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☆  事項注

〔1〕 一九一四―一七年に外国で書いた論文の再録版――レーニンは『第二インタナショナルの崩壊』(全集第二一巻所収)をはじめ、いくつかの政治論文をあつめて、『流れに抗して』という標題の論文集を出す計画であった。しかしその発行はかなりおくれ、レーニンはやっと一九一八年三月にそのための「序文」を書いている(全集第二七巻、二二五ページを参照)。
〔2〕 『フランス語版およびドイツ語版への序文』――どういう理由からか、このフランス語版とドイツ語版は、レーニンがこの序文を書いた当時出版されなかった。これはやっと一九二一年一〇月に、『資本主義と帝国主義』という標題で、雑誌『コムニスチーチェスキー・インテルナツィオナール』の第一八号にはじめて発表された。
〔3〕 ブレスト―リトフスクの講和――一〇月革命の勝利の瞬間から、ソヴエト政府は公正な民主主義講和について交戦諸国と交渉を開始した。イギリス、フランスはソヴェト政府の提唱を拒絶したので、ソヴェト政府はドイツ、オーストリアと単独に講和することにきめ、その交渉を一九一八年二月にブレスト―リトフスクではじめた。生まれたばかりのソヴェト共和国は、息つぎの時間をつくってソヴェト権力を強化するために、たとえ犠牲をはらってもこの講和を必要とした。しかしメンシェヴィキやエス・エル、白衛派などはこぞって講和に反対した。この会談はトロツキーの背信行為によっていったん決裂し、のちに同年三月に、ドイツのいうがままのもっと耐えがたい屈辱的な条件で講和が成立した。
〔4〕 ヴェルサイユの講和――第一次世界大戦の後始末をつけるための講和会議は、一九一九年一―六月にパリでひらかれた。この会議は、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、日本のいわゆる五大国が敗戦諸国の犠牲において世界の再分割をおこなうためのものであった。この会議を実際に指図したのはロイド―ジョージ(英)、ウィルソン(米)、クレマンソー(仏)の三巨頭であった。六月二九日にヴェルサイユ宮殿で調印された条約は、ドイツからあらゆる植民地領土を取りあげたうえ、ドイツに天文学的数字の賠償を支払うことを強要した。このヴェルサイユ条約はその第一部で、この不公正な帝国主義的な性格の「平和」を維持することを目的とした、国際連盟の創立を規定した。ソヴェト・ロシアはもちろんこの会議に参加しなかった。
〔5〕 ウィルソン主義――アメリカ大統領ウィルソンは、ヴェルサイユの平和会議にあたって、いわゆる「ウィルソンの一四ヵ条」の原則を提案した。この第一条で彼は国際連盟の創設を提唱し、第二条で民族自決権をとなえていたが、しかしこの「一四ヵ条」は、結局は、五大帝国主義国で世界の再分割をおこなうことを目的とするものにほかならなかった。
〔6〕 第二インタナショナル――一八八九年にフランス革命一〇〇周年を記念して、諸国の社会主義者がパリでひらいた大会によって創立された。はじめのうちはエンゲルスの指導もあったが、彼の死後ベルンシュタインが修正主義をもちこんだ。カウツキーたちはこれにたいしてマルクス主義の「正統」をまもってたたかったが、彼らも帝国主義の本質を理解できなかったので、この組織はついに革命的な組織になることができなかった。第一次世界大戦が起こると、これに加入していた主要な諸国の社会主義政党は――ボリシェヴィキ党をのぞき――祖国防衛主義の立場に立つにいたった。こうしてそれはそのときをもって不名誉な崩壊をとげた。
〔7〕 バーゼル宣言――一九一二年一一月二四―二五日にバーゼルでひらかれた第二インタナショナルの臨時大会で採択された有名な宣言。これは、切迫している戦争が帝国主義的性格の世界戦争であることを強調し、万国の社会主義者が国際主義の立場に立ってあくまでも戦争にたいして反対するように訴えるとともに、さらに、もし不幸にも戦争が起きた場合には諸国の労働者階級は政府の行為にたいして反逆するであろうと警告した。なお、「宣言」の全文は付録として本文のあとに収めてある。
〔8〕黄色インタナショナル――解消した第二インタナショナルにかわって、西ヨーロッパの社会主義諸党の指導者たちが一九一九年二月にベルリンに結成した組織。黄色は「革命的」な赤色に対応する形容詞で、「階級協調主義的」な立場をあらわす。
〔9〕 ドイツ独立社会民主党――一九一六年三月に国会で軍事予算に反対投票したためにドイツ社会民主党から除名されたカウツキー以下一七名は、一時、院内活動のため「社会民主党同志団」をつくったのち、一九一七年四月にスパルタクス団(注一四を参照)と合同してあらたにドイツ独立社会民主党を結成した。しかし一九一八年一一月のドイツ革命を契機として、彼らはスパルタクス団とはなれた。一九二〇年一〇月のハレ大会で党内の左派がスパルタクス団にはしったのち、残党はますます反革命的性格を明らかにし、一九二二年九月にドイツ社会民主党と合同した。
〔10〕 第三インタナショナル――共産主義インタナショナル、略称――コミンテルン。レーニンの主唱によって一九一九年三月六日に共産主義を指導原理としてモスクワで結成された。諸国の共産党の統一的指導機関で、一九三五年にはソ連邦共産党をはじめ七六の党が加盟していた。第二次世界大戦のさなか、一九四三年五月一五日に解散を決議した。
〔11〕 ボリシェヴィキ――ソ連邦共産党の前身ロシア社会民主労働党内のレーニン派の総称。一九〇三年の第二回党大会(党は事実上はこのときに結成された)で、レーニン派と反しーニン派が鋭く対立したが、前者が多数を占めたので、これ以来レーニン派はボリシェヴィキ(多数派)と呼ばれるようになった。その後ボリシェヴィキは、真の革命的社会民主主義者=レーニン主義者=共産主義者の代名詞としてもちいられるにいたった。
〔12〕 メンシェヴィキ――第二回党大会でボリシェヴィキに対立して敗れたメンシェヴィキ(少数派)は、口さきでは革命をとなえながら、本質的には改良主義者、日和見主義者で、第一次世界大戦にさいしては祖国防衛主義の立場に立って帝国主義戦争に協力した。さらに十月社会主義革命の勝利後は、ボリシェヴィキ勢力に反対するために白色反革命軍と直接手をにぎるにいたった。
〔13〕 社会革命党――一九〇一年に結成された小ブルジョア政党で、種々のナロードニキ(後出注六〇を参照)的潮流を源流としていた。農民を基盤として、ロシアの社会運動で一時かなりの役割を演じた。しかし十月革命後、農村にも社会主義的変革の波が押しよせると、これに反対し、ついには白衛軍と協力して反革命行動をとるにいたった。
〔14〕 スパルタクス団――第一次大戦が起こったあと、ドイツ社会民主党内の国際主義者たちは党主流の日和見主義的・社会排外主義的傾向に反対してたたかい、そのため党から除名された。彼らK・リープクネヒト、ルクセンブルグ、メーリング、ツェトキン、ピークらのグループは、のちにスパルタクス団と呼ばれた。これが母体となって、一九一八年一二月にドイツ共産党が結成された。
〔15〕 「コンミューン派」と「ヴェルサイユ派」――一八七一年のパリ・コンミューンのとき、パリの労働者たちは、自分たちの革命政府の樹立と自由なフランスのために、コンミューンに拠って英雄的にたたかった。これに反して、旧政府首脳ティエールらブルジョアジーの代表者たちは、ヴェルサイユにのがれてそこに売国的偽政府をつくり、自分たちの階級支配を維持するために、きのうまでの敵であるプロイセン侵略軍と恥ずべき講和をむすび、その支持のもとにパリ・コンミューンを攻撃し弾圧した。
〔16〕 アメリカ=スペイン戦争――一八九〇年代の後半にスペインの海外植民地に反乱が勃発したのに乗じ、アメリカはそれらの領土を強奪しようとして一八九八年にスペインに戦争をしかけた。戦争はスペインの敗北におわり、アメリカは同年一二月のパリ条約によってグァム、プェルトリコ、フィリピンを獲得し、形式的な独立を得たキューバを完全な支配下においた。
〔17〕 ポーア戦争――イギリスは、南アフリカのボーア人共和国トランスヴァールとオレンジを滅ぼし強奪するために、一八九九年にこの国に戦争をしかけた。ボーア人ははじめ随所でイギリス軍を負かしたが、力つきて一九〇二年にプレトリアで講和条約をむすび、イギリス国王の支配下にはいることをよぎなく承認した。イギリスはこの戦争で限りない暴虐をボーア人にくわえた。
〔18〕 レーニンはホブソンの『帝国主義論』の詳細な検討を、『帝国主義論ノート』の《κ》(《カッパ》)でおこなっている(全集第三九巻、三七三―四〇二ページを参照)。また『ノート』のべつの箇所で、レーニンはこの著書につぎのような評価をあたえている。「ホブソンの帝国主義にかんする著書は一般に有益である。しかしそれがとくに有益であるのは、この問題についてのカウツキー主義の基本的な虚偽を暴露するのをたすけているからである」(前掲書、八六ページ)。なお、レーニンは早くからこの著書に深い関心をしめしており、すでに一九〇四年に翻訳を手がけたが(全集第三七巻、三二五ページを参照)、その手稿は残っておらず、翻訳が完了したかどうかもわからない。
〔19〕 正しくは、ヒルファディングの著書の標題はつぎのとおりである。『金融資本。資本主
義の最近の発展についての一研究』。
〔20〕 ケムニッツとバーゼルの両大会――一九一二年九月にひらかれたドイツ社会民主党のケムニッツ大会と、同年一一月にひらかれた第二インタナショナルのバーゼル大会のこと。これらはともにその決議で、社会民主主義者はきたるべき帝国主義戦争に積極的に反対することを決定した。
〔21〕 本訳書では、すべて邦訳して各段落の直後につけることにする。だが、レーニンは文献をとくに原語でしめしているので、本訳書でも、研究者の便宜のために、レーニンの引用した文献を著者名のアルファベット順に配列して、著者名のない年鑑類などは書名のアルファベット順に配列して、付録としてまとめてかかげることにする。
〔22〕 集積と集中――資本の集積というのは、直接に資本の蓄積にもとづくものであって、剰余価値の一部を原資本に付加することを通じて、資本の規模が拡大することである。これにたいして、資本の集中とは、すでに存在する資本の合同または合併によって個々の資本が大きくなることである。両者はたがいに制約しあうものであるが、資本主義的生産の発展の過程でより基本的なのは、集積である。
 ところで、レーニンは本書では、わずかの例外をのぞき、内容的には集中(ツェントラリザーツィヤ)Zentralisation について述べている箇所でも、集積(コンツェントラーツィヤ)Konzentration という術語をもちいている。これは、レーニンの読んだ『資本論』第一巻が、一八七二年に出た第二版であったことと関連するようにおもわれる(この事実は、全集第五版、第三巻、注一五による)。マルクスは第二版ではまだ Konzentration と Zentralisation という二つの術語の使いわけをしておらず、たとえば現行の第四版で、「これは、蓄積(Akkumulation)および集積(Konzentration)とは区別される、本来の集中(Zentralisation)である」(原書、全集版、六五四ページ、旧ディーツ版、六五九ページ)となっている箇所が、第二版ではたんに、「これは蓄積と区別される本来的集積(Konzentration)である」(六五一ページ)と書かれていた。そしてこの段落のあとに出てくる現行版における「集中」の語も、第二版では「集積」となっていた。マルクスが「集積」と「集中」という二つの術語を明確につかいわけたのは、一八七二―七五年に出たフランス語版が最初であった(同書、二七五ページ以下を参照)。
 この訳書では、レーニンがどういう術語をもちいているかを明確にしめす意味で、「コンツェントラーツィヤ」はすべて「集積」と訳した(もっとも、引用文のなかでとくに「集中」と訳すほうが適当とおもわれた場合は、そう訳した箇所がある)。しかしここでいう「集積」は、狭い意味での「集積」にかぎられず、集積に制約されつつ進行する「集中」の過程および概念をもふくんでいる、と理解すべきであろう。なおレーニンは、集中について述べる場合、「ツェントラリザーツィヤ」という外来語のほかに、「ソスレドトーチェニエ」という伝来のロシア語をもつかっている。
〔23〕 独占と独占体――レーニンは本書で「独占」を単数で使ったり複数でつかったりしている。単数の場合はそのまま「独占」と訳して問題ないが、複数の場合は、いくつかの例外を除き、「独占体」と訳しておいた。複数でも、もろもろの独占の現象をさしているとおもわれる場合は、「独占」と訳出した。
 なお、レーニンの原稿によれば、この箇所は「モノポーリイ」と複数になっているが、出版社がかってに手を加え、一九一七年の版では「モノポーリヤ」と単数になっていた。ここを単数にしたのでは、レーニンの意図はゆがめられてしまうであろう。
〔24〕 邦訳、大月書店版、二九九―三〇〇ページを参照。なお、引用文中( )でくくってあるのは、レーニンの挿入したもの。以下同様。
〔25〕 企業の独占団体の諸形態――レーニンが本書であげているものは、つぎのとおりである。カルテル――とくにドイツで発達した形態で、同種の企業が相互の競争を制限することによって独占的な高利潤を獲得しようという協定によって成立する。それぞれの加盟企業は、商業上および生産上の独立性を保持したままで、生産物の価格、販売市場、生産量その他について協定をむすぶ。なお、非加盟者はアウトサイダーと呼ばれる。
 シンジケート――カルテルよりも高度の形態で、加盟者はもはやその製品を自分の手で販売することをやめ、独立の組織であるシンジケートをとおして売るようになる。そしてシンジケートの内部では、カルテルの場合よりも、大資本の支配がより強まる。
 トラスト――とくにアメリカで発達した形態。アメリカでは一九世紀末に独占行為にたいして禁止立法がなされたので、カルテルにかわる脱法的手段としてトラストが考えだされた。ここでは、加盟企業は独立性を失い、トラストの単一の経営と管理に服することになる。
〔26〕 レーニンはここで「リシェーニエ」ということばをつかっているが、これはこの場合は「剥奪」としか訳しようがない。しかしケストナーは Sperre あるいは Sperrung という語をつかっている。すなわち、原料等々を「剥奪」するのではなく、それらがアウトサイダーの手にはいらないように「遮断」するわけである。だがここでは、レーニンの言いかえを直接に訳すことにした。なお『帝国主義論ノート』一八―一九ページを参照。
〔27〕 『バンク』(『銀行』)――ドイツ金融業界の雑誌で、一九〇八年から一九四三年までベルリンで出ていた。レーニンはこの雑誌に掲載された論文や資料を研究した(『帝国主義論ノート』、四八―六四、一四一―一六〇、四五七―四五八ページを参照)。
〔28〕 レーニンによるヤイデルスのこの著書の詳細な検討については、『帝国主義論ノート』、一二七―一三九ページを参照。レーニンはリーサーよりもヤイデルスを高く評価している。
〔29〕 レーニンの原文では表に番号はないが、組みの関係から、本訳書では便宜上〔 〕にかこんで表に番号をつけることにした。
〔30〕 シュルツェ―ゲーヴァニッツの論文『ドイツの信用銀行』の詳しい批判を、レーニンは『帝国主義論ノート』三〇―四一ページでおこなっている。また彼の著書『二〇世紀初頭のイギリス帝国主義とイギリスの貿易』の検討は、同書四一二―四二三ページでなされている。レーニンは本書でシュルツェ―ゲーヴァニッツの著述をかなり利用しているが、それはこの著者の考えや記述がすぐれているからではなく、逆に、彼には「歓喜する帝国主義者の勝ちほこった豚の調子が随所で見られる」(三三ページ)からであり、また彼が「帝国主義に奉仕する理想主義」(四二三ページ)の立場から意見を述べているからである。
〔31〕 リーフマンの著書『参与会社と融資会社』の批判的検討については、『帝国主義論ノート』三四一―三四九ページを参照。レーニンはリーフマンの理論的水準の低さを随所で笑っている。
〔32〕 ドイツの大銀行にかんするリーサーの著書というのは、『ドイツの大銀行、およびドイツの一般経済の発展との関連におけるその集中』(一九一〇、一九一二年)のこと。レーニンはこの著書の分析を、他の文献の検討とあわせながら、『帝国主義論ノート』三一三―三四〇ページでおこなっている。
〔33〕 このパラグラフではレーニンは二度とも「ツェントラリザーツィヤ」という術語をつかっている。
〔34〕 全集版、六二〇ページ、旧ディーツ版、六五五ページ。レーニンはロシア語訳をそのまま引用しているが、それはマルクスの原文とはすこし違っている。マルクスの原文はつぎのとおりである。「たしかに、それ〔銀行制度〕とともに社会的規模での生産手段の一般的簿記や配分の形態があたえられているが、しかし形態だけである。」四八
〔35〕 一八七三年の取引所瓦落――一八七三年の前半に、まずオーストリア=ハンガリーで、ついでドイツその他の諸国で起こった。七〇年代の初めに信用の膨脹、創業行為、株式投機が空前の規模に達した。そして世界経済恐慌の兆候がすでに見られはじめた時期に、株式投機はなお増大した。その反動として、ついに一八七三年五月九日にウィーンの取引所で大暴落が生じ、二四時間内に株価は数億グルデンさがり、膨大な数の倒産者を出した。
〔36〕 創業スキャンダル――フランス=プロィセン戦争ののち、ドイツの資本主義は急速な発展をとげたが、その当時、一八七〇年代に、株式会社の設立にさいしてもろもろのスキャンダルが生まれた。急激な会社創立にともなって、事業家の詐欺的取引、土地や有価証券の気ちがいじみた投機がひろくおこなわれた。
〔37〕 『フランクフルター・ツァイトゥンク』(『フランクフルト新聞』)――ドイツの巨大株式取引業界の日刊新聞。一八五六年から一九四三年までフランクフルト・アム・マインで出ていた。
〔38〕 「組織された」資本主義――独占資本主義の段階で巨大資本が相互のあいだで競争を制限する協定をむすんでいる事実に幻惑されて、いまや資本主義的生産のかつての無政府性が排除され、恐慌はなくなり、国民経済の計画的発展が可能となったと説く、ブルジョア的資本主義弁護論。はじめゾンバルト、リーフマンその他の独占資本の理論的代弁者が唱えたが、のちに、カウツキ−、ヒルファディングらの第二インタナショナルの改良主義的理論家たちもこれにとびついた。
〔39〕 邦訳、大月書店版、三四六ページ。第二の引用文は、「産業に充用された資本のますます多くの部分は金融資本、すなわち、銀行の管理下にあって産業資本家が充用している資本である」という一句のなかの、後半の部分である。
〔40〕 さきの文章は第一四章「資本主義的独占と、銀行資本の金融資本への転化」からとられたものであるが、そのまえの二つの章では「カルテルとトラスト」(第一二章)、「資本主義的独占と商業」(第一三章)が考察され、レーニンのいうように「資本主義的独占体の役割が強調されている」。
〔41〕 原語「ホジャーイニチャニエ」のもとになっている動詞「ホジャーイニチャチ」は、元来は「経営をおこなう」、「家政をつかさどる」という意味であるが、転じて、「自由にとりしきる」という意味にもちいられる。「ホジャーイニチャニエ」という名詞は、第二の意味でつかわれるのが普通であるが、レーニンはここでは、独占体の「経営遂行」、「業務遂行」がそれ自体「自由なとりしきり」に通じ、金融寡頭制の支配になることを言いたかったために、「ホジャーイニチャニエ」にかっこをつけたのだと察せられる。
〔42〕 ゲ・ヴェ・プレハーノフのこと。彼は戦争中にべトログラードで公刊された論文集『戦争について』のなかで、本文中にあるような意見を述べた。
〔43〕 『ノイエ・ツァイト』(『新時代』)――ドイツ社会民主党の理論雑誌で、一八八三年から一九二三年にかけてシュトゥットガルトで発行されていた。一九一七年一〇月まではカウツキーが、それ以後はクノーが編集者であった。
〔44〕 創業者利得――ヒルファデイング『金融資本論』、第七章の一「配当と創業者利得」、とくに一七一―一七三ページを参照。
〔45〕 レーニンは本書を合法的出版物として出す計画だったため、ロシア帝国主義についてはごく簡単な指摘をするにとどめている。しかし彼が、文献の不足になやみながらもロシアについても研究をしていることは、『帝国主義論ノート』によって明らかである。彼はアガードの著書『大銀行と世界市場。ロシア国民経済とドイツ=ロシア関係におよぽす影響から見た世界市場における大銀行の経済的および政治的意義』(ベルリン、一九一四年)のほか、ア・エヌ・ザク『ロシア産業におけるドイツ人とドイツ資本』(サンクト―ペテルブルグ、一九一四年)、B・イシハニアン『ロシア国民経済における外国の要素』(ベルリン、一九一三年)を利用している(『帝国主義論ノート』、八七―一〇四、二一六―二一七、二三八―二三九ページを参照)。
〔46〕 邦訳、一九九ページ。なおヒルファディングの原文では、「より収益の少ない旧資本」ではなく、「より少なく評価された旧資本」となっている。
〔47〕 フランスのパナマ事件――パナマ運河の開堀工事がフランスの手ですすめられていたころ、一八九二―一八九三年に、フランスの諸会社による政治家や官僚や新聞の大規模な買収事件が起こり、センセーションをひきおこした。
〔48〕 レーニンが本書を準備する過程で膨大な統計資料を詳しく研究、点検、分析したことは、『帝国主義論ノート』を一見すれば明らかであるが、全世界の有価証券発行高(第9表、第10表)については、彼はネイマルクの数字のほかに、W・ツォリンガーの論文『国際価値移転のバランス』(一九一四年、イェナ、『世界経済の諸問題』、第一八号)を利用し、両者を比較して、独自の計算を試みている (『帝国主義論ノート』、六四―六六、一一四―一一九、三五五―三五六ページを参照)。
〔49〕 レーニンがあげている著書のうち、ホブソン『帝国主義論』については、岩波文庫版、上巻、一一四―一一五ページを、ヒルファディング『金融資本論』については、大月書店版、四七五―四七六ページを参照。
〔50〕 一九一一年八月一九日(新暦九月一日)の日本とフランスとの通商条約――これによって、たとえば、(一)フランスは日本のすべての植民地で特恵をあたえられることになったが、日本は、絹をほとんど購入しないアルジェリアで特恵をあたえられたにとどまる。また、(二)フランスはサーディン、ぶどう酒、石けん、香水、自動車、機械その他の商品の日本への輸出で特恵を得たが、日本は生糸の輸出について特恵をあたえられただけであった。
〔51〕 括弧のなかの文章は、一九一七年の版では削除されていた。これは、この著書を出版した「パールス」社にいたメンシェヴィキたちが、カウツキーをかばってしたことである。このように、カウツキーやその他の日和見主義者たちを批判したレーニンのことばが一九一七年版で削除されたり訂正されたりした例は、このほかにも多くあるが、研究上重要ではないので、あと一ヵ所をのぞき、いちいち指摘しないことにする。
〔52〕 いま起こっていること――第一次世界大戦のこと。レーニンは検閲を顧慮してこのような言い方をしたのであって、「奴隷のことば」の一例である。
〔53〕 レーニンはモリスの著書『植民史』の検討を、『帝国主義論ノート』二一九―二二五ページで試みている。そして、この本「そのものは事実の無味乾燥な羅列のようである」にしても、「統計的概括は興味ぶかい」という両面の評価をあたえている。
〔54〕 三行まえの「ところが」以下この段落の最後までの文章は、一九一七年の初版では削除されていた。なお、ロシア・マルクス主義の創始者というのはプレハーノフのことである。
〔55〕 ズーパンの著書『ヨーロッパの植民地の領土的発展』とヒューブナーの『地理統計表』からの詳細な引用と分析が、『帝国主義論ノート』二六二―二七五ページでなされている。
〔56〕 ヒルファディング『金融資本論』、四九四ページを参照。
〔57〕 カウツキーの論文名は、第一のは『帝国主義』そのものであり、第二のは『再考のための二つの文書』であった。
〔58〕 ここは原文は《・・・・,произвольно и неверно свя его только с промышленным капиталом в аннектирующие другие нации странах,》であるが、アンダーラインをひいた語が初版では аннектирующих となっていた。それを『レーニン全集』第二版の編集者がレーニンの手稿によって аннектирующие となおし、それが現行版にもとりいれられている(第二版、第一九巻、一四四ページを参照)が、これでは意味がとおらない。ソ連邦で出ている英訳もドイツ語訳も、ここを аннектирующих と解して訳している。私も同様に訳しておいた。
〔59〕 邦訳、下巻、二二四ページ。
〔60〕 ナロードニキ――一八六〇―一八九〇年代のロシアの革命運動における主要な潮流で、農民社会主義の立場をとっていた一派。ロシアにおける資本主義の発展がまだ微弱だったあいだは革命的な役割を果たしたが、九〇年代になると、プロレタリアートの立場にたつマルクス主義的社会主義の直接の反対者となるにいたった。
〔61〕 ロシアにおける資本主義の発展の可能性を否定するナロードニキのひとりクリヴェンコは、その発展の必然性を主張するマルクス主義者に反論して、もし資本主義の発展が必然的で進歩的であるなら、「農地の買占めをも、店舗や居酒屋の開設をもはばかってはならず」、「国会にいる多数の居酒屋の主人の成功をよるこび、農民の穀物の多数の買占人を、もっと援助しなければならない」という、こっけいきわまる「結論」を引きだした。レーニン『「人民の友」とはなにか』、全集第一巻、二八二ページ(国民文庫版、一九七ページ)を参照。
〔62〕 レーニンは準備過程で『ノイエ・ツァイト』一九一四年(第三二年)、第二巻第二一号に掲載されたカウツキーの論文『帝国主義』を詳しく批判している(『帝国主義論ノート』、二三三―二三八ページを参照)。なおカウツキー一派をレーニンは「新しいプルードン主義」(八六ページ)あるいは「近代的プルードン主義」(一六〇ページ)と特徴づけている。
〔63〕 邦訳、上巻、一一五―一一六、一〇六、一〇七ページ。
〔64〕 邦訳、上巻、一五五ページ、下巻、一〇一、三五、二四五、三〇四ページ。
〔65〕 『マルクス=エンゲルス往復書簡』については、『マルクス=エンゲルス全集』、第二九巻、(原)三五八ページ、第三五巻、(原)二〇ページを、エンゲルスのカウツキーあての手紙については、第三五巻、(原)三五六ページを参照。なお、『イギリスにおける労働者階級の状態』第二版の序文は、同全集第二巻、六六四―六八〇ページに収録されている。
〔66〕 解党主義――一九〇五―一九〇七年の第一次ロシア革命が失敗におわると、メンシェヴィキたちは、非合法のロシア社会民主労働党の組織を解消し、非合法の革命活動をやめることを要求した。彼らは、革命を放棄することを代償に、ツァーリ政府から党の合法的な存在の許可を得ようと試みたわけである。
〔67〕 フェビアン協会――一八八四年にイギリスのブルジョア・インテリゲンツィアの一群が設立した改良主義的な結社。この協会の名は、決戦を回避する戦術をとったことで名高い古代ローマの司令官ファビウス・クンクタトール(ぐずぐずする者、の意)の名にちなんで、一派がみ
ずからつけたものである。この協会の代表的な人物に、バーナード・ショー、シドニー・ウェッブなどがいる。
〔68〕 ホブソンは『帝国主義論』の第二編第四章「帝国主義と劣等人種」の初めの部分で、「キッド氏、ギディングス教授、および『フェビアン』帝国主義者たちによって有能に提供された真実の論点・・・・」(下巻、一四〇ページ)と書いているが、レーニンはおそらくホブソンのこのことばを思いうかべているのであろう。
〔69〕 最後のモヒカン族――モヒカン族は、かつて北アメリカに住んでいたインディアンの一種族で、いまは死滅している。F・クーパーの同名の小説から転じて、このことばは、死滅しつつある社会現象の最後の代表者をさすのにもちいられる。
〔70〕 邦訳、五三九―五四〇ページ。
〔71〕 エンゲルスは『資本論』第三巻第六章の「注一六」でつぎのように書いている。近代的生産力が資本主義的商品交換の法則からますますはみだしつつあることは、「・・・・とくに二つの徴候のうちに現れている。第一に、あらたな一般的な保護関税熱であって、これはことに、ほかならぬ輸出能力ある物品を最もよく保護するものだという点で、旧来の保護関税と異なる。第二に、生産を、したがって価格と利潤を調整するための、大きな生産部面全体の工場主たちのカルテル(トラスト)である」(全集版、一三〇ページ、旧ディーツ版、一四二ページ、「注一六」)。
〔72〕 ホブソン『帝国主義論』、下巻、二六五ページ。
〔73〕 レーニンはここで、後出の義和団の蜂起(注七四)と関連する帝国主義諸国の「共同」歩調を一例として念頭においている。一九〇一年九月七日にイギリスを先頭とする帝国主義諸国が中国とのあいだに調印した「北京議定書」によって、中国はこれら諸国に多額の賠償金の支払いと同時に、北京における諸国軍隊の駐留、広範な治外法権地域の設定などをみとめさせられた。
〔74〕 義和団の蜂起の鎮圧――義和団の蜂起は一九〇〇年六月に北京、天津を中心に起こった。これよりさきにイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本などの帝国主義諸国は、中国の分割に乗りだし、中国をめぐって相互に対立していたが、中国人がしだいに目ざめて帝国主義諸国の居留民の排斥運動を展開し、ついに義和団の蜂起にまで発展すると、上記の列強は自国の居留民の安全を確保するという名目で、中国人民の解放運動を、アメリカの軍隊をもくわえて、共同して武力によって鎮圧した。
〔75〕 ファショダ事件――フランスのマルシャン少佐の率いる特別遠征隊は、アフリカにおける植民地拡張を目的として、一八九八年にナイル河上流のファショダを占領した。これが、おなじく東アフリカの侵略をめざすイギリス帝国主義との衝突をひきおこした。しかし、フランスはナイル流域から手をひき、イギリスはエジプトを確保することで、事態がおさまった。
〔76〕 ロシアに対抗してのイギリスと日本との条約(日英同盟)――ロシアの満州進出が露骨になった一九世紀末に、イギリスはロシアに対抗して極東における自国の「権益」をまもることを目的として、日本と同盟関係にはいろうとした。こうして一九〇二年に日英同盟条約がむすばれた。この条約は、その後情勢の変化に応じて何回か修正されつつ一九二四年まで存続したが、その年に日英米仏四ヵ国の太平洋条約が発効すると同時に効力を失った。
〔77〕 邦訳、四七一―四七二ページ。なお、ヒルファディングの原文では、「輸入された資本」ではなく「輸入された資本主義」であり、「農業的孤立」ではなく「農業的きずな」であり、また「その武力」は「その権力手段」となっている。
〔78〕 リーサーの原文は「純然たる私経済的」ではなく、「純然たる私法的」となっている。


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