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国際革命文庫  20

国際革命文庫編集委員会

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電子化:TAMO2
●参考文献
「空想から科学へ」
「基礎学習文献解説」

「なにを いかに学習すべきか」
――マルクス主義の基礎的理解のために 上巻――


B 空想から科学への社会主義の発展(マルクス)
     ―岩波文庫、国民文庫、角川文庫等に収録―

1 社会主霧思想の歴史と発展

 エンゲルスの著作である本書は直接に書きおろされたものではない。
 労働者に社会主義をわかりやすく普及させるために、エンケルス自身が「反デューリンク論」(一八七八年)から抜粋して宣伝用のパンフレットとして発行したものである。
 本書は、まず最初に一八八〇年、フランスの労働者階級の前に登場した、そして、たちまち好評のうちに読まれたので、二年後にはドイツで、そして一八九二年までには英語、ロンア語をはじめ八ヵ国語で出版されるほどになった。このように、本書は労働者のための最良のマルクス主義の入門書として立派に当初の目的をはたし、今日もなおその不滅の価値を発揮しつづけている。
 今回は、この著作の内容に入るまえに、なぜこれが発行されたのか、そして当時どのような役割りをはたしたのかをあきらかにしよう。
 この著作がなぜ発行されたのかを理解するためには、一八七〇年代と八〇年代の当時のヨーロッパ階級闘争の状態やこの原本となっている「反デューリング論」の内容を簡単にあきらかにする必要がある。すでに「共産党宣言」の解説で一八四八年の巨大なヨーロッパ民主主義革命の状況についてはふれているので、ここではその後の第一インターナショナル(一八六四〜七五年)から第二インターナショナルの創立へと至る運動の状況をのべてみよう。
 よく知られているように、一八七一年のパリ・コンミューンの敗北は、フランスの労働著階級に致命的な打撃を与えるものであった。フランスの人民ほどに革命のために徹底的に闘いぬいた人民はいない。一七八九年のあのフランス大革命、一八三〇年の七月革命、全ヨーロッパ民主主義革命の口火となった四八年の二月革命、そしてパリ・コンミューンの闘いというように、彼らは一世紀の間に四度の大革命を闘いぬいたのである。彼らは、民主主義革命をはじめとする全ヨーロッパ永久革命のまさに背骨として一世紀の間君臨していたのであった。そして、この背骨が、ドイツのビスマルクとフランスのブルジョアジーによってうちくだかれたとき、ヨーロッパ階級闘争の新たな担い手は、ドイツの誕生したばかりの労働者階級へと受けつがれることとなった。イギリスやフランスより遅れて資本主義の発展がはじまったドイツでは、一八六○年代よりブルジョアジーから独立して労働者階級の登場が開始した。北部ドイツてはラッサールが、南部ドイツではリープクネヒト(一九一七年に活躍したカール・リープクネヒトの父)とべーベルを中心として労働者運動の組織化がはじまった。
 しかし、この唯一つの期待を担わねばならなかった彼らの政治イデオロギーは、いまだ混沌とした星雲状態のようなものであった。このことは多かれ少なかれ、他の国の運動にもあてはまるものではあったが。

 どうしてもそのように想像しがちなのであるが、一八四八年以後の運動においてマルクス主義が確固とした影響力をもっていた、というわけではない。フランスの労働者階級はプルードン主義(国家と階級闘争を否定し、社会的な正義を実現するためには労働量に応じて互いに商品を交換しあう生産者の社会が必要である、という見解)に影響されていた。彼らプルードン主義者はあのパリ・コンミューンのさなかにあって、自己の闘いをブルジョア中央権力にむけて徹底的に武装対決を準備しなければならないまさにその時に、選挙という遊びにふけっている状態であった。スペインとイタリアではバクーニン主義者の影響が大きかった。そしてチャーチスト運動の高揚により、ヨーロッパ階級闘争の前進と第一インターナショナショナルの創立に貴重な貢献をなしたイギリス労働者階級の指導部も、自国帝国主義の発展と制限つきの普通選挙権の獲得によって、議会主義と組合主義への道を深めていったのであった。彼らは、マルクスの起草により第一インターナショナルの名によって呼びかけられた英雄的なパリ・コンミューンの総括である「フランスの内乱」のあまりの革命性に度肝をぬかれ、ついにはイギリスのブルジョア的な圧力に屈服して第一インターナショナルから離れるような状態だったのである。
 ドイツの労働者階級は、運動を上昇させつつあったにもかかわらず、政治的にはこのような状態とあまり変りはなかった。
 この当時のドイツ労働者運動がどのような政治的水準にあったかは、一八七五年にラッサール派(北部ドイツ)とアイゼナッハ派(南部)の統一によって決定されたゴータ綱領をみれば理解できることとおもう。マルクスは、この綱領がアイゼナッハ派(相対的にマルクス主義派)のラッサール主義にたいする完全な屈服であると激怒し、すぐさまその批判を指導部に送りつけたのであり、これが有名な「ゴータ綱領批判」となったのである。ただし、この批判はすぐには公表されず、ようやく一五年後に後の社会民主党機関紙に発表されたのである。以下をみれば、マルクス、エンゲルスの激怒や批判がまったくの当然であるとうなずけよう。
 全部を記すわけにはいかないので、以下二、三の例をあげてみよう。
 ドイツ労働者党は、社会問題解決の道をひらくために、国家の補助をうけ、かつ勤労人民の民主的統制のもとにおかれる生産協同組合の設立を要求する。これらの生産協同組合は、そこから総労働の社会主義的組織を発生させるにたる規模で、工業と農業のために設立されるべきである。

 ドイツ労働者党は、あらゆる合法的手段によって、自由国家―および―社会主義社会をめざして努力し、賃金鉄則(マルサスの人口論に影響された見解。すなわち労働者の数は常に多すぎるから彼は平均して賃金の最低限をうけるにすぎないというもの―これは反マルクス主義的な誤った賃金論であり、労働者階級が労働組合に結集して賃金闘争をおこなう意義を否定するものである―筆者)とともに賃金制度――および――あらゆる社会的・政治的不平等の除去に努力する。
 労働者階級は、自己の解放のためにまず今日の民族国家のわく内で活動するが、すべての文明国の労働者に共通な彼らの努力の必然的な結果が諸国民の国際的な親睦となるであろうことを自覚している。

2 空想的社会主義にたいする闘い

 以上からわかるとおり、統一したドイツ労働者党はプロレタリアートの階級闘争による資本家階級の打倒という根本任務が不鮮明であり、いぜんとして協同組合主義的な社会主義(空想的社会主義)の幻想をぬぐいきれていなかった。彼らは、国家にかんするプロレタリアートの革命的な学説を把握しきれていなかっただけでなく、賃金闘争や労働組合の問題についても正しい理解にたっしていなかったのである。そしてなによりも重要なことは、一八四八年当時の全ヨーロッパにまたがる革命のなかで発揮され、第一インターナショナルをつうじて強化されたプロレタリア国際主義の旗を、彼らが完全に清算しようとしたことである。このゴータ綱領にはあきらかにドイツ民族主義の精神が投影されているといわねばならない。
 このようなラッサール主義的な傾向のうえに、さらにデューリングの体系的と称する理論がこの党にはびこったのである。デューリングという人とその著作は日本では知られていないしすでに忘れられた存在である。だがデューリングの一八七〇年代終りにおける影響力は大変なものだった。最初にベルンシュタインが、マルクス主義派とみられていたアイゼナッハ系のべーベルやブラッケ(マルクスがゴータ綱領批判を手紙で送付した信頼していた指導者)までが、そして程度は軽かったもののりープクネヒトをふくめてデューリング病に感染した、という。
 それでは、このデューリングの新理論とは一体どういうものであろうか?
 彼は、社会主義を「歴史的発展の必然的な一所産」〔反デューリング論)とはとらえない。反対に、それを「正義の普遍的原理」(同)でおきかえようとする。
 彼は、資本主義的分配様式が資本主義的生産様式に従属するものでありその結果にすぎないとはとらえない。反対に、「資本主義的生産様式は全く良いものでそのまま存続しうるが、資本主義的分配様式は悪いもので消滅せねばならない」(同)と主張する。ここから彼は、「等しい労働と等しい労働」とを交換しあう経済共同体の建設をはかろうとする。このような理論のうちには、価値法則の貫徹は労働力については例外である、という把握が横たわっている。
 もしも、このデューリング理論がはびこってしまったならばどういう結果をまねいたであろうか。それは、プロレタリアートの階級闘争の歴史的任務を完全に解体させ、確実に一八四八年の共産党宣言以前の空想的な社会主義の世界へと時計の針を逆もどりさせていたであろう。
 それゆえにマルクスとエンゲルスは、デューリングにたいする徹底した批判を開始し、ドイツ労働党にたいしてマルクス主義の旗のもとに結集させるべく闘ったのであった。これは、ドイツ労働者階級を国際階級闘争の支柱として強化させようとする闘いにほかならなかった。
 しかも、デューリングは、自らの理論を、宇宙発生論、自然哲学、政治学、経済学という「体系」に粉飾させて登場してきた。かくして、エンゲルスはマルクスと協同してその一つ一つを完全に粉砕するために、自然哲学、弁証法、経済学、社会主義の全てにわたってマルクス主義の体系を展開したのであった。このことによって、さしものデューリング病の猛威はドイツ労働者党内で影をひそめ、ラッサール主義的なゴータ綱領は一八九一年のマルクス主義的なエルフルト綱領へと克服されたのであった(この綱領についての問題点はここではふれない。ただ、エンゲルスの「エルフルト綱領批判」があることを留意しておくことにとどめよう)。
 「反デューリング論」の意義はそれだけではない。この著作は、マルクス主義の体系的なはじめての概説書である。唯物論と弁証法、経済学、国家と革命にかんする政治学が各々独立的な著作として出され、なかなか統一してマルクス主義を理解することが因難だったのであるが本書ははじめてこの壁を克服したのである。
 だが、この意義ある書も、とくに第一篇の哲学の前半である自然哲学の項が難解であり、読み通すのに苦労する。
 マルクスとエンゲルスは、指導部のみをマルクス主義に獲得することでは不十分であることを痛感していた。マルクス主義は、全世界のプロレタリアートという大地に確固として根づかせねばならないことを知りすぎていた。強固な労働者階級の戦列の形成こそが、弱体な指導部を克服するただ一つの道であることを自覚していた。
 それゆえに、「反デューリング論」のなかから科学的社会主義を統一して理解しうる内容を「空想から科学へ」と題して、宣伝用のパンフレットを発行したのであった。これが本書の誕生の背景であり、これが本書の目的である。
 そして、本書はまたたくうちに十ヵ国語で出版されたように全世界の労働者階級を社会主義の道へ獲得することに立派な役割をはたしたのであった。いまだ、これらの空想的なイデオロギーがはびこっているなかにあって、この「空想から科学へ」こそは「共産党宣言」とともに全ての国の労働者階級をマルクス主義の世界へと導びいたのである。
 エンゲルス自身が、その一八八二年の序文で「この内容は労働者にとってすこしもむづかしくない」といったように、このパンフレットは実にわかりやすく簡潔に「科学的社会主義とは何か」という問題に答えている。
 これはまたその平易さのために実際、労働者のあいだでもっとも良く読まれ、「社会主義文献中これほど翻訳の多いものは、わたしの知るかぎりほかになく『共産党宣言』や『資本論』でさえこれにおよばない」とエンゲルス自身がいっているほど普及したのである。
 このパンフレットは、さきにもふれたように、『反デューリング論』のうちから「序論」のうちの「総論」と、同書の第三部「社会主義」のうちの「歴史」と「理論」の三章を選んでまとめたものである。そして、資本主義社会の歴史的生成と没落の必然性、従ってまた社会主義社会への移行の必然性とプロレタリアートの革命的任務が科学的に分析され、しかも本当にわかりやすく解説されている。
 これは、すべての労働者が、『共産党宣言』や『賃労働と資本』とともにぜひ読まなければならない社会主義の入門書である。

3 「空想的社会主嚢」とその特徴

 人間の歴史のなかで「社会主義」の思想がどのようにして生まれ、それがどういうわけで労働者階級にとっての現実の要求なのか、また、それが自らを一つの科学として確立していくのは、いかなる現実的基礎のうえでなのか。
 これらの点を明らかにしていくために、最初の章では、「空想的社会主義」の発生とその批判についてふれられている。
 さらに、その「空想的社会主義」については、たんにその教理が批判されているだけでなく、それが観念的・空想的教理としてしか自らを打ちたてることができなかった歴史的な制約が示される。すなわち、そのような思想を生み出した物質的土台にまで還元して批判するのである。
 したがって、それに対する批判は根底的である。しかしまたそのような根底的批判をなしえた科学的立場こそが、「空想的社会主義」――すなわち歴史的に最初にあらわれた幼稚な共産主義的理論のその段階における積極性をも評価しえたのであった。そしてまた、その歴史的過程を厳密に評価しかつ批判しきったことのうちに、「永久革命」の思想性がはらまれているのをみることができる。
 すなわち、プロレタリアートの最初の闘いは、すでにブルジョア革命そのものとともにはじまっていること。「封建貴族とそれ以外の全社会の代表者として登場したブルジョアジーとの対立のほかに、搾取者と被搾取者、怠け者の金持ちと働く貧乏人というもっと一般的な対立があった」(P33)「ブルジョアジーはその発生以来自分に対する対立物をすてられなかった」「ブルジョア大衆運動がおこるたびに、近代的プロレタリアートの未発達な先駆者ともいうべき階級の、独立の、運動が必ずそのうちに顔を出していた。
 たとえばドイツの宗教改革および農民戦争の時代におけるトマス・ミュンツェル、イギリス大革命における平等派(レベラーズ)、フランス大革命におけるバブーフがそれである」(P34)
 そしてこうした未成熟な階級の革命的反乱と並んで、それにふさわしい理論的表現としての「空想的社会主義」があらわれた。そしてこのパンフレットでは、サン・シモン、フーリエ、ロバート・オーエンの三人がそのもっとも新しい代表者としてとりあげられている。そしてこれら先駆者の積極性を評価しつつも、かれらの理論が、その物質的基盤の未成熟のために空想的な理論にしかなりえなかった必然性があばかれ批判される。
 「この三人には共通な点があった。それは、当時歴史的に生み出されていたプロレタリア階級の利害の代表者として登場したのではなかったということであった。啓蒙主義者と同様に、彼らは、まずある特定の階級を解放しようとはしないで、いきなり全人類を解放しようとした」そして彼らは、「理性国家、永遠の正義の王国をつくろう」としたのであった。
 このような「空想的社会主義」を一つの科学とするためには「まずもって、それを現実の地盤の上にすえねばならない」のであったと。

4 マルクス主義の源泉

 第二章では、それを「現実の基盤の上にすえる」ための方法――すなわち、ブルジョア社会の解剖学的分析をはじめて可能にした弁証法的唯物論=唯物史観がいかにして獲得されていったかということが、哲学の歴史的発展過程にふれなから、わかりやすく述べられている。
 レーニンは、「イギリスの古典経済学」「フランス社会主義」「ドイツ古典哲学」をマルクス主義の三つの源泉としてあげている。エンゲルスもまた、『イギリスにおける労働者階級の状態』の序説で、「産業革命(この基礎のうえにイギリスの古典経済学が生まれた――引用者)がイギリスにたいしてもつ意味は、政治革命がフランスにたいして、哲学革命がドイツにたいしてもつ意味と同じである」といっている。
 なるほど、資本主義経済の最もすすんでいたイギリスにおいて、その経済的土台に貫徹してひきおこされた巨大な変革が、フランスにおいては、その経済的発展の遅れとイギリス資本主義の圧力の中で、上部構造における変革=政治革命としてひきおこされた。ドイツにおいては経済的発展が、さらに遅れている度合に照応して、それだけより一層上部構造的な=哲学革命という形をとった。
 イギリスを心臓部とし、総体として一有機的全体をなしている、当時のヨーロッパの複合的発展の構造が見事にとらえられている。
 こうして、イギリスにおけるアダム・スミスやリカードの古典経済学、フランスにおけるサン・シモンやフーリエなどの空想的社会主義、ドイツにおけるへーゲル哲学が、ほとんど同時に開花し、その三つともが結局ブルジョア思想としての限界をもってはいたが、その枠内でぎりぎりのところで、旧体制の批判という形をとったのである。
 かくしてまたレーニンのいうように、この三つの源泉のうえに成立したマルクス主義は、まさしく当時のヨーロッパ世界総体の歴史的成果のうえに、自らを科学として確立したのである。
 したがってまた、マルクス主義が最初からそれ自身のうちに世界性と複合的発展の構造=永久革命の思想性を包みこんで出来あがった必然性も、その根拠も明確であるといえよう。
 このようにして、科学として確立された社会主義は「もはやできるだけ完全な社会制度を考案することではなく、これら階級とその対立とが必然的に生れてきた歴史的な経済的経過を研究し、これによってつくり出された経済状態のなかに、この衝突を解決すべき手段を発見することであった」(P62)
 かくしてまた、それは、資本主義の一定の歴史的時期における発生の必然性を、したがってまたその没落の必然性を示すことであった。すなわち、それは「剰余価値の暴露」によって成しとげられた。これで「不払労働の取得こそ資本主義生産方法と、それによって行われる労働者搾取の根本形態であることがわかった」(P62)のである。

5 資本主褻の没落の必然性

 そして最後の章で、資本主義の矛盾、その発展と没落の必然性が説かれている。とくにこの最後の章はひじょうにわかりやすく書かれているだけでなく、きわめて重要な理論的洞察が含まれている。
 まず最初に、資本主義の発展をあとづけながら「蒸気と新しい作業機とが旧来のマニュファクチュアーを大工業に変えてから、ブルジョアジーの主導によってつくりだされた生産関係は前代未聞の速さと規模で発展した。マニュファクチュアーとその影響下で発展をつづけた手工業とが、ギルドという封建的束縛と衝突したが、それと同じように、大工業もその発展につれて……資本主義の生産方法と衝突するようになった」(P66)
 そして同時に、この衝突と矛盾を克服する手段もまた「この変化した生産関係そのもののうちに――多かれ少なかれ発達した形で――存在しているにちがいない」(P65)という形でとらえる。
 エンゲルスはまた、資本主義の矛盾の根本を簡潔に、《生産の社会的方法と所有(取得)の私的性格の矛盾》という形で説明する。すなわち、資本は、自らの支配を本格的に確立する以前、「労働者が彼の生産手段を私有するという基礎の上にたつ小経営が一般に行なわれていた」なかに入りこんできて、私的に所有されていた生産手段を集積して「社会的な、人間の集団によってのみ使用できるものに変えざるをえなかった」(P68)「そうして生産手段がそうなると、生産そのものも、一連の個人的生産物から社会的生産物にかわった」(P68)
 ところが、このように「いまや彼の生産した物ではなくて、全然他人の労働の生産物であるにかかわらず、労働手段の所有者がこれまでどおりその生産物を取得することになった」(P70)
 このように、「生産は本質的に社会的なものになったが、それらを規制する取得形態は、個人的な私的生産を前提とする」(P70)という点に資本主義の根本的矛盾があると説明する。もちろん、この私的商品生産者の社会という仮象のもとで、一切の生産手段を奪われ、自分の生命活動を他人に切り売りする以外にない、労働者に対する搾取のメカニズムが隠ぺいされて包みこまれているのである。「資本家は彼の労働者の労働力を商品として……買う」、しかもそれを「商品市場でもっている価値どおりに買う場合でも、それに対し支払ったよりも多くの価値(不払労働=剰余価値)をひき出す」(P62)のである。そしてこの「社会的生産と資本主義的取得との間の矛盾は、いまや、プロレタリアートとブルジョアジーの対立となって明白に現われてきた」(P71)
 さらにまたこの「社会的生産と資本主義的取得との矛盾は、いまや個々の工場における生産の組織と全社会における生産の無政府性との対立」として衝突を深め、その矛盾を恐慌という形で爆発させる。この恐慌のなかでは、一方で彪大な生産手段が遊休しており、他方で多くの労働者が失業させられるという全く奇妙な事態がつくり出される。「要するにすべての生産の要素と一般的富の要素が過剰」(P79)になり、しかも、『この過剰が、困苦欠乏の源泉となる』 (P79)のである。なぜなら「資本主義社会では生産手段はまえもって資本に、すなわち人間労働力を搾取する手段に転化していなければ、その機能を果すことができないからである」(P79)
 このように、資本主義的生産は、ただそれが“悪”であるとか、“不合理”であるというだけで止揚されなければならないのではなく、現実に「資本主義的生産方法は、これ以上これらの生産力を管理する力がないこと、生産力自体が、ますます強力に……資本としてのその性質から自ら解放されること」(P79)を要求しはじめているという現実的物質的基礎があるという点が強調される。
 さらに、この資本主義的生産がそれ自身の内部に、どのような形で解放の手段と主体をつくり出していくかという点、そして、そうした基礎のうえに築かれる社会主義社会がどんなものであるかという点についてのさらにわかりやすい説明がつづいている。今日の資本主義は、ここでエンゲルスが簡潔に説明した諸矛盾を、より一層醜悪で複雑怪奇な形で展開している。だがその複雑な現代帝国主義の矛盾をとらえるためにも、その基礎が正しく把握されていなければならない。

          (木原一雄、藤原次郎)


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