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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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☆  五 〔賃金と価格〕

 わがウェストン君のすべての議論は、もっとも簡単な理論的表現にまとめると、つぎの一つのドグマに帰着する。つまり「諸商品の価格は賃金によって決定あるいは規制される」と。
 すでにくつがえされたこの古くさい謬論にたいして反証をあげるために、実地に観察したところをあげてもよい。私は諸君にこう言ってもよい。イギリスの工場労働者、鉱山労働者、造船工などは、その労働の価格は相対的に高いにもかかわらず、彼らの生産物が安いために他のすべての国民との販売競争に勝ち、一方、たとえばイギリスの農業労働者は、その労働の価格は相対的に低いにもかかわらず、彼の生産物が高いために、ほとんどすべての他国民との販売競争に負けている、と。同じ国の品物と品物をくらべ、ちがった国と国の商品をくらべることによって、いくつかの例外「「それは外見上のものであってほんとうの例外とはいえない「「をのぞけば、平均して価格の高い労働は価格の安い商品を生産し、価格の低い労働は価格の高い商品を生産するものである〔29〕ことを明らかにしてもよい。右のことは、もちろん、一方のばあいには労働の価格の高いことが、他方のばあいには労働の価格の安いことが、それぞれこれら正反対の結果〔商品価格の安いことと高いこと〕の原因であることを証明するものではないであろうが、いずれにしても、諸商品の価格は労働の価格によって支配されるものではないということは証明するであろう。だがこうした経験的な方法をとることは、われわれにはまったく不必要なことである。
 ウェストン君は「諸商品の価格は賃金によって決定あるいは規制される」というドグマをとなえたことはない、と言う人がたぶんあるかもしれない。じじつ、彼はこういう公式をたてたことは一度もない。むしろ逆に、彼はこう言った。利潤と地代も商品の価格の構成部分となっている。というのは、労働者の賃金だけでなく、資本家の利潤と地主の地代もまた、まさに商品の価格のなかから支払われなければならないのだから、と。だが、彼の考えによると、価格とはどのようにして形成されるのか? まず第一に賃金によってである。そのあとその価格に、資本家のために何パーセントかが付加され、地主のためにさらに何パーセントかが付加される。ある商品の生産につかわれる労働の賃金が一〇だと仮定してみよう。もし利潤率が前払い賃金の一〇〇%だとすれば、資本家は一〇をつけくわえるであろうし、またもし地代の率も賃金の一〇〇%だとすれば、さらに一〇がつけくわえられることになり、この商品の総価格は三〇になるであろう。しかし、こんなふうに価格を決めるのは、たんに賃金によって価格を決めることでしかなかろう。右のばあいに賃金が二〇に上がれば、この商品の価格は六〇に上がるわけだ、などなど。したがって、賃金が価格を規制するというドグマをもちだしたすべてのおいぼれ経済文筆家たちは、利潤と地代を賃金に付加されるパーセントにすぎないものとしてとりあつかうことによって、このドグマを証明しようとしたのである。彼らのうちのだれひとりとして、これらのパーセントの限度をなんらかの経済法則に還元して明らかにすることができなかったことは、いうまでもない。その反対に、彼らは、利潤は伝統や慣習や資本家の意志によって、あるいはなにかほかの同じようにえてかったで説明のつけようのない方法によって決まると考えているらしい。たとえ彼らが、利潤は資本家のあいだの競争によって決まると主張するとしても、それではなんの説明にもなりはしない。たしかにこの競争というものは、さまざまな産業内のさまざまな利潤率を均等化したり、それらの利潤率をひとつの平均水準に帰着させたりはするが、しかしそれは、この水準そのもの、つまり一般利潤率を決定することはけっしてできない。
 諸商品の価格は賃金によって決定されると言うばあいに、われわれはなにをさしてそう言うのか? 賃金とは労働の価格の別名にほかならないのだから、われわれの言っていることは、諸商品の価格は労働の価格によって規制されるということになる。「価格」は交換価値であり「「私が価値というばあいには、いつも交換価値のことである「「、貨幣であらわした交換価値なのであるから、右の命題は、つまりこうなる。「諸商品の価値は労働の価値によって決定される」または「労働の価値は価値の一般的尺度である」、と。
 だが、では「労働の価値」じたいはどのようにして決定されるのか? ここでわれわれはゆきづまる。ゆきづまるというのは、もちろん、われわれが論理的に考えをすすめていこうとすればのはなしである。だがこの説をもちだす連中は、論理的なためらいなどさっさとかたづける。たとえば、わがウェストン君をみてみよう。はじめに彼はわれわれにこう言った。賃金が諸商品の価格を規制する。したがって賃金が上がれば価格も上がらざるをえない、と。つぎに彼は一転してわれわれにこう説明した。賃上げをしてもむだだろう。というのは、そのときにはもう諸商品の価格は上がってしまっているからであり、また賃金はじじつ賃金が費やされる諸商品の価格によってはかられるものだからである、と。こうしてわれわれは、労働の価値が諸商品の価値を決定するという主張から始めて、諸商品の価値が労働の価値を決定するという主張でむすぶ。こうしてわれわれは、もっともひどい循環論法のなかを右往左往し、なんの結論にも達しない。
 要するに、一つの商品、たとえば労働、穀物その他なんらかの商品の価値を、価値の一般的な尺度と規制者にするとしたところで、それでは困難の一時のがれをするだけであることは明らかである。一つの価値をべつの価値で決定しても、このべつの価値そのものがまた決定を必要とするからである。
 「賃金は諸商品の価格を決定する」というドグマは、これをもっとも抽象的なことばで言いあらわせば、けっきょく「価値は価値によって決定される」ということになるのであって、この同義反復は、実際は価値のことはさっぱりわからないことをあらわしている。この前提を認めると、経済学の一般法則についての論究はすべてたわごとにすぎなくなってしまう。だから、リカードが、一八一七年に刊行されたその著『経済学の原理について』で、「賃金が価格を決定する」という古くから流布している陳腐な謬論を根本的に粉砕した〔30〕のは、彼の大功績であった。この謬論は、アダム・スミスとフランスの彼の先駆者たち〔重農学派〕が、彼らの研究の真に科学的な部分でははねつけてしまっているが、それでもその研究の比較的平板で俗流的な諸章ではむしかえして述べているものである。


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