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国際革命文庫  20

国際革命文庫編集委員会

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電子化:TAMO2
●参考文献
「国家と革命」
「基礎学習文献解説」

「なにを いかに学習すべきか」
――マルクス主義の基礎的理解のために 上巻――


D 国家と革命(レーニン)
     ―岩波文庫、国民文庫等に収録―

1 ロシア革命の業火のなかで成立

 レーニンは国家の問題を理論的に研究する必要があることを一九一六年後半に述べており、『青年インターナショナル』という覚え書を書いたときに、国家に関するマルクス主義の態度について詳しい論文を書くことを約束していた。
 レーニンの著作の多くがそうであるように、約束した論文を執筆するにあたってレーニンはノートをつくった。このノートは、表紙の色をとって『青いノート』という名で広く知られるようになった。これは、第一次大戦が帝国主義の最も弱い環の一つたるロシアツァーリ支配体制の矛盾を激化させ、ロシアに革命がせまりつつあった一九一六年末から一九一七年一月にかけて、レーニンの亡命地、スイスのチューリヒでつくられたものである。彼は目前にせまりつつある革命に思いをはせながらマルクス主義の国家学説を全面的に研究したのである。
 このノートに『マルクス主義国家論』という表題をレーニン自身がつけていたが、一九三〇年ソ連邦で始めて出版され、わが国では『国家論ノート』として大月書店から出版されている。そこでは『共産党宣言』『フランスにおける内乱』等の数多くのマルクス、エンゲルスの論文、手紙から国家学説およびそれに関連したことが引用され、レーニン自身の簡単な評注がつけられている。
 このノート(『マルクス主義国家論』)は当初それ自身として出版される予定であった。レーニンは七月事件以後地下に隠れていたわけであるが、逮捕されるようなことがあれば、このノートが出版されるように手配していたのである。
 しかし、最悪の事態は起こらず、レーニンはこのノートを材料としつつ『国家と革命』を執筆しおえたのである。ノートと本書を比較してみれば、『国家と革命』としての完成がどれほど意義深いものであるかは一目瞭然である。
 レーニンは、一九一七年八月から九月にかけてべトログラード郊外、ラズリフ湖畔の草小屋で身を隠して『国家と革命』を執筆した。当時レーニンは、七月事件後の臨時政府による弾圧のため池下活動を余儀なくされていたのである。七月四日のデモ後(いわゆる七月事件についてはトロツキー「ロシア革命史」三巻を参照)、臨時政府はボルシェビキに対する組織的な徹底的な弾圧に移った。ボルシェビキ機関紙は禁止され、党の武装組織は解散させられ、労働者は武装解除された。党の指導者は逮捕され、あるものは地下にもぐったのである。これらの弾圧は七月はじめになされたことであり、ケレンスキー政権の追及をのがれつつレーニンが困難な状況の中で執筆せずにはおれなかったということの中に『国家と革命』のもつ重要さが示されているのである。
 『国家と革命』が実際に出版されたのは、印刷の遅れのため一九一八年のはじめであった。したがって、この本が直接にロシア革命の勝利に寄与したということではない。
 しかし、正しいマルクス主義国家学説でボルシェビキが武装されていなかったならば、ロシア革命が勝利しえなかったであろうということは明白である。革命は、国家に関する明確な態度を前衛党と労働者階級がもたないことには絶対に勝利しえない。われわれは、チリにおける反革命軍事クーデターとアジェンデ体制の崩壊の中に、この真理の悲劇的な証明をみせつけられている。
 事実、ボルシェビキ指導者(スターリン、カーメネフ、ジノビエフ等々)は、国家と革命について明らかにあいまいまいな考えしかもっていなかった。それはレーニンが帰国して直ちに発表した『四月テーゼ』に関する彼らの対応に明白である。彼らはこのテーゼに不意打ちをくらい、レーニンの彼らに対する長期の手厳しい闘争によってはじめてテーゼの意味を理解しえたのである。
 二月革命以前のボルシェビキのスローガンは、「労働者、農民の民主的独裁」であった。これはレーニンによって定式化されたもので、二月革命前には一定の条件付で正しいものであった。しかし、レーニン以外のボルシェビキ指導者(旧ボルシェビキ)は、二月革命後も「民主的独裁」のスローガンに固執したのであった。彼らは、「ブルジョア革命がいまだ完了していない」という革命の弁証法的発展を理解しない硬直した思考と判断、「民主的独裁」がマルクス主義国家学説の厳密な解釈からすれば不正確であり、世界革命の展望(世界社会主義革命=ヨーロッパ革命の序曲としてのロシアのブルジョア的民主的革命)の中に正しく位置づけてのみ主張しえたということへの無自覚、無理解が存在していたのである。
 そうであるがゆえに、レーニンは、いわば間にあって国家学説を研究したといえるのであり『国家と革命』がロシア革命勝利の不可欠の要素であったといわざるをえないのである。

2 革命的国家論の最高の著作

 『国家と革命』は革命の理論としてのマルクス主義を、一層成熟させたものである。それはマルクス主義の歴史的発展過程における一つの頂点をなすものである。まさしく、レーニンの天才的著作であり、『帝国主義論』とならんで、レーニンのマルクス主義発展への重大な貢献の一つであり、数多いレーニンの著作の最高峰の一つである。
 革命とはいうまでもなく、一階級から他の階級への権力の移行であり、したがって権力論たる国家論は、マルクス主義理論体系の最も核心的な根幹になる。つまり、革命戦略の直接的な基礎となる理論なのである。
 しかし、マルクスとエンゲルスは最後まで国家論を一つの体系としてまとめあげることはなかった。『国家と革命』が示しているように、マルクスとエンゲルスは「一八四八―一八五一年の経験」「一八七一年のパリ・コンミューンの経験」や無政府主義者やラッサール派との闘争をつうじてマルクス主義国家学説を発展させてきた。
 レーニンは、マルクスとエンゲルスの豚大な著作の国家に関する部分を再集成したのである。そして、この学説が当時どれほど歪曲されているかを徹底的に明らかにしたのであった。
 『国家と革命』が書かれた時代的背景としては、二つのことがあげられる。レーニンは第一版の序文で、国家の問題が「理論的な面でも、実践的=政治的な面でも、格別の重要性をましてきている」理由として二つをあげている。
 一つは客観的な情勢に関すること、つまり「帝国主義戦争は独占資本主義の国家独占資本主義への転化過程を極度にはやめ激化させた」ということであり「全能の資本家団体とますますかたく融合している国家」の出現である。つまり、階級闘争における国家の果たす役割がそうじて増加し、国家が強大化したのである。
 したがって、労働者階級は、国家に関する正しい理論で武装し、より確固たる目的意識性をもつことなしには、経済闘争を含む階級闘争を真に革命的には展開しえなくなったのである。
 もう一つの要因は主体的な側面である。「国際プロレタリア革命は、あきらかに成長している」(P9)にもかかわらず、「比較的平穏に発展した数十年間に蓄積された日和見主義の諸要素は、全世界の公認の社会主義政党を支配する社会排外主義の潮流をつくりだし」(P9)ていた。この成長しつつある国際プロレタリア革命を勝利させるための不可欠の要素は、まさに日和見主義、社会排外主義と徹底的に闘争し、彼らの影響からプロレタリアートを解放するということであった。そして、その中心環が国家学説に関してであった。
 これらの事情は今日においても完全に同一である。
 国家の主要な道具たる「常備軍と官僚制度」は、弱体化するどころか、ますます耐えがたいまで拡大、強化されつづけてきた。一切の闘争は、国家に対決し、それを打倒しようとする意識性と展望をもたずしては、たちまち改良主義に堕してしまう。今日、労働者人民のあらゆる層が自己の真の解放をもとめて立ちあがれば、必然的かつ不可避的に国家と衝突せざるをえないのである。われわれは、このことを日常的に体験してきたのである。
 一方、マルクス主義国家学説の歪曲についても同様である。それどころか、その歪曲は一層悪質でさえある。
 現在におけるマルクス主義の主要な歪曲者は、スターリニストである。
 ソ連共産党第二〇回大会は、「一連の国では、労働者階級が勤労大衆を指導しつつ、議会で安定した多数をしめ、議会をブルジョア民主主義の機関から人民の意志を真に代表する道具に変える」ことによって、平和的に社会主義に移行する可能性を承認した。ここでスターリニストによるマルクス主義国家学説は路線にまで貫徹し、完成させられたのである。
 今日、この路線は主要に人民戦線として登場しており、彼らとの闘争は、われわれ自身がこの『国家と革命』によって正しく武装することなくしては勝利しえない。

3 ブルジョア国家機構の破壊とプロレタリア革命

 マルクス主義国家学説で最も主要な根本的なものは「これまでの革命はみな国家機構をいっそう完全なものにしたが、いまや国家機構を粉砕し、うちくだかなければならない」 (P43)ということである。これは、一八四八―五一年のヨーロッパ革命を総括する中から導き出されたものである。
 このことは、一八七一年のパリ・コンミューンの経験を総括した『フランスにおける内乱』では、「労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま手ににぎって自分自身のためにつかうことはできない」(P55)として、一層するどく定式化された。
 そして「これまでの国家機構」にとってかわるプロレタリア権力としてのコンミューンが提起されたのである。
 なぜプロレタリア革命は「できあいの国家機構」=官僚・軍事機構を徹底的に粉砕し、新たな機構を創出しなければならないのか?(いうまでもなく、このことは『暴力革命の不可避性』(P34)を前提として提起されている)。
 この点については、パリ・コンミューンの敗北それ自体が雄弁に物語っている。
 マルクスはパリ・コンミューンの闘いを徹底的に称賛したが、真実の革命家として、その敗北を分析し、敗北の原因として「すぐにベルサイユに進撃すべきだったこと」と「中央委員会がその権力を放棄してコンミューンに席をゆずるのが、はやすぎたこと」をあげている。
 これらの原因は、いずれも「できあいの国家機構」を破壊しつくそうとする自覚、決意の不足に帰着することである。
 そしてこの問題は、プロレタリア革命がこれまでの全ての革命とどの点で違うのか、ということと同一である。
 これまでの革命は、生産力と生産関係の矛盾の深化の過程で新たな所有階級が台頭し、彼らが他の大多数の人民を搾取、収奪し、抑圧するための国家機構を掌握する過程であった。
 しかし、プロレタリア革命は資本制的生産関係の矛盾から必然化されるものであっても絶対に新たな所有階級を形成するものではない。プロレタリアートは、その革命によって自己を解放すると同時に、階級分裂のない社会の形成に着手し、人類全体を解放しようとする。ここにプロレタリア革命の特殊性がある。
 したがって、プロレタリアートは、ブルジョアジーとは完全に異って「経済的基礎」なしにまず政治革命として革命を開始しなければならず、そうであるが故にブルジョア的思想と意識性で教育され、武装されている「できあいの国家機構」を完全に破壊しつくすことなしには自己の革命を勝利に導くことはできない。できあいの国家機構は、ブルジョアジー、抑圧者の利益にのみ奉仕するようにつくられているからである。

4 スターリニズムによるレーニン主嚢の歪曲

 今日のマルクス主義国家学説の主要な歪曲者たるスターリニストは、「議会で安定した多数をしめ、議会をブルジョア民主主義の機関から人民の意思を真に代表する道具にかえることによって、平和的に社会主義に移行」しうると主張する。
 これはまぎれもなく、マルクス、レーニンの国家理論の完全な歪曲である。
 マルクスが主張したように、常備軍と官僚制をもっていなかった一八七〇年当時のイギリスは、この例外をなしていた。つまり平和的移行を考えることができた。粉砕しつくすべき対象がなかったからである。イギリスの「王朝が人民の意思にたいしては無力である」からだ。
 しかし、現実にはこのような国は今日の経済と政治がますます世界的に一体化されている時代ではほとんどありえなくなっている。国際プロレタリア革命の発展は、各国での階級対立、階級闘争を本質的に激化させ、必然的に抑圧の機構たる国家機構=常備軍・官僚制を強化させてきたからである。
 スターリニストは、この「歪曲」の理由として、「社会主義体制と資本主義体制」の力関係が根本的に変化したことをあげる。しかしながら彼らは同時に力関係の量的変化が質的変化をよびおこすまで発展し、そのことによってブルジョアジーが反革命能力を喪失したことを証明しなければならない。
 だが彼らは一切証明しない。ただ強弁するだけである。
 これまで反革命能力を喪失した反革命勢力がいなかったわけではない。しかし、それはきわめて特殊な例である。反対の例をわれわれは山ほど知っている。フランス、スペインの人民戦線政府……そして現にわれわれの目前でアジェンデ政府の敗北として悲劇的に展開されているチリ。

5 チリの悲則の教訓

 チリ共産党書記長コルバランは次のように主張した。
 アジェンデ政府成立について「人民は、政治権力の一部である政府を獲得した。この獲得物を強化し、さちに前進させるとともに、複数主義(注―人民政府のもとでの複数政党の存在の承認)の社会ですべての国家機構を掌中におさめることが必要である」(『チリ人民連合政府樹立への道』P149)と述べ、そして国家機構の主柱たる軍隊については「たしかに軍隊にも改革が必要である。しかし、これをかれらに押しつけることはできない」(同193)と主張する。
 チリ人民連合政府の敗北の原因は極めて明確である。できあいの国家機構を粉砕しようとはしなかったためである。
 労働者人民は、農地の占拠、住宅の占拠、工場の無償接収、武装防衛隊の事実上の組織化(拠点工場では武器が公然、非公然に蓄積されつつあった)等々できあいの国家機構にとってかわるものが準備されていた。一挙に国家機構を粉砕すること、それを確固として指導しうる党の存在こそが問題であったのだ。
 スターリニストは、できあいの国家機構を粉砕しつくすという根本的真理を完全に放棄し、その必然的結果として、国家との非妥協的闘争を一切拒否する。
 われわれが日常的に体験し、すべての闘う労働者、人民にとって非常に明白なことであるが国家との非妥協的な対決は闘争のあらゆるレベルで展開されるし、展開されなければならない。
 国家支配は、あらゆるレベルにおいて貫徹されているからである。
 ところが、共産党はあらゆる闘争を、現に存在する支配機構と衝突しないように、その枠内に押しとどめようとする。
 このことは逆に言えば、あらゆる闘争の中で、労働者階級ができあいの国家機構を粉砕し、それにとってかわる自己の権力を創出しなければならないという思想、意識性を共産党がつくりだしていくのではなく、反対にそのような意識への流れをたえず解体しようとしているということである。
 つまり、社会主義社会の唯一の担い手たるプロレタリアートを、そのような能力あるものとして鍛えようとはしないのだ。
 まさしく、スターリニストはいまや骨の髄からの改良主義者である。マルクス主義国家学説の根幹をかくまでも歪曲してしまったのである。
 他はおしてしるべし、である。
 レーニンは、一九一九年七月十一日のスヴェルドロフ大学の『国家について』という講義で「国家の問題は、もっとも複雑な、むずかしい問題の一つ」としている。そして「なんどもこの問題(国家論)をとりあげ、繰りかえしそれに立ちかえり、いろいろな側面から問題を考え」なければならないと注意している。
 ここでは、厖大な国家論のたった一つの側面しか、しかもスターリニズムとの関連においてしかとりあげることはできなかった。
 残された重要な政治的問題としては、
・階級社会からの国家の出現
・暴力革命―(議会主義批判)
・民主主義と独裁
・「国家の死滅」と現にある労働者国家
・毛沢東派の国家論批判
・過渡的綱領との関係
等があげられる。これらはすでに明確に論じられたものもあるが、「国家と革命」の学習の中から積極的に学びとっていかなければならない。
          (高山 徹)


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