニヒの価値の一枚の紙は、一〇〇分の一ペニヒを一〇〇個あわせた額の、諸交換価値の一総和である。他のいろいろの生産物と交換できる生産物が商品である。これらの生産物をたがいに交換できる一定の比率は、それらのものの交換価値、あるいは、貨幣であらわせば、その価格を形成する。これらの生産物の量の大小は、商品であるとか、一つの交換価値であるとか、一定の価格をもっているとかいう、これらの生産物の性質をすこしもかえることはできない。木は大きくても小さくても、やはり木である。鉄を他の生産物と交換するのに、オンス単位でしようと、トン単位でしようと、商品であり交換価値であるという鉄の性格にかわりがあろうか? 量の大小にしたがってあるいは大きな価値の、あるいは小さな価値の商品であり、あるいは高い価格の、あるいは低い価格の商品であるだけである。
 では、どのようにして、諸商品の、諸交換価値の一総和が資本となるのか?
 それが直接の生きた労働力との交換を通じて、独自の社会的力として、すなわち社会の一部の者の力としてみずからを維持し、ふやすことによってである。労働能力のほかにはなにももたない一つの階級が存在していることが資本の必要な前提である。
 直接の生きた労働を蓄積された、過去の、対象化された労働が支配することが、はじめて、蓄積された労働を資本とするのである。
 資本の本質は、蓄積された労働が生きた労働のために新しい生産の手段として役だつという点にあるのではない。それは、生きた労働が蓄積された労働のためにそれの交換価値を維持しふやす手段として役だつという点にあるのである。
 資本家と賃金労働者とのあいだの交換では、どういうことがおこるか?
 労働者は、彼の労働力と交換に生活資料をうけとるが、資本家は彼の生活資料と交換に労働を、労働者の生産的活動を、創造力をうけとる。そして、労働者は、この力によって、彼の消費するものをうめあわせるばかりでなく、蓄積された労働にたいして、それがまえにもっていたよりも大きな価値をあたえるのである。労働者は、資本家のもちあわせている生活資料の一部をうけとる。これらの生活資料は、労働者にとってなんの役にたつか? 直接の消費の役にたつ。しかし、私が生活資料を消費するやいなや、それは私の手からうしなわれて、もうかえってこない。もっとも、私は、この生活資料が私を生かしてくれる期間を利用して、新しい生活資料を生産するのではあるが、すなわち、それを消費しているあいだに、私の労働によって、消費されてなくなる価値のかわりに新しい価値をつくりだすのではあるが。しかし、ほかならぬこの貴重な再生産力を、労働者は、うけとった生活資料と交換に資本にゆずりわたしてしまうのである。だから、労働者は、彼自身からみれば、この力をうしなってしまったわけである。
 一つの例をとろう。ある農業企業家が彼の日雇人に、毎日銀貨五グロシェンをあたえるとする。この銀貨五グロシェンとひきかえに日雇人は、終日農業企業家の畑ではたらき、こうして農業企業家に銀貨一〇グロシェンの収入を保証する。農業企業家は、彼が日雇人にゆずりわたさなければならない価値のうめあわせを得るばかりではない。彼はそれを二倍にするのである。だから、彼は、彼が日雇人にあたえた銀貨五グロシェンを、みのりある生産的な仕方で使用し消費したわけである。彼は、まさに、二倍の価値のある土地生産物を生産して銀貨五グロシェンを銀貨一〇グロシェンにする日雇人の労働と力を、銀貨五グロシェンで買ったのである。これに反して日雇人は、彼の生産力の働きをほかならぬこの農業企業家にゆずりわたして、この生産力のかわりに銀貨五グロシェンをうけとるのであるが、彼はこの銀貨五グロシェンを生活資料と交換し、その生活資料をおそかれはやかれ消費してしまう。だから、この銀貨五グロシェンは二とおりの仕方で消費されたわけである。すなわち、資本にとっては再生産的に「「というのは、それは銀貨一〇グロシェンを生み出した労働力〔9〕と交換されたのであるから「「消費され、また、労働者にとっては不生産的に「「というのは、それは生活資料と交換されたのであるが、この生活資料は永久に消滅しており、労働者は農業企業家とのあいだに同じ交換をくりかえすことによってしか、その価値をふたたびうけとることができないのであるから「「消費されたのである。こうして、資本は賃労働を前提し、賃労働は資本を前提する。両者はたがいに制約しあう。両者はたがいにうみだしあう。
 ある綿布工場の一労働者をとってみよう。この労働者は綿布を生産するだけであるか? いな、彼は資本を生産する。すなわち、あたらしく彼の労働を支配し、この労働を手段として新しい価値をつくりだすのに役だつ価値を、生産するのである。
 資本は、労働力と交換されることによってしか、賃労働をうみだすことによってしか、ふえることができない。賃金労働者の労働力は、資本をふやすことによってしか、自分を奴隷としているその力をつよめることによってしか、資本と交換されることができない。だから、資本がふえるのは、プロレタリアートが、すなわち労働者階級がふえることである。
 それだから資本家と労働者との利害は同一なのだ、とブルジョアやその経済学者は主張する。実際そうだ! 労働者は、資本がやとってくれなければ破滅してしまう。資本は、労働力を搾取しなければ破滅するし、労働力を搾取するには、資本はこの労働力を買わなければならない。生産にあてられる資本、すなわち生産的資本が急速にふえればふえるほど、したがって産業が繁栄すればするほど、ブルジョアジーが富めば富むほど、景気がよくなればなるほど、資本家にはそれだけ多くの労働者が必要となり、労働者はそれだけ高く売れていく。
 だから、労働者がどうやらしんぼうできる状態をたもつのに欠くことのできない条件は、生産的資本ができるだけ急速に増大することである。
 だが、生産的資本が増大するとはどういうことか? 生きた労働を支配する蓄積された労働の力が増大することである。労働者階級にたいするブルジョアジーの支配が増大することである。賃労働が、自分を支配する他人の富を、自分に敵対的な力である資本を生産するというと、この敵対的な力から、賃労働を雇用する手段、すなわち生活資料が還流してくる。ただし、賃労働がふたたび資本の一部となり、ふたたび資本を加速度的な増大運動になげいれる槓杆(テコ)になるということを条件として。
 資本の利害と労働者の利害とが同一であるというのは、資本と賃労働とが同じ一つの関係の二つの側面だ、ということにすぎない。この両者がたがいに制約しあっているのは高利貸と浪費者とがたがいに制約しあっているのと同じである。
 賃金労働者が賃金労働者であるかぎりは、彼の運命は資本に依存している。さかんにはやしたてられている労働者と資本家の利害の共通というのは、こういうことなのである。


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