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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital
Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。 http://www.cpm.ll.ehime-u.ac.jp/AkamacHomePage/DVProject/DVProjectJ.html http://www5.big.or.jp/~jinmink/TAMO2/DT/index.html |
☆ 九 労働の価値
さて、われわれは「労働の価値または価格」という言いかたに話をもどさなければならない。
すでに述べたように、労働の価値または価格とは、じつは、労働力の維持に必要な諸商品の価値で労働力の価値をはかったものでしかない。しかし、労働者は労働をおえたのちに賃金をうけとるのだから、そればかりでなく自分が実際に資本家にあたえるのは自分の労働なのだということを知っているのだから、彼の労働力の価値または価格は、彼にはどうしても自分の労働そのものの価格または価値であるようにみえる。もし彼の労働力の価格が三シリングで、その三シリングには六時間分の労働が体現されているとすれば、しかも、もし彼が一二時間働くとすれば、彼は、この一二時間分の労働は六シリングの価値に体現されているにもかかわらず、どうしても右の三シリングが一二時間分の労働の価値または価格だと考えるようになる。このことからふたとおりの結果がでてくる。
第一 厳密に言うと、労働の価値と価格という語は無意味なことばであるにもかかわらず、労働力の価値または価格が、労働そのものの価格または価値であるような外観をとる。
第二 労働者の一日の労働のうち、支払われるのはその一部分だけで、他の部分は不払いであるにもかかわらず、そしてその不払いまたは剰余の労働こそ、まさに剰余価値または利潤となる元本をなすものであるにもかかわらず、まるで総労働が支払をうけた労働であるかのようにみえる。
こうしたいつわりの外見をもっている点で、賃労働は歴史上の他の労働形態から区別される。賃金制度の基礎のうえでは、不払労働さえも支払労働であるようにみえる。その反対に、奴隷のばあいには、彼の労働のうち支払をうけた部分でさえも不払いであるようにみえる。もちろん、働くのには奴隷にも命がなければならず、彼の労働日の一部分は、彼自身の生活資料の価値を補充するのにあてられる。だが、彼と彼の主人とのあいだにはなんの取引もむすばれず、両者のあいだにはなんの売買行為もおこなわれていないから、彼の労働は全部ただであたえられているようにみえる。
それにたいして農奴、ついきのうまでヨーロッパの東部全体に存在していたと言ってよい農奴をとってみよう。この農民は、たとえば三日間は、自分自身の耕地または自分に割り当てられた耕地で自分自身のために働き、つぎの三日間は、領主の農地で強制的な無償労働をおこなった。だからここでは、労働のうち支払をうけた部分と不払いの部分とが、一目瞭然と分離され、時間的にも空間的にも分離されていた。そこでわが自由主義者たちは、人をただばたらきさせるというとんでもない考えにたいする義憤で胸がいっぱいになったのである。
しかし、人が一週のうち三日は自分自身の耕地で自分自身のために働き、そして三日間は自分の領主の農地でただで働くのも、工場または仕事場で一日のうち六時間は自分自身のために働き、そして六時間は自分の雇い主のために働くのも、実際は同じことである。ただし、あとのばあいには、労働のうち支払をうけた部分と不払いの部分とが分けることができないほどまじりあっており、また契約というものがそこにはいりこんできて、給与が週末にうけとられるということによって、取引全体の性質が完全におおいかくされているのではあるが。無償労働は、一方のばあいには自発的にあたえられ、他方のばあいには強制的であるかのようにみえる。ちがいはそれだけである。
「労働の価値」という語をつかうばあいは、私はこれを「労働力の価値」の通俗的なことばとしてつかうだけである。
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