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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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☆ 解 説

★  一

 レーニンが本書の執筆にとりかかったのは、第一次世界戦争(一九一四―一九一八年)がまさにたけなわだった一九一六年の前半であり、そして本書が出版されたのは、二月革命でツァーリズムが崩壊したあと、勝利するまでの戦争の継続を主張する臨時政府――ブルジョアジ−とブルジョア化した地主の政府、帝国主義戦争の一方の張本人である連合諸国政府の後楯をあてにしていた政府――と、全国の労働者・兵士・農民代表ソヴェトのまわりにしだいに堅く結集して、パンと土地と自由をもとめてたたかっていた人民の勢力とが、いわゆる「二重権力」の状態のもとでヘゲモニーを争っていた、一九一七年なかごろのことであった。
 このような世界的激動のさなかに準備され出版された本書は、日の目を見るまでにすでにいくつかの受難を経験した。
 レーニンがペトログラードの「パールス」(「帆船」)出版社から、帝国主義にかんする著述の執筆の依頼を受けたのは、一九一五年暮のことであった。この申し出を喜んでひきうけたレーニンは、さっそく、ツァーリズムのもとでも合法的な出版物として出せるような形で原稿を書いて、急いで居住地のツューリヒ(スイス)から、当時フランスに住んでいたエム・エヌ・ポクロフスキーに書留便で送り、「パールス」出版社へ送付するように依頼したが、その原稿はポクロフスキーのもとにとどかなかった。こういう事態が起こりうることを、レーニンは予期していたのであろう。彼は控えの原稿をもっており、それを送りなおした。
 こうして原稿はやっと「パールス」出版社の手にとどいたが、しかしそれはけっしてすぐそのままの形では出版されなかった。当時この出版社で牛耳をとっていたメンシェヴィキたちは、レーニンの手稿にかってに手を入れた。まず、本の標題からして『資本主義の最新の段階としての帝国主義』とあらため、またカウツキーやマルトフらの日和見主義を痛烈に批判した部分を削除したりしたほか、個々のことばもいくつか書きあらためた(これらの改訂のうちのいくつかの重要なものは、事項注で指摘しておいた)。そうこうするうちに二月革命が起こり、レーニンも四月三日(ロシア旧暦)にロシアに帰ってきて、四月二六日付(同前)であらたに「序文」を書いた。そしてやっと同年なかごろに(正確な月日はわかっていない)本書が出版されるにいたったのであるが、そのさい「パールス」出版社は自社の名前を明記せず、当該場所に、「出版所。『ジーズニ・イ・ズナーニエ』〔『生活と知識』〕書店」と記入しただけであった。このような経過をへて本書はやっと公刊されたのであるが、しかし印刷された本文はメンシェヴィキたちが手を入れた草稿のままであった。レーニンの手稿どおりの『帝国主義論』が公刊されたのは、一九二九年に出たレーニン全集第二版の第一九巻においてである。

★  二

 レーニンの『帝国主義論』は、その分量の点ではマルクスの『資本論』の数分の一にすぎないが、しかし後者とならんでマルクス主義経済学における最も重要な基礎的文献の一つとみなされている。レーニンのこの著書を読まないでは、人は一般に帝国主義について語ることができないばかりでなく、現代資本主義についても今日の日本資本主義経済についても語ることはできない。
 マルクスが経済学の研究に志してから『資本論』の執筆にむけて多くの努力をかさねていた一八四〇―六〇年代は、イギリスで完全な勝利を収めた産業資本が、古い重商主義政策をつぎつぎに廃止して自由主義の経済政策を全面的に実現してゆくと同時に、イギリスのそのような発展がもたらした自由貿易制度の影響を受けて、西ヨーロッパの他の国々でも資本主義が急速に発展し、こうして国際的自由貿易が現出した時代であった。マルクスが資本主義発展のまさにこういう時代に生きていたことが、彼に、資本主義社会の基礎的な経済的運動法則にかんする著書としての『資本論』を書かせたし、また書くことを可能にしたのである。
 ところが、一八六〇年代以後は世界資本主義の様相が変わってきた。
 第一に、西ヨーロッパとアメリカの発達した資本主義諸国で資本主義の発展がいっそうすすむと、資本と生産との集積(狭い意義の――注二二を参照)とならんで集中の過程が急速に進行しはじめ、そのことがいままでのような自由競争を困難にするとともに、ここに自由競争に対立する原理である独占への強力な傾向が生まれた。
 第二に、独占への傾向は銀行業でも強く現われた。そしてそのことは、七〇年代以降各国で株式会社が広範に普及していったことと結びついて、一方では巨大資本による「支配の集中」をいちじるしく容易にするとともに、産業と銀行との癒着という新しい現象を生みだすにいたった。いままで支配的な資本形態であった産業資本にかわって、あらたに金融資本が支配的な資本形態となるにいたった。
 第三に、アメリカの一八六一―六五年の南北戦争における工業的北部の勝利と、一八七〇―七一年のフランスとの戦争におけるドイツの勝利は、すでに、アメリカとドイツにおける資本主義の急速な発展をしめすものであったが、戦争ののちは、これら両国は、長いあいだ「世界の工場」として君臨していたイギリスの独占的地位を脅かしはじめた。しかも、イギリスのかつての第一級の地位は、綿工業を中心とする軽工業におけるイギリスの圧倒的強さによるものであったが、新しくはじまりつつあった時代にアメリカとドイツを台頭させたものは、鉄工業を中心とする重工業のとくに急速な発展であった。だがこのことは、原料資源をめぐる資本主義列強の競争をとくに激化させずにはおかなかった。
 第四に、先進諸国の経済における右に述べたような一連の変化を基礎として、経済政策ばかりでなく、植民政策や外交政策その他でも、いままでの自由競争の時代とは異なる新しい様相が見られるにいたった。たしかに、植民地略取は資本主義の黎(れい)明期に「文明」諸国が暴虐のかぎりをつくしておこなったことだし、また、あの自由主義の「祖国」イギリスの産業資本はその植民地インドにおける「自由競争」によってインドの人民大衆に塗炭の苦しみを味わせたばかりでなく、セポイの反乱(一八五七年)にたいしては血の弾圧でのぞむことを辞さなかったのであって、植民地支配は資本主義諸国にとってはいつの世にも欠くことのできないものであったが、しかし新しい時代には諸国の植民政策にも新しい内容が盛られるにいたった。一八八〇年代以降、あらゆる資本主義国による植民地追求はいちじるしく激しさをましたばかりでなく、植民地住民にたいする支配の方式も、直接に弾圧的なものになった。たとえば、ホブソンがイギリスについて指摘しているように、「一八七〇年代以後に植民地もしくは保護領としてイギリスが併合した三九の地域のうちで、第三の等級〔代議機関ならびに責任政府をもつ植民地――引用者〕に属するものはただの一つもなく、第二の等級〔代議機関をもつが、責任政府をもたない植民地〕に属するものはただ一つ(*)」しかなかったのであって、イギリスは、残りの三八の地域を第一級の植民地すなわち「直轄植民地」として支配したのである。ここには、「植民地はわれわれの首にかけられた石うすだ」という考えの片鱗すら見られない(本書、一〇二ページを参照)。そしてこのような傾向はどの植民地領有国にも共通して見られるところなのである。
 (*) ホブソン『帝国主義論』、邦訳、岩波文庫版、上巻、六九ページ。

 資本主義の発展における新しい様相の出現は、数多くの研究家に各種各様の見解を展開させることとなった。レーニンが本文の冒頭で述べているように、一九世紀と二〇世紀の境目のころから、「新旧両世界の経済文献ならびに政治文献は、われわれの生活している時代を特徴づけるために『帝国主義』という概念について論じることが、しだいにますます多くなってい」(一九ページ)たのである。
 これらの文献のうち、ホブソンの『帝国主義論』(一九〇二年)とヒルファディングの『金融資本論』(一九一〇年)とは、グールヴィチの『移民と労働』(一九一三年)とともに、レーニンが本書を書くにあたって利用したブルジョア学者たちの数多くの著作とは異なり、彼がとくに高く評価しているものであるが、それにしても前者は平和主義の立場に立ったものであり、また後者は、ヒルファディングののちの日和見主義的立場につながるような欠陥をもっていた。

★  三

 レーニンがマルクス主義者として社会的実践活動にはいった一八九〇年代は、資本主義がすでに古典的な発展期を終えて、独占期の様相を表面にあらわしはじめた時代であった。だからレーニンは、活動の比較的早い時期に、新しい時代の特徴について書いている。たとえば、一八九九年末に執筆した『カウツキー「ベルンシュタインと社会民主党の綱領」の書評』のなかには、つぎのような叙述がある。
 「最近におけるこの周期〔産業恐慌の一〇年周期――引用者〕の変化は、エンゲルス自身が指摘したところである。ところで、企業家のカルテルは、生産を制限し調整することによって、恐慌に対抗することができる、という人がいる。だがアメリカはカルテルの国であるが、そこでは生産の制限のかわりに、生産の巨大な成長が見られる。つぎに、カルテルは、国内市場のためには生産を制限しながら、外国市場のためには生産を拡大し、そこでは欠損価格で商品を売り、祖国の消費者から独占価格を取りたてる。保護貿易のもとではこの制度は不可避であるのだが、しかし保護貿易に自由貿易の制度がとってかわることを期待する根拠は、なにもない(*)」。
 (*) 全集、第四巻、一ニ六―二一七ページ。

 また、一九〇四年にレーニンは亡命先のジュネーヴでホブソンの『帝国主義論』を手に入れ、さっそくそれの翻訳にとりかかった。そのことは、母親へあてた当時の手紙から知られるところである。だがこれらはすべて、レーニンの帝国主義研究の前史である。彼が帝国主義の本格的研究の必要を痛感し、そして実際に丹念な研究にとりかかったのは、第一次世界戦争が起こってからまもなくのころのことである。
 (*) 全集、第三七巻、三二五ページ。

 レーニンは本書で、この戦争が「両方の側からして帝国主義的な・・・・戦争であり、世界の分け取りのための、植民地と金融資本の『勢力範囲』の分割と再分割、等々のための戦争であったこと」(一二ページ)を証明しようとしたのであるが、しかし、きたるべき戦争がそういう性格の戦争であることは、第二インタナショナルの指導者たちがすでに一九〇〇年のシュトゥットガルト大会と一九一〇年のコペンハーゲン大会で、基本的にはみとめていたところである。またそのことは、本書の付録に収めた第二インタナショナルの『バーゼル宣言』(一九一二年)がはっきり確認したところである。そして彼らは、「大会は万国の労働者にむかって、資本主義的帝国主義にプロレタリアートの国際的連帯の力を対置することを要求する」(一七三ページ)、とおごそかに宣言したほどである。しかし周知のように、一九一四年七月末から八月初めにかけて現実にヨーロッパの列強のあいだで戦争が起きると、諸国のきわめて多数の社会主義者たちは、二年まえの自分たちの崇高な約束をあっさりわすれ、プロレタリア国際主義の立場を捨てて、「祖国擁護」――じつは「祖国」の大ブルジョアジーの帝国主義政策の擁護――の立場に転落してしまった。
 革命の大義を裏ぎった諸国の第二インタナショナルの指導者たちにたいするきびしい批判と、真のプロレタリア国際主義の立場の宣伝のためのレーニンの努力は、すでにその年の八月末には開始された。だが、いまはそれらの活動についてくわしい説明をする場所ではないので、問題を経済学の分野に限定しよう。
 一九一五年二―三月ごろに、レーニンはつぎのように書いている。「今日の戦争は帝国主義的性格をもっている。この戦争は、資本主義が最高の発展段階に達し、すでに商品の輸出ばかりでなく資本の輸出もきわめて本質的な意義をもち、生産のカルテル化と経済生活の国際化がいちじるしい規模に達し、植民政策がほとんど全地球の分割をもたらし、世界資本主義の生産力が民族国家の区分という限られた枠を乗りこえて成長し、社会主義を実現する客観的諸条件が完全に成熟した、そういう時代の諸条件によってひきおこされたものである(*)」。
 (*) レーニン『ロシア社会民主労働党在外支部会議』――全集、第二一巻、一五二―一五三ページ。

 これでわかるように、すでにこのころにレーニンは本書で体系的に確立した見解のまぎわまでゆきついていたのである。
 また同年七―八月に書かれた『社会主義と戦争』という小冊子のなかには、「奴隷所有者的『大』強国による世界の分割(*)」にかんする表がのっているが、これは本書の第六章にある「列強の植民地領土」〔第16表〕と内容はまったく同じものである。また八月末に発表された有名な小論文『ヨーロッパ合衆国のスローガンについて』のなかでは、列強による世界の領土的分割の「完了という条件のもとで、資本主義諸国の経済的発展の不均等性と関連して、帝国主義戦争が不可避であることが説明されている(**)。
(*) 全集、第二一巻、三〇九ページを参照。
(**) 前掲書、三五一ページを参照。

 このように、実際に帝国主義戦争が起こってからの一年間におけるレーニンの政治的活動のなかで、『帝国主義論』を書くための心の準備が、レーニンにはほとんどできあがっていたのである。
 レーニンが帝国主義にかんする文献の丹念な研究に着手したのは、一九一五年のなかごろ、スイスのベルンにおいてであったようである。そして「パールス」出版社の申入れを受けたあと翌年二月にツューリヒに移ってからは、彼はそこの州立図書館にかよって膨大な資料の収集と研究にはげんだ。この準備過程で、レーニンがクルプスカヤの助けを得ながら作成した書抜き、要綱、覚え書、統計表、等々は、『帝国主義論ノート』という標題のもとに一九三九年にはじめて単行の資料集として出版されたが、同じものがレーニン全集(第四版)第三九巻に収められている。

★  四

 レーニンは本書の「序文」で、「私はこの小冊子が、それを研究しないでは現在の戦争と現在の政治を評価するうえでなにひとつ理解できない基本的な経済問題、すなわち帝国主義の経済的本質の問題を、究明する助けとなることを期待したい」(一〇ページ)と言っている。このことばのうちに、私は本書の二様の性格がしめされていると考える。
 第一に、本書は「帝国主義の経済的本質の問題を究明」しようとしたものであり、そのかぎりではそれはなによりも経済学的文献である。しかし第二に、他方では、レーニンはこれをたんなるアカデミックな経済学研究の書として書いたのではない。レーニンは、広範な読者大衆が現在の戦争と現在の政治を正しく評価するための一助となることを期待しつつ、これを書いたのであって、そのかぎりでは、本書はたんなる経済学研究書の枠をはみでている。そして本書のこの二重の性格は、本書の構成のうえにもその刻印を押している。
 本書は全一〇章から成っているが、そのうち第一―第五章は純然たる経済学的研究にあてられている。そして第六章で、独占的金融資本が支配するにいたった時代の植民政策の基本的特徴が説明され、つづく第七章でいままでの六つの章の総括があたえられている。レーニンはこの章の初めの部分で、帝国主義の五つの基本的特徴を数えあげたあと、すぐつづいて、「帝国主義とは、独占体と金融資本との支配が形成されて、資本の輸出が顕著な意義を獲得し、国際トラストによる世界の分割がはじまり、最大の資本主義諸国による地球の全領土の分割が完了した、そういう発展段階の資本主義である」(一一六ページ)という、帝国主義の簡潔な定義をあたえている。そしてこの定義のなかで、レーニンは、帝国主義列強による世界の領土的分割の完了という、見ようによっては政治上の契機とおもわれるものまであげているが、しかし彼は右の定義を「基本的な純経済的概念」(同所――傍点は私のもの)に限定したものといっており、そしてレーニンのそのことばは正しい。だが同時に、帝国主義の経済学上の定義をあたえたことが、本書の使命そのものの要請からして、経済学的考察の枠を越えさせることにもなるのである。レーニンはこの章でカウツキーの帝国主義の定義を批判してゆくなかで、結びの部分で、新しい時代における資本主義列強の経済的発展の不均等性と結びつけて、世界の再分割のための帝国主義戦争の不可避性を論証し、いまたたかわれている戦争が、「金融的強盗のイギリス・グループとドイツ・グループのどちらが大きな獲物を手に入れるべきか、ということをめぐる戦争」(一四ページ)にほかならないことを、言外に読者に語っているのである。
 つづく第八章では「資本主義の寄生性と腐朽」が考察される。これも、たしかに、一方では経済学上の問題である。寄生性と腐朽という新しい時代の資本主義の特徴は、先進諸国の膨大な資本輸出という事実と関連している。だがそうして、「もっぱら理論的な――それもとくに経済学的な――分析にごく厳重に局限し」(九ページ)ながらも、当時の社会主義運動における最も重大な問題の一つ、すなわち日和見主義の問題を――しかしここではやはり経済的土台との関連において――とりあげるのである。
 また第九章で社会のさまざまな階級の帝国主義「批判」を批判するときにも、レーニンは同様のやりかたをしている。
 こうして本書は、第一義的には、「資本主義の特殊な、最高の段階としての帝国主義」にかんする経済学的考察の書であり、小冊子ながらマルクス主義経済学の発展のうえで大きな寄与をしたのであるが、それだけでなく、まさにそのことを通じて、広範な読者が政治活動のうえで正しい道を歩むことを可能にするような基礎理論を提供したのである。
 ところで、現在われわれは、レーニンが本書を書いた時代と、一方ではほぼ同じ性格をもつが、他方ではきわめて異なる特徴をもつ時代に住んでいる。すなわち、現在、いくつかの帝国主義諸国があいかわらず巨大な経済的および政治的力を保有しているが、しかし他方では、一九一七年以降は、資本主義はもはや全世界をおおう体制ではなくなり、いまでは周知のように、地球の陸地面積の約四分の一で、世界の総人口の約三分の一の人々が社会主義社会を建設している。レーニンの時代とわれわれの時代とではこのような重大な相違があるのだから、われわれは、レーニンの『帝国主義論』から多くのものを学びつつも、この小冊子のなかのレーニンの個々のことばを教条のようにおしいただいて、それを現代に機械的にあてはめるようなことをしてはならない。また逆に、時代の相違を理由に、レーニンにおける科学的な基本的見解を捨てさるようなことをしてもならない。レーニンの理論を生きたものとして身につけるということは、けっして生やさしいことではないが、広範な読者が、本書を読みつつそのような努力をされることを、私は、訳者およびマルクス主義経済学者として、心から期待したい。         (訳 者)

☆ あとがき

 私が国民文庫版の『帝国主義論』の旧訳の訳者、堀江邑一氏のご了解を得て、私の手になる新訳を出したのは一九六一年のことであった。それ以来一一年のあいだに二四刷をかさねてきたが、その訳にもいろいろな欠陥が見いだされたので、機会を得て、ここに新訳改訂版を出すことにした。もっとも、基本的には一九六一年のままで、誤りや不適当な箇所を訂正したにとどまる。
 だがこうして新訳改訂版を出すにあたって、体裁を広範な読者にとってより近づきやすいものにあらためた。すなわち、さきの版では、レーニンが注であげた引用文献は、レーニンのとおりまず原語でしめし、そのあとに邦訳を付すという方法をとったが、こんどは、すべて翻訳してあげるにとどめた。しかしただそれだけではしーニンがわざわざ原語をしめした意義がそこなわれるので、巻末にすべての引用文献を原語でしめすことにした。
 また事項注は、専門研究家にもなにがしか役だつとともに、なによりも広範な学習者により良い手引きになりうるように、かなり書きあらためるとともに、新しい注をいくつか書きたした。
 この新しい版が、わが国の学習意欲に満ちた広範な読者にとって、古い版よりももっと読みやすく利用しやすいものになったとしたならば、私の努力はむくいられたと考えることができる。
     (訳 者)


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