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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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§ 賃労働と資本

☆  一

 われわれは、今日の階級闘争や民族闘争の物質的基礎をなしている経済的諸関係をこれまで述べなかったといって、いろいろの方面から非難をうけた。われわれは、わざと、これらの経済的関係には、それが政治的衝突のうちに直接に姿をあらわしてくるところでしか、ふれなかったのであった。
 これまではなによりも必要だったのは、日々の歴史のうちに階級闘争をあとづけ、すでにありあわせる歴史的材料や、日々あらたにつくりだされる歴史的材料にもとづいて、つぎのことを経験的に証明することであった。それは、二月革命と三月革命〔6〕をおこなった労働者階級が征服されると同時に、彼らの敵「「フランスではブルジョア共和主義者、ヨーロッパ大陸全体では封建的絶対主義とたたかっているブルジョア階級と農民階級「「も敗北したのだということ、フランスで「律儀(リチギ)な共和制」が勝利したことは、同時に、英雄的な独立戦争をもって二月革命にこたえた諸民族の没落であったということ、最後に、革命的労働者の敗北とともに、ヨーロッパはその古い二重の奴隷制に、すなわちイギリス的=ロシア的な奴隷制に逆もどりしたということである。パリの六月闘争、ウィーンの陥落、一八四八年一一月のベルリンの悲喜劇、ポーランド、イタリア、ハンガリアの必死の奮闘、アイルランドの飢饉のための屈服「「これらが、ヨーロッパにおけるブルジョアジーと労働者階級の階級闘争を総括する主要な諸契機であって、われわれはこれらにもとづいて、つぎのことを証明した。それは、どんな革命的反乱も、たとえその目標がどんなに階級闘争からかけはなれているようにみえようとも、革命的労働者階級が勝利するまでは、失敗するほかないということ、どんな社会改良も、プロレタリア革命と封建的反革命とが一つの世界戦争で勝敗を決するまでは、ユートピアにとどまるということである。われわれの叙述では、現実においてもそうであるが、ベルギーとスイスとは、一つはブルジョア的君主制の模範国として、もう一つはブルジョア的共和制の模範国として、大歴史画中の悲喜劇的な漫画的風俗画であった。どちらの国も、自分は階級闘争にもヨーロッパ革命にも同じようにかかわりがない、と想像しているのである。
 わが読者諸君は、一八四八年に階級闘争が巨大な政治的形態をとって発展するのをみてきたのであるから、ブルジョアジーの存立と彼らの階級支配との基礎をなしており、また労働者の奴隷状態の基礎ともなっている経済的諸関係そのものに、いまやくわしくたちいるべきときである。
 われわれはつぎの三つの大きな部分にわけて叙述しよう。(一)賃労働の資本にたいする関係、労働者の奴隷状態、資本家の支配。(二)今日の制度のもとでは、中間市民階級といわゆる農民部分の没落が避けられないこと。(三)世界市場の専制的支配者であるイギリスがヨーロッパのいろいろの民族のブルジョア階級を商業的に隷属させ搾取していること。
 われわれはできるだけ簡単に、わかりやすく述べるようにつとめ、読者は経済学のごく初歩的な概念さえもたないものと仮定してかかろう。われわれは、労働者にわかってもらいたいのである。それに、ドイツでは、官許の現状弁護論者から社会主義的な魔術師やみとめられない政治的天才「「細分したドイツには、こういった連中は君主の数よりまだ多いのだが「「にいたるまで、もっとも簡単な経済的諸関係にかんしてさえきわめてはなはだしい無知や概念の混乱がみなぎっているのである。
 そこで、まず第一の問題にとりかかろう。賃金とはなにか? それはどのようにしてきめられるか?
 もし労働者に、きみの賃金はいくらか? とたずねるなら、あるものは、「私は私のブルジョアから一労働日につき一マルクもらっている」とこたえ、また他のものは、「私は二マルクもらっている」などとこたえるであろう。彼らは、その所属する労働部門のことなるにしたがって、一定〔7〕の作業をはたしたことにたいし、たとえば一ヤードの亜麻布を織ったことや、一台(ボーゲン)分植字したことにたいして、彼らがそのときのブルジョアからうけとるいろいろちがった金額をあげるであろう。彼らのあげる数字がいろいろであるにもかかわらず、つぎの点では彼らはみな一致するであろう。それは、賃金とは、一定の労働時間、または一定の労働給付にたいして資本家が支払う貨幣額のことだ、ということである。
 だから、資本家は貨幣をもって労働者の労働を買い、労働者は貨幣とひきかえに資本家に自分たちの労働を売るようにみえる。しかし、これはそうみえるだけである。彼らが実際に貨幣とひきかえに資本家に売るのは、彼らの労働力である。この労働力を資本家は、一日、一週間、一ヵ月等々をかぎって買う。そして彼は、それを買ったあとでは、労働力を約束した期間はたらかせることによって、それを消費する。資本家は、労働者の労働力を買ったのと同じ金額、たとえば二マルクで、二ポンドの砂糖でも他のなにかの商品の一定量でも、買おうと思えば買えたのである。彼が二ポンドの砂糖を買った二マルクは、二マルクの砂糖の価格である。彼が一二時間分の労働力の使用を買った二マルクは、一二時間の労働の価格である。だから、労働力はまさしく砂糖と同じく一つの商品である。前者は時計ではかられ、後者は秤ではかられる。 労働者は、彼らの商品すなわち労働力を、資本家の商品すなわち貨幣と交換する。しかも、この交換は一定の割合でおこなわれる。これこれの時間だけ労働力を使用するのにたいしてこれこれの貨幣額というように。一二時間の機織(ハタオ)りにたいして二マルクというように。ところでこの二マルクだが、これは二マルクで買うことのできる他のあらゆる商品を代表してはいないであろうか? だから、労働者は、実際上、彼の商品すなわち労働力を、あらゆる種類の商品と、しかも一定の割合で交換したことになる。資本家は、労働者に彼の一日の労働と交換に二マルク与えることによって、これこれの量の肉、これこれの量の衣服、これこれの量の薪、燈火等々を与えたのである。だから、この二マルクは、労働力が他の諸商品と交換される割合を、すなわち彼の労働力の交換価値を、あらわしている。貨幣で評価されたある商品の交換価値こそ、商品の価格とよばれるものである。だから、賃金とは、労働力の価格「「ふつう労働の価格とよばれている「「にたいする、人間の血肉以外にはやどるべき場所のないこの独特の商品の価格にたいする特別の名まえにすぎないのである。
 だれでもよい、一人の労働者を、たとえば一人の織物工をとってみよう。資本家は彼に織機と糸を供給する。織物工は仕事にかかり、糸は亜麻布になる。資本家は亜麻布を自分のものにし、それをたとえば二〇マルクで売る。さて、織物工の賃金は、亜麻布にたいする、二〇マルクにたいする、彼の労働の生産物にたいする、わけまえであろうか? けっしてそうではない。亜麻布が売られるずっとまえに、おそらくはそれが織りあげられるずっとまえに、織物工は彼の賃金をうけとりずみである。だから、資本家はこの賃金を、亜麻布を売って得る貨幣で支払うのではなく、手持の貨幣で支払うのである。織物工がブルジョアから供給をうける織機や糸がこの織物工の生産物でないように、織物工が彼の商品すなわち労働力と交換にうけとる諸商品も、彼の生産物ではない。ブルジョアが自分の亜麻布に買手を一人もみつけられないということだって、ありうることだった。それを売ってもブルジョアが賃金さえ回収できないということだってありうることだった。彼がその亜麻布を織賃にくらべてはなはだ有利に売るということだって、ありうるのである。しかし、こうしたことはみな織物工にはなんの関係もない。資本家は、彼の手持の財産の、彼の資本の一部をもって織物工の労働力を買うのであって、それは、資本家が彼の財産の他の一部をもって原料「「糸「「や労働用具「「織機「「を買ったのとまったく同じである。これらの仕入れをしたのちは、そしてこういう仕込品のなかには亜麻布の生産に必要な労働力もはいっているのであるが、彼はもっぱら自分のもちものである原料と労働用具をつかって生産するのである。実際、わが織物工君ももちろん労働用具のなかにはいるのであって、彼が生産物または生産物の価格のわけまえにあずからないことは、織機がそれにあずからないのと同様である。
 だから、賃金は、自分の生産した商品にたいする労働者のわけまえではない。賃金は、資本家が一定量の生産的労働力を買いとるのにもちいる既存の商品の一部である。 だから、労働力は、その所有者である賃金労働者が資本に売る一つの商品である。なぜ彼はそれを売るのか? 生きるためである。
 しかし、労働力をはたらかせること、すなわち労働は、労働者自身の生命活動であり、彼自身の生命の表現である。そして、この生命活動を、彼は、必要な生活資料を手にいれるために、他の人間に売るのである。だから、彼の生命活動は、彼にとっては、生存するための手段にすぎないのである。彼は生きるためにはたらく。彼は労働を彼の生活のなかにさえふくめない。労働はむしろ彼の生活を犠牲にすることである。それは、彼が他の人間にせり売りした一つの商品である。したがって、彼の活動の生産物も、彼の活動の目的ではない。彼が自分自身のために生産するものは、彼の織る絹布でもなく、彼が鉱山から掘り出す金(キン)でもなく、彼のたてる邸宅でもない。自分自身のために生産するものは、賃金である。そして、絹布や金や邸宅は、彼にとっては、一定量の生活資料に、おそらくは一枚の木綿の上衣、幾枚かの銅貨、地下室の住居に、かわってしまう。そして、一二時間のあいだ、織ったり、つむいだり、鑿坑したり、挽(ヒ)いたり、家をたてたり、シャベルですくったり、石をわったり、運搬したりなどする労働者「「この労働者は、この一二時間の機織り、紡績、鑿坑、挽き加工、建築、シャベル仕事、石割「「を、彼の生命の発現と、彼の生活と、みとめているであろうか? その逆である。生活は、彼にとっては、この活動のやむところで、食卓で、居酒屋の腰掛で、寝床で、はじまるのである。これに反して、一二時間の労働は、彼にとって、機織り、紡績、鑿坑等としてはなんの意味をもまったくもたず、彼を食卓につかせ、居酒屋の腰掛にかけさせ、寝床に横にならせるかせぎとして、意味をもっているのである。もし蚕が幼虫としての生命をつないでいくためにつむぐのであったら、それは、一個の完全な賃金労働者であったろう。労働力はいつでも商品であったわけではない。労働はいつでも賃労働、すなわち自由労働であったわけではない。奴隷は彼の労働力を奴隷所有者に売ったのではない。それは、牛が自分の働きを農民に売らないのと同じである。奴隷は、その労働力もろとも、彼の所有者に売りきりにされる。彼は、一人の所有者の手から他の所有者の手に移転することのできる商品である。彼自身が商品なのであって、労働力が彼の商品なのではない。農奴は、彼の労働力の一部だけを売る。彼が土地所有者から賃金をうけとるのではなく、むしろ土地所有者が彼から貢物をうけとるのである。
 農奴は土地に付属し、土地の持主のために収益をうみだす。これに反して、自由な労働者は自分自身を売る、しかも切売りする。彼は彼の生命の八時間、一〇時間、一二時間、一五時間を、きょうもあすも、いちばん高い値をつける人に、原料、労働用具、生活資料の所有者すなわち資本家に、せり売りする。労働者は所有者のもちものでも土地に付属するものでもないが、彼の毎日の生命の八時間、一〇時間、一二時間、一五時間は、それを買う人のものである。労働者は、そうしたいときにはいつでも、自分のやとわれている資本家のところを去るし、資本家もまた、つごうしだいでいつでも、労働者からもはやなんの利益もひきだせないか、または予期した利益がひきだせなくなるやいなや、労働者を解雇する。しかし、労働力の販売を唯一の生計の源泉とする労働者は、生きることを断念しないかぎり、買手の階級全体すなわち資本家階級をすてることはできない。彼は、あれこれの資本家のもちものではないが、資本家階級のもちものである。しかもそのさい、自分を売りつけること、すなわち、この資本家階級のなかに一人の買手をみつけることは、彼が自分でやらなければならない仕事なのである。
 いま資本と賃労働の関係にいっそうくわしくたちいるまえに、われわれは、賃金の決定のさいに問題となってくるもっとも一般的な関係を簡単に述べよう。
 賃金は、われわれがみたとおり、労働力という特定の商品の価格である。したがって、賃金も、ほかのいっさいの商品の価格をきめる法則と同一の法則によってきめられる。そこで、つぎの問題がおこる。商品の価格はどのようにしてきめられるか?


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