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なお、このテキストはTAMO2さんのご厚意により「国際共産趣味ネット」所蔵のデジタルテキストをHTML化したものであり、日本におけるその権利は大月書店にあります。現在、マルクス主義をはじめとする経済学の古典の文章は愛媛大学赤間道夫氏が主宰するDVP(Digital Volunteer Project)というボランティアによって精力的に電子化されており、TAMO2さんも当ボランティアのメンバーです。
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☆  二

 商品の価格はなにによってきめられるか?
 買手と売手のあいだの競争によって、需要と供給、欲求と提供の関係によってきめられる。商品の価格をきめるこの競争には三つの方面がある。
 同じ商品をいろいろの売手が供給する。同じ品質の商品をいちばん安く売るものが、まちがいなく、他の売手を戦場から駆逐し、最大の販路を確保する。だから、売手たちはたがいに販路、市場をあらそう。彼らのだれもが売りたいのだし、できるだけたくさん売りたいのだし、できれば他の売手をしめだして自分ひとりでうりたいのである。そこで、あるものは他のものよりも安く売る。そこで、売手のあいだに競争がおこり、この競争が彼らの提供する商品の価格をおしさげる。
 しかし、買手のあいだにも競争がおこり、この競争が、今度は、提供された商品の価格をひきあげる。
 最後に、買手と売手のあいだに競争がおこる。一方はできるだけ安く買おうとし、他方はできるだけ高く売ろうとする。買手と売手のあいだのこの競争の結果は、まえにあげた二つの方面における競争がどういう関係にあるかに、すなわち買手軍のあいだの競争と売手軍のあいだの競争とのどちらがつよいかによってきまるであろう。産業はこの二つの軍勢を戦場で対陣させるが、そのおのおのの軍勢がまた味方の陣のなかで味方の部隊同士でたたかう。味方の部隊の同士打ちがいちばん少ない軍勢が相手方に勝つのである。
 市場に一〇〇梱の綿花があり、それと同時に一〇〇〇梱の綿花にたいする買手があるものと仮定しよう。つまり、このばあいには、需要は供給の一〇倍である。だから、買手のあいだの競争は非常に激しいであろうし、どの買手も一梱を、できれば一〇〇梱全部を、手にいれようとする。この例は、なにもかってに仮定したものではない。われわれは商業の歴史上にいくたびか綿花の凶作期をみてきたが、そういうときには、あいむすんだ幾人かの資本家が、一〇〇梱どころか、世界の綿花の在荷全部を買占めようとしたものである。そこで、ここに述べたばあいには、ある買手は、綿花の梱にたいして比較的高い値段をつけることで、他の買手を戦場から駆逐しようとする。綿花の売手たちは、敵軍の部隊が猛烈な仲間争いをしているのをみているし、また彼らの一〇〇梱全部の売れ口がまったく保証されているので、彼らの敵がたがいにあらそって綿花の価格を買いあおっているさいに、自分たちが仲間同士つかみあいをはじめて綿花の価格をひきさげたりしないように、用心するであろう。こうして突然、売手の軍勢内に平和がおとずれる。彼らは、一致結束して買手に応待し、泰然と腕ぐみしている。そして、もしいちばん熱心な買手のつける値にさえきわめてはっきりした限度があるのでなかったら、売手の要求はとどまるところがないであろう。
 だから、ある商品の供給がその商品にたいする需要より少ないときは、売手のあいだにはわずかな競争しかおこらないか、あるいはまったく競争がおこらない。この競争が減少するのに比例して、買手のあいだの競争が増大する。その結果、商品の価格は多かれすくなかれいちじるしくあがる。
 これと反対の結果をともなう反対のばあいのほうがもっとひんぱんにおこることは、人の知るところである。需要にたいして供給がいちじるしく過剰となる。売手のあいだに必死の競争がおこる。買手が不足する。商品は捨て値で投売りされる。
 だが、価格があがる、さがるとは、どういうことか、高い価格、低い価格とはどういうことか? 一粒の砂も顕微鏡でみれば高いし、一基の塔も山とくらべれば低い。また、価格が需要・供給の関係できまるとすれば、需要・供給の関係はなにによってきまるのか?
 だれでもよい、そこらのブルジョアにきいてみよう。彼はすこしも思案せず、アレクサンドロス大王のうまれかわりでもあるかのように、九々の表をつかってこの形而上学的な難問を一刀両断に解決するであろう。彼はわれわれにむかって言うであろう。もし私が自分の売る商品を生産するのに一〇〇マルクかけ、その商品を売って一一〇マルクを得る「「もちろん一年後に「「なら、それはふつうの、まともな、正当なもうけである。これに反し、もしそれと交換に一二〇マルク、一三〇マルクをうけとるとすれば、それは高いもうけである。もしまた二〇〇マルクも得るとすれば、それは、法外な、莫大なもうけというものであろう、と。してみると、このブルジョアにはなにがもうけの尺度になっているのか? それは、彼の商品の生産費である。もしこの商品と交換に彼がうけとる他の商品のある量が、もっと少ない生産費しかかからなかったものとすれば、彼は損をしたのである。もし彼の商品と交換にうけとる他の商品のある量が、もっと多くの生産費のかかったものとすれば、彼はとくをしたのである。そしてもうけの上がり下がりを、彼は、彼の商品の交換価値がどれだけゼロ「「生産費「「の上または下にあるかの程度によって計算するのである。
 さて、われわれがみたとおり、需要・供給の関係がかわるにしたがって、価格があるいはあがり、あるいはさがる。すなわち、あるいは高い価格が生じ、あるいは低い価格が生じる。もしある商品の価格が、供給が不足なためあるいは需要が不釣合に増加したためにいちじるしくあがるなら、かならずなにか他の商品の価格が相対的にさがったことになる。というのは、ある商品の価格とは、それと交換に他の諸商品があたえられる割合を貨幣で表現したものにすぎないからである。たとえば、一ヤールの絹布の価格が五マルクから六マルクにあがるとすれば、銀の価格〔8〕は絹布にくらべてさがったことになり、同様にまた、もとの価格のままでいる他のすべての商品の価格も絹布にくらべてさがったことになる。まえと同じ分量の絹製品を手にいれるのに、いまではそれと交換にこれらの商品をまえより多い分量であたえなければならない。ある商品の価格があがった結果はどういうことになるか? 多量の資本がこのさかえている産業部門にながれこんでくるであろう。そして、好況産業の分野への資本のこうした流入は、その産業がふつうのもうけしかあげないようになるまで、あるいはむしろ、その産業の生産物の価格が過剰生産のため生産費以下に下落するまで、つづくであろう。
 逆のばあい。ある商品の価格がその生産費以下にさがるなら、資本はこの商品の生産からひきあげられるであろう。ある産業部門がもう時勢にあわなくなっており、したがってほろびるほかないばあいをのぞいては、資本がこうして逃避する結果、このような商品の生産すなわちその供給は減少していき、供給が需要と一致するようになるまで、従って商品の価格がふたたびその生産費の高さに上がるまで、あるいはむしろ、供給が需要以下にへるまで、つまりその価格がふたたびその生産費以上にあがるまで、ひきつづいて減少するであろう。というのは、商品の時価はいつでもその生産費の上か下かにあるものだからである。
 これでわかるように、資本はたえずある産業の分野から他の産業の分野へながれこみ、ながれでる。価格が高いと、過度の流入がおこり、価格が低いと、過度の流出がおこる。
 べつの観点から、供給ばかりでなく需要も生産費によってきまることを、あきらかにすることもできよう。けれどもそうするのは、われわれの対象からはなれすぎることになるであろう。
 われわれがたったいまみたように、供給と需要の変動は、商品の価格をたえずくりかえし生産費にひきもどす。なるほど、商品の現実の価格はつねにその生産費の上か下かにあるが、騰貴と下落は相殺されるので、一定期間について産業の満干を通算すれば、各商品は、その生産費に応じてたがいに交換される。だから、商品の価格はその生産費によってきめられるのである。
 ここに価格は生産費によってきめられるといっても、それを経済学者のいう意味にとってはならない。経済学者は言う。商品の平均価格は生産費にひとしい、これが法則である、と。騰貴が下落で、また下落が騰貴で相殺される無政府的な運動を、彼らは偶然のものとみなしている。だが、それなら、変動を法則とみなし、生産費による決定を偶然のものとみなしても、いっこうさしつかえないわけである。「「事実、べつの経済学者はそうしている。しかし、ほかならぬこの変動、すなわち、くわしく観察すれば、このうえなくおそろしい荒廃をともなっており、地震のようにブルジョア社会の基礎をゆりうごかしている、この変動だけが、その経過を通じて、価格を生産費によってきめるのである。こういう無秩序の総運動が、この社会の秩序となっているのである。この産業的無政府状態の経過を通じて、この循環運動のうちで、競争がいわば一方の行きすぎを他方の行きすぎによって相殺するのである。
 これを要するに、ある商品の価格がその生産費によってきめられるのは、この商品の価格が生産費以上に上がる時期が、それが生産費以下にさがる時期によって相殺され、またその逆のばあいは逆に相殺されるというようにしておこなわれるのである。これは、もちろん、ある個々の産業生産物についてではなくて、その産業部門全体についてしか言えないことである。したがって、これはまた個々の産業家についてではなくて、産業家階級全体についてしか言えないことである。
 価格が生産費によってきめられるということは、価格がある商品を生産するのに必要な労働時間によってきめられるということにひとしい。というのは、生産費は、(一)原料と用具の磨損分、すなわち、それを生産するのにある量の労働日がついやされており、したがってある量の労働時間をあらわしている産業生産物、(二)まさに時間を尺度とする直接の労働、からなっているからである。
 さて、一般に商品価格を規制しているのと同じ一般的な法則が、もちろん、賃金すなわち労働の価格をも規制している。
 労働賃金は、需要・供給の関係に応じて、労働力の買手である資本家と労働力の売手である労働者とのあいだの競争の成りゆきに応じて、あるいはあがり、あるいはさがるであろう。一般に商品価格が変動するのに応じて、賃金も変動する。しかし、この変動の内部では、労働の価格は生産費によって、つまり、この労働力という商品を生産するのに必要な労働時間によって、きめられるであろう。
 では、労働力の生産費とはなにか?
 それは、労働者を労働者として維持するために、また労働者を労働者にそだてあげるために、必要な費用である。
 したがって、ある労働に必要な養成期間が短ければ短いほど、その労働者の生産費はますますすくなく、彼の労働の価格、すなわち彼の賃金はそれだけ低い。見習期間がほとんどまったく必要でなく、労働者の生(ナマ)身さえあればたりるような産業部門では、彼を生産するのに必要な生産費は、彼を労働能力あるものとして生かしておくのに必要な商品だけにほとんどかぎられる。だから、彼の労働の価格は、生活必需品の価格によってきめられるであろう。
 しかし、これにくわえてもう一つ考えなければならないことがある。工場主は、彼の生産費を計算し、それにもとづいて生産物の価格を計算するにあたっては、労働用具の消耗をも勘定にいれる。たとえば、ある機械に一〇〇〇マルクかかり、そしてこの機械が一〇年間に消耗してしまうとすれば、彼は、一〇年後に消耗した機械を新しい機械ととりかえることのできるよう、年々一〇〇マルクを商品の価格に割りかける。これと同じように、単純な労働力の生産費にも、労働者の種属が繁殖して、消耗された労働者を新しい労働者にとりかえることのできるようにするための、繁殖費をくわえなければならない。つまり、労働者の磨損も機械の磨損と同じように勘定にいれられるのである。
 だから、単純な労働力の生産費は、労働者の生存費と繁殖費ということになる。この生存費と繁殖費との価格が、賃金を形づくる。こうしてきめられた賃金は、最低賃金とよばれる。この最低賃金も、一般に生産費によって商品の価格がきめられるばあいと同じに、個々の個人についてではなく、〔労働者という〕種属について言えることである。個々の労働者は、幾百万の労働者は、生きて繁殖していくのに十分なだけもらってはいない。しかし、労働者階級全体の賃金は、その変動の内部で平均化されて、この最低限に一致する。
 以上で、賃金をも、その他のあらゆる商品の価格をも同様に規制しているもっとも一般的な法則がわかったので、われわれは、われわれの主題にもっとくわしくたちいることができる。


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