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国際革命文庫  20

国際革命文庫編集委員会

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電子化:TAMO2
●参考文献
「賃労働と資本」
「賃金・価格・利潤」
「基礎学習文献解説」

「なにを いかに学習すべきか」
――マルクス主義の基礎的理解のために 上巻――


A 賃労働と資本(マルクス)
     ―岩波文庫、国民文庫、角川文庫等に収録―

1 労働者のための著作

 「賃労働と資本」は、一八四九年四月五日から四月一〇日にわたって「新ライン新聞」紙上にマルクスが執筆したものを、一八九一年にエンゲルスが補筆訂正してパンフレットにしたものである。
 マルクスの「新ライン新聞」の活動については、ここではのべない。ただ、一八四八年二月のパリ革命と、三月のウィーン、ベルリン革命が経験したプロレタリアートの敗北―いっそう厳密に言えばブルジョアジーの裏切りを総括して、プロレタリアートの独自の政治的・社会的立場を綱領的にうちかためることが問題となっていた時代であることを指摘しておくにとどめよう。この意味で、マルクスの次の言葉――「すべて革命的反乱というものは、たとえその目標がまだどんなに階級闘争から遠く離れているように見えても、革命的労働者階級が勝利するまでは失敗するほかないということ、すべて社会改良というものは、プロレタリア革命と封建的反革命とが一つの世界戦争で武器をとって勝敗を決するまではユートピアにとどまるということを、証明したのである。」――を理解しうるのである。この言葉のなかに、封建的階級と、ブルジョアジー、プロレタリアートが、革命的激突をくりかえした当時のヨーロッパにおいて、マルクスとエンゲルスがうちたてた永久革命――世界革命の、きわめて簡潔な原理的定式を読みとることができる。
 「賃労働と資本」が奉仕する目的は、このような永久革命の究極の主体であるプロレタリアート―革命的プロレタリアートを、自覚的に形成する理論的立場の確立である。
 プロレタリアートとはどんな階級なのか。
 この問は、まずプロレタリアートは経済活動においてどのような地位を得るかという問として答えられなければならない。プロレタリアートはなぜブルジョアジーと敵対するのか。逆に言えば、ブルジョアジーはなぜプロレタリアートを裏切るかあるいは裏切らざるを得ないか、この真理を直視することから出発するのでなければ、プロレタリアートの革命的反乱が、もう一度幻想に終ってしまうことを、マルクスは「賃労働と資本」を通じて警告しているのである。
 「賃労働と資本」はもっぱら経済学的著作としては、マルクスの初期のものである。それはやがて「経済学批判」「資本論」などにおいて、いっそう完成された形式に近づく。大衆向けのパンフレットとしても、「賃金・価格・および利潤」などの方が、いっそう円熟し、定式化され、体系化している。それゆえ、エンゲルスがこの著作を発刊するときには、若干の補筆訂正を加えている。それはとくに、この著作の最初すなわち「新ライン新聞」に発表された当時の内容において、まだ「労働」と「労働力」の完全な区別に到達していなかった点に向けられている。なぜ「労働」と「労働力」が区別されなければならないか、このことについて、エンゲルスは「賃労働と資本」一八九一年版序文のなかで詳しくのべている。
 それにもかかわらず「賃労働と資本」は、マルクスの全理論活動の核心ともいうべきもの、すなわち――プロレタリアートはどんな階級か、それは社会の経済的活動においていかなる地位を得るか――について、十分に徹底的な、鋭い解明を与えている。プロレタリアートが社会のもっとも革命的な階級であるのはなぜか――このことを明確に説き明かしている。「経済学批判」から「資本論」へとつづく一連の学問的労作の出発点としての位置と資格を、この著作は十分にもちあわせている。
 「賃労働と資本」を中心とするマルクスの諸著作を、単なる経済学的研究の立場から問題にしているのは、きわめて不十分な態度である。プロレタリアートが、ブルジョアジーにひきいられた大衆一般としてではなく独自の階級として政治的に登場しはじめた一九世紀中期における共産主義者の実践的立場の確立――このもっとも定式化された宣言が「共産党宣言」にほかならない――が問題の焦点なのであり、「賃労働と資本」もまたこの目的に捧げられた論文なのである。そしてわれわれは、プロレタリアートの独自の政鋼が検討されはじめるやいなや、ただちに「永久革命」の真理が全問題の中心に浮びでてくることを学ぶことができる。

2 資労働とは何か

 労働者とはなにか? 賃労働者である――とマルクスは言う。労働者は自分自身の維持――生存のために、ただ賃労働のみにたよる階級である。
 賃労働者とは何か。
 自分自身の労働(「労働力」)とひきかえに、なにがしかの交換価値――賃金をうけとるために、社会的生産過程に参加することである。
 彼――賃労働者は、生きるために労働(力)を販売する。この点で彼は、ブルジョアジーと同じく販売する(購買する)商品を所有する独立の商人である。彼は商品をもっている――労働(力)という名の商品を。
 彼が労働(力)商品をブルジョアジーに売ってその交換価値――賃金を得るというこの過程自体に何ら特別のことはない。その限りでそれは、通常の商取り引きなのである。彼はこの限りでは、ブルジョアジーに対して自分の人間としての価値――尊厳が不当におかされていると文句を言うわけにはいかない。彼の所有する商品――労働(力)と、ブルジョアジーの所有する商品――貨幣との交換が等価である限り、この取り引きは公正なのである。交換が等価であるということはどのようにして証明されるか――あらゆる商品の交換価値は、その商品を生産するに要する労働(それは時間ではかられる)の量である。それは具体的には、貨幣で表現される。彼が販売した労働(力)商品が公正な価値と交換されたかどうかを知るためには、彼が受けとった貨幣の総量が、個的人格としての彼の労働(力)の再生産と、種族の一員としての彼が果たさなければならない労働(力)再生産の双方を、その貨幣をもって実現し得るか否かを知れば良い。だが、いずれにしてもこの交換は大局的には公正である。もし、労働者階級の労働(力)の再生産に失敗せざるを得ないような交換が行なわれつづけるとすれば、ブルジョアジー自身にとって生産を維持することを断念せざるを得なくなる。だから結局のところ、ブルジョア的生産関係が維持されているという事実から出発するならば、労働(力)と貨幣との交換という商取り引きは総体としては公正である――商品交換の原則を逸脱してはいない、と言わざるを得ないのである。
 それでは賃労働者は、なにについて「文句」を言うのか。この商取り引きがつねに、考えられる最低限の水準に押し下げられがちであるということについて文句を言いつづけるにとどまるのか――。
 ブルジョアジーがこの商取り引きを自らに有利なように実行するのは必然的であり、プロレタリアートがこの結果として起る自らの労働(力)商品の不断の価値下落に反対し、いっそう有利な条件で取り引きされるようにたたかうこと――労働組合運動を中心とする改良のための闘争――もまたあたりまえなのである。だがそれはまだ、根本的な批判なのではない。公正に行なわれているかどうかの批判は、この商取り引き自身にたいする批判へと深めなければならない。
 労働者――賃労働者は人間である。それは人間の存在様式なのである。批判が根本的になるということは、現実の背後にある人間の本質に迫ることである。
 労働者が賃労働をするのはなんのためか。「生きるためだ」とマルクスは言う。
 「しかし労働は労働者自身の生命活動であり、彼自身の生命の発現である。そしてこの生命活動を、彼は、必要な生活資源を手に入れるために、他の人間に売るのである。だから彼の生命活動は、彼にとっては、生きていくための一手段にすぎないのである」
 労働するということは生きることである。だが賃労働者にとっては、生きる――労働することが、生きる手段にすぎなくなる。彼の生きる活動のもっとも本質的な部分が、商品として他人に売りわたされたあとで、彼はどのように本質的に生きるのであろうか? 彼の生命のもっとも活動的なものを他人に売りわたしたあとで、彼はどのように生きるのであろうか。
 「この労働者にとって、この一二時間の織布……石切りははたして彼の生命の発現、彼の生活だといえるであろうか? その逆である。彼にとって生活は、この活動がやむところで、食卓で、居酒屋の腰掛で、寝床ではじまるのである」
 ところでこの食卓、居酒屋の腰掛、寝床は、それ自身生きることにはちがいないが、彼の労働(力)の再生産の活動なのである。だからこういうことも言える。彼は再生産のために労働する――と。労働――生産のために再生産するのではない。働くことにおいて生きるのではない。その逆である。彼が人間のもつもっとも本質的な力を発現するとき――すなわち労働過程のなかにあるとき、彼は他人の所有物になっている。彼がそこからはなれたとき、はじめて彼は自分にもどる。
 ――これが賃労働者の悲劇なのである。彼が他人のもとに領有されているとき、彼はもっとも活動的、本質的な存在である。彼が抜けがらになってしまったとき、はじめて彼は自分である。
 この不幸な分裂――労働者を人間であって人間でないものへ転落させていく分裂――これが貴労働の結論なのである。ここに問題の根本がある。ここにこそ労働者階級が、いかに高額の賃金をうけとり、有利な条件の商取り引きを遂行しえたのちにも救いがたい苦痛のなかに置かれざるを得ない根拠がある。ここに革命的プロレタリアートが、商取り引きの公正さのためにたたかうだけではなく、この取り引き制度――賃労働自身の止揚のためにたたかわなければならない根拠がある。

 われわれは以上で賃労働の三分の一をとらえた。賃労働の全体を明らかにするためには、まだ二つの課題が残っている。その一つは、資本を明らかにすることであるが、さらに最後の一つは、貸労働と資本の関係を見ることである。
 ものごとのこのような見方はマルクス主義の弁証法的性格を示すものである。われわれはまず、ある「概念」をそのものとして見るところから出発する。そうするとそのなかに、その対立する「概念」が浮び上ってくる。そこでつぎに、この対立した「概念」のなかにもとの「概念」を位置づけて見なければならない。そしてそれに成功すれば、そこからわれわれは第三の立場、この二つの「概念」の同一性の見地――この二つの「概念」を関係――運動において見る立場に導かれるのである。
 このような立場をふつう、「即自有」、「対自有(向目有)」、「即且対自(即且向目)有」とよび、弁証法的論理学の進展の基本的な方法にしている。マルクスの「賃労働と資本」の解き進め方もまた、この方法に沿っている。

3 資本とは何か

 そこで資本をとらえる問題に移ろう。
 マルクスは、「経済学者」(ブルジョア経済学者)の資本の規定に反対する。
 「資本は、新しい原料や新しい労働用具や新しい生活資料を生産するのに使われる、あらゆる種類の原料と労働用具と生活資料からなりたつ。資本のこれらの構成部分はすべて、労働の創造物であり、労働の生産物であり、蓄積された労働である。新しい生産のための手段として役立つ蓄積された労働が資本である。
 こう、経済学者は言う。
 黒人奴隷とは何か? 黒色人種の人間である。右の説明の値うちは、こういう説明と違わない」。
 資本――一定の商品(交換価値)の集積――は、どのような場合にはじめて資本となるのであろうか。
 労働用具や生活資料が、新しい労働用具や生活資料の生産に役立つということだけならば、いつの時代にも、人間が生産的労働によって生きるかぎり、見られることである。だからこういった事実そのものだけでは、資本を説明するわけにはいかない。
 資本は一つの社会的生産関係である。だからそれは、物質的生産手段、生産力の発展のある特定の段階に照応する、特定の性格をもっているのである。どのような性格が、これらの「労働の創造物」の集積を、資本にするのかが実は問題なのである。
 まず第一に、これらの「労働の創造物」が交換価値の担い手として、すなわち商品として存在するということが必要である。資本は商品経済の組織者として繁殖するのである。だから、原材料や労働用具や生活資料などが、「商品」であることが肝心なのである。経済学者が、このことをあいまいにすることは、彼らの第一のごまかしである。すべてが交換価値におきかえられる世の中、ということになれば、それが歴史的なある一時期にのみ特有の現象だということが誰にでもわかる。だが、「労働の創造物」という一般的な規定のままにとどまれば、なにかこの「資本」というやつが、超歴史的な装いを凝らすことができるのではないか――と、これら経済学者は考えるのである。
 交換価値の集積である、というこのことは、しかしながら、資本が資本であるための必要十分条件なのではない。交換価値としての資本が、剰余価値を生産する商品と交換される、ということがもう一つの決定的な条件なのである。商品が他の商品と交換されるだけであれば、価値がそれによって担われる商品の形態が変るだけであって剰余価値は生まれない。その場合には資本は成立しない。資本は自己増殖する交換価値なのであるから。
 資本のこのような目的にそう商品とは何か。それは、「労働力」という商品である。すなわち資本が資本であるためには、労働力商品との交換――それによって労働力を支配し、自らの目的の実現のために労働力を消費できるような――が決定的なのである。
 労働力という名の商品は、生きた労働者が担っている。労働者は生きるために自分の労働力を売らなければならない。だがこの場合の売り手は、自分の労働力を肩から力バンをはずして担い手にわたすようなやり方で売るわけにはいかないのであって、自分の生身の肉体をそっくりそのまま一定時間資本の支配下に置かなければならない。 資本は、このようにして購入した「労働力商品」を消費するがそれはそのまま生身の労働者の生きた労働なのである。
 ところで資本とは、交換価値の集積である、とのべた。すなわちそれは、過去の労働の対象化されたものである。交換価値は、対象化された労働であるということ、このことについてはさきにのべている。
 資本が「労働力」を購入し、消費するということは、したがって次のようになる。
 過去の、集積された、いわば死んだ労働が、現実の、生身の人間の、生きた労働を支配するのである。これは労働者にとってみれば、生々とした自分のエネルギーや能力、奥深い可能性を、自分自身のひからびた影、自分がつくり出したものでありながら自分の手のとどかないところへ吸収されてしまった影、自分の具体的な、他ならぬまさに自分の特殊性をすべて表現したはずのものが抽象的な「量」に還元されてしまった、そのような死骸の前にひざまづかせなければならないということを意味している。あらゆる生々としたものが、うつろな灰色の抽象的な「量」に支配されている。
 これが、資本としでの賃労働の本質なのである。

4 賃労働と資本の関係

 ここまでくればわれわれは、この「二つ」のものの関係を理解することができる。
 賃労働が生みだす剰余価値は資本の自己増殖である。すなわち労働者は、働けば働くほど、資本を強化するのである。
 だがこのような資本の強化(むろんその一定部分が、資本家階級の生活資料――ぜいたくきわまる――にあてられることはいうまでもないが)は、賃労働にたいする需要を増大させる。そこで賃労働もまた増大する――ひとつは賃労働者に支払われる交換価値――賃金の増加として、さらにもうひとつは賃労働者人口の増加として。だが賃労働者人口の増加は、逆に賃労働者の資本にたいする需要を増大させ、そのことによって賃労働者の交換価値を低下させる。また、貸金の増加は、資本家のうけとる剰余価値を低下させるから、資本家はその努力を生産費の切り下げ、すなわち、「機械と分業の発展」(われわれが「合理化」とよぶもの)にふりむける。このこともまた賃労働者の交換価値の低下をもたらす。
 かくて、労働者が働けば働くほど、「ブルジョアジーが自分たちをつないで引きまわす鉄の鎖をみずからきたえる」という結果を生み出すのである。
 それにもかかわらず、生産的資本の増大は、賃労働者にとって有利な条件である。このことを確証したければ、恐慌や不況の被害を誰が一番受けるかを考えてみれば良い。
 だから要約すれば、自分自身の商品としての価値をますます低下させるような仕方で、自分自身の労働をますます不快なものにしていくような方法でのみ労働者は、自分の生存を維持していくことができるのだ、ということになる。なんと悲しい現実、そして実に不当なカラクリではないだろうか!

5 労働者はこの著作で自己を知ることができる

 さて、マルクスの比較的初期の著作である「賃労働と資本」は、時代遅れになっているだろうか。なにしろ一世紀半もむかしのことなのだから……。
 ところがわれわれは、驚くほどにこの著作の真理を、わが身にあてはめて確認できるのである。
 日本の「高度経済成長」はたしかに生産的資本の増大の過程であった。これを池田内閣は「所得倍増」とよんだ。そして今日明らかな事実は、それが、「民間設備投資」を中心とする日本独占資本の「成長」に他ならなかったことを証明した。
 この期間、日本プロレタリアートの賃金は低下したか、増大したか。まちがいなく低下した。なぜなら労働者の交挨価値の低下は相対的な意味で言われる――逆に言えば、労働時間内の「不払い労働時間」(自分の賃金のためでない労働の時間)の絶えざる増加としてある。
 「機械と分業の発展」が起り労働はますます不快なものとならなかっただろうか。これもまたまちがいなく現実であった。
 だがそれにしても、このような否定的な現実のなかでさえ、生産的資本の増大という条件が賃労働者にとっては有利ではなかっただろうか? たしかに有利であったし、そのおかげで賃金のいく分かの上昇があり、改良主義者が大きな顔をしてきたのだ。
 そこで最後の確認をしよう。このような「生産的資本の増大」は誰がつくり出したのか。まぎれもなく賃労働者自身である。労働者自身の血と汗が、「蓄積された労働」として、労働者自身を支配する力に転化してきたのである。
 すなわちなにからなにまで、マルクスの分析どおりに現実は進行したのである。社会民主主義者やスターリニストが、マルクスを時代遅れ扱いすることがどんなに不当であるか、普通の労働者であれば誰でも、自らの日常の現実にふまえて納得せざるを得ない。労働者の解放に真に役立つ理論は、誰よりも労働者自身にとってわかりやすいものである。
 「賃労働と資本」の意義は、ここで終るわけではない。その功績の最大の結実は、労働者の解放が単に資本との競争を意味するだけではなく(それは組合主義の立場である)、労働者の「賃労働」からの解放でなければならないこと――これがまず第一である。そしてさらに、このような解放が、必ず勝利し得るたたかいであること――すなわち、労働者を支配する力、資本家の「力」としての資本が、実は労働者自身のつくり出したものなのであり、したがって、労働者に敵対的に見える全ての支配手段もまた、労働者自身がつくり出しているものなのだ、ということである。だから、労働者が、ひとたび自分自身の完全な解放をめざして起ち上るなら、資本家の力の一切の根拠が失なわれ、彼らは、「明日なき階級」としてたたき伏せられてしまうのである。労働者が自分の力を自覚すること、この世のすべての富と威力が本来自分自身に所属するものであるごとをはっきりとつかむこと、ただこのことが必要なのである。 そしてこの真理の最初の自覚者が、前衛党なのであり、この真理を労働者全体のものにしていくところに、すべての労働者運動の本当の意義がある。
 労働者階級の解放闘争が「自己解放」の闘争であるというのは、このような意味である。それは、自己を解放するたたかいであるというだけではなく、自己を自己自身から、すなわちブルジョアジーを日々生み出し、支えている貸労働者としての自己自身から解放するたたかいであることを意味している。
 なんと諸君!
 労働者の勝利は必然ではないだろうか!
 諸君!
 さあ、マルクスを読もう!
 君自身を「賃労働者型」の思考(組合のダラ幹や議会主義者の基盤にすぎない)から、「賃労働の廃棄をめざす」思考へと飛躍させよう!          (織田進)


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