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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/DVProject/DVProjectJ.html
http://www5.big.or.jp/~jinmink/TAMO2/DT/index.html


☆  八 剰余価値の生産

 いま、ひとりの労働者の日々の生活必需品の平均量を生産するのに、六時間の平均労働が必要だと仮定しよう。なおそのうえに、六時間の平均労働が、これまた、三シリングにひとしい量の金に体現されているものと仮定しよう。そうすれば、三シリングが、その人の労働力の価格、つまり労働力の一日の価値を貨幣であらわしたものとなろう。もし彼が毎日六時間働くとすれば、彼は、自分の日々の生活必需品の平均量を買うのに十分な、つまり自分自身を労働者として維持するのに十分な価値を、毎日生産することになろう。
 だが、この人は賃金労働者なのだ。だから彼は、自分の労働力を資本家に売らなければならない。もし彼がそれを一日三シリングつまり週一八シリングで売るとすれば、彼はそれを価値どおりに売るわけである。彼が紡績工だと仮定しよう。もし彼が毎日六時間働くとすれば、彼は毎日三シリングの価値を綿花につけくわえることになる。彼が毎日つけくわえるこの価値は、彼が毎日うけとる賃金、つまり彼の労働力の価格とぴったりひとしい価値のものであろう。だがそのばあいには、剰余価値または剰余生産物はちっとも資本家の手にはいらないことになる。こうなると、ここでわれわれはやっかいなことにぶつかる。
 資本家は、労働者の労働力を買い入れ、労働力の価値を支払うことによって、ほかのどんな買い手とも同じに、その買い入れた商品を消費したり使用したりする権利を得たわけである。機械はこれを動かすことによって消費ないし使用されるのと同じく、人間の労働力はその人間を働かせることによって消費ないし使用される。したがって資本家は、労働者の労働力の一日分または一週間分の価値を支払うことによって、その労働力をまる一日またはまる一週間使用する権利つまり働かせる権利を得たことになる。労働日や労働週には、むろん一定の限界があるが、このことはあとでもっと詳しく考えることにする。
 さしあたりは、決定的な一点に注意をむけられるよう諸君にお願いする。
 労働力の価値は、それを維持または再生産するのに必要な労働量によって決定されるが、しかしその労働力の使用は、労働者の活動エネルギーと体力によって制限されるだけである。労働力の一日分または一週間分の価値が、その同じ力の一日分または一週間分の行使とはまったく別物であることは、一匹の馬が必要とする飼料とその馬が騎手をのせてゆける時間の長さとがまったく別物なのと同じである。労働者の労働力の価値を限定する労働量は、彼の労働力が遂行できる労働量の限界をなすものではけっしてない。さきの紡績工の例をとってみよう。すでに述べたように、彼の労働力を毎日再生産するには、彼は毎日三シリングの価値を再生産しなければならず、彼は毎日六時間働くことによってそれをするのである。しかし、だからといって彼は、一日一〇時間または一二時間、あるいはさらに長時間働くことができなくなるわけではない。ところが資本家は、紡績工の労働力の一日分または一週間分の価値を支払うことによって、その労働力をまる一日またはまる一週間使用する権利を得たのである。したがって彼は労働者を、たとえば一日一二時間働かせるだろう。したがって労働者は、自分の賃金つまり自分の労働力の価値を補充するのに必要な六時間を超過して、もう六時間働かなければならないことになる。私はこの六時間を剰余労働時間と名づけることにする。この剰余労働が体現したものが、剰余価値であり剰余生産物なのである。もしわが紡績工が、たとえば一日六時間の労働によって三シリングの価値つまり彼の賃金とちょうどひとしい価値を綿花につけくわえるとすれば、彼は、一二時間では六シリングの値うちを綿花につけくわえ、したがってそれに比例する剰余の糸を生産するであろう。彼は自分の労働力を資本家に売ってしまっているのだから、彼がつくりだす価値または生産物は、ぜんぶ彼の労働力の暫時の〔pro temp.〕所有者である資本家のものになる。したがって資本家は、三シリングを前払いして六シリングの価値を手にいれる。というのは彼は、六時間分の労働が結晶している価値を前払いして、そのかわり一二時間分の労働が結晶している価値をうけとるからである。これと同じ過程を毎日くりかえすことによって、資本家は毎日三シリング前払いして毎日六シリングふところにいれる。この六シリングのうち半分はあらたに賃金として払い出されるが、残りの半分は、資本家がなんの対価も払わずに手にいれる剰余価値をなすことになる。資本と労働とのこの種の交換こそ、資本主義的生産つまり賃金制度の基礎であり、かつ労働者を労働者として、また資本家を資本家として再生産するという結果をたえずもたらさざるをえないものなのである。
 剰余価値の率は、ほかの事情がすべて同じだとすれば、労働日のうち労働力の価値を再生産するのに必要な部分と、資本家のために遂行される剰余時間つまり剰余労働との比によって決まるであろう。したがってそれは、労働者が働いて、たんに自分の労働力の価値を再生産する、つまり自分の賃金を補充するにすぎないような程度を超過して、労働日がひきのばされる割合によって決まるであろう。


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