懐古闘争扉ベトナム訪問扉11日間の記録ニャンザン論文「革命的潮流の勝利」
ハノイ訪問1ハノイ訪問2ホーチミン市訪問1ホーチミン市訪問2
解放四年後のベトナム
アジア青年会議ベトナム友好訪問団の記録 1979年4月24日〜5月4日

●ハノイ訪問2●

共産青年同盟幹部と会見、ペトリカメラを贈呈
ホテルにて共産青年同盟国際対外委員会幹部と会見。友情のしるしとしてペトリカメラを贈呈。立っている三人の右から共産青年同盟幹部、通訳、旅行団メンバー。当時ペトリカメラは“会社倒産”によって労働者を切り捨てようとする経営側に対抗し組合による会社占拠・自主管理生産を行なっていた。多くの労組や団体がペトリを応援し連帯闘争を組んでいた。

トンニャット公園にて
トンニャット公園は市民の憩いの場となっている。かわいい男の子をつれた若夫婦に接近、母子を撮らせてもらう。

イエンソー農業合作社の子どもたち
ベトナム北部では農村の90%以上が農業合作社に組織されている。他には国営農場も建設されている。訪問団はイエンソー農業合作社とレミンスアン国営農場を見学した。解放直後、大量にいた失業者(200万人)の救済のために「新経済村」を建設し失業者をそこへ送り込む。電気も水道もない。ベトナム経済の復興は当面農業を基礎として行われる。
こどもはどこでも元気だ。めずらしい「外国人」の訪問にこどもたちはおおはしゃぎする。

中国侵略軍への戦勝展示会(1)
正面の門わきに北部国境地帯での戦闘の模様が図示されていた。首都ハノイから戦闘地域まではおよそ150キロ。首都を東京にたとえると静岡あたりに中国軍が侵入していることになる。しかし訪問団はそれほどの緊張感を感じなかった。南へ訪問した時に説明をきいてその理由がわかった。
「中国軍の装備は非常に遅れています。上からの命令で何の武器ももたずに大軍で押し寄せてくる。また戦意がない。指揮官は後ろから兵士を威嚇して前進させる。その指揮官を狙って撃てば部隊はちりぢりになって逃げていきます。」
「中国の戦闘機はミグ19しかありません。われわれはミグ21も23も持っている。さらに米軍から捕獲したファントムもある。」
解放軍の元幹部の言葉からは大きな自信が感じられた。
帰国後、様々な報道によっても中越の武装の質や戦意の差については事実である事が確認された。

中国侵略軍への戦勝展示会(2)
展示場入口横には撃墜された中国軍機の残骸が置いてあった。

中国侵略軍への戦勝展示会(3)
展示場に掲げてあった北ベトナム軍ミグ戦闘機隊の写真

中国侵略軍への戦勝展示会(4)
中国軍のスパイ遺留品の展示を見ながら説明を聞くハノイ市民。
入場者数は平日10000人〜15000人、休日には30000人ほど。

ハノイ市街地
米軍の爆撃により徹底的に破壊されたため、市街の様子はまだまだ貧しい。自動車というものがほとんど見られない。オートバイもない。市民の足は自転車が主流となっている。

サーカスを楽しむ人々
市民の娯楽は少ない。だからサーカスはたいへん人気がある。
旅行団メンバーは会場で市民に珍しがられ、取り囲まれて口々に「リエンソー」(ソ連人)と呼ばれた。ベトナムに来るのは圧倒的にソ連人が多いからだ。日本でも昔は外国人をみんな「アメリカ人」と呼んでいたのと似ている。

旅行団ご一行様の面々
総勢14名、うちアジア青年会議系は8名であった。帰国後個別に交流などもおこない、アジア青年会議制作による映画の上映会などもおこなった。タンロイホテルにて。
※写真をクリックすると拡大します。

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でも結集してもなんにもないけど